家康を討った。仇を取った。
「やった……。やったぞ!」
 三成は笑う。秀吉に、半兵衛に己の功績を伝えるかのように、高らかに声を上げる。
 これで一つの道が終わった。次の道は既に用意されている。大谷は笑う三成の横で、孫市の姿を探した。決戦の前に、三成と孫市を引き合わせた。戦いは気分を高揚させるため、逢瀬には丁度いいだろうと思ったのだ。戦いが終わった喜びも共に味わえば良い、と考えた。
 視界に映った孫市は、契約を終わらせようとしているところだった。
 傭兵という存在から考えればそれは何もおかしくない行動だ。けれど、それをされては困る。大谷は三成の肩を叩く。
「何だ刑部」
「三成よ。主にはまだするべきことがあるであろ? ほれ、雑賀を誘いやれ。奴らは傭兵よ。はっきりと言葉にせねば主についてくることもできまいて」
「そうか。わかった」
 三成は嬉しそうに笑いながら孫市を呼び、彼女の方へと歩み寄る。大谷のいる場所からでは二人の言葉は聞こえない。けれど、上手く孫市を引き止めることができたようだ。楽しげに笑う女の顔が見え、新たな契約がなされた音が聞こえてきた。
 大谷は目を細める。これで良かったのだ。世界は広い。日ノ本も広い。三成が生きていくには十分すぎる理由ができた。三成から贈られた薬のおかげで、近頃は調子が良いとはいえ、病が消えたわけではない。そう遠くない未来、己が死ぬことはわかっている。
「大谷。終わったな」
「ああ。主は中国へ帰るのであろ」
「当然だ。いつまでも貴様の茶番に付き合ってはいられぬ」
「ヒヒ。そう言うてくれるな」
 毛利はともかくとして、真田や長曾我部、島津はこれからも三成のことを気にかけてくれるだろう。官兵衛には気にかけるよう、きつく言い聞かせてある。これで、何の心配もない。未練もない。大谷は己に言い聞かせる。
「……ああ、だが後一つ、成せねばならぬな」
 誰に言うでもなく呟いた。毛利は一度首を傾げたが、自分に関係のあることではないだろうと判断し、そのまま踵を返す。彼の姿を見送ることもせず、大谷はただじっと、三成と孫市の様子を見ていた。
 最期の一手を頭の中で組み立てていく。
 関が原を後にし、大坂へ帰る。城の中には長曾我部や島津の他に孫市率いる雑賀衆がいる。彼らはこれからも傭兵として大坂に留まる予定だ。改めて勝利の祝杯を上げた夜、三成は大谷の部屋にいた。理由は当然、眠るためだ。軽く酒が入り、高揚した気分ではあったが、眠りたい気分だった。もしかすると、それは大谷に会いたい気分であったのかもしれない。
 いつもと同じように、声をかけることなく障子を開ける。部屋の中には、宴を辞退した大谷が一人で杯に酒をついでいた。
「貴様も来ればよかったのだ」
 誰にも文句を言わせるつもりはなかった。
「良い良い。我は静かな方が好みよ」
「そうか」
 大谷の横に腰を降ろし、そのまま膝を借りようと体を傾ける。
「待ちやれ」
 制止の言葉をかけたのは大谷だ。今までにないことに、三成は目を丸くする。
「どうした」
「三成。話がある」
「言え」
 見たところ、大谷もかなりの酒を飲んでいたが、口調ははっきりしている。重要な話なのだろうと、三成は姿勢を正す。
 互いに向かい合ったところで、大谷が口を開いた。
「子を、作りやれ」
「は?」
 突然もいいとこだ。今まで、喰え、眠れとは言われてきたが、子を作れなどと言われたことはなかった。それは生きていく上で必要不可欠なものではないからだ。大谷はいつでも三成を尊重した。だからこそ、生きるために必要不可欠なもの以外に強く言うことはなかった。
 けれど、今ははっきりと子を作れと言う。三成の頭では理解することができない。
「よいか三成。主は天下人よ。世界へ進出するためには、日ノ本を整えねばならぬ、と言ったであろ」
 三成は頷く。それは以前聞かされたことだ。大谷が言うのだからそうなのだろうと、納得したものでもある。
「なれば、主の跡継ぎの問題で争いを起こさせてはならぬ。故に、主の子を作るのだ。
 主の子ならば見た目も麗しく、武士としても才のある子ができよう」
 大谷の言葉を遮ろうと、三成が口を開ける。大体からして、子というのは一人で作るものではない。相手が必要だ。どこの馬の骨とも知れぬ女では誰も納得しないだろう。そんな考えを見通したのか、大谷はいつも通りの笑い声を上げる。
「何を言っていやる。女子なら、主の傍にいるであろ? 銃の扱いに長けた、賢しき女が」
「……孫市か?」
「そうよ」
 目を細め、優しい笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫よ。主が言えば、奴も断るまいて。ほれ。今夜など、気が昂っておるであろ。丁度良い。行きやれ。作りやれ」
 手をあげ、三成を追い払うような仕草をしてみせる。月明かりに照らされた三成の顔が、少しばかり悲しげだったことには目を瞑る。今は納得できぬことでも、いずれそれが正しかったと気づく日がくるはずなのだ。
 三成は膝の上で握った拳に力を入れる。理由のわからない靄が腹の底に溜まるのを感じた。
「……貴様は、そうしたら、喜ぶか」
「……そうよな。主のやや子を見てみたい」
「わかった」
 三成は立ち上がり、無言のまま部屋を出る。腹のくすぶりが癒えることはなかったが、大谷が嬉しいといったのだ。疑う余地などあるはずがない。
 早足で廊下を歩く。向かうのは孫市の部屋だ。夜も深け、誰かと会うこともなく孫市の部屋にたどり着く。三成はそこで立ち尽くす。子の作り方を知らぬとは言わない。そういった行為をしたことがないとも言わない。だが、孫市相手にそういった気になれないのも確かだった。
「石田か?」
 障子越しに声が聞こえた。
「そうだ。入るぞ」
「貴様が入室に許可を求めるなんて珍しいな。いいだろ。入ってこい」
 障子を開け、部屋の中へ足を踏み入れる。女らしい香の匂いなどしない部屋だ。鼻に届いてくるのは火薬の匂いばかりだ。まるで戦場にいるようだと思うと、急に気分が昂ってきた。わずかながらも入っている酒気もそれを促しているように思える。
「どうした? まだ我らが信用できないのか」
「いや、そうではない」
 三成は雑賀を信用している。戦での活躍は見事であったし、家康を討つ力になったのは否定しようのない事実であるからだ。確認のために裏切るなと言うことはあるが、もはやそれは口癖のようなものだ。
「孫市」
「ん?」
「私の子を産んでくれ」
 目を丸くするでもなく、孫市は黙って三成の目を見た。その奥に潜む何かの影を掴もうとするかのような瞳だ。しばらくそうした後、呆れたようにため息をつく。
「カラスめ」
「何だと」
 断られたところで傷つきはしないが、大谷との約束を違えることになってしまう。三成は眉間にしわを寄せる。
「どうせ、大谷に言われてきたのだろう」
「……何故わかった」
「それがわからぬからカラスなのだ」
 孫市は言った。三成が望むのならば、この腹に子を宿してやってもいいだろうと。けれど、これは違うだろうと思う。
「いくつか質問させてもらう」
「貴様。私の問いに答えろ」
 三成の怒りを含んだ声は無視することにした。いくら言葉を重ねて説明したところで、彼が理解するとは思えなかったのだ。己の恋心に気づかぬ者に説明する言葉を持たぬ、と思っていたことも言葉を重ねぬ原因だ。
「お前の子ができれば嬉しいと、大谷は言ったのだな」
「……そうだ」
「私が相手でもお前はできるのか」
「おそらく」
「大谷が喜べば嬉しいか」
「無論だ」
「大谷と共にいたいか」
「ああ」
「大谷が健やかになれば嬉しいか」
「当然だ」
「大谷に生きていて欲しいか」
「至当だ」
「ならば、お前は大谷が好きなのだろう」
「そう……だ?」
 思わず返事をしてしまったが、言葉の意味を理解してはいなかった。
「何故、とはこちらの台詞だ。カラス共め。石田。お前は大谷が好きなのではないのか。
 私との子よりも、大谷といる時間の方が大切なのではないのか。大体から、お前の敬愛する豊臣は子を成さなかったではないか。お前が子を成さねばならん理由などあるのか。必要ならば養子でも迎えればいい。
 どうせ大谷のことだ。お前に人並みの幸せを、とでも思ったのだろう。だが、考えろ。お前の幸せはそこにあるのか。お前の心はそれを裏切りとしないのか」
 孫市の言葉が、三成の胸に突き刺さる。一言、また一言と、胸が痛む。同時に、腹の中でくすぶっていたものが霧散していく。形容できなかった感情がはっきりと見えたのだ。
「だが、私は子を作ると約束した」
「そうか。ならばお前はもう二度と大谷を手に入れることはできないだろうな」
 子を成し、妻を娶った男が他の誰かに愛を告げる。そんな馬鹿な話があってたまるか。三成は唇を噛む。選択は二つに一つ。どちらも、というわけにはいかない。そして、どちらをとっても裏切ることになる。
 悩む三成をみて、苛立ったのは孫市だ。茶番はここまでにしてもらいたい。この先、大谷を失って幽鬼と化す三成を見たいわけではない。
「石田。一つ、情報をやろう」
 のろのろと視線が合う。
「大谷には好きな者がいるぞ」
 カッと、三成の目が見開く。大谷が誰かの物になるなど、想像もしていなかったに違いない。琥珀色の目が徐々に赤く染まる。怒りか、悋気か。孫市は小さく笑う。これで茶番は終わり。新しい舞台が幕を開く。
「早くしないと取られるぞ」
 速さで負けるお前ではあるまい。遠まわしに告げると、三成は勢いよく立ち上がり、廊下を駆ける。孫市の笑い声が聞こえたような気がしたが、そんなものはどうでも良かった。大谷が、誰を好いているのか知りたかった。できるのであれば、その者を斬滅したいと思った。
 来た道をそのまま戻れば、大谷の部屋にたどりつく。力加減など無視して、勢いのままに障子を開ける。まだ部屋で酒を飲んでいた大谷は何事かと、目を見開いている。夜這いに行ったはずの者が、戦場でしか見ぬほどの速さをもって駆けてくれば誰でもこうなる。
「み、つなり?」
「刑部!」
 細い肩を掴む。力を込めすぎたため、大谷が小さくうめき声を上げたが、それすら三成の耳には届いていない。
「誰だ!」
「は?」
「貴様、誰を好いている!」
「……何を」
 赤い瞳、歯を食いしばる音。どれもが三成の怒りを表している。
「答えろ!」
 肩がさらに圧迫される。答えなければ骨が砕けてしまうだろう。
 だが、答えたらどうなる。
「み、つ……」
「許可しない!」
 慟哭のような声だった。
「貴様は私と生きるのだ! 他の、他の者となど、許可しない!」
 大谷の肩を掴んでいた手が離された。痛みからの解放に、大谷が息を吐く。しかし、すぐに息を飲むこととなった。
「み……つ、なり」
 抱き締められた。肩を掴んでいた手は腰に回され、もう片方の手は頭に回された。荒々しすぎる抱擁に、大谷は言葉を失う。
「刑部、私は貴様が好きなのだ」
 代わりに、と三成が言葉を紡ぐ。耳本で聞こえてくる愛に身を奮わせる。
「私は貴様との約束を違えてしまった。けれど、私は心を裏切ることができなかった。私を許せ刑部。
 貴様が好きだ。共に生きたい。そのためならば、食事もしよう。眠ることもする。だが、子だけは許せ。貴様以外に身を預けることなどできるはずがない」
 抱き締める力が強くなる。密着した体は互いの鼓動を確かに伝えている。どちらの心臓も、同じ速さで脈打っていた。
「や、やめよ。それは気の迷いよ。雑賀に何を吹きこまれやった」
「気の迷いなどではない。ずっと好きだった。この感情の名を知ったのは始めてだったが。私は貴様のことが、ずっと好きだった」
「主に甘言など似合わぬ。我は主のためならば何でもしよう。主が言うのであれば、誰も好きになりはせぬ」
「違う、違う! 甘言ではない。私は嘘など吐かない。言葉に裏を持たせたりなどしない」
 知っている。だからこそ、大谷は否定するのだ。三成の愛を受け入れてしまうことができない。
「三成! 聞き分けよ!」
「何故だ! 私が貴様を好きではならぬ理由でもあるのか!」
 あるに決まっている。病持ちを好きになって良いはずがない。未来のないモノと一緒になってはいけない。人並みの幸せを手に入れることができなくなってしまう。大谷は涙をこぼした。単純な感情によって流れたものではない。愛を告げられた喜びと、それを否定しなければならない悲しみ。感情が混ざり合い、涙となる。胸が苦しくなる。それでも大谷は否定するのだ。
 己に幸せを作ることはできない。三成のために、と苦しみを受け入れる。
「駄目よ。主は幸せに、幸多き生を謳歌するのよ」
「刑部。私の幸せを望むなら、どうか本当のことを言ってくれ。
 好きな者がいるのならば、それでいい。殺しはしない。ただ、貴様を想うことだけ許してくれ」
 違うのだと、大谷は言う。想って欲しいのは自分ではない。健常な女だ。そうやって、子を作り、平和に、平穏に暮らして欲しいと願うだけだ。
「それは主のためにならぬのよ。わかってくれやれ」
 震える声で告げる。だが、三成は是と答えない。少しでも隙間を埋めようとするかのように、抱き締める力を強くするばかりだ。
「貴様が私の幸福を決めるな。私の幸福は、私が決める」
「三成。主は、主はわかっておらぬのよ」
「ああ、わからない。私には貴様が何を考えているのかわからない」
「主は」
「刑部。私は今、幸せだ。貴様を抱き締め、共にあれる今が、至福なのだ」
「主は、我をどうしたいのだ……」
 涙をこぼしながら、ゆっくりと大谷の腕が持ち上がる。
「我は主を幸せにしたいというのに。我ではそれができぬというのに」
 腕は三成の背中に回り、弱々しいながらもしっかりと縋りつく。
「主は酷い男よ! 我のたくらみを全て無にしてくれるとは」
 震える声で三成を責めるが、大谷の腕は確かに彼を求めていた。しっかりと抱き締め、三成の体温を感じようとする。離すまいとする。
「三成。主は聞いたな。我が誰を好いているのかと。聞けば後悔しやるぞ。それでも聞くか」
「ああ。教えてくれ」
 それで諦めもつくだろう。悲しみにくれたとしても、大谷を想う気持ちだけを持って生きることができる。三成は唇を噛みながらも、大谷の言葉に耳を傾けようとする。
「我はな、我は、主が好きなのよ。石田三成を……ずっと、好いておった」
「刑部……?」
「あさましかろ? こんな姿になった我が、主のような美しき者を好くなど。好く、など」
 ずっと知らぬふりを続けていた。毛利に、孫市に何を言われようとも気づかなかった。心の奥底に沈め続けていた気持ちだった。だが、真っ直ぐな愛をぶつけられては、大谷の奥底に眠っていた感情も目覚めざるをえなかった。
 三成のためにと動いていたはずなのに、己の身の内には真逆のことを想う気持ちが巣食っていた。
 あさましい、あさましい。大谷は涙ながらに呟く。三成はそんな大谷の言葉に笑みを浮かべた。今、聞いた言葉は、今まで聞いてきたどのような甘言よりも甘い。そして心地良い言葉だった。
「あさましいなど、あるはずがない。ああ、刑部。私は幸せだ。断言できるぞ。今、私は誰よりも幸福に満ちている」
 胸が暖かくなる。この温もりを離してなるものかと。
「主は愚かものよ。見ていやれ。近いうちに必ず後悔することとなるぞ」
「そのようなことはない。貴様がそれほどまでに心配するのならば、明日にでも祝言を上げてやるぞ」
「いらぬ、いらぬ。そのようなもの、我は望まぬゆえ」
「そうか」
 少しばかり残念だと思う。大谷が自分のものであると主張したかったのだが、それは望まれていないらしい。
「そうよな。せいぜい、後悔するまでは大事にしてくれやれ。それだけで十分よ」
「後悔などしない。だから、一生をかけて大事にしてやろう」
「あい。主の思うままにしやれ」
 一度思いを白状してしまえば、もう偽ることなどできるはずがなかった。それが三成の幸せに繋がらないのだとしても、大谷はもう三成を離すことはできないだろう。哀れな男だと思わずにはいられない。自分は幸福だとしか思えない。
「ヒヒ。我ばかりが幸にあやかるか」
「何を言う。最も幸せなのは貴様ではないぞ。私だ」
「わかったわかった。三成、とりあえず離しやれ。我は苦しい」
「駄目だ。まだこうしていたい」
「さようか」
 小さく笑い、大谷も腕に力をこめた。