三成は目を開けた。閉じた覚えはなかったのだが、目蓋を押し上げることによって、暗闇でしかなかった視界がものを映したのだから、気づかぬうちに閉じてしまっていたのだろう。昔から気絶するように眠るということは何度もあったので、特に気にもしない。
ただ、今までならば目を開けたときに見えるのは畳のある室内であった。
「……ここはどこだ」
そう呟き、辺りを見回す。
どこか靄がかかった薄暗い世界が広がっている。足元には大小様々な石が転がり、肌寒い風が三成の体を撫でる。少なくとも室内ではないようだ。
己が裸足であることは気にならなかったが、刀が手元にないことが彼の感情を逆撫でる。武器が無ければ何もできないほど、弱い自分であるつもりはない。けれど、体の一部でもある刀がないというのは落ち着かない。
苛立ちを隠すことなく、三成は足を踏み出す。尖った石が彼の足を傷つけたが、その程度の痛みを気にするような男ではない。
知っている場所に出るか、人に会うか。どちらかを成さねばならない。三成はひたすらに歩いた。だが、不思議なほどに人の気配を感じない。それどころか、生き物の気配すら感じないのだ。
風は吹くが木々の音はせず、石を踏む音はするが他の者が作る音は聞こえない。
「一人、か」
口にした途端、その現実は三成から力を奪う。
彼は真に一人であったことがなかった。かつては主君がいた。主君が鬼籍に入った後は仇と友がいた。もっとも、その友は三成を裏切り、一人で死んでいったのだが。
「くそっ!」
三成は舌打ちをする。思い出したくもない男のことを考えてしまった。かつて、友と呼んだ男のことだ。彼ならば、現状をどう打破するのか。彼がいたのならば、すぐにでも己のもとへ駆けつけてくるだろう。と、思ってしまった。
裏切られたはずなのに、そこには確かな信頼があった。未だに己の心に残っている男の陰が怒りをかきたてる。
くすぶる思いを吐き出すべく、足元の石を蹴り上げる。無機質な音が辺りに響くが、ただそれだけだ。やはり他の音は何も聞こえない。
瞬きの間立ちつくした後、三成は再び足を進めた。この道がどこまで続いているかなどわかるはずもない。けれど、気を触れさすことも絶望の淵に陥ることもない。彼は、その二つを乗り越えて生きてきたのだ。
歩いて、歩いて、歩いて。三成が歩いた道が、彼の足から流れた血で赤い道となった。
「三成君」
柔らかな声に三成は足を止める。同時に、彼の心臓は大きく鳴った。
その声を知っているのだ。ただ、それはもう二度と聞くことができないものだと思っていた。
「何をしているのだ?」
雄雄しい声も聞こえた。三成は目を見開き、声の主を探すべく視線を彷徨わせる。
薄らとかかった靄が忌々しく、望む御方々を見つけられぬ自分を恥じた。
彼の口は声の主達の名を紡がない。目で見て、確認しなければ、呼ぶことができなかった。目に映すことができなければ、また、己の知らぬところで消えてしまうような気がした。
「キミはまだ、ここに来るべき人間じゃないでしょ?」
「……は、ん兵衛、様」
緩慢に口が名を紡ぐ。
靄の中から現れた麗しい男は、生前と変わらぬ笑みをその顔に浮かべている。
「見れば血も出ているようだ。うっかり迷い込みでもしたか」
賢人の隣にいる覇王を目に映し、三成は素早く頭を垂れた。
心臓が歓喜に鳴り響く。眼には感涙が溜まる。
「秀吉様! 半兵衛様!
私は、私は……」
仇を討てなかったことを謝罪しなければならない。豊臣軍を維持できなかったことを謝罪しなければならない。生きる許可を得なければいけない。
けれど、そのどれも三成は口にすることができなかった。声はただただ振るえ、目からは涙が溢れ、視界すら危うい。
「三成よ」
秀吉の大きな手のひらが、三成の頭を撫でる。
「我は知っている。お前がどれほど尽力をつくしたか」
「うん。だから、キミはキミの生きる道を歩けばいい」
全てが報われるような言葉と共に、半兵衛の華奢な手が三成の肩に置かれる。
二人からは生きる者の気配がしなかった。手からは温もりを感じることができない。
だというのに、三成は確かに二人の温もりを感じた。それは、体温ではない。家康が言うところの絆の温もりなのだろう。三成は心地良い暖かさに、そっと目を閉じる。永久にこの温もりの中でいられたならば、どれほど幸せなのだろうか。
「ボク達はまだしばらくここにいるから、キミはゆっくりとおいで」
「生きることを約束したのだろ?」
二人の手が三成から離れる。
三成が顔を上げると、穏やかな顔をした二人が見える。かつて、大坂で度々見ることのあった表情だ。
「はい。
秀吉様。私に、生きる許可を!」
「うむ。生きよ三成! その命が尽きるその時まで!」
「はい!」
心に光が差した。
生きる希望ができた。
三成は久々に笑みを浮かべた。主君がいなくなってからは浮かべることも、思い浮かびもしなかった表情だ。
「ふふ。三成君、あちらを目指すといいよ。
キミはまだ生きた体を持ってるから、きっと道を見つけることができる」
半兵衛が指差す方向へ目を向ける。
靄があるため、向こう側に何があるのかはわからない。だが、彼の言葉を疑うことなど三成にできるはずがない。
「ただね、鬼には気をつけるんだよ」
「鬼、ですか」
現実には見たことがない。三成はとっさに刀を取ろうとして、そこに何もないことを思い出す。
「彼らは生者を引きこむことに躊躇いを覚えないからね」
「見つかったときはお前の足で撒いてしまえ」
「わかりました」
逃げるということは好ましくないことではある。けれど主君の命であるならばそれに従う。秀吉が己の足を信ずるのならば、それに応えるのが三成だ。
二つ返事で秀吉の言葉を受け入れる。
「我らは生き抜いたお前を待つ」
力強く頷き、三成は足を踏み出した。
名残惜しくはあったが、振り返ることはしない。次に秀吉と半兵衛の姿を見るのは、立派に生き抜いた後だ。それができるほどの心の強さを二人には見て欲しかった。無様な姿を彼らにだけは晒したくない。
拳を固く握り、真っ直ぐに歩く。微塵の疑いも不安もそこにはない。三成の目には靄のかかった世界さえ輝いて見える心地だ。
――パチン、パチン。
しばらくして、三成の耳が音を捉えた。己の足音とは違う音だ。
彼が向かう方角から聞こえてくる音に、自然と体に力が入る。
鬼であるならば逃げなければならない。それが秀吉から下された命だ。
徐々に大きくなってくる音に、三成は目を細める。先に姿を見つけることができれば、対策の仕様もあるというものだ。
足音を立てぬように歩く。そうしているうちに、彼の目は人らしき影を見た。鬼とは違って見えるが、案外、鬼というものは人に違い形をしているかもしれない。こんなことならば、半兵衛に鬼の容姿を聞いておくべきだったと己の無能を悔やむ。
過去を悔やんだところでしかたがない。三成はいつでも走りだせるように体勢を整える。影が人であるならば、遠回りをする必要もない。半兵衛が真っ直ぐと言ったのだから、極力道を違えたくないと思う。
じりじりと進んでいた三成は、人影を正しく映した。
「……貴様」
そこにいたのは見覚えのある人物だ。けれど、見たいとも思わぬ人物でもあった。
「鉄砲玉か。貴様、このようなところで何をしている」
戦装束ではないが、冷たさしか感じることのできぬ面は、毛利元就その人のものでしかありえない。
「ここへきた理由は知らん。私は今から帰るところだ」
「ならば、さっさと行くがよい」
毛利は三成を見ようともせず、白い布を被ったモノと碁を打つことだけに集中している。先ほどから聞こえていた音は、彼らが石を置く音だったようだ。
白い布を被ったモノは石を置くときにのみその体の一部を見せる。
枯れ枝とでも言われた方が納得がいく手が石を碁盤に置く。そのモノの腕は赤黒く、とてもではないが人間のそれには見えないのだ。さらに、その腕はいたるところにヒビが入っており、そこからは薄黒い何かが漏れている。
見るからに禍々しいそのモノは、あの世に住まう悪鬼のようにも思える。
「貴様のような咎人が、何故秀吉様や半兵衛様と同じ世界にいる」
「知らぬわ。仏から見れば我らなど等しく罪を背負っているのか、あるいは背負うだけの罪もなかったのか」
黒石が置かれ、白石が取られる。
「御二方に罪などあるはずがない」
「そう思うのならば、そう思っていればよい」
三成は歯を鳴らす。
毛利のことは生きているときから気に喰わないと思っていた。何を考えているかわからず、なすことは嘘と裏切りの謀ばかり。友と思っていた男と共に、家康を騙り元親を裏切ったことは何よりも許せぬ所業だ。
ここがあの世でなければ、間違いなく切っていた。否、今でも刀さえあれば切っていただろう。
いつまでも毛利の隣にいたところでしかたがない。そう思い三成は先に進もうとした。けれど、碁盤が目に入り、その足が止まる。
白と黒は複雑な形をし、どちらが劣勢とも優勢とも取れぬものだった。得意とまではいかないが、三成にも多少の嗜みはある。白い布を被ったモノが、毛利と同等の知略を持って石を置いていることはすぐに気づいた。
「毛利、貴様はナニと打っている」
どうせもう会うことがない男だ。わずかに引かれた興味について、三成は真っ直ぐ尋ねた。
何せ、毛利だ。謀神と呼ばれた男と対等に戦えるモノなど想像もつかない。あの世に住まうモノというのは、力ばかりで脳のない化け物だと認識していた。
「あの世のモノというのは、案外頭が回るのか」
続けて疑問を口にし、毛利を見る。
毛利は珍しくも少しばかり目を丸くしていた。
能面のような男が、わずかでも感情を浮かべたのに三成も驚く。元親と対峙したときは感情を荒げたらしいと家康から聞いていたが、己の目でそれを見るのは始めてだった。
「貴様にすら、モノと呼ばれるとはな」
ようやく口を開いたかと思うと、毛利は笑い声を言葉の端に乗せていた。
純粋な笑いではない。他者を嘲る色を含んだ嗤いだ。
「何?」
「知りたいのであれば、その布を取ればよい。
我と碁を打つ者の正体がわかるであろ」
そう言って、毛利は新しく石を置いた。そして呟くように、我でもあまり見たいものではないがな。と、零した。
「もの」という語が自身と毛利とではわずかに違うことはわかったが、それを気にすることなく三成は白い布を引く。
何の抵抗もなく布は地面へと落ち、その中にいた「もの」が姿を現す。
「――ぎょうぶ」
目を見開き、布の下から現れた「もの」を見つめる。
それは顔が欠けていた。右側の頭から鼻にかけてが消えている。血は流れておらず、本来ならば、脳や骨があるはずの場所は黒い淀みが溜まっているだけだ。見れば、片腕も無いらしく、着物が不自然なへこみを見せている。確認はできないが、足もないだろうと三成は直感的に知った。
かろうじて残っている部分は、先ほど見えていた腕と同じく、赤黒く爛れ、引き攣れ、淀みが傷口のようなところから漏れている。三成は包帯を巻きはじめたころから大谷の肌を見たことはなかったが、もしかするとずっとこんな状態だったのかもしれない。
残った片目が白黒反転していなければ、三成はその「もの」を大谷として認識することもできなかっただろう。
「貴様が大谷をモノと言うのならば、そやつは真にモノになったのだろうな」
三成が大谷を人として扱った最後の者だった。その三成が大谷を人としないのならば、それは大谷が人でなくなったのと同意義だ。
大谷は光を宿さぬ目で碁盤を眺め、石を置いていく。
「刑部。何故、私を見ない」
「無駄よ。そやつはもう言葉を発せぬ。己で動くこともしなければ、思考することもせん。
唯一、こうして反射のように碁を打つだけの存在よ」
何故、と再び三成は呟く。
毛利も秀吉や半兵衛も、皆死した者とはいえ、ここでは生前と同じ姿を保っていた。
ならば、何故大谷だけがこのような姿になっているのか。毛利を越えるほどの罪を大谷は背負っていたというのか。
「業よ」
「……業、だと」
呆然とした目を毛利に向ける。
すでに毛利はいつもの無表情を取り戻し、碁盤を見据えていた。
「巫山戯るな……。前世の罪が何故、黄泉でも引きずられる!」
大谷が生きていたころ、周りは彼の前世での業が病を引き起こしたと口を弾ませていた。三成はそれが腹立たしくあった。前世が何だというのだ。大谷は今、豊臣に仕え、その知能を遺憾なく発揮している。それだけが三成にとっての真実だった。
「否。それは、大谷が戦国乱世で培った業よ」
また新たな石が碁盤に置かれる。
「奴が使っていた不可思議な術。アレは魂を削ることによって成し得るものだと鬼らが言っておった。
そして、肉体と違い、魂は欠ければ修復することが困難だとも言っていた」
三成は大谷が使っていた術を思い出す。
彼は輿を浮かし、大きさや数が変わる数珠を使っていた。それを疑問に思ったことはあるが、大谷に聞いてもはぐらかされるばかりだったので、言及したことはない。
「故に、大谷はここで朽ちる」
欠けた魂は生まれ変わることができないのだと言う。
徐々に体という名の魂が崩れ、消滅するだけだ。
「貴様も悪いのだぞ」
恨んでいたはずの男が朽ちると聞き、何故か空漠を感じていた三成は毛利の声に首を傾げる。
「魂を修復するために必要な「心」を、そやつは捨てよったのだ」
大谷は生きることを、生まれ変わることを放棄した。
「貴様に疎まれるならば、生きたくないとな」
石の音が聞こえる。
心臓の音が聞こえる。
三成は大谷を見た。大谷は碁盤から目を離さない。
「我は言ったのだ。貴様のような扱いにくい駒は変えよと。だというのに大谷はそれを聞きれようとしなかった。
己を偽り続けることができなければ、最後に嘆くことになるとも忠告した。
長曾我部が向かった故、安芸へこいとも言った。だが、大谷はこなかった。貴様を真に裏切ることなどできぬと」
「私は!」
「大谷は我がこちらへ来たばかりの頃、貴様の名だけを呟いていた」
パチン。
静寂が立ちこめる。
三成は唇を噛む。知っていた。大谷がどれほど己のことを気にかけてくれているか。知らぬはずがなかった。ただ、気づかぬふりをしていただけだ。
裏切りも、死も、許容しきれなかった。だから、憎しみで感情を上書きした。
「ぎょう――」
残った片手に手を重ねようとした。
その時だ。背後から殺気を感じた。
「鬼ぞ」
「鬼だと!」
振り返るよりも早く横に避ける。
先ほどまで三成がいた部分は金棒によって見るも無残な姿にされている。
「このような時に……」
歯を鳴らし、どうするべきか考える。
逃げるか応戦するか。
普通に考えれば逃げるべきだ。三成には武器がない。第一、秀吉や半兵衛からも逃げるようにと言われている。
ならば何故迷うのか。それはそこに大谷がいるからだ。
まだ謝っていない。感謝を述べることさえしていない。たとえ声が届いていないとしても、それらを告げたかった。
「石田よ。さっさと立ち去るがよいわ」
毛利は鬼が金棒を振り回しているのも気にせず、先ほどと同じ態勢で石を置く。
「私、は……」
迷いが足を鈍らせる。
気づいたときには、三成の足は鬼に捕らえられていた。
逆さ吊りにされ、不甲斐ない自分を責める。何もできず、ここで亡者となる己を厭う。
だが、心の端でそれもいいかもしれないと思ってしまう。現へ帰らず、ここに留まることができたのならば、秀吉や半兵衛、大谷とも共にあることができる。生ききることができなかったことは、腹を切って詫びねばならないとも思ったが。
鬼が三成を地面に叩きつけようと、腕を振り上げる。この世界でも痛みはあるのだとうかと、三成はぼんやりと考えた。
「ギャッ!」
だが、その腕は三成を叩きつける前に彼を手放した。
大した傷もなく地面に着地した三成は、何が起こったのかと鬼を見る。同時に、己の体が何かに引っ張られるのを感じた。
「刑部!」
手を伸ばす。
鬼はその目や腕に碁石を叩きつけられていた。自由自在に動き、鋭さを持って動くその様子は、大谷が使っていた数珠を思い出させる。それを確認したくて、必死に手を伸ばすが、三成の体は暖かい何かに引きずられ、大谷から引き離される。
「刑部! 私は、私は!」
わずかに見えた大谷は、碁盤ではなく鬼を見据えていた。
「私は貴様に!」
体が消えていくのを三成は感じた。これで現に戻ることができることは本能的にわかっていた。だが、今はそれを望んでいない。
全てが消える直前、三成は大谷がこちらを向いたのを確認した。彼は三成の姿を目に映すと、わずかに微笑んだ。同時に、大谷の片腕は崩れ、顔の右側が完全に崩れたのを三成は目に焼き付けてしまった。
嘆きの声を上げる間もなく三成は消え、そこには静かな空間だけが残った。
「ふん。貴様は相変わらず愚かな男だ」
毛利は散らばった碁石を集める。鬼は生者である三成が消えてしまったことだけを確認すると、大谷に罰を与えるわけでもなく立ち去って行く。
「それほどまでに、あの駒が好ましいか」
碁盤に先ほど通りに石を並べていく。寸分違わず置く自信が毛利にはある。
「貴様からぞ」
そう言って、毛利は大谷を見た。
「……そうか。腕が無かったのであったな」
両手が無くなってしまっては碁石が持てない。
毛利はこの退屈な世界で唯一の楽しみが失われたことに、舌打ちをする。
「枝でも探すか。まだ口は使えるであろ。枝で置く場所を指し示すがよいわ」
そう言って、石だらけのこの世界で小枝でも見つからないかと歩きだした。
大谷はその場で座ったままだった。例え、毛利が戻ってこずとも、大谷はそこに留まり続けるだろう。半分になった顔に、わずかな笑みを浮かべながら。
了