『この部屋から出るには、どちらか片方が死ぬ必要があります。
室内にある道具はご自由にお使いください。トイレは右側扉の先です。しかし、流れる水は体内に入ると毒となりますので、ご注意ください。
殺人による死であった場合でも、学級裁判にはかけられませんのでご安心を』
何一つ安心できる要素がない文章だ。
石丸は眉間に皺を寄せて紙から目を離す。隣にいる大和田はまだ紙を見つめていた。いくらそうしていても、文面が変わることはないのだが、そうしたい気持ちを否定することは誰にもできない。
「……学校に閉じ込められたと思ったら、次はこんな部屋か」
石丸がそう言い、周囲を見渡してみるも、以前いた学園内部と同じで窓一つありはしない。壁には扉が一つあるだけ。確認していないがその先はトイレになっているのだろう。
およそ二十畳はありそうな部屋の中には、統一感のないものがざっくばらんに置かれている。
トンカチや釘といった日曜大工に使えそうな物から、ボールやバットといった遊び道具、包丁やフライパンといった調理器具まで揃っている。ただ、それらは正しい使用用途のために置かれているのではない。ただ一つ、他者を殺すためだけに置かれているのだ。
その証拠とばかりに、調理器具があっても食糧は見当たらない。
片方が死ねば部屋から出られる、とあるが、両方が餓死するという結末も想定されているに違いない。そして、餓死という現実によって引き起こされる殺人を期待しているのだ。何とも趣味が悪い。
「だぁ! どーすんだよ!」
とうとう紙を見つめることをやめた大和田が、手にしていた白い紙を放り投げる。軽いそれは、ひらりひらりと床に落ちた。
「そうだな……」
石丸は顎に手を当てて考える。
現状でできることなど少ないだろうが、ただじっとしているわけにもいくまい。
「とりあえず、トンカチや釘を使って壁に穴を開けてみようではないか」
一つ、提案をしてみる。ただ、これが有効な手段である、とは微塵も思えない。この嫌らしい黒幕は、その程度のことで脱出できるような、穴だらけの監禁などしないだろう。
それでも、他に思いつくことがないのだからしかたがない。
「あー。そうだな。見たところ、監視カメラも悪趣味な銃も見あたらねぇし」
大和田は軽く頭を掻いて、石丸に同意する。
学園では無闇に壁や扉を傷つけることが禁止されていた。破れば機関銃によって即ミンチという恐ろしいものだったが、幸い、この部屋にそのようなものは見当たらない。学園内で溜め込んだストレスもぶつけてみてもいいだろう。
大和田はごちゃまぜに放置されている品々の中から大振りのハンマーを持ち上げる。薄い壁ならば一撃で砕けてしまえそうなものだった。並みの人間では振りまわすことも困難であろうが、超高校級の大和田に扱えぬ代物ではない。
彼に対し、石丸はアイスピックと小さな金槌を手にしていた。大和田ほど腕力のない彼は、二つの道具を使い、小さくとも壁に穴を空けることを目的とした。
二人はやや離れた場所に立ち、各々の得物で壁を攻撃する。
閉じこもった空間に、鋭い音と鈍い音が響く。だが、音から受ける印象とは違い、壁はわずかな歪すら見せようとしない。
「……苗木君達は無事だろうか」
ぽつり、と石丸が零す。
打撃音によって地面に叩きつけられてしまいそうなほど、小さな声だった。しかし、それは大和田の耳にまで届いた。
大和田はハンマーを振っていた手を止める。思い出されるのは、無理矢理に立会人をさせたあの日のことだ。結局、苗木は石丸と大和田の勝負を最後まで見届けることはなかったが、声をかけるまでは律儀にサウナの前で勝負の様子を見ていてくれた。基本的に、彼は人が良いのだろう。
学園に閉じ込められた超高校級の高校生達は誰も彼もキャラが濃い。一人一人の能力は高いのだろうけれど、それと反比例するように協調性はなかった。あの面子が共同生活をある種、平穏に送れているのは、平凡で人が良い彼がいるからだ。
真の中心人物といっても過言ではなく、石丸と大和田にとっても数少ない友人である彼のことを心配するのは当然のことだった。
「どうだろうな。
今はどいつとどいつが一緒にいるのかもわかりゃしねぇ」
そもそも、学園に閉じ込められていた面子全員が、大和田達のような状況におかれているのかさえ不明だ。今頃、あの狭い学園の中、石丸と大和田を探し回っているということだってありうる。
「ボクは、兄弟と一緒で良かったと思っているぞ」
石丸は金槌を振るう手を止め、大和田を見てからそっと笑みを浮かべた。
大和田は目を丸くし、次に顔を赤くした。凡人仲間だと公言している苗木ではなく、他にいる癖の強い男連中でもない。自分で良かった、と言われたのだ。普段、好意を向けられることのない大和田が照れるのも無理はない。
「そ、そうかよ」
気恥ずかしさのあまり、石丸から目をそらし、再びハンマーを振るう。湧き上がる気持ちを何かにぶつけずにはいられなかった。
「あぁ! 兄弟は力があって頼りになるからな。
それに、激闘の末、心の底からわかりあった魂からの兄弟なのだから!」
大和田は、石丸の顔を見ることができなかった。
それでも、彼が自信たっぷりに満面の笑みを浮かべていることは想像できた。
ただ、それはあまりにも胸が痛む光景でもあった。
「さて、ボクももうひと頑張りするとしよう!」
石丸がアイスピックを持ち、壁に穴を空ける作業を再開させた。
二つの音が室内に響く。一定のリズムを刻んでいるそれらを聞きながら、大和田は胸の辺りがざわつくのを感じる。
果たして、自分は石丸に胸を張って兄弟だ、と言ってもらえるような人間なのだろうか。
不安を打ち消すように、ハンマーを振るう腕に力を込める。だが、胸にうずまく靄は、大和田の行動をあざ笑うかのように濃度を増すばかりだ。
他の誰が知らずとも、大和田本人は知っている。
激闘を繰り広げてもなお、彼は腹の底を見せれてはいないのだということを。
良くも悪くも裏表のない石丸と違い、大和田には誰にも明かせない裏があった。弱い自分、過去の罪、今も隠し続けている真実。それらが大和田の中で声高らかに自身を主張している。
学園に閉じ込められ、不安定な生活が始まってから、それはやむことなく続いている。加えて、この密室だ。大和田の裏は、今までにない程、強く自分達の存在を主張していた。
大和田の中に焦りが生まれる。
殺すことのできない思いと、それに負けそうになる己。普段、碌に使うことのない脳みそがぐるぐると巡るが、一体、何を求めているのかすらわからない。
「兄弟」
一言、その声に大和田の意識が表に引き寄せられる。
「――お、おう。どうした」
「この壁は特殊な素材でできているようだ。
これだけやってみて、傷一つつかないのならば、他の方法を考えるべきだ」
石丸が指差す壁は、二人が始めて見たときと何ら変わらぬ姿で存在している。この様子では、壁を破壊して脱出する、というのは無理そうだ。
「けどよぉ、他に方法なんてあんのかよ」
「それを今から考えよう、と言っているのだ」
大和田はハンマーを床に降ろし、視線を宙に彷徨わせる。
「よし。
任せたぞ、兄弟」
即結論をたたき出した大和田は、石丸の肩を叩く。
「ま、任せたではなく、二人で考えようではないか!」
「あー。無理無理。
オレ、頭使うって慣れてねぇもん」
中学時代から、まともに授業にことの方が少ない。
どれだけ脳を働かせてみたところで、石丸の四分の一も動けばいい方だ。ならば、考えるだけ無駄というものだ。どうやってみたところで、人には向き不向きがあるのだ。
「その代わり、力がいるときはオレが働いてやるからよ」
大和田はハンマーを担ぎなおす。
この場所は無理であったとしても、トイレの壁、他の面ならば脆い部分が見つかるかもしれない。石丸が策を講じてくれている間、大和田は辺りを適当に殴りつけていくつもりだ。
「だが、それでは兄弟の消耗が激しすぎる」
自分達が知っている学園であれば、食糧も飲料も豊富に取り揃えられている。体を動かし、消耗したところで差し迫った問題はない。しかし、ここは違う。
食糧もなければ、飲み水さえない。無理な消耗は、そのまま命の危険に直結する。
「バーカ。オレは、テメェと違って鍛えてっから大丈夫だ。
むしろ、普段は勉強しかしてねぇテメェが体力がないんだ。とっとと脱出の方法を思いつけ」
軽口を一つ叩き、大和田は石丸の額にデコピンをくらわせる。
手加減はされているのだろうけれど、超高校級の暴走族である大和田のデコピンは並みではない。石丸は小さく呻き声をあげ、額に手をあてた。
「……わかった。適材適所でいこう。
しかし、ボクを馬鹿だとはどういうことだ。兄弟の学業成績は知らないが、普段の言動から察するに、良いとはいえないと思うのだが。
そもそも、馬鹿というのは――」
「あー。はいはい。テメェは馬鹿じゃねぇよ。
んな深い意味をこめて言ってねぇっての」
放っておけば、長々と講釈を垂れるに違いない石丸の言葉を遮ってやる。
不満気な顔をされたが、ここで引いて現国の授業が始まるのは勘弁願いたい。
「さて、オレはトイレの壁でも見てくるか」
戦略的撤退。
そのような言葉を大和田が知るはずもないが、彼はその言葉を体言した。
あれから数日が経った。
大和田は眠るときとわずかな休憩時以外、ハンマーやその他、壁を破壊できそうな物を振るい続けた。石丸は思考を巡らせ、時には壁の破壊に手を貸した。
しかし、壁は崩れず、他の方法も思いつきはしなかった。
「きょう、だい……。
まだ、いき、ている……か?」
「てめぇ、こそ、だいじょうぶ、なのかよ」
水のない状況で人は長く生きられない。すでに二人の意識は朦朧とし、立ち上がることさえ困難な状態だ。
助けも期待できない、自身の力でもどうにもできない。もはや、死を待つばかりだ。
死を目前に、二人の脳裏には今までのことが目まぐるしく浮かび上がっていた。今の今まで思い出しもしなかったような記憶まで浮かび上がってくるのだから、人間の脳というのは凄まじい記憶容量を有しているといえる。
「――しね、ねぇって、のに」
大和田は呻く。
思い出される記憶の半数以上は、実兄と共にいるものだ。笑いあい、涙を見せ、喧嘩をした。この世でたった一人の家族であったといっても相違ない。父も母も碌な人間ではなかった。他の親戚なんぞ、存在しているのかすら危うい。
互いにたった一人で、何よりも大切だった。
それを、大和田は殺してしまった。
人は、それを事故だというだろう。だが、大和田の心はそれを肯定しない。
意地を張らなければ、無茶をしなければ、もっと強ければ、兄は死なずにすんだのだから。
「そうだ、おれは……」
腕に、足に力を込める。
死した兄との約束が、外の世界には残っているのだ。
最期の約束を守るために、大和田は外に出なければならない。この密室から、あの学園から。
それだけが、大和田に許された購い。
彼はハンマーを手に取る。
「きょうだい?」
光のない瞳が大和田を映す。
「こんなところで、死んでる場合じゃねぇんだ」
石丸は、鈍い光を宿した瞳を見る。
そして、迫り来る黒い金属を認識し、歪んだ音を聞いた。
「おれは、おれは、いきのこるんだ」
大和田の手からハンマーが滑り落ちる。重量のあるそれは、ごとり、と鮮血に塗れた床に落ちた。
「なにをしても、死ぬわけには、いかねぇんだよ」
何かが動く音がした。
見れば、何もなかったはずの壁に扉が設置させている。どうやら、あれが出口らしい。
「いきる……。
あにきとの、やくそくを、はたす」
上手く動かすことができない足で、大和田は歩きだす。
外に出れば、助かるのだ。水も、食糧もあるはずだ。
振り返り、石丸の死体を見ることはしない。もはや過去の産物であり、大和田にとって無意識のうちに視界に収めることを拒否してしまうモノでもあった。
罪の意識など必要ない。それを持ってしまえば、精神を保つことができない。
「おれは――」
大和田の足がもつれ、床に倒れる。
「い、き……る……」
視界がぼやけた。
あと少し、あと数歩の距離にある出口が遠い。
力を振り絞り、手を伸ばす。足が動かぬならば、腕の力で這えばいい。しかし、足に力が入らないような状態でも、腕の力は入る、などという都合のいいように人体はできていない。
当然、大和田の腕は力なく床に伸ばされ、わずかに爪が床を引っかいただけだった。
そうこうしているうちに、大和田の視界はじょじょに狭まり始めた。
ぼやけている視界の端から、黒色が侵食してくる。
「あに、き」
視界が黒色に染まり、大和田は動かなくなった。
END