徳川が天下を治め、一月ほどが経過した。家康と再び手を取り合った元親は四国の再建に追われていた。その隣には、此度のできごとで知り合った三成がいる。彼は元親の希望により、死を免れた。家康も彼を殺すつもりはなかったらしく、元親の願いを快く受け入れた。
 当初は戸惑い、己の中の憎しみとの折り合いをつけることができなかった三成であった。だが、彼の命を預かると宣言した元親が何度も言葉を重ねることで、どうにか出会い頭に刀を抜くということをすることはなくなった。三成は獣ではない。短気を起こさなければ一呼吸を置き、家康と同じ空間にいることも耐える。ただし、ほんの半刻程度までしか我慢がきかないようだが。
 元親はこの平和な時間が好きだった。そんな平和に、わずかなヒビが入った。始めの小さなヒビは一通の文だ。元親が目を通したそれは、黒田からのものだった。曰く、渡したいものがあるのでそちらに伺いたい。とのことだ。
 同じ西軍に属していたとはいえ、元親は黒田と面識があまりない。元豊臣軍であったが、天下を狙い穴倉へ追いやられていた。と、いう程度の認識だ。そんな男が、自分に何を渡すのだろうかと元親は首を傾げる。しかし、届けられた文は丁寧な字で、丁寧な言葉使いで書かれており、断る理由も見つからなかった。
 元親はすぐに会える日時を指定し、黒田に返事を送った。
 そして、黒田がやってきた。一目見て驚いたのは、その手に枷がなくなっていたことだ。身軽になった黒田が抱えていたのは小振りの壺だ。他に持ち物はないようなので、渡したいものというのはそれなのだろう。
「久しぶり……と、言うには面識もない、か」
 肩をすくめて見せた黒田に、元親はぎこちない笑みを返す。少し広めの客間には元親と黒田しかいない。お互い、気を使うつもりもないのか砕けた口調を咎めない。
「で、渡したいもんってのは……それかい?」
「ああ。あと、もう一つ」
 壺を床に置く。黒田目の前に置かれ、元親が手を伸ばしても届かない。まだ受け取ってはならないと言われているような気がして、元親はその壺を見つめるだけに終わる。
 質素な作りをしたそれは、ちょっとした漬物を作るときに使うものとよく似ていた。
「お前さんに賛辞の言葉をな」
 黒田の口角が上がる。けれど、元親は首を傾げることしかできない。
 彼から受け取る賛辞というのがわからない。己と家康のことをよく知っている人物であったならば、疑心を消し去り黒幕を滅ぼしたことによる賛辞だったかもしれない。けれど、黒田は元親と家康。そのどちらとも深い繋がりはない。むしろ、同じ軍に所属していた大谷との方がよほど深い繋がりを持っているだろう。
 元親の疑問を感じたのか、黒田は勝手に言葉を続けた。
「お前さんは素晴らしいよ。あれほどまでに効果的で、相応しい復讐を小生は見たことがないね」
 復讐。その言葉で思い浮かべることができるのは、大谷と毛利の顔だ。
「まあ、見たところ狙ってやったわけじゃないんだろ? 羨ましいくらい運のいい男だね。お前さんは」
 床に置かれていた壺が元親の手の届く距離にまで押し出された。
 元親はただじっとそれを見つめる。動くことができず、また触れてはならないと頭の中で誰かが言っていた。
「そのおかげで小生も自由になれた。礼を言うよ。ありがとさん」
 それだけ言うと、黒田は立ち上がり元親に背を向ける。早々に帰ろうとした彼を呼びとめたのは元親だ。視線は壺を凝視したまま。体勢も変えることなく、掠れた声で黒田を止めた。
「……これは、何だ」
「そいつは、刑部の骨さ」
 元親の心臓が跳ね上がる。
 毛利の葬式は元親も見た。捨て駒と呼ばれていた部下達が、涙を流しながらも壮大な葬儀をしているところを確かに目に焼き付けている。それに対して、大谷の葬儀は見たこともなければ聞いたこともなかった。
 仮にも友人であった三成に大谷のことを聞くのは躊躇いがあった。また、毛利との戦いに三成も連れて行っていたため、帰還後に大谷の葬儀が行われていたとしたならばいたたまれないという良心の呵責もあった。
 冷静になって考えてみれば、三成は連れて行くべきではなかったのだと思うことも何度かあったのだ。
「病に犯された死体に触れようなんて物好きは小生くらいのものさ」
 その言葉が胸に突き刺さる。
 つまりは、いつ黒田が大阪城へ赴いたのかはわからないが、彼が来るまで大谷の死体は放置されていたということだろう。日数によっては、死体は腐敗し、鳥獣や虫にたかられていたやもしれない。
 戦場でならばともかく、城の中でそのような目にあうと誰が思うだろうか。
「安心しな。誰もお前さんを責めやしないさ。あいつ本人も、まあそのくらいは予想できていただろうしな」
 大谷は忌まれていた。触れるものも、近づくものもいない。どこで死んだとしても、自分の屍などろくな目にあわないと知っていた。
「さっき言ってた、効果的で、相応しいってのは、どういう意味なんだ」
 元親はゆっくりと顔を上げ、黒田を見る。伸ばされた前髪が邪魔で、彼の瞳は見えない。怒りを宿しているのか、悲しみを宿しているのか。あるいは何も宿さないのか。
「目標達成の一歩手前。勝ち逃げする一歩手前。全て隠し通したまま逃げる一歩手前。三成の友として逝く一歩手前。
 あと少しで届くものを取りこぼす。これは結構つらい」
 目標とは家康の首だろうか。勝ち逃げとは何だろうか。
「放っておいても、今頃になれば刑部はこの世にはいなかっただろうよ」
 それが勝ち逃げだ。
「なっ……」
 元親は思わず立ち上がる。
 そんな話は聞いていなかった。三成も、彼の部下もそのような言葉は一言たりとも零していない。
「知っていたのは小生と毛利……あとは医者やあいつの側近くらいだろうよ」
 しかしよく考えてみろ、とため息でもつくかのように言葉は続けられる。
「奇妙な術を使い戦には出ていたが、あいつは病人だぞ。あの術がなければ動くこともろくにできない。
 そんな人間が戦い、策を練り、徳川への道をお膳立てする。
 寿命の三年や四年、縮んでも不思議じゃないだろ」
 ただでさえ短い命を削る。それはどのような気持ちだったのだろうか。
 わからないふりをしようとしていた。だが、元親はそこまで愚かな男ではなかった。大谷は三成を裏切る気など毛頭なかったであろうことくらいは理解していた。真っ直ぐな三成のため、自分が汚い役をすることに決めていたのだろう。ならば、寿命を削ってまで戦に参じたのも同じ理由だと考えるのが普通だ。
「あんた、このことを三成に言うつもりか?」
「小生は言わないさ。地獄に落っこちた刑部に呪われるのが怖いんでね」
 言いたいなら言えばいい。そうでないのならば言わねばいい。黒田は暗にそう告げた。
 元親は足元にある壺をじっと見た。人一人分にしては小さすぎる。遺骨の半分は埋められたか、黒田が持っているかのどちらかなのだろう。
「だが、会っちまったら何を言うかわかったもんじゃないんでね。とっとと退散させてもらうよ」
 自由になった右手を軽く振り、黒田は部屋から出ようとする。
「長曾我部。貴様に渡した仕事が滞っていると――」
 やはり運がない。黒田はそう思った。
 ここへ来た一番の理由は大谷の骨を渡すことだった。せめて半分でも、三成のいる地に埋めてやって欲しいと思った。いざ、長曾我部の顔を見てしまうと、恨み言がましいことを言ってしまった。これは反省している。だが、自分のしたことはそれほどまでに罪だったのだろうか。と、いるのかわからない神に問う。
「何故貴様がここにいる!」
 我慢がきかなくなることはわかっていた。気がつけば黒田は三成の胸倉を掴み上げていた。
「何故小生がここにいるか、だと? 小生はな、哀れで可哀想で、小生ほどじゃないが不幸だった刑部を連れてきてやったんだよ!」
 怒鳴りつけるような声にも三成は怯まない。それどころか、黒田の腕を振り払い部屋の中を覗いた。見えるのは元親と、遺骨の入った壺だけだ。
「本当に不幸な奴だったよ!」
 黒田はどうにか言葉をそれだけに留めた。これ以上この場にいては、先ほどまで口にしていた言葉を全て吐いてしまうかもしれない。冷静にならない頭でそう判断し、黒田は苛立ちを隠そうともせず足音をたてながら去る。
 心の中では大谷の顔と声がぐるぐる回っていた。
 何をするときでも、彼の中心には三成がいた。それなのに、最期の瞬間で三成は大谷を突き離したのだ。黒田は大谷は三成がいたからこそ、人として生きていけたのだということを知っていた。知らなければどれほど楽だっただろうかと思わずにはいられない。
「お前さんの骨はどうなるのかねぇ」
 裏切り者の骨など、と捨てられるのかもしれない。
「……ま、そうだったとしても本望だろ?」
 何せ、一番愛おしく、唯一幸せにしたいと思っていた者の手で葬られるのだから。


END