運が悪い人間とは本当にいる。ちょっとつまずきやすいだとか、物をよく忘れるだとか、そういうレベルの話ではない。己の身に危害が及ぶ運の悪さを持った人間がいるのだ。
日々生傷の絶えないその男は、病院のロビーで自分の名が呼ばれるのを待っていた。
先日、運が悪いことに野球用の硬球が膝に当たってしまった傷が膿んできたのだ。膿を抜くくらいならば自分でしても良かったのだが、この病院で医者をやっている知人にそれはやめておけときつく言われている。
彼の言うことをきくのは癪であったが、その後の感染症などを考えると、病院で処置してもらうべきだろうと腹をくくってやってきたのだ。それなりに大きな病院などで、ほんの少しの治療のために膨大な時間を待たされる。何とも面倒なことだった。
「大谷さん、大谷吉継さん」
「あい」
名を呼ばれた男は、痛む足を引きずりながら診察室へ入って行った。
「お、ちゃんと来たな」
「……暗。ぬしは外科医師ではなかったのか。ここは整形外科よ」
「いいだろ。ちょっと頼まれたんだ」
大谷はため息をつきながら、官兵衛の前に置かれている椅子に腰かけた。
ズボンをたくしあげ、患部を見せる。膿んだ膝は腫れて熱を持っている。
「んじゃ切るぞ」
「あい」
何のためらいもなく、また目をそらすこともなく大谷は己の膝から膿があふれだすのを見ていた。心地の良いものではなかったが、かつてを思えば、この程度のことでは目まいもしない。
かつて、というのは、前世でのことだ。大谷は戦国時代に武将として生きていた男の生まれ変わりであった。また、大谷の膝を切った官兵衛という男も、時を同じくした武将である。
互いに前世での記憶を持っており、家が近かったこともあってそれなりの交流が続いている。
「しかし、お前さんも不運だねぇ」
「主の不運が感染りやった。どう責任をとってくれる」
「知らねぇよ」
患部を消毒し、ガーゼを詰める。しばらくは膿が出るだろうから、このままでいろという言葉がつけたされた。大谷は一つ頷いた。
「では、我は帰るとするか」
「ちゃんと通院してこいよ」
「わかっておる」
「また飯、作りにいくからな」
「主も奇特よな」
引きつったような笑い声をあげながら、大谷は診察室を出る。
彼は現在、一人暮らしをしている。仕事はしていない。所謂ニートというやつだ。だが、けっして大谷が怠けているために、ニート生活をしているのではない。そうなるようにと望まれているのだ。
望まれているならば、それでいいと、大谷はすべてを受け入れていた。時折、己が死んでいるのか生きているのかわからなくなるときがあるが、瑣末なことだ。
「――あぁ。また誰かが不幸になりやる」
帰り道の途中、ふと上を見て呟いた。
避けられない距離に子供用のおもちゃが見える。やわらかな素材ではできていないであろうそれに、大谷は目を閉じた。痛みへのせめてもの抵抗だった。
頭蓋とおもちゃが触れる。痛みと同時に襲ってきた衝撃に、大谷は少しばかりよろめいた。おそらくはこぶになるであろう部分を抑え、薄らと目を開ける。その目に涙が溜まっていたとしても、なんら不思議ではない。
痛みにうめき声を上げるのと同時に、近くにあった植え込みに何かが落ちた。それなりに重量のある、もっと言えば泣き声を上げるような何かが。
「主も不幸よな」
大谷は植え込みを覗き込み、小さく呟いた。頭上からは悲鳴が聞こえる。おそらくは、落ちてきた子供の母親だろう。
三歳程度の子供は、奇跡的に一命を取り留めている。だが、その腕は異常な方向を向いており、枝に貫かれている。おそらく、もう二度と使うことはできないだろう。
駆け下りてきた母親は、大谷に目もくれず子供を見て泣き崩れた。すでに救急車は呼んだのか、遠くのほうからサイレンの音が聞こえてくる。野次馬が集まりだしたことに嫌気がさし、大谷はこっそりとその場を離れた。
それから家につくまで、不運はなかった。無事に家にたどりつき、家の鍵をあける。空き巣に入られた様子もなく、所狭しと並べられ、放置された本があるだけだ。
靴をだらしなく脱ぎ捨てて、冷蔵庫へ向かう。大した食料は入っていないが、氷嚢ならばいくらでもある。その中の一つを取り出し、先ほどおもちゃをぶつけたところに充てる。これで少しでもこぶが引いてくれることを願うしかない。
「これぞ、前世の業。よな」
ヒヒ、と笑う。
大谷は不運であった。それ以上に、他人へ不幸を振りまく存在であった。
前世で世界の不幸を望んだ彼には、お似合いの業であった。かつての爛れた肌などとは、比べ物にならぬほどの醜さがそこにはある。
大谷に不運が訪れれば、周りが不幸になる。それはいつからか当たり前のように行われていた。彼が幼いころは、不運も小さく、不幸も些細なものだった。
そう、食べかけのアイスが地面に落ちた。そんなちょっとした不運だった。近くにいた大谷の友人とも呼べた子供はアイスに混入していた金属で口を切った。それが始まりだったように記憶している。
彼が成長するのに合わせて、不運と不幸も大きくなった。人が死ぬことは少なかったが、祖父母のような年寄りは不幸にも亡くなってしまった。事故死だった。
同じ屋根の下で暮らしていた両親への不幸は頻繁にあった。会社での失敗、身に覚えのない悪評が流され、冤罪にかけられたこともあった。始めのうちは偶然だと思っていた両親も、我が子の異常さに気づいた。気づけばそこにいるのが化け物のように思えた。白黒反転した目も、両親の神経を刺激したのだろう。
大谷は中学を卒業するのと同時に、家を与えられた。大谷の撒いた不幸さえなければ裕福で幸せな家庭だったのだ。事実、大谷と離れて暮らしている今では多めの仕送りがされてくる。
「毎月お金は送ってあげる。だから、できるだけ外に行かないようにするのよ」
母親はそう言った。頭を撫でられることも、抱きしめられることもなかった。手を伸ばしたとしても、彼女には届かなかっただろう。
「あい。承知いたしました」
大谷は嘆かなかった。前世の記憶が、この程度のことは嘆くことでもないと告げていたのだ。また、己が不幸を振り撒いている自覚もあった。かつてとは違い、大谷はすでに不幸に興味はなかったので、外に出るなと言われればそうするつもりであった。
両親が死ぬとき、もしくは完全に見放されたとき、己は死ぬのだろうと思った程度だった。
食品はネットを使った。家にこもっていたとしても、強盗やガス漏れ、突然蛍光灯が割れるなどの不運はあった。その度、家の前を通っていた者や隣人が不幸にあった。一ヶ月も経てば、大谷は立派に孤立していた。
生きていたいと思ったことは、生まれてこのかた一度もなかった。前世であまりにも深い絶望があった。
けれど、自害したいとは思わなかった。死への恐怖はいつでもついて回る。
「不幸なぞ、もはやどうでもいいというのになぁ」
前世では喉から手が出るほど望んだものだった。
世界が不幸になれば、己も愛しく思っていた男も、すべて救われると思っていた。しかし、愛しく思っていた男を救ったのは不幸ではなく、友だった。彼を傷つけたのは大谷だった。
それを自覚した途端、大谷はひどい虚しさを覚えたものだ。
「主は、今生では幸にあやかっておるか?」
誰に言うでもなく言葉を零した。
昔、愛しき男を裏切ったのは大谷だ。顔を合わせることはもうないだろう。それでも、思うことだけは許して欲しいと願う。
色の悪い顔を思い出しているうちに、少しばかり眠気が襲ってきた。今日も特にすることはない。大谷は眠気に体をゆだねることにした。
見る夢はいつも決まっている。暗闇の夢だ。誰もいない。何もない夢を黙って歩く夢を見る。疲れることはない。目的地があるわけでもない。ただ歩くのだ。目が覚める直前にだけ、変化は訪れる。
腹がひどく傷むのだ。痛いのだが、腹を見たことはない。痛いと思いながらも体は歩くことしかしないのだ。最後にはとうとう歩けなくなって、膝をつく。いつもそこで目が覚めるのだ。おそらく、夢の最後は死なのだろう。
「刑部、刑部起きろ」
「……なんぞ。熊がまぎれこみやったか」
「こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
「それは不運に入りやるのか」
「お前さんの不注意には入るだろうよ」
ぼやける目をこすりながら、官兵衛の背中を眺める。今朝の宣言通り、飯を作りにきたらしい。医者というのは忙しい職業であり、己の体の面倒さえ見ることが困難なのではないのか。大谷は毎回思うことを、今日もまた思った。
ろくに食事をしようとしない大谷を心配してか、官兵衛は頻繁に大谷の家へやってくる。鍵は彼が始めてこの家へやってきたときに渡してやった。前世とは違い、さほど不運でない官兵衛は今もその鍵を手にしている。
「肉はやめよ」
「魚だよ」
他愛もない会話を交わしながら、大谷は体を持ち上げる。
「お前さん、最近何食べた?」
「カロローメイトなどを」
「それ飯じゃねぇよ」
「主は仕事や学業で忙しい者達をなんと心得る」
立ち上がろうとして、大谷は膝が痛んだ。切ったばかりの患部は、彼にまだ動くなと告げている。
「そういう奴らは夜はちゃんと食べてるし、毎日毎食栄養調整食品ばかり食べてるわけじゃないだろ」
包丁の音と、コンロに火がつく音がする。何とも家庭的な音だ。
適当な軽口を叩き合っているうちに、手が空いたのか官兵衛が大谷のもとへやってくる。床に落ちている氷嚢と、大谷の額を見て官兵衛はため息をついた。
「お前さん、また不運にあったのか」
「今ごろ気づきやったか」
「もうちょっと冷やすか?」
「いらぬ」
断った大谷に、官兵衛はそうかとだけ返した。
放置されている氷嚢を広いあげ、冷凍庫に入れるべく再び台所へと向かう。日々何かしらの不運にあっている大谷には、氷嚢はいくらあっても足りない。溶けたのならば、すぐに凍らせる必要があることを官兵衛は知っている。
無駄に大きい背中を見ながら、大谷は考える。
いくら考えても、ここに官兵衛がくる理由がわからないのだ。
昔からそうだった。今生で再会を果たしたときこそ、悲鳴を上げて逃げようとしていたが、その後は本気で逃げようとしていない。それどころか、このように世話を焼くことも少なくはなかったのだ。
大谷は、前世で官兵衛にしてきた数々のことをまったく後悔していない。だが、あのようなことをされたというのに、近づいてくるというのはわからない。もしかしたらドMなのかもしれないと、最近では思うようになってきた。
「刑部ー。飯ができたぞー」
「こちらへ持ってきやれ」
「へいへい」
運ばれた料理は、これが食事だと胸を張って言えるものだった。
白米に魚の煮つけ、味噌汁にほうれん草の胡麻和え、出汁巻き卵。どれも大谷の口にあう味付けがされている。
「美味よビミ。主も多少役立つようになったではないか」
「素直に美味いって言えないもんかね」
大谷が食事らしい食事をするのは、こうして官兵衛と食事をするときくらいのものだ。
食べたくないのではなく、作るのが面倒だという理由だ。弁当などはゴミがかさばるので嫌だというのが、彼の意見だった。
「しかし……通院というのは気が引ける」
不意に大谷が零した。
外に出るということは、不運との遭遇率が上がるということだ。
「近頃は、度合いも上がっていやる。そろそろ若者の死者が出てもおかしくない」
世間話をするように大谷は不運と不幸を口にする。
前世と現世。どちらの世界にあっても、幸多き人生だとは言い難い彼は、他人の生死に関して大した感情を抱かない。
官兵衛は眉をひそめる。
「最近気づいたんだがな――」
言葉をさえぎるかのように携帯電話が鳴り出した。
「おっとすまん」
席を立ち、少し離れたところで通話ボタンを押す。その間に、大谷は官兵衛の好物であろう出汁巻き卵をいただいた。特に食べたかったというわけではないのだが、からかってやればさぞ面白いだろうと思った。
官兵衛の卵焼きがなくなったころ、彼は帰ってきた。その目は前髪によって隠されているが、どこか申し訳なさそうだ。
「仕事が入った。もう出る」
「さようか」
「小生の分はラップでもして、明日食べろよ」
「あいあい。さっさと行きやれ」
「……じゃあな」
どたばたとした足音を立てて、官兵衛が玄関から出て行く。歩くことが億劫な大谷に気をつかってか、扉の鍵が閉まる音がした。錠の音は、静かな室内に響く。音の余韻が耳から消えてしまえば、残ったのは物悲しい静寂だけだ。
卵焼きが無くなった官兵衛の反応を楽しみにしていたというのに、肩透かしをくらってしまった。大谷は小さくため息を吐く。
一人が嫌だと思うわけではないが、先ほどとの落差は、どうしても気分を落ち込ませる。
とりあえず、お茶碗に入っている分の米は食べ切ってしまおうと思い、適当なおかずに箸を伸ばす。その時、頭上で爆発音がした。突然の音に、思わず上を見ようとする。しかし、直前に何かが降ってきた。そこで大谷は室内が異様に暗いことに気がついた。
「……蛍光灯が割れやったか」
食事はもう食べられないだろう。それどころか、この暗さの中で歩き回るのも危ない。服はクリーニングに出す必要があるだろうし、部屋も掃除機をかけなければならない。次に官兵衛が来たときにさせるには、時間がかかりすぎる。
どれほど考えても、自分でする以外の選択肢が見当たらない。
一先ず、体についた破片を軽く払い、風呂に入ることにする。傷口が濡れないようにと、防水テープが張られている。そのため、幸いにも傷口に破片が入るようなことはなかった。
「ふむ。足元を照らすか」
大谷には、異能があった。前世を思えば、それは些細なものであったが、隣の部屋の明かりをつける程度ならば簡単にできた。
薄明かりの中、慎重に足を進める。今までに何度かある不運の一つのため、手慣れたものだ。ただ、蛍光灯の始末も大変になってきたので、何かしらの対策を考えなければならない。その労力を思うだけで、またため息が出る。
「さて、此度は誰が不幸になったのであろうな」
小さく笑う。
大谷が巻き起こす不幸は、ある一定の範囲内にいる人間をランダムで。もしくは、最も近くにいる人間へと降りかかる。確率は半々といったところだが、官兵衛はおそらく不幸にはあっていないだろう。それを確信できるだけの過去が二人にはあった。
今まで、大谷と共にいて不幸を被っていないのは官兵衛だけなのだ。
日々いじられ、こき使われ、罵声を浴びせられているのは、まだ不幸に入らないだろう。と、いうのが大谷の考えだ。
「――まあ、また明日、遊んでやればよい」
食事ができなかった鬱憤も、入る予定のなかった風呂に入ることになってしまったことも、外へ出るのが億劫だというのにクリーニングに行かなくてはいけなくなってしまったことも。すべて、明日官兵衛にぶつけることに決めた。
そのことを考えるだけで、口元が緩むことを抑えられない。
一つ、笑い声を上げて夜は深けていく。
人がまばらに成り始めつつある病院の昼下がり。官兵衛は白衣を身に纏い、整形外科を目指していた。彼は本来、大掛かりな手術などを担当することが多く、整形外科にはこない。しかし、今日は同僚達からこちらへ来るようにと頼みこまれていた。
理由は簡単。大谷が通院してくるからだ。彼の不運、不幸体質は、この病院に務めている者ならば誰もが知っている。何せ、大谷という男は一ヶ月の間を空けることなく病院へやってくるのだ。その理由もどこから漏れたのか、己への不運と他人への不幸だと知られている。そんな男の友人が病院にいるのだ。生贄にしない手はないとばかりに、大谷に関する治療は官兵衛が引きずり出されることが多い。もはや、大谷の主治医のようになってしまっているのが現状だ。
整形外科の区画へ行くため、内科を横切る。そこで、官兵衛はやけに目を引く髪色を見つけた。
それは雪のような白銀だった。
ふわふわとした猫毛にもどこか見覚えがある。
「――半兵衛?」
「おや、久しぶりだね」
思わず、名を呼ぶ。白銀の髪を持った男は、声に反応して振り返ると、驚いた風もなく、穏やかに笑って見せた。
官兵衛と半兵衛。合わせて二兵衛と呼ばれた仲だ。四百年程度の時間で忘れることなどできない。かつてのような仮面はしていなかったが、女受けしそうな優男っぷりは何一つ変わって居ない。
「その格好を見るに、君は医者かい?」
「ああ、外科だ」
「それはよかった。君に診てもらうなんて、恐ろしいことは遠慮したいからね」
「お前さんなぁ……」
苦笑いをしながら、半兵衛の隣に腰を降ろす。大谷が病院にきたとしても、ここを通らねばならないはずで、それならば少しくらい昔話に花を咲かせたところで罰はあたるまい。
「また体は弱いのか」
「昔に比べたらずいぶんマシさ。
ああ、それでも、秀吉や三成君は心配して、病院に行けって五月蝿いんだけどね」
口元に手を添え、優美に笑う。
官兵衛は思わず半兵衛を凝視した。その美しさにではない。彼が言った言葉に、他のことが考えられなくなってしまった。
「……三成?」
「うん。ボクの遠い親戚でね、両親が亡くなったから引き取ったんだ。
ついでに、こっちに引っ越してきたってわけ」
そこまで言って、官兵衛の表情に気づいたのだろう。半兵衛は訝しげに眉を寄せる。
「そりゃ……まずいかもしれんな」
「何がだい?」
ただならぬ様子に、ただ会いたくないという感情でものを言っているのではないとわかる。だが、半兵衛には何故、官兵衛がそこまで三成を危険視しているのかはわからない。情報をじっと待っていると、官兵衛は乱暴に頭をかいた。
それは面倒だというよりも、どう言えばいいのか悩んでいるように見える。
半兵衛は待った。待つことは苦手ではない。策が実を結ぶまで、情報という果実が落ちるまで待つことはいつの世でも必要なことだ。
「この町には、刑部が住んでる」
「吉継君が?」
思わぬ人物の名に、半兵衛は目を丸くした。かつて、同じ軍に所属していた者の気配に、一瞬顔を綻ばせる。けれど、その表情はすぐに曇る。官兵衛は、その理由を何となくではあるが察していた。そして、その理由こそ、三成の存在を危惧している原因に関わってくる。
「三成は、刑部を恨んでたか」
「恨んで……。うん。そうなんだろうね」
少し視線を落として、半兵衛は言葉を紡ぐ。
「再会したときに、吉継君はいないのかって聞いたんだ。彼らはとても仲良しだったからね」
官兵衛が知っている大谷と三成も、それはそれは仲が良かった。大谷が病を得たところで、三成は彼に対する態度を変えなかった。大谷からしれみれば、それは何よりもの救いだったに違いない。互いに足りぬ部分を補いあい、生きるために寄り沿いっている姿など、鴛鴦夫婦のようにさえ見えたものだ。
けれど、何事にも終わりはくる。彼らの仲にも、終わりが存在したというだけのことだ。
「そしたらね、三成君は口を噤んだんだ。少しばかり黙ったままで、口を開いたと思ったら『あのような裏切り者、知りません』って」
やはり、と官兵衛は拳に力を入れた。
「三成君がやけに思いつめた表情をしてたから、ボクもそれ以上聞けなくてね。
ねえ、官兵衛君は何があったか知ってるの?」
半兵衛の問いに、官兵衛は頷く。
知っているも何も、半分は当事者だったと言ってもいいだろう。
秀吉の死後の三成、壊滅させられた四国と怒れる鬼、鬼との同盟。そして、事実が発覚する。官兵衛は全てを簡潔に語った。今でも、四国を壊滅させたことについては胸が痛む。後悔もしている。けれど、大谷の全てを否定する気にはなれなかった。
家康に勝つためには、それ以外の方法がなかったことを知っているからだ。
「秀吉が裏切りで死んですぐだったからな。どんな類の裏切りでも許せなかったんだろうよ」
もしも、秀吉や半兵衛が生きていたのならば。三成は長曾我部の味方をしなかっただろう。騙された方が悪いのだと、あっさりと言ってのけたはずだ。それができなかったのは、一重に家康という裏切り者を憎しみ抜いたが故だ。
「そんなことがあったんだね」
大谷と同じ軍師である半兵衛には、彼の行動を責める気持ちなど生まれてはこなかった。それどころか、よくやったと褒めてやりたい気持ちが溢れてくる。豊臣のためになるのならば、どのような冷酷非道な手段でも使えと教えたのは、他ならぬ半兵衛自身なのだ。
「でも、ボクは二人には仲良くあって欲しい。
ボクが教えたことのせいで、彼らが仲違いしてしまったなら、ボクが仲直りをさせるよ」
「待て。小生の話をもう少し聞いちゃくれないか」
決意を固めた半兵衛に、官兵衛が水を差す。折角の熱意を邪魔されたことが気にいらないのか、半兵衛は少しばかり唇を尖らせる。
「今、三成と刑部を会わせるのは不味い」
「何でさ」
「刑部は今生で、非常に運が悪くてな」
要領を得ない言葉に耳を傾けていた半兵衛は首を傾げる。口を挟まなかったのは、隣に座っている男が、この状況に置いてくだらない話をするような者ではないとよく理解しているからだ。
「不思議なことに、刑部が不運にあうと、周りが不幸になるんだ。
食べた物に金属が入ってて、口を切るとするだろ? そしたら、大概は一番近くにいる人間が、骨折するだとか、リストラにあうだとか、人生を変えかねない不幸に見まわれる」
すべてを諦めた表情をしていた大谷の顔を思い浮かべながら、言葉を続けていく。官兵衛はあの顔が一番嫌いだった。
「小生の予想が正しけりゃな――」
大谷は大通りを歩いていた。普段であるならば、裏路地のようなところを通り、病院に行くのだが、昨晩蛍光灯の粉を被ってしまった服をクリーニングに出していたのだ。
一度引き返せば、人通りが少ない道に身を置くことができた。けれど、そうするには些か時間がかかる。どうせ、今日も己を見るのは官兵衛と決まっているのだから、多少待たせてもよいとは思うが、さっさと家に帰りたいという気持ちもあった。
わずかな思案の結果、大谷は人通りの多い道を行くことにした。
不運に見まわれる可能性も、不幸を引き起こす可能性も上がるのだが、そんなことは知ったことではない。大谷が傷を得て困るのは、それを診る官兵衛だ。他人の不幸など、欠片ほどの興味もない。
しいて言うならば、ここでの不幸というのはどれほどの人を巻き込むのだろうということくらいだ。大きな不幸が訪れるのか、一人ひとりには小さな、けれど大勢に不幸が訪れるのか。
「それにしても、良い天気よな。忌々しい」
笑いながら、太陽を睨みつける。
昔から太陽は好きではない。かつては身を焼いたため、今ではその輝かしさが疎ましく。
周りの人間は大谷に見向きもしない。彼が不運と不幸を呼ぶことなど、誰も知らない。大勢の中に紛れてしまえば、大谷はその他大勢となることができる。ただし、不運を呼ぶまでのことではあるが。
けれど、今のままならばその心配もなさそうだ。
「しかし、今日は調子が良いとみえる」
今朝から不運にはあっていない。何かが降ってくることもなければ、足元が崩れることもない。なんとも平和な時間が過ぎている。
いつまでこの平穏が続くか、己の中で賭けでもしてみようかとも思える。当たったのならば、思う存分官兵衛をいじり、外れたのならば官兵衛に鬱憤を向ければいい。
「どちらでも、我が笑うか。いや、困った。コマッタ」
そんな風に笑う。何故じゃ、と叫ぶ官兵衛を思い浮かべるのは楽しい。本を読むことの次に彼の困った顔を見るのが好きだった。その次はない。大谷の楽しみといえば、その二つくらいのものだ。
痛む足も忘れられそうな想像に思いを馳せる。こうしている間、大谷は自分が生きているのだと自覚することができる。
生きている自覚ができないというのは、不幸なのだろうか。ふと、考えてみた。
前世では、ほとんど死んだ体ではあったが、しっかりと生きている実感を持っていた。命のやり取りが、大谷に生を自覚させていた。けれど、今の世では遠い世界に争いがあるらしい。という程度のものだ。これは幸か。はたまた不幸か。
そんな他愛もないことを考え始めた矢先のことだった。離れたところに、背の高い男が見えた。大谷がその男に気がついたのは、彼が変わった髪の色をしていたからだ。
それは刀身を写し取ったかのような白銀であった。
大谷は足を止め、目を見開いた。
「……みつ」
思わず口を押さえてうつむく。その名を呟けば、すべてが終わってしまう。大谷の心臓は死への道を急ぐかのように早く動く。その音があまりにも大きく、離れたところにいる男にも届いてしまうのではないかと、脂汗がでる。
気づかれてはいけない。気づかれれば、すべてが終わってしまう。
呼吸もままならなくなる。周りの人間達は訝しげに大谷を見るばかりで、手を貸そうとはしない。
恐る恐る、顔を上げてみた。
男は先ほどよりも近くにきている。こちらに向かって歩いているらしい。
逃げなければと頭が言う。だが、体は反抗して動こうとしない。
再びうつむき、時が過ぎるのを待つ。顔を、目を見られなければ、男は気がつかないだろうと思った。忘れられていてもおかしくないことをしたのだから。大谷は手に力を入れる。制御を失くした力は、手の平を傷つけた。
痛みも大谷を冷静にはさせない。心臓はがむしゃらに動き、脳は逃げろと警報を鳴らすだけだ。
苦しみがあふれ、目を強く閉じる。何もない夢の世界が恋しくなったのは初めてだった。
「どうかしたか」
肩に手を置かれた。
聞こえてきたのは、気づかうような声だ。
その声には覚えがある。
大谷は思わず身を引いた。そして目を開け、顔を上げる。
すぐ近くにあの男の顔があった。
白銀の髪を持ち、琥珀色をした瞳が見える。
視線と視線が絡み合うのがわかった。
二人の間に張りつめた空気が生まれる。
男は大谷の顔を見た。白と黒が反転した独特の目を見た。
不安げに揺れる目は、男からそらすことができないらしい。
強く握られた手からは血が出ている。
大谷は今にも逃げだしそうな様子だった。
男は、三成は鬼も恐れる形相を作り出す。
「――貴様っ!」
目には憎悪と激動を宿し、声には修羅を宿す。
細く長い手が伸ばされる。一見すると、弱々しそうな手ではあるが、その手にどれほどの力が込められているのか大谷は知っていた。四百年前から知っている。
次の言葉を紡ぐため、三成の口が形を作っていく。その様子をスローモーションのように見ながら、大谷は強く強く願った。
死にたい。
「アレは刑部が自分にかけた呪いだ」
官兵衛はそこで言葉を区切る。半兵衛は焦慮したように声を荒げる。
「どういうことだい」
「……まるで、生贄みたいだとは思わんか」
他人を不幸にするため、己の身を捧げる。言われてみれば、間違いではないような気がした。
病をきっかけに、己の価値を下げてしまった大谷ならばありえると思えてしまう。半兵衛は思わず唇を噛む。もっと、彼に自分自身の価値をわからせておくべきだったのかもしれない。
「何が発動の条件になってるかはわからん。だが、おそらくは刑部の感情。
不快、嫌悪、悲しみ。そういった類のものに反応するんだろ。あいつが一人のときや、責めたてられているようなときに、不運はよく起こっていたような気がする」
不確かに言葉が揺れるのは、官兵衛自身が不幸に見まわれたことがないからだ。いつでも、大谷は官兵衛から離れたところで不運と不幸を呼んでいた。近くにいてやれば、どちらからも大谷を守れるのではないかと思ったのは、一度や二度では済まない。
実行に移さなかったのは、大谷が嫌がったからでもあり、傷を癒してやりたいがために医者になったからでもある。
「じゃあ、今三成君と会ったら……」
「特大の不運と不幸がくるかもしれんな」
天井を見上げ、吐き出すように言葉を紡ぐ。
大谷の感情というのは、ほぼすべてが三成に直結していると言っていい。生まれ変わった今でも、それは変わっていないだろう。まだ不運と不幸がなかった頃、三成のことを話題に出したときの刑部はひどく悲しげな表情をしていた。
どのような感情が引き金となっているかはわからない。けれど、三成と再会すれば、どれかは確実に浮かぶだろう。まして、三成が大谷を未だに恨んでいるのならばなおさらだ。
「最近じゃ、不運も不幸もでかくなってる。
三成に会ったら、命が生贄になりかねん」
「そう、だね……」
半兵衛は大谷に死んで欲しくはない。できることならば、また秀吉と三成と自分とで生きてみたいとさえ思っている。
「なら、まずは三成君をちゃーんと叱ってあげるところからかな」
「そうだな。
んじゃ、小生は刑部を少しずつ慣れさせてやるかねぇ」
不運には慣れていると、官兵衛は笑う。
半兵衛は彼の顔を見て、落ち着いたように微笑んだ。官兵衛の前向きなところを大谷は嫌い、同時に羨ましく思っていたのは知っていた。四百年前では上手く折り合いをつけることができなかった両者のようだが、今生では上手くやっているらしい。
心配事が一つ消えた気分だ。
「君の能天気さが吉継君に移ればいいんだけどね」
「小生を馬鹿にしてないか?」
「どうだろう」
「何故じゃ……」
肩を落としてから時計を見る。そろそろ大谷がきてもおかしくない時間になっている。けれど、その姿は一向に見えない。
「そろそろ刑部がくる頃なんだがな」
「ボクなら会っても大丈夫だよね」
「大丈夫だろ」
「久々だなぁ。なんだかワクワクしてきたよ」
「お前さんは子供か」
いい歳をしているくせに、半兵衛は大谷がくるであろう方向を何度も見る。
けれど、いくら待っても大谷は来ない。半兵衛の診察時間が迫ってくるばかりだ。
「本当に今日なの?」
「昨日、ちゃんと来るように言ったんだがなぁ」
頭を掻き、大谷のサボり癖を思う。
己の体に頓着していないからか、彼はよく通院をサボる。官兵衛が医者になったばかりの頃など、怪我をしているというのに病院にこなかったことも度々あったほどだ。
「もー。頼りにならないのは相変わらずだね」
半兵衛の不満に耳を傾けていると、外が騒がしくなる。
どうかしたのだろうかと見ていると、医者の一人が駆け寄ってきた。
「官兵衛さん!」
「どうしたんだ」
「あの、いつもの人が、事故で……」
「事故?」
官兵衛は勢いよく立ちあがる。隣にいた半兵衛も思わず立ち上がった。いつもの人が、大谷を指していることは官兵衛の様子を見ればわかる。どういうことなのかという目を向けた半兵衛に、わからないと官兵衛は返す。
ひとまず、状況を把握するためにも、官兵衛は急患用の玄関へと向かう。何故か半兵衛もついてきたが、そのことに口を出せるほどの余裕はなかった。
救急車で運び込まれるような状況だ。最悪の事態を想定しても不思議ではない。
「な、お前さん!」
大谷が運び込まれたのであろう手術室の前には赤い服を着た三成がいた。
「……官兵衛。半兵衛様」
三成は覇気のない目で二人を見る。よく見れば、赤は服の色ではなく、服にかかった血の色のようだ。
「刑部と会ったのか」
「ああ」
最悪の中でも最悪の事態だった。官兵衛は額に手を当てる。
どの感情が引き金になったかはわからないが、大谷は官兵衛の予想を裏切らなかったらしい。
「道に刑部がいた。あの時のことを言おうとしたら、後ろからトラックの積み荷が。鉄材が、私の後から。でも、私は、押しのけられて」
そこまで口にして、三成は頭を抱える。何が起こったのかわかっていないのだろう。裏切り者が己を守ったという事実が理解できていない。
「そうかい」
大谷の呪いはなされた。何人かは死んだかもしれない。
だが、今はそれを考えている場合ではない。官兵衛は手術室に入る。三成に関しては、半兵衛に任せておけばいい。
目を開けると、白い世界だった。
ここがあの世なのかと思う。
「起きたか」
「……官兵衛?」
「おう」
隣にいる官兵衛を目に写し、己がベッドの上に横たわっていることを自覚した。点滴も打たれているようだ。
「目覚めてすぐ主の顔とは……。
これが不幸と言わずして何という」
「失礼だな。おい」
言葉を交わしながら、何があったのかを思い出そうとする。
服をクリーニングに出して、病院への道を歩いて。
「刑部」
「何ぞ」
思考を官兵衛が邪魔した。不満を隠そうともせず、しかめた顔を向けてやる。見れば、真剣な表情を浮かべた官兵衛がいる。
「とりあえず落ち着け。
感情を荒げるな」
「何を言っていやる」
官兵衛の大きな手が大谷の手に触れた。暖かなそれに、思わず体がこわばる。
「お前さん、気がついていたんじゃないのか」
「何によ」
意味のわからない言葉ばかり紡ぐ官兵衛に苛立ちを覚える。彼を翻弄することはあっても、彼に翻弄させられることはほとんどないと言ってもよかったはずだ。いつもとは違う雰囲気に、大谷の気は安らがない。
「小生だって気づいたんだ。お前さんが気づいていないわけがないだろ」
大谷の瞳が揺れる。
「……気づいていない、振りをしておった」
官兵衛から目をそらし、感情を吐露するかのように言葉を紡いでいく。
「我が死にたいと思えば、不運はやってきた。不幸もついてきた。
アレは我の呪いよ。もはや不幸に興味などないと言っておったがな、嘘よ。ウソ。
我は一等大切な者に捨てられた。自業自得と言われればそれまでであったがな、それでも我は許容することができなんだ。故に呪ったのよ。この身が贄になることなど、好都合でしかなかったわ。我は、三成と再会するくらいならば、再びあの目を向けられるくらいならば――」
「それ以上言うな」
触れるだけであったはずの手で、強く握られる。潰されるのではないかという不安はない。ただ、力強い官兵衛の手が震えている理由が見当もつかない。
「死ぬかと思った」
震える声に惹かれ、痛む体を押して握られていない方の手を彼の前髪へと伸ばした。
意外と絡まない髪を横へ避けると、間抜けにも涙を流した顔がそこにある。
「……何を泣きやる」
「また、小生を置いて逝くのかと思った」
伸ばした方の手も掴まれる。抑えるものがなくなった前髪は、再び官兵衛の瞳を隠した。涙は顎にまでつたっているので、隠しきられることはない。
「大きなやや子よな」
一つだけ息をつく。
「刑部……」
鼻を鳴らしながら官兵衛は大谷を見た。
「三成は、もう恨んでないぞ」
「……何?」
脈絡のない言葉ではあったが、彼の心を大きく揺さぶる言葉だ。大谷の声は思わず上ずってしまう。
珍しく動転している大谷が見れて嬉しかったのか、官兵衛の口元がわずかに緩む。それが無性に腹立たしかったので、大谷は彼の頬をつねってみた。
「いひゃいぞ」
「煩いわ。三成がどうしやった」
頬から手を離してやると、官兵衛は片手で頬を擦りながら話を続ける。ちなみに、もう片方の手はまだ大谷の手を握っている。
「ここ毎日、ずっとお前さんのお見舞いにきてるんだよ。四百年前のあれこれは、半兵衛に説教されたようだぞ。
それに、お前さんは三成を庇ったんだろ?」
「我の呪いに三成を巻き込むことはできぬ」
「その甲斐あって、あいつは無傷だったよ」
「さようか」
大谷は安心したように目を細めた。
あの瞬間、死を願った瞬間、三成の後から鉄材が見えた。それが迫りくる不運であり、不幸であることは間違えようのない現実だった。三成がアレらに貫かれることを想像した。それは、とてつもなく恐ろしいことだ。故に、大谷は三成を突き飛ばした。
薄れゆく意識の中、己の役職を叫ばれたのが、不思議と心地よく感じていた。
「だから、もう呪いは必要ないだろ」
己を生贄にしたのは、死ねるのならばそれがいいと思ったからだ。三成に再会することを考えるのは怖かった。
他人を巻き込んだのは、一人が嫌だったからだ。己を置いて幸せになっていく世界が憎かったからだ。
ならば、この平和な世界で、三成がもう己を憎んでいないのならば。
「そう、よなぁ」
大谷は涙を流した。
生まれてこの方、物心ついた頃から泣いたことはなかった。一番の悲しみと恐怖を知っていたからだ。けれど、この涙は悲しみでも恐怖でもなかった。
喜びだ。
「我は、生きて、良いのか」
「当たり前だろ」
「多くを傷つけ、奪った我でもか」
「そうだな。お前さんはたくさん奪った。でも、警察に行ったところで、どうにもならんだろ。そいつらの家を回りきることもできんだろ。行ったところで、そいつらの気を乱すだけだ。
なら生きろ。三成がそうしたように。生きろ。そんで、償っていけ」
気にするなとは言えない。けれど、償って死ねとも言えない。官兵衛も人間だ。己の一等を奪われるのは我慢ならない。そんなものは、四百年前だけで十分だ。
官兵衛は、目の前で嗚咽を上げている男が好きだった。彼が幸せならば、己を好きになってくれなくても良かった。傍にいることができるのならばそれでよかった。
そうやって過ごした日々の終わりは、彼の死で終わったのだ。
「刑部」
もう離したくない。
官兵衛は強く望んでいた。今生で再会したその日から。その思いが途切れたことはない。
「お前さんが、三成のことを一等愛していることは知ってる」
大谷が涙で潤んだ瞳で官兵衛を見る。何を当たり前のことを言っているのだろうという表情だ。
「だがな、小生はお前さんが一等好きなんだ」
目を見て、はっきりと告げる。遠まわしな言葉は好きではないし、大谷の性格上、己が好かれているのだと正しく理解しない可能性がある。少しでも不安要素があるのならば、取り除いて置きたい。
告白をされた大谷は、驚きのあまり涙が引っこんでいた。目を丸くし、官兵衛をじっと見ている。いつ嘘だと言われるのか待っているようにも見える。
「お前さんを死ぬほど不安にさせて、不運も不幸も呼んじまうような三成よりも、一緒にいる間は一度も死にたいと思わせなかった小生のほうが、ずっとお得だぞ」
至極真面目な顔をして言ってのける。
大谷は少し間を置いた後、楽しげに笑い声を上げた。
「ヒヒヒ。お得か。なるほど。主には似合いの言葉やもしれぬなぁ」
死にたいと何度も思ってきた。
一人でいることが寂しくて死にたかった。退屈すぎて死にたかった。生きているのか死んでいるのかわからないくらいならば死にたかった。あまりにも寒くて死にたかった。白黒反転した目を持つがために避けられるくらいならば死にたかった。
ずっと、ずっと死にたかった。
だが、官兵衛がいるときは死にたいとは思わなかった。
楽しかった。愉快だった。幸福であるとも言えたのかもしれない。
「な、何だよ」
「いや。主も面白き男よな」
「小生としては、返事を聞きたいんだが……」
拗ねたような声を出した官兵衛に、大谷は再び笑った。
「そうよな。三成は一番よ。何よりも、な。しかし、それは色恋ではない。
我は色恋についてはとんとわからぬが、主のことは……好いておる。おそらくな」
「本当か?」
大谷は顔をそらしながら、答える。
「おそらくよ。おそらく。
仮にソウイウ意味で主のことを好いておったとしても、三成が一番であることは変わらぬ」
「それでいいさ。お前さんが三成以外の人間を一番にするなんて思っちゃいない」
官兵衛は満面の笑みだ。天下を取ったわけでもないのに、それ以上のものを得たかのような喜びっぷりだ。その理由に己がいるのだと思うと、大谷の頬も赤くなってしまう。
「刑部!」
初々しい空気を壊したのは、病室の扉を開けた三成だった。
「起きたのか。
私は、貴様に言わなければならないことが山のようにある」
つかつかと歩みより、官兵衛を押しのけて大谷の横に膝をつく。
「三成……」
「私は愚かだった。半兵衛様にも秀吉様にも叱られてしまった」
「よい。主が裏切りを厭うと知りながら我はそれをした。自業自得であった」
三成は謝罪の言葉を述べ、大谷はそれにただ頷いた。元々、彼に三成を責めるなどできるはずがないのだ。
「おい三成。刑部はまだ病み上がりなんだぞ」
「煩い。貴様が私と刑部の会話を邪魔するなど許さない!」
官兵衛に止められ、三成は眉をつり上げる。勢いよく立ちあがったかと思うと、官兵衛の胸倉をつかみ上げる。身長に差があるが、それでも官兵衛のつま先が若干床から離れる。
相も変らぬ強力っぷりに、大谷は穏やかに微笑む。
幸せすぎて、死んでしまうのではないだろうか。
そんなことを考えた。同時に、ベッドが傾いた。
「刑部!」
二人の声が聞こえる。どうやら、ベッドの足が折れたらしい。
「……お前さん、まさか」
「うむ。暗よ。
この呪いはどうやれば解除できるのであろうな」
「何故じゃあああああ!」
了