大谷吉継は前世での記憶を持っている。縁があったのか、かつての同胞である毛利とは家が近く、官兵衛とは幼馴染という間柄だった。二人とも前世での記憶を保持しており、三人で顔をあわせたときなどは、もっぱら官兵衛が虐められて終わっている。
 他にも何人か、前世との縁で出会った者達がいた。だが、その中に三成だけはいなかった。
 出会って間もないころ、毛利はそれでいいのかと問いかけた。大谷が三成を何よりも大切にしていたことは知っていた。だが、長曾我部の手によって、四国の件が明るみに出てしまい、三成が激昂したことも毛利は知っている。
 それゆえか、大谷は良い。と一言呟くだけだった。
 前世から、この男は何も変わっていないと毛利は思う。己の心に蓋をし、それでいて塞ぎきれていない。わずかに漏れだす寂しさが大谷の心を蝕んでいくのが見てとれた。愚鈍と言われる官兵衛にもそれは見てとれたらしく、お人良しの彼はそれとなく大谷を構いだおした。
 死ぬまでこれが続くのではないかと思っていた矢先だ。大谷と毛利が通っていた高校に三成が入学してきた。
「……何故貴様がここにいる!」
 憎しみがこもった怒声。
 毛利はすぐにその場を去ったが、大谷が嬉しそうだったのはわかっていた。
「毛利よ。明日からは別々に登校よ」
 三成と話をつけたのだろう。後からやってきた大谷がそう言った。毛利はそうか、と返した。
 二人は同じクラスで、一緒に登校していた。それは仲が良いからというわけではない。毛利は日が昇ると共に起床し、活動を始めるので登校が早い。大谷は早く家を出たいからという理由にすぎない。
 片方が登校時間を遅らせたとしても、あわせることなどする気もない。
 次の日から、言葉にした通り、大谷は今までよりも遅く登校してくるようになった。
 大谷が教室に入ると、騒がしかった部屋が静まり、悪意に満ちた声が静かに広がっていく。その光景を見るたび、毛利は今生は健常な体を持ったというのに哀れなことだと薄っすら考える。
 白と黒が反転した目など、誰から見ても気味が悪い。年不相応な喋り方や冷静さが加わればなおさらだろう。わかっていて直そうとしないのは、前世からの経験上それらが無駄になる確率の方が高いと知ってしまっているからだ。
 悪意が口から吐かれるだけでは済まなくなるのに時間はかからない。
 朝、毛利よりは遅くきた学生達が大谷の机にラクガキをするのを見た。止めはしない。
 見知らぬ者が大谷の机の上に菊を活けた花瓶を置いていた。止めることはない。
 ニヤケ面の男が大谷の上履きを何処かに捨てていた。止める理由がない。
 大谷はそれらを知っても鼻で笑う程度だ。毛利がそれらを止めるとも思っていない。登校時間を遅らせた時点で、こうなるであろうことは予想できていたのだろう。伊達に軍師として名を広めてたわけではない。
 どれほどの悪意を投げられても、大谷は反応しなかった。
 ただ、よく学校を休むようになった。ズル休みと呼ばれるものではない。本当に体調を崩すのだ。元々体が弱く、常にマスクをつけているような人間であったが、その数は三年になってから明らかに増えている。
 時折、毛利が見舞いに行くと、一人きりの家でベットに横たわっている。
「ヒヒ。こうしていると、かつてに戻ったようよ」
 力なく笑う。
 すぐ傍に体の弱い幼馴染がいたからか、医者を目指していた官兵衛はいつだったか言った。
「ストレスで抵抗力が落ちてるんじゃろ。三成め……」
 忌々しげな声は、ここにいない者に向けられる。
 三成がそんな風に言われていることは察していたが、大谷は一人で満足気に笑う。人の気配がせぬ家で一人苛烈な男を思い浮かべる。幸せに生きているだろう。そう思うだけで心の中が暖かくなる。
 大谷が動くのは三成のためだ。それは何百年経とうと変わりはしない。
「新入部員で生意気な奴がいてよー」
「ヤキ入れてやれよ」
「おう。毎日難癖つけて掃除と買出しばっかりさせてるぜ」
「剣道部だっけ? 竹刀とか持たせてやんねぇの?」
「素振りぐらいはさせてやるけど、試合には絶対出してやんねー」
 ある日のこと、ゲラゲラと下種い会話がなされる。休み時間、一人で本を読んでいた大谷は彼らの言葉に反応した。
 三成は剣道部だろうと当たりをつけていた。彼は真っ直ぐであるがゆえ、人から遠ざけられるような性質であることはよく知っている。
 大方の予想をつけながら、情報を集めるために大谷は動いた。人望は皆無に等しいので、己の足で学校を歩き、噂に耳を傾ける程度のことしかできなかったが。情報を集める際に、最も苦労したのは、三成の行動を予測し、会わぬように動くことだった。
 そうやって集めた情報に、大谷は口角を上げる。
「主に、不幸をくれてやろ」
 静かに笑う。
 あの同級生が三成を虐めているのは明らかだ。三成本人は腹立たしいとしか思っていない可能性が高いが、大谷はあの男のしていることが許せない。
 わずかに残っていた念力を使い、昔からの悟性を使い、大谷は男を追い詰める。策が上手く運ぶ感覚は久しく、思わず毛利や官兵衛に自慢してしまったほどだ。
 せっせと集めた不幸の種はやがて芽吹く。
「ああ、主の悪行も良きものよな。誰ぞに見せ、広めてやろうか。嬉しかろ?」
 笑いながら指し示すのは数枚の写真だ。
 そこには男が写っている。ある写真には窃盗の様子が。ある写真には恐喝の様子が。といった具合だ。それらを見たときの男の顔は青ざめ、大谷を満足させた。何が目的なのかと聞かれ、大谷は薄く口を開く。
「剣道部の後輩には優しくしやれ?」
 男が虐めているのは三成だけではない。三成にだけ優しくしろと言えば、大谷の所業がすべて三成の差し金と思うかもしれない。それを避けるためにも、全員に優しくしろと囁く。男は小さく頷いた。彼とて、高校三年という時期に余計なことが漏れることを望んでいるわけではない。
 けれど、大人しくなるだけとは思いはしない。人を足蹴にする人間というのは、己が足蹴にされるのは嫌うものだ。
 案の定、しばらくしてから男は大谷を呼び出した。無論、断ることなどせず、大谷は素直に呼び出しの場所へと向かう。
「何ぞ用でもあるのか」
「お前の持ってる写真、全部よこしな」
 見れば、男の後ろには数人体格のいい男が並んでいる。
 なるほど、と大谷は笑う。脅せばそれで済むと思っている。万が一、応じなかった場合には暴力も辞さないのだろう。愉快なことだ。
 策が上手く運ぶのは何度目にしても愉快だ。
「嫌よ」
 その言葉を合図に、男達が大谷を囲む。
 一度殴られれば、細い体は地面に叩きつけられる。殴られ、踏まれ、蹴られ。口の中が血の味で一杯になる。肺は草と土の匂いで満たされる。耳は罵詈雑言で、目は何も映さず。どれもこれもが懐かしい。
 身を蝕む病を得ていたとき、戦場にでたとき。全ては懐かしい遠い昔の話だ。
「――ぐあっ!」
 うめき声を抑えてはいたが、ただ一度、声が上がる。
 足が嫌な音を立てた。折れたか。と痛みにぶれる思考で考える。
 気がつけば、大谷は一人だった。気絶していたのだろう。懐にしまっていた写真はなくなっていた。大谷は立ち上がり、足を引きずる。動かないわけではないが、痛みが酷い。動かす気にはなれない。
 口角を上げ、官兵衛に頼み設置させていた隠しカメラを取り外す。見れば、袋叩きの様子が綺麗に映されていた。
「良い。良い」
 足を引きずりながら家への道をゆっくりと歩く。
 映像は学校に提出された。ボロボロの大谷の姿とあわせれば、映像が本物であることは明白だ。男は、数日の停学の後、退学処分となった。
 ボロボロになった大谷を見て、流石の毛利も眉をひそめる。あの駒にそれ程の価値があるのかと言いたげだ。男が仕返しにくることを見こし、護衛役にと呼んだ官兵衛は怒ったような顔をしていた。
 普段はお人好しであるが、怒りを抱いたときの官兵衛はそれなりに恐ろしいとは知っていた。
 面白いように手のひらの上で踊ってくれる男は、仲間達と大谷を襲撃しようとし、官兵衛によって返り討ちにあった。
「お前さん、ちゃんと病院に行けよ」
 もう大丈夫だろうと、別れるときに官兵衛は言った。
 大谷はヒヒと笑うだけだった。
 しばらくして、官兵衛は己の愚考を嘆く。大谷は病院へ行かなかった。そのため、片足がまともに動かなくなった。せっかく今生では自由に歩けたというのになぁ、と本人は笑っていたが、官兵衛は唇を噛んだ。
 幼い頃、大谷が嬉しそうに走りまわっていたからだ。
「貴様は馬鹿か」
「そう言うてくれるな」
「……我も、愚かであったか」
 毛利は舌打ちをする。
 大谷が家族からも嫌われていることは重々承知しているつもりだった。嫌われている理由は、同級生達が大谷を嫌うのと同じものだ。何ともくだらないと、毛利は思っていた。嫌われは度を越え、虐待めいていたことも知らぬわけではなかった。
 それらを知っていたのは官兵衛も同じだ。病弱である大谷がバイトできるはずもなく、一人で病院へ行くわけがないとわかっていたはずだった。それにあの時、思い当たるべきだったのだ。
 笑う一人と、悔やむ二人。
 その後、高校を卒業した大谷は小説家になり、家を出た。毛利は大学へ進学後、大谷が世話になっている出版者に入社。官兵衛は無事医者となった。
 大谷が病を得、醜き肌になり、死を受け入れる日は近づいていた。