大谷は三成を謀っていた。否、正確には長曾我部を謀っていたのだが、彼を友とした三成からしてみれば、それはどちらも同じことだった。
 長曾我部は己と友である家康を仲違いさせた大谷を許さなかった。自分の得物で大谷の腹を突き刺し、臓腑を傷つけ鮮血を撒き散らした。その姿を見ても、三成には悲しみなど湧き上がらなかった。あったのは後悔だ。
 あれほど裏切りを憎んだ自分が、裏切りに手を染めていた。それがどうしても許せなかった。いっそ殺せと願った。だが、心優しい長曾我部はそれをよしとしない。生きて欲しい。そして家康の天下を許して欲しいと告げた。己に罪を科せた三成はそれに頷いた。それが罰となるのであれば、受け入れるのが当然だ。
「ありがとうよ。三成」
「礼など言うな。私は罪を犯した。それだけだ」
 そんな会話を、家康は嬉しそうに聞いていた。そうして、次は毛利のもとへと向かう。四国を壊滅させたのは大谷だけではない。毛利の策でもあったのだ。大坂城を後にしながら家康は背中にある命を思わずにはいられなかった。
 家康は大谷のことをよく知っていた。人を恨み、世界を憎み、それでも三成だけは大切にしていた。本人はそれに気づいていないだろうし、意識して三成を気にかけることはなかった。
 長曾我部から最期の一撃を喰らったとき、大谷は薄い体から血を流しながら城を見ていた。三成を見ていた。残して逝くのは心残りだと。
 助けてやりたいと思わなかったわけではない。豊臣のもとにいたころはよく話もした。けれど、彼が長曾我部を陥れたのは事実であり、仇をどうするかは長曾我部が決めるべきことだった。例え、家康個人としては憎しみに囚われて欲しくないと願ったところで、長曾我部が大谷を許すとは思えない。三成も裏切った大谷を許さないだろう。家康は三成の感情が何より悲しかった。
 三成の世界が秀吉であったように、大谷の世界とは三成だ。彼が大谷を裏切り者として蔑むのであれば、あの世へ逃げてしまえたほうがよっぽど楽だろう。そんな悲しい選択をさせたのが大谷の世界だ。
「ワシは――」
 長曾我部の気持ちと、三成の命と、大谷の世界を守った。
 伏した大谷を見たときの三成の目を、大谷は知らないだろう。ゆえに、死した大谷の世界は崩れることなく、美しい形を保ったままだ。そうでも思わないと、家康は胸の苦しみから解放されないだろうと思った。
 三つを救った代償として命を一つ見捨てた。正しいのかと自分に問いかけてみても、答えは出ない。
「家康? どうしたんだ?」
「いや、何でもないよ」
 簡単に笑みを浮かべられる自分が嫌いになりそうだった。
 一度だけ、と思う。一度だけ振り返る。大谷はすでに遠い。その姿を確認することはできなかった。だが、闇が見えた。
「お市殿……?」
 誰にも聞こえぬほどの声で呟く。
 濃い闇をまとった市がいた。隣には大谷がいるのだろう。嫌な予感がした。恐ろしくもあった。
「置いて行っちまうぞー」
「すまない!」
 家康は選んだ。家康は見なかったことにした。彼女が現在、どのような状態かは噂で聞いていた。すべてを忘れ、現に存在しながらも現を忘れている。そんな女に何ができるというのだろうか。一人ではなにもできない。そう自分に言い聞かせるばかりであった。


 市は大谷の横に膝をつく。
「蝶々、どうしたの? 痛いの?」
 彼にはまだ息があった。だが、既に死人も同然だった。どうせならばトドメを刺してやったほうが幸せとも言える状態だ。痛みが継続し、死がじりじりと近づいてくるのがわかる恐怖。早く殺せと大谷は市を見る。その目はもはや何も映してはいないが、気配を頼りに視線を向ける。
 大谷は何も見ていなかったが、三成が己を許さないであろうことはわかっていた。近くに三成の気配を感じたとき、一度だけ憎悪にも似た感情を向け、すぐに視界から排除されたこともわかっていた。
 早くこんな世界から逃げてしまいたい。自分の中にある何かに気がつく前に、と願った。
 けれど、現に意識を置かない彼女は大谷の気持ちを汲み取らない。ただ愛おしそうに彼の頬に触れる。
 傾国美人の名を欲しいままにする彼女の手は美しい。白く、細く、昔は薙刀を持って戦っていたというのが信じられないほどか弱い。
「痛いのは嫌ね。心も痛いのね」
 暗い瞳は人の深淵を覗きこむ。
 人は他人の深淵を覗いたりしない。他人に自分の深淵を覗かれるのが怖いから。だが、市はそれを恐れない。だからこそ、簡単に人の心を見透かしてしまう。大谷はそれを今日ほど恐ろしいと思ったことはなかった。
 途切れ始める意識の中で、気づいてはいけないと悲鳴を上げる。
「闇色さんに捨てられちゃったのね。もう飛べないのね」
 違う、と叫ぼうとしたが、口から血が溢れただけだった。
 三成に何を思われようと、どうでもいいことのはずだった。憎まれようが疎まれようが、今までと変わらぬはずだった。心が痛むはずなどなく、生きていく意味を失うはずなどなかったはずだ。
「ねぇ、捨てられたのなら、市が貰ってもいいよね?」
 美しい笑みを浮かべる。
 大谷はその美しさを見ることは叶わなかったが、もはや何の感覚もないはずの体に悪寒が走ったのを感じた。
 体がふわりと浮く。いつも彼が使っていた力に似ているが、今回彼を浮かせたのは黒い手だった。それらは大谷をしっかりと抱えている。何が起こるのかまったく予想ができない。ただ死ぬのならばいい。けれど、違っていたら。
 そんなことをぼやけた頭で考え始めた。
「――う、あああ、あっ、ぐっあ」
 今まで上げることもできなかった呻き声。それが上がる。
 鋭い痛み、同時に体が修復されていく。臓腑が癒え、声が出る。戻り始めた視界で己の体を見ると、闇が傷口から体内へと侵入していた。空の布に何かが詰まっていく。同時に、頭の中に深い霧がかかりはじめる。己が己でなくなっていく。作りかえられていくのを感じた。
 何も考えられなくなる。このまま、己も市と同じように夢うつつの存在となるのか。そう思うと嘲笑が零れた。
「アァ、それも、よかろ」
 どうせ現に未練はない。
 次に目覚めたとき、どうなっているのかは大谷自身わからない。傀儡となっているか、昔と変わらぬか、ただの闇と成り果てるか。どちらでもよかった。今は痛みと疲れから逃げるように眠りにつきたかった。


 毛利を討ち果たし、天下は家康のものとなった。
 平和な世界で、三成は戦うこともなく生きた。元西軍の総大将ということもあって、一人で暮らすことは許されず、長曾我部のもとで暮らすこととなっていたが、そこでの暮らしは平穏で幸福とも言えるようなものだった。辛い仕打ちを受けても仕方ないと考える三成とは違い、長曾我部は彼を歓迎したのだ。
 彼は部下達にするように、三成に対して優しく接した。食事を促し、眠りを願った。時には三成の知恵をかり、四国の泰平を成す。そんな毎日を過ごしていた。
 穏やかな空気に馴染むように、三成も穏やかになっていった。家康と向かい合っても牙を向くことはなくなり、秀吉の墓へ向かっては謝罪と生きる許可を求めた。その時ばかりは辛そうな顔をしていたが、長曾我部は自分のしたことを正しいと思っていた。
 例え、西軍が家康を倒していたとしても、このように穏やかな三成は見ることができなかっただろう。
 二人の友を救えたことが、長曾我部の自慢だった。
「久しぶりだな長曾我部」
「おう。でも、天下人がほいほい江戸を空けちまっていいのかよ」
 遊びにきた家康を迎え入れる。天下人となった後も家康は変わらず、度々友人達の元を訪れていた。無論、仕事は仕事でこなしているそうなので、彼に厳しく言う者は少ない。
 城に足を踏み入れた家康が見たのは三成だった。目があうが笑みを浮かべることもなければ頭を下げることもない。だが、それは家康を嫌っているからではないということを、彼はよく知っていた。元々、三成は人付き合いが苦手だ。己が尊敬するべしと認めた相手以外には頭を下げない。
「今回はどうするんだ? ゆっくりできるのか?」
「うーん。ちょっと気になることがあってな。すぐに行くよ」
 残念そうな顔をする長曾我部を横目に、家康は三成の後姿を見た。廊下を歩くとき、三成は中央を歩かない。必ず左側を歩いた。長曾我部はそのことを気にしていなかった。武士は左側に刀を差すため、右側を空けることが多いからだ。
 けれど、本当の理由はそうでないと、家康は知っていた。
 右側を空けるのは、支えるためだ。足が弱く、ろくに歩くこともできぬはずなのに、己の矜持を保つためにも杖を使い歩いている友を守るためだ。その証拠に、三成は時折右側を気にしている。
 彼が大坂を離れ、帰ったときにはもう大谷はいなかった。誰かが死体を片付けたのかとも思ったが、誰も知らぬと答えた。当時の三成は大谷の所業に苛立っていた。そのため、探そうともしなかった。そのことが今になって傷となっているのだろう。
 死を受け入れられたとしても、いないということを受け入れるのには時間がかかる。実際の死体を見ていないともなれば、なおさらだ。
「何か問題でもあったのか? オレの力が必要なときはいつでも言えよ?」
「ああ、ありがとう。実はな、ちょっとそれを期待してたんだ」
「そりゃいい。オレの部屋にこいよ」
 立ち話もなんだろうと、長曾我部は自室へ家康を通す。
「で、何があった?」
「実はな……」
 家康曰く、大坂近くのとある山で第五天魔王がいるというのだ。かといって、誰かが殺されたわけではない。ただ、そこに第五天魔王がいるというのが民の恐怖となっているのだ。民の心を平穏に保つためにも、真偽を確かめなければならない。
 本当に彼女がいたのであれば、保護することも家康は考えている。あのような状態の市をいつまでも放っておくのはしのびない。
「そこでな、三成にも一緒にきて欲しいのだ」
「三成? 何でまた」
 戦いを危惧するのであれば、戦国最強の忠勝がいれば十分のはずだ。和解したとはいえ、かつて敵同士だった三成を指名する理由がわからない。
「大坂の者に頼まれたことだからな。三成も一緒に解決して欲しいのだ。
 それに、お市殿は西軍にいたからな。案外、三成の言葉には従ってくれるかもしれん」
 そういうことなら、と長曾我部は頷いた。
「オレも行きてぇけど、四国を留守にするわけには行かねぇんでな……」
「そうだな。元親はワシらを待っていてくれ」
「すまねぇな」
 かくして、二人は第五天魔王が現れるという山へと向かった。民の言葉を信じるのであれば、彼女は夜更けに現れるらしく、日がある間はけっして現れないという。二人は松明を持ち、山を歩く。鬱蒼と茂る木々は月の光をも隠してしまっている。
 多少人の手が入っているので、歩きやすくはあった。しかし闇の中では木の根に足を取られることも多い。二人ははぐれぬように気を配りながら歩いた。
「うーん。見つからんな」
「この山がどれだけ広いと思っている。二人で見つけられるかわからん」
 棘のある言葉を投げてくるのは三成だ。
 市を探し、保護するのであれば人手を増やすに越したことはないはずだ。足軽程度では殺されてしまうかもしれん、と家康は言ったが、そうであるならば周辺の民達などすでに燼滅しているであろう。
「お市殿は不安定だ。そっとしておく分にはいいが、こちらから手を伸ばせば何をするかわからん」
 三成に己の得物を持って行くように告げたのもそのためだ。
「目撃した人が多いから、すぐに現れると思ったんだけどなぁ」
 山に入ってすでに一刻は経過している。夜の静けさばかりが耳に入り、人の気配など微塵も感じない。
「――主ら、何しに来やった?」
 不意に、男の声がした。
 声はしたが、人の気配はない。二人は互いに背中をあわせ、神経を集中させる。
「やれ、そう警戒するでない。我は主らと戦おうなどとは思っておらぬゆえ」
 地面から闇が湧き上がる。闇は三成の目の前に噴出し、中から男が現れた。
 二本の足でしっかりと地面を踏みしめ、その姿を見せる。体中に包帯が巻かれ、かろうじて晒されている瞳は白と黒が反転した奇妙なものであった。
 異形とも呼べるその姿を二人は知っている。
「主らは何を探していやる?」
 冷たい瞳が二人を射抜いた。それは敵に対するものだ。今まで山に踏み入ってきた者達とは違い、家康達は確かな目的があってここを訪れたことを理解しているのだろう。問いかけには棘があり、気の弱い者ならば腰を抜かすのではないかとも思える。
「……刑部」
 けれど、二人からしてみればそれどころではなかった。
 何せ目の前に現れた男は、死んだと思っていた男だ。以前は足が不自由で、輿に乗っていたはずだが今では自前の足で立っている。
「早に答えよ。次第によっては主らを始末する」
「刑部!」
 三成が吼えた。
 返されたのは忌々しげな瞳だ。
「なんぞ。騒がしい」
 冷たい言葉に三成は目を見開き、一歩退く。
 今まで、三成に対して大谷があのような声を出したことはなかった。怒っては見せても優しさを含んだ声と瞳を向けていた。だというのに、今のそれらは敵に対するものだ。信じられない。という言葉が浮かんだ。
「貴様っ……! また私を謀るのか!」
 心の内で消えかかっていた炎が燃え上がる。
「蝶々……? どうしたの?」
 そこに響いたのは弱々しい女の声だった。
「第五天。ここへきてはならぬと言ったはずよ」
「うん、うん。ごめんなさい。市、悪い子?」
 大谷は市の元へ駆け寄り、その体を抱き締める。力ない市はされるがままだ。けれど、その表情はどこか嬉しそうでもあった。
「否。主は良い子よ。されど、ここは危険よ。キケン。早に去りやれ」
 子供を諭すように、以前三成にしていたように。優しい口調で語りかける。
「お市殿!」
 次に声を出したのは家康だった。
 呼ばれた市は素直に家康を見る。
「ワシと一緒に来ないか? そのために来たんだ」
 微笑かけ、手を差し伸べる。けれど、市はゆるりと首を横に振った。
「市、蝶々とここにいるの」
 大谷の着物をぎゅっと握る。そうされるのが嬉しいのか、大谷の顔も綻んだ。
 気に喰わないと感じたのは三成だ。その位置は自分の物であった。彼の優しげな笑みは三成だけの物であったはずなのだ。
「貴様! 刑部に何をした!」
 刀に手をかけて叫ぶ。苛立ちのままにそれを抜こうとしたとき、見知った数珠が三成の眼前に飛ばされる。
「……主、第五天に何をしやるつもりだ」
 三成は息を呑んだ。
 声も、瞳も、仕草も、どれも今まで三成に向けられていたものではない。
「刑部、どうしたんだ?」
 声を失くした三成に代わり家康が尋ねる。
 家康も驚いてはいた。あの大谷が三成に敵対心を抱いているのだ。家康が豊臣にいたころは、まるで親子のような様子を見せていたというのに、今の状況はなんだ。
「先ほどから刑部、と呼んでいるが、それは我のことか?」
 手を顎に当てて尋ね返す。
 大谷には記憶がなかった。目が覚めたときにいた女が第五天である。と、いうことはぼんやりとわかったが、それ以外は何もわからなかった。
「貴様、本当に忘れたというのか。私を裏切ったことも、全てっ!」
 苛烈な三成の殺気に大谷は目を細める。
 記憶はないが、彼が自分に対して強い怒りを持っていることは間違いないようだ。殺されることに恐怖はないが、今斬りかかられでもすれば、腕の中にいる市が巻き添えをくってしまうだろう。それだけは避けねばならぬと判断する。
 抱き締められていた力が緩まり、市は不安げに大谷を見上げる。彼女の頭を優しく撫で、闇の手に彼女を預ける。
「そうよ。我はなぁにも覚えておらぬ。
 この身の半分以上は第五天の闇によって作られたものよ。故に生身であったころの記憶など消えうせたのであろ」
 自虐的に笑う姿は以前と代わりない。
「だが、主が我を嫌うというなればそれも良かろう。この醜い体も生きているときの業かと思えば納得もできる。
 しかしな。第五天を傷つけることはまかりならん」
 殺すのならば、自分だけを殺せという。
「違うんだ。ワシらはそんなつもりでここへ来たわけじゃない!」
 険悪な空気を打破するために叫ぶが、大谷の目は疑わしげに光るだけで家康の言葉を信じようとしない。三成の方は家康の言葉なんぞ聞こえていないのか、大谷を睨みつけるばかりだ。
「ワシはここ周辺の民から第五天が恐ろしいと言われてきたんだ。あ、でも倒しにきたんじゃないぞ。
 江戸で保護したいと思ってきたんだ。こんな山の中にいるよりも、ずっといい生活だ。暖かな布団も湯も食事も用意しよう。不自由はさせない。酷い目にあわせるなんてことは絶対にしない。約束しよう」
 言葉を挟ませぬようにまくし立てる。言葉に嘘はないが、大谷がそれを丸々信じるとは思っていない。彼自身が嘘吐きであるからか、大谷は人を信じるということがない男だった。唯一の例外が三成であったのは当然のこととして。
「嫌。嫌よ。だって、市は蝶々と一緒がいいもの」
 市が大谷に縋りつく。それを見た彼は仕方がないというような表情を浮かべてから、市の腰に手を回した。離れさせたとしても、すぐにまた縋りついてくることは目に見えていたからだ。
「お市殿、刑部も一緒にきてもらえばいいじゃないか」
「駄目よ。だって、光色さんも闇色さんも、蝶々を捨てたもの。だから蝶々は市のもの。ようやく市のものになったのよ。
 誰にもあげない。触らせてあげない」
 強く大谷の着物を握った指は細い。それを見ると大谷は悲しくなってしまった。ここでは大したものを食べさせることができない。今はよくとも冬は越せないだろう。彼女が死んでしまうことは何よりも辛いことだった。
「離れろ!」
「どうして。どうして、そんな意地悪を言うの?
 もういらないんでしょ? 捨てたのは闇色さんなのに」
 零れる涙を大谷が拭う。彼女を泣かせた三成を睨みつけておくことも忘れない。
「……光色とやら」
「家康、と呼んでくれ。徳川でもいいけどな」
「徳川」
 迷わず徳川と呼ぶあたり、根本は以前の大谷なのだろうと家康は苦笑した。
「先ほど言ったこと。真か」
「ああ」
 大谷は市の頭を撫でる。どうするべきかと、少し悩んだ後に口を開いた。
「第五天。我と共に、江戸へ行ってはくれぬか」
「蝶々?」
「我は主に生きて欲しい。向こうへ行けば、徳川が主を生かしてくれる」
「市、蝶々がいればいいわ」
「我もよ。しかし、我は生きた主が良い」
「光色さんと一緒に行けば、蝶々嬉しい?」
「嬉しい。真に嬉しい」
「……なら、行くわ。市、蝶々のこと好きだもの」
「嬉や嬉や」
 独特の笑い声を上げる。
 ほっとした家康と違い、三成の心の中は様々な感情がごちゃ混ぜになっていた。

 ――私が刑部を捨てた。刑部は私を裏切った。だが、刑部はずっと傍にいてくれた。私のために戦ってくれていた。もういないと、会うことはないと思っていた。墓を訪れることもできぬ。と、けれど今、生きている。刑部は目の前にいる。愛しい貴様が。だが、アレは違う。私の知っている刑部ではない。だが、笑っている顔も、声も、すべて刑部だ。何故だ刑部。貴様は私にだけ、その顔を見せていたではないか。私にだけ、その言葉を吐いてくれていたのではないのか。貴様は家康のもとへ行くのか。それは裏切りだ。いや、もう奴とは和解した。だから裏切りではないのか。だが、やはり、裏切りだ。何故その人形と共にいく。貴様は私の傍にいてくれるのではないのか。私のために、といつも言っていただろう。私は貴様を愛していたのに。そうだ。私と共に四国へくるのだ。長曾我部は嫌がるだろうか。再び刑部に手をかけるだろうか。それは仕方のないことだ。刑部は裏切ったのだから。でも、それでも次は庇おう。貴様と一緒にいたい。長曾我部が貴様を殺すなら、私も共に殺してもらえるように懇願しよう。愛しているのだからそのくらいはしてみせる。こちらを向け。何故第五天を見る。何故そいつのために動く。貴様は私のもとにいるべきだ。ああ、そういえば足は大丈夫か。貴様はいつも一人で歩いていた。私が手を貸したかったことに気づいていただろ? 私は貴様を好いていた。醜い体だと貴様自身が蔑んでも、私は貴様が好きだった。共にいたかった。だが、裏切った。アレはなんだ。裏切り。裏切りだったのか。貴様はいつも私のために、だから、アレは、裏切り。わからない。わからない。わからない。私が貴様を捨てたのか。私が貴様を裏切ったのか。ならば報いは、罰はどこだ。ああ、これか。今がそれなのか!――

「ぎょ、うぶ」
 か弱い呼び声に、大谷が三成を見る。
 三成の目に光はなく、縋りつくものを探す子供のようだった。
「すまぬな、闇色とやら。我は第五天で手がいっぱいよ。いっぱい」
 せめて、「三成」と呼んでくれ。とは言えなかった。