捏造ルート
東軍勝利
西軍死ネタ
戦場の匂いとは何度嗅いでも慣れることがない。官兵衛は嫌味なほど青い空を見上げながら考えた。
「どうですか? 私だって、ばばーんと戦えるんですよ!」
弓を構えた鶴姫が楽しげに言葉を紡いでいる。彼女にとって、戦いというものは恐ろしいものでも悲しいものでもないのだろう。官兵衛はそれがひどく羨ましかった。自分の知性や力を疑うわけではない。だが、どのような者が死んでもおかしくないのが戦だ。彼が所属する西軍の総大将である石田三成が崇め讃えていた男が死んだように。
だから、官兵衛はいつでも怯えていた。死ぬのが怖いというのは、人として当然の感情だろう。
純粋無垢な彼女へ唾を吐いてやろうかと思ったが、仰向けになっているこの状態では、自分のもとに降りかかってくるだけだと気づく。まだ辺りでは刀が交わる音や火縄銃が放たれる音がしている。いつまでも地面に伏している暇はない。
不自由な手を使い、どうにか起き上がる。
「ま、とっても頑丈な体! まだ立てるんですね」
鶴姫が驚いたように言う。それもそうだろう。官兵衛の体はすでにボロボロだ。腕には矢が刺さったままになっている。邪魔なので取ってしまいたいとも思ったが、枷をはめられた手ではどうにもならない。
「小生にも意地ってもんがあるんでね」
それでも勝てはしないだろう。悔しいので口角だけは上げてみる。
「……あなたはどうして、まだ戦うんですか?」
誰の目にも勝敗は明らかだ。東軍が勝つだろう。
戦が始まって間もなく、長曾我部が裏切った。いや、裏切りというよりも真実を知ったがために反旗を翻したという方が正しいだろう。このことを三成は知らない。この大局で心が揺らぐことを危惧した大谷が情報を遮断したのだ。
圧倒的な戦力の差に、もはや愕然とする気さえ起きない。それでも、官兵衛は逃げることも裏切ることもなく、西軍として戦場に立っていた。
「北条さんはあなたのことを心配してましたよ」
「ああ、あの爺さんは優しいからな」
何度かこちらへ来いと誘われていた。しかし、官兵衛が応と言うことは一度もなかった。
手をちらりと見る。正確には枷を見た。鍵がなければどのようなことをしても外れることのない呪われたものだ。鍵を持っているのは大谷だ。
だから西軍にいる。
裏切れば三成が恐ろしいから西軍にいる。
四国を攻め、家康と長曾我部の絆を絶ったがために西軍にいる。
そのどれもが浮かんでは消えた。
「……なんでかねぇ」
答えは出なかった。出す必要もないのだろうと思った。
腕を引き、鉄球を引き寄せる。目の前にいる彼女だけならば、何とか倒すこともできるだろうが、周りにはほとんど敵しかいない。生きて帰れるなどとは毛頭思っていない。それでも抗うことを止めることができない。そういう性分なのだろう。官兵衛は一人自嘲する。もっと上手く立ち回ることができれば天下を手に入れることができたかもしれない。
それも今となってはただの妄想だ。
「小生には夢がある」
「天下、ですか?」
首を縦に振る。
「だが、それだけじゃない」
鶴姫に見えるように腕を上げ、指を一本立てる。
「刑部の野郎の首根っこを引っ掴んで引きずりまわすことだろ。
三成の奴にざまあみろと言うことだろ。
毛利の鼻っ柱を圧し折って分踏んづけてやることもだな」
指が次々に立てられていく。鶴姫はその間、じっと官兵衛の話に耳を傾けていた。本当に愚かな女巫だ。
「天下は家康にくれてやることにしたんだ」
そう言うと同時に、鉄球を蹴り上げて鶴姫へと向ける。不意打ちに驚いた表情が官兵衛の眼に映った。それだけで十分だった。
官兵衛の行動が引き金となり、辺りにいた兵達が火縄銃や矢を放つ。いくら体を鍛えたところで耐えられるものではない。結局、鉄球は鶴姫には届かず、官兵衛はその場に倒れる。もう立ち上がることもできそうにない。
土を蹴る音がしたので、眼球だけを動かして音の方を見る。鶴姫が近づき、膝をついていた。
「……ま、一つの夢より。三つの、夢が叶う、方へ……行きたいから、な」
西軍が負けることはわかりきっていた。恐ろしい鬼が西軍を許さない。大谷も、三成も、毛利も死ぬだろう。そうしたら、官兵衛は三人に己の成すことを見せつけることもできなくなってしまう。なら先に逝って待っているのも一興だろう。遅かったな、と笑っている自分を想像して笑みを浮かべる。
案外、彼らは生き残るのかもしれないが、それならばもうからかわれることもないだろう。あの世とやらで、平穏に過ごすのも悪くないと思ってしまった。
満足げな官兵衛を鶴姫はじっと見ていた。その表情は何とも言えないものだ。眉をよせ、怒っているようにも見えるが、その瞳は憂いを帯びている。
「わかりますよ。あなたは熊です」
硬い枷が撫でられる。そこには神経など通っていないはずだが、心なしか鶴姫の温もりが伝わってくるような気がした。
「深い深い穴の中に暖かい木の葉や、食べ物を詰めて冬に備えているんですね。そして、冬になれば凍えている人に場所を分け与える」
この血生臭い戦場で、とうとう神の目も曇ったのだろう。官兵衛は自分のことを知っている。自分が知っている彼は、そんな優しい人間ではない。間抜けで、小賢しい。けっして誰かのために居場所を空けたりはしないだろう。
空けたとしても、それはきっとそうしたフリだ。笑顔で受け入れて、背後からざくり、と冬の食料にしてしまうのだ。そうに違いない。
こんな狂った戦場にきてしまったがために、目が曇ったのだ。もう今までのような日々を過ごすことは叶わないに決まっている。お前さんも不運だったな、と告げてやる前に意識は途切れた。不思議と、心地よい感覚だった。
「……わかり、ますよ」
鶴姫はそこから動けなくなった。
今までも死に逝く人々を目にしてきた。けれど、彼らについては何も視えなかった。なのに官兵衛のことは視えた。
優しい熊だった。傷ついた人々を放って東軍に下ることができないような人間だった。鶴姫の胸が痛む。怪我でもしたのかと、胸を抑えてみるが傷はない。痛みだけがじくじくと継続している。
近くにいた仲間に官兵衛の死体を運ぶように告げる。首を跳ねるのが正しいのだろうけれど、巫女である彼女にはそれができない。かといって、誰かに頼むのも気がひけた。とりあえず踏み荒らされないところに安置しておけば、家康がどうにかしてくれるだろうと考えたのだ。
鶴姫は戦場を進む。目的地があったわけではない。ただ、足を進めていった。
誰かを救いたかったのかもしれない。最期になって、その優しさを見せた熊のような人を見つけたかったのかもしれない。けれど、土埃と火薬の匂いは全てを隠してしまっている。不意に何かが耳に届いた。
「ぬしだけは……死なせぬ!」
声が聞こえてきた。兵達の声や銃声に紛れることなく、その声だけは真っ直ぐに鶴姫へと届いた。その声には聞き覚えがあった。いつだったか、鶴姫を西軍に率いれようとしていた軍師の声だ。以前のような甘い声ではない。底の見えない色ではない。
左右を見渡してみるが、彼の姿は見えない。だというのに、その心だけはハッキリと視えた。以前は嘘を嘘で固め、何も視えなかった彼の心がわかる。
助けたい。その思いだけが響く。悲しみに暮れ、傷ついた友人を救いたい。他を不幸にして彼を一番の幸せ者にしたい。救いたい。助けたい。生きて欲しい。それが叶うのならば、自分などいなくていい。
悲鳴にも似たその思いに鶴姫は目を覆う。始めての感覚だった。人の心が視える。それにより体が震える。心が引きつる。身を隠したくなる。
それは恐怖だった。美しい箱の中で育ってきた彼女にとって、始めての恐怖だった。始めての感覚に、鶴姫は意識を手放す。目が覚めたとき、全て夢であればいいとさえ願った。
目が覚めたとき、幸いにも全てが終わっていた。
「……家康さん」
「大丈夫か? 気分が悪いなら休んでいていいぞ」
そう言った家康の顔色の方が優れない。鶴姫にはハッキリと太陽が薄い雲に覆われているのが視えた。
「三成さん達の遺体はどうなったんですか」
「……外にあるぞ。だが、わざわざ見ずとも――」
家康の言葉を待たず、鶴姫は飛びだした。何故そのような行動をしたのかは、彼女自身わかっていない。それでも、己の心が叫ぶまま足を動かすことしかできなかった。意識を失う瞬間まで視えていたあの悲痛な思いはどうなったのだろうか。
足を進めていくと、地面に座りこんで揺れている女が見えた。
「お市ちゃん」
「どうしたの? 白い鳥さん」
彼女の前には遺体が並んでいた。官兵衛、毛利、大谷、三成。
鶴姫は市の隣に立ち、遺体を目に映す。大谷の思いは届かなかったのだろうと思うと、胸が痛んだ。その痛みの正体は未だにわからない。ただ、じくじくと疼くばかりだ。言葉を紡ぐこともわすれ、じっとしていると市が代わりに紡ぎだす。
「蝶々は、死ぬのが怖かったのよ」
市の目は大谷を映している。ゆらゆらと揺れながら市は言葉を続けていく。
「残して逝くのが怖いから。死にたくないって、叫んでいたわ。でも、闇色さんを生かすために死んじゃったのね。
それなのに、闇色さんも死んじゃった。可哀想。羨ましい。羨ましい。羨ましい」
鶴姫は大谷の心を思い出す。三成を救いたいという思いの中に、死にたくないという思いも確かに視えたような気がする。しかし、あくまでもそんな気がする。という程度なのだ。それほどまでに三成を思う色が強かった。
彼以外を不幸にしてでも、三成を幸せにしたかったのだ。それは正しいとは言えない、歪んだ愛情だったけれど、純粋で綺麗な感情だった。
「闇色さんはたくさん泣いていたわ。でも、闇色さんが悪いのよ。
闇色さんの周りには蝶々も熊もいたのに。一人だって、言うから。闇色さんは市と違って、たくさんの人がいたのに」
「純粋な人でした。透明で、どこまでも澄んでいて……」
だからこそ見えなくなってしまったのだろうか。透明なあまり、自分自身の心すら見失ったのだろうか。鶴姫はそっと三成に触れる。かすかに何かが視えた。
逝かないで欲しい。気づけなかった。すまない。謝罪したい。自分自身を殺したい。そんな罪悪感と憎しみがぐるぐると渦巻いている。自分を責めないでと思うのは、己の命を犠牲にしてでも三成を生かしたいという大谷の気持ちを知っているからだろうか。
「いなくならないと、気づけないのね」
それは三成だけではないだろう。大谷も三成が危機に瀕するまでは心を嘘で固めたままであったし、官兵衛も似たようなものだった。死ぬ間際になって、人は始めて己の心を偽ることなくさらけ出せるのだ。それは毛利も同じだった。
「わかりますよ。あなたは光を作りたかったんですね」
どこか安堵したような表情の毛利に語りかける。生きていたときはあれほどまでに辛辣な印象しか受けなかったというのに、死してからは穏やかだ。全ての重荷から解放されたとでもいうのだろうか。
「自分が光になれないことを知っていて、でも、周りに光を与えたくて。
そのためなら、どんなことでもできたんですね。自分に嘘をつくんじゃなくて、自分を騙すこともできたんですね」
ゆっくり休んでください。と残す。鶴姫は毛利がどのように生きたのかは知らない。ただ、いい噂を聞いてはいなかった。大谷も、三成も人ではないと言われていた。時に化け物と、時に凶王と呼ばれていた。
だというのに、ここに伏す遺体達はすべからく人間だった。
友を思い、国を思い、人を思う。彼らが人間でないはずがない。
死に逝く兵と同じ人間だった。
「鶴姫殿?」
家康の声が聞こえ、振り返る。
「……もっと、早く気がつくことはできなかったんでしょうか」
「え?」
鶴姫は自分の両目から水が零れるのを感じていた。
「三成さんが大切で、だから死にたくないって。
周りにいる人々がまだちゃんといるって。
気づけない二人のために傍にいてあげたかったんだって。
光のためにもっと周りを頼って良かったんだって。
どうして……死なないと気づけないんですか!」
彼らが気づけていれば、この戦いはなかっただろう。同じように死んでいった人々は救われただろう。彼らだって幸せになれただろう。笑っていられただろう。鶴姫は彼らが心の底から幸せそうに笑っている姿を見たことがない。
想像もできないのだ。それほどに彼らは深い闇にいた。その事実が、鶴姫の心を刺すのだ。深く、深く突き刺し、痛みを広げていく。
「悲しいのね。大丈夫、市がいるわ」
市がそっと立ちあがり、鶴姫の涙を拭う。
「悲しいってなんですか。私にはわかりません」
彼女にわかるのは、胸の中で広がっていく痛みだけだ。じくじくとした痛みが頭にまで広がっていた。始めての感覚をどう処理していいのかもわからない。
「姫御前、それはあなたには必要ありません。さぁ、皆さんと勝利を祝いましょう」
兵の一人が鶴姫の肩を抱いて囁く。そうなんですか? と、尋ね返す鶴姫に答えたのは家康だった。
「そんなことはないぞ!」
家康は鶴姫に近づき、その頭を優しく撫でる。兵は少し嫌そうな顔をした。彼からしてみれば、大切に育ててきた純粋無垢な巫女に、余計な感情を吹き込まれたくないのだろう。美しいものだけを知り、美しいものだけを見る。
しかし、世界は美しいものだけでできているわけではない。
「悲しみを知らなくていいはずなんてない。泣くことだって必要なことだ。
ワシは、悲しみに蓋をして、泣かないままだった男達を知っている」
そして、その男達の末路も知っている。もっとも、一人は家康自身がその末路を作り上げたのだけれども。
「だから泣いてくれ」
「うん。うん。市も知ってるわ。 様も、泣けない人だったの」
市が後ろから鶴姫を抱きしめる。
「これが、悲しい。なんですか?
胸がじくじくして、頭がガンガンして、ワーっと大声を出したくなるんです」
「ああ。そうだ。それが悲しいだ」
「なら、家康さんも悲しいんですか?」
涙をこぼしながら鶴姫が家康を映す。その目には何かが視えているのだろう。
「……まいったなぁ。ワシ自身が泣けない男だったみたいだ」
「姫御前。あなたには、あなたはそんな感情、知らなくていいのです。あなたは笑ってくだされば」
男が眉を下げている。綺麗なものだけを見せていないのならば、彼らは彼女をここに来させるべきではなかった。戦場など、汚いものしかないのだ。綺麗なものなど欠片もありはしない。彼女が何を言おうとも、海の上にひき止めるべきだったのだ。
ただ純粋だけを持っていた姫は強い目を得た。
「いいえ。私、わかったんです。これは、悲しみ……。私に、必要、な、もの……です」
とうとう鶴姫は嗚咽をもらしだした。
「白い鳥さん。たくさん泣いたら、また踊ってね」
「なあ鶴姫殿」
震えた声に視線をあわせれば、家康も涙を流していた。いつも太陽のような男が、人前で涙を零していたのだ。
「ワシも泣こう。だから鶴姫殿も泣いてやって欲しい」
家康にとって、三成は友だった。道を違えたところでその事実が変わることはなかった。彼を案じ、彼の幸せを願っていた。刑部も、官兵衛も毛利も知らぬ仲ではない。家康は全員の幸せを願っていた。それが叶うことはないだろうと思いながらも、願うだけならばと想い続けていた。
「きっと、ワシにだって気づけないことがたくさんある。死ぬときになってようやく気づくんだろう。
でも、だからといって三成達がしてきたこと全てが偽りだったわけじゃない。あいつらにも譲れないものがあったんだ」
涙に揺れる彼の言葉を聞こうと思うのに、鶴姫の悲しみはもう抑えることができなかった。
大声を上げ、生まれて始めて悲しみのために涙を流した。後ろから抱き締めている市も静かに涙を流している。
「誰が否定しても、あいつら自身が否定しても、あの生き様をワシは肯定してやりたい」
顔を俯け、歯を食いしばって涙を流した。大声で喚きたい気分ではあったが、流石にそれはできなかった。
三人分の涙が血塗られた戦場に染み込む。
了