「蝶々の群れが――」
戦場の中、一人の兵がそう叫んだ。三成がその声に振り返ると、その言葉を吐いたであろう兵は既に絶命していた。
「どうしやった。主が立ち止まるなど珍しい」
死した兵の傍らにいたのは、三成もよく知る人物だ。どうやら兵は大谷の数珠によってその命を落としたようだ。
頭蓋を砕かれた兵を一瞬目に映した後、三成は大谷へと視線を移す。彼の兜には大きな蝶があしらえてある。輿には彼の家紋である対い蝶が描かれている。しかし、目に映る蝶といえばそれだけだ。たった二つでは群れとは言わないだろう。
かといって、本物の蝶がいるのかと問わればそうではない。火薬と錆びた鉄の匂いが充満するこの地には蝶どころか草木の姿さえ見えない。
「いや……その男が蝶々の群れと言ったのでな」
「主は蝶が好きであったか?」
大谷は少しばかり驚いたような声を上げた。
嫌いなものは数多くあれど、好きなものはと聞かれると首を傾げるのが常の三成だ。秀吉や半兵衛は好きという部類を越えているらしく、好きなものの数に入ったことはない。
「好き……。そうだな。好ましいと思っている」
わずかに三成の口角が上がる。これも珍しいことだった。
普段ならば見ることもないであろう言動に、明日は雨かもしれないと半ば本気で空を見上げる。
「また星か?」
「雲の流れをな。ああ、主は気にせずともよい」
返り血に塗れた三成は大谷のもとへと近づく。そこにいつもの苛烈さはない。
「今日は機嫌が良いか?」
「いつもと変わらん」
目もとの血を大谷が拭う。赤いそれは指先にまで巻かれた包帯に染みを作った。
「汚れるぞ」
「なに。どうせ代えねばならん」
ヒヒヒ。と、独特の笑い声が上がる。
「三成よ。蝶が好きならば、美しいものを取り寄せてやろうか。南蛮にはそれは美麗な蝶がいると聞いた」
珍しく好きなものを口にした友のため、大谷は言葉を紡ぐ。食料品や書物に比べると流通が少ないが、手配すれば手に入らぬこともないだろう。生きたものは無理でも、その形を留めた標本ならばどうにかなるだろう。そちらの方が生き物を育てるのが上手いとは言えぬ三成に渡すのも気楽だ。
あれやこれやと算段を立てていると、三成はいらんと言う。
「やれ、主は先ほど好ましいと言うたのではなかったか」
「蝶は好ましい。だが、私が好ましいと思っているのは、私の蝶だけだ」
真っ直ぐと見つめられれば、その言葉の意味が嫌でもわかる。
「……はて、主は蝶など持っておったか」
「巫山戯るな。貴様が理解していないわけがないだろ」
普段は人の思考を読もうともしないくせに、こういった時だけは鋭く思考を言い当てる。
「我など蛾よ。それも毒蛾が相応しかろ」
「私は貴様のそういうところは好かん」
自虐をするな。胸を張れ。矜持を傷つけようとするな。三成は何度も大谷に向かって言ってきた。その度、わかった。という応えが返ってくる。しかし、それが果たされることは今まで一度もなかった。
もはや癖になってしまっているのだろう。大谷はことあるごとに自分が卑下した。
「我が嫌いになったか」
「誰がそのようなことを言った」
大谷の腰に手を回し、抱き締める。輿が邪魔で強く抱き寄せることは難しいが、それでも三成は精一杯の力で己の蝶を捕まえる。
「私の蝶を傷つけることは許可しない。例え、それが貴様であったとしてもだ」
「あい、わかった。だから離しやれ。ここはまだ戦場よ」
「…………」
不満気な顔をしながらも三成は大谷から離れる。
「早に行きやれ。我も続こう」
「刑部」
三成は大谷の細い指に、己の指を絡ませる。暖かな体温は包帯越しにでも十二分に伝わった。
「私は好きなものが少ない。だが、それを手放す気はない。
貴様が何と言おうが、私は貴様の籠になる」
大谷は微笑んだ。顔を赤くしている三成が愛おしい。
彼が籠になるというのならば喜んでその中にいよう。否、籠なんぞなくとも、隣にいよう。
「我は果報者よな」
了