ルカが成り行きから旅を始め、何だかんだと世界の秘密に触れ、それでも何とか自宅へ戻ってから、早一ヶ月が経とうとしていた。
 旅をした期間自体はそう長いものではなかったのだけれど、彼の旅はこの世界に大きな影響を及ぼした。
 ベーロンという神を一人の父に変える。それは、世界を根本から変革してしまうのと殆ど同じことだった。
 だが、それを知る者は少ない。ルカと共に旅をした者達、彼の親族、世界を構築していた者達、そして、この世界が生み出された理由にあたるベーロンの娘、マルレイン。その他の者達は何も知らず、また、知らされず、変わった世界をそうと認識することなく日常を過ごしていく。
 わずかな変化を含んだままに。
「聞いて、聞いて! 私、この間、マドリルまで行ってきたの!」
「すっげー! どうだった?」
「歯車がいーっぱいあったわ。
 私、歯車って始めてみたけど、すっごく可愛いの!」
 想像よりもずっと狭かった世界。そのほぼ端、小さな田舎町であるテネルでこのような会話が繰り広げられるなど、世界が変わる前ならばありえないことだった。
 何せ、人々は「分類」などというものに縛られ、自発的に行動し、考えるということが許されていなかったのだ。以前からそれをしていた、という者がいたとしても、それは「分類」による仮初にすぎない。
「オレも行ってみようかな……」
 「分類」から解き放たれた人々は、真に自らの意思を持って動き、他者へ影響を与えていく。あまりにも狭かった個人の世界が開かれていく音があちらこちらから聞こえてくる。
 無論、変革というのは良いことばかりではない。何事にも良い面と悪い面というものが存在している。
「でも気をつけないとだめよ。
 私も護衛の人と一緒に行ったもの」
 つい先日までは存在していた、個人の特性を示す指標がなくなってしまった。それは即ち、隣人が悪人なのか善人なのかを判断する術が失われた、ということだ。
 また、誰もが悪人へ転じる危険性が生み出された、ということでもある。
 人の良し悪しを記した「分類表」が失われた今、人々が町と町の間を行き来する際に警戒しなければならないのはオバケだけではなくなってしまったのだ。
 しかし、それは憂う必要があるほどのものではないことも、また事実。
「大丈夫だって。オレ、剣には自信があるんだぜ!」
 高名な学者であるキスリングは仲間達へ次のように語った。
 急激な変化は世界全体に軋轢を生み、いずれ世界そのものを壊してしまうだろう。故に、世界は己を守るために、非常に緩やかに在り方を変えていく。誰も気づかず、また、誰も違和感を覚えない。そんな速度で。幸い、元より安全重視に作られたであろうこの世界の人間達は皆気性が穏やかだ。少なくとも、我々が生きている間に、目も当てられぬような世界に様変わりすることはないだろう、と。ただし、それは世界が完全に「分類」から解き放たれた姿を見ることができない、と同意義でもある。ルカ達はともかくとして、世界の謎を解明したがっているキスリングやエプロスからしてみれば、少々口惜しいものでもあったりする。
 ルカは穏やかな町を眺め、そこで世界のわずかな変化を目の当たりにする度、キスリングの言葉は正しかったのだろう、と思う。
 今も世界は穏やかで、人々が怯えるようなことがあるとすれば、時折、悪さをするオバケがいるくらいのもの。盗賊、と呼ばれる人間もいるが、元勇者達が精々力をふるってくれているので大問題にまでは発展していない。
 「分類」によって役割を与えられただけで、本来の気性にあっていない者達は次々に勇者、という肩書きを放り投げてしまってはいるが、その逆もしかり。最終的に落ち着いた数値だけを比べてみれば、勇者の人数はほぼ同数となっている、
「子分、何をしているのだ」
 ぼぅ、っと町を見ていたルカに声がかかる。彼よりも数歩先にいる長身の男から発せられた声だ。
「あ、ごめんね」
 慌てた様子も見せず、ルカは小さく笑ってからその男に近づいた。
「貴様の用事に余が付き合ってやっておるのだぞ。
 さっさとせんか」
「だからごめん、ってば」
 苦笑いを向けてルカが謝れば、左の方向から別の声が飛んでくる。男の低い声ではない。高くも可愛らしい女のものだ。
「うるさいぞヘッポコ魔王。
 ルカをいじめるでない」
「何だと!」
「第一、ルカは七割わらわのモノじゃ!」
「いつまでそーんな話を引きずっておるのだ!
 そんなものは無効に決まっておるだろ!」
「あの、喧嘩は……」
 道のど真ん中で始まった喧嘩に、ある者はまたか、と苦笑いを浮かべ、またある者は野次馬根性丸出しで三人の様子を眺めている。始めこそ周囲も止めようとしてくれたり、ルカも旅の前半を思って懐かしんだりしていたが、これが殆ど毎日続けば諦めという言葉も出てくる。
「お前に最早ルカの影は必要ないであろう!」
「ルカは余の子分だぞ! 共に世界征服を果たすのだ!」
「ねぇ、二人とも……」
 勝手な話が二人の間でどんどん膨らんでいく。所有権を巡った怪しげな交渉の際もそうだったのだが、どうやら今回もルカが口を挟む余地はないらしい。
 普段は平凡な話し言葉を使う彼女が、昔のような口調になってしまっている辺り、二人の口論がいかに白熱しているかが窺えるというもの。
「ちょっとはボクの話も聞いてよ……」
 頭上に散る火花を感じつつ、ルカはため息をついた。
 影が薄い、という生まれ持っての性質は「分類」の消失と共に失われた。そもそも、ルカという少年の影が極端に薄かったのは、世界中の者達が当たり前のように持っていた「分類」を彼が持っていなかったからに過ぎない。世界中から「分類」が失われた今、ルカは普通普通に存在を認識されている。
 ただ、残念なことに、彼の周囲があまりにも濃すぎた。
 濃すぎる面々の中に紛れ込んでしまった普通の少年は、以前となんら変わらず影が薄い、という共通認識の下におかれた。かつてに比べて体力も攻撃力も格段に上がったはずだというのに、ルカに対する周囲の対応も相変わらずだ。せめて、このわけのわからない取り合いくらいは変わってほしかったものだと思わずにはいられない。
「……ボク一人で行くからね」
 拗ねたように口を尖らせ、ルカはすたすたと歩いていく。しかし、それに気づき追いかける者も、声をかける者もいない。今もなおルカの所有権について争っている二人は互いのことしか見えていないらしい。
 一人の少年に固執する彼らの姿を見て、誰が「魔王」と「王女」だと思うのだろうか。否、もう既に、片方は「王女」という分類を脱ぎ捨て、一人の少女になっているのだから、この問いは無意味だ。万人が彼女を普通の少女と思う、それこそが、彼女、マルレインの望むことのはず。
 あれほど「王女」マルレインを敬っていたロザリーでさえ、再会の時にはこれは誰だとばかりにポカン、とした顔をしていたのだから、「分類」の力とは恐ろしい。
「ルカもわらわが主である、と申告していたではないか!」
「貴様が卑怯な手を使ったからだろうが!」
 二人の声が背後、少し離れたところから聞こえてくる。
 マルレインの過去をルカは知らない。そもそも、この世界がどういう経緯で作られたのかすら、ベーロンが話した表面的な部分しか知らないのだ。だが、それでいいのだ。
 この世界にいる殆どの人間が世界の在り方を知らずとも生きていけるように、ルカもまた、そんな根幹について知らずとも生きていける。
 進んでそういったことを知りたがるキスリングやエプロスは、自身が探求することに意味を見出すタイプなので、マルレインに答えを問うようなことはしなかった。
 存外、鋭い目を優しげに細め、キスリングは次のように言っていた。
「それに、今の彼女は王女ではない。ただの少女だ。
 普通の女の子に、世界の在り方なんて聞くものじゃないよ」
 そんな優しさがあるから、仲間達も彼のことを疎ましく思えないのだ。
 ただの少女、という言葉に誰もが深く同意した。時たま、王女口調が出てくるだけで、マルレインはすっかり普通の女の子になっている。そんな普通の女の子が、本気でルカの所有権を巡って魔王と対立しているのが性質が悪いところだったりもするのだけれども。
 しかし、心の底から二人の口論を強く拒絶できないのもまたルカの真実だったりするのだ。
 自分の意見をはっきりと言い、時に少女らしく、時に王女らしく振舞う彼女は楽しげで見ていて安心する。魔王という「分類」から外れてもなお、自身を魔王と称し、そのために活動しているらしいスタンに関しても、似たような感情が浮かぶ。
 何よりも、二人は「分類」があった頃から、特別にルカのことを見てくれていた。生を受けてこれまで、家族からも町の人々からも無視され続けていた彼からしてみると、それはとても嬉しいことだったのだ。
「でも、ちょっとは仲良くしてくれてもいいのに」
 そんなことを呟きながら、ルカは役所の扉に手をかける。
 今日は父にお弁当を届けにやってきたのだ。職場と自宅の距離が近いのだから、昼時に帰ってくればそれで済むのだが、今日は少々忙しく、職場から出してもらえないらしい。そのことを知らせるためだけに、職員が一人ルカの家にまで遣わされたのだからご苦労なことだ。
「おぉ! 我が息子よ!
 私にお弁当を届けにきてくれたんだな! ありがとう!」
 扉を開けると同時に父が両手を広げてルカを歓迎する。その表情に疲れは見えず、むしろ彼を監視しているであろう真面目な職員のほうが疲労を露にしていた。
 この場合、父が実は超がつくほど有能な人物で、大量の仕事をこなしても疲れ一つ見せない、とは考えられない。いかんせん、普段が普段だ。そして、ルカの予想はハズレていない。
「課長……。それを食べたら、絶対、絶対に仕事を進めてくださいよ」
「わかってるよ。私に任せなさい。
 ところでルカ、今日は一人できたのかい?」
 同僚に適当な返事をした父に、ルカは軽く肩をすくめた。
 ルカが一人で出歩くなど、そうそうあることではないと知っているくせに、という意思表示だ。
「喧嘩してるよ」
「ははは、またかー。
 いやー。うちの息子はモテるなぁ」
 笑い事ではない。
 モテて嬉しくない男などいない、といわれているが、自身の所有権争いとなれば話は変わるだろう。己は人間であり、玩具でも道具でもないのだから。
「もう帰るからね。
 おとーさんもちゃんと仕事してよ」
「わかってるって。
 おかーさんのお弁当を食べたら元気もでるしね!」
 本当に大丈夫なのだろうか、という心配を胸に、ルカは父に背を向けた。
 その時だ。
 不意に、腰から微弱な振動を感じたのは。
「――え?」
 とっさに原因となっているのであろう物に手を触れる。
 それは、いつも家から出る際に腰から下げている剣だった。この辺りにいる程度のオバケならば武器などなくとも容易く対処できるのだけれど、何となく染み付いてしまった習慣により、ルカは外出の際には必ず剣を所持するようになっていた。
 今、腰から下がっているのは、ベーロンと戦った際に使用した剣。
 どこぞの男がよくわからない理由を持って手渡してくれた、歯車の剣だ。
 いくつかの小さな歯車と、鍛冶屋も見たことがないという不可思議な鉱物。そして美しい剣先を持ったその剣は、使い勝手の良さからルカが愛用しているものだった。
 それが今、緩やかに震えている。
 しかも、どんどん振動が強くなっているような気がした。
「どうしたんだい?」
 突然立ち止まった我が子に父は首を傾げる。周囲も不思議そうな目をルカに向けた。だが、当の本人はそれどころではない。元より色々と不明な要素が多い剣が、ここにきて謎の振動を発生させているのだ。何が起こっているのか、また、何が起こるのか、予想がつかない。
 万が一を考え、今すぐここを去ろう。ルカが決心したその刹那。
 キィン、と甲高い音が部屋にこだまし、消える。
 そう大きな音ではなかったはずだが、何故かそれは室内にいた全員の脳を直接揺らすような衝撃を与えた。
「――っ!」
 ルカの判断は素早かった。
 旅の経験が生きたのか、彼という存在が戦士の家系に所属しているからか、あるいは両方か。何にせよ、彼は事態が自身の手に余るであろうことを即座に見抜き、次の行動へ移る。
 戦いの場においては、この判断こそが何よりも大切なのだ。
 恐ろしいのは勝てないことではない。勝てない、と判断できないこと。
「ルカ!」
 勢いよく開け放った扉の内側、室内から父の声がする。
「旅立ちは家族揃ってるときにだぞー!」
 役所前の階段を一段飛ばしに駆け下りながら、ルカは軽く片手を上げて返事をした。
 そんなのん気なことを言っている場合かどうかもわからないが、異常事態が発生したとき、いつも通りなことが一つあればそれだけで人は安心できるものだ。
 時には不謹慎なことを言いもする父だが、こういったときはやはり彼も人の親なのだな、と思う。
「ルカ! 貴様何を勝手に行動しておるのだ!」
「一人で先に行かないでよね!」
 階段を下りきったところで、口論を繰り広げていたはずの二人がこちらへ向かって歩いてきているのが見えた。ようやくルカの不在に気づき、一先ず休戦状態になった、というところだろう。
「――二人とも!」
 ルカが声を発すると同時に、二人の顔が引き締まる。
 一人の少年の所有権を巡って延々と口論を繰り返していた二人はもういない。駆けるルカの姿と声に、細かいことはわからないけれど、何かしらの事態が起こったのだと察したのだ。
 速度を緩めることなくルカは二人の間を駆け抜ける。その瞬間、目が良いものならばその光景が見えていたことだろう。通り過ぎる寸前に、ルカはマルレインの手をしかと握り、スタンは素早く自身の形状を影へと変化させ、ルカの足下から現れる。ついでとばかりに速さを上げる魔法を最も足の遅いマルレインにかけてやったのは、寛大な心を持った魔王様からのサービスだ。
「それで、何があったの?」
 自分にかけられた魔法を理解していながらも、マルレインは礼を口にしない。そんなことをすればスタンはたちまち否定の言葉を吐き出すことは目に見えていたし、あえて言葉にしてしまうことが、どれほど野暮なことか彼女は理解しているのだ。
 故に、現状を作りだしたルカへ問いかけを投げる。
「この剣が急に震えだしたんだ。
 さっきはキィン、って音もした。
 それがどういうことかは正直全くわからないけど……」
 町を出て、ルカは一直線に自宅へと駆ける。
「危ない感じがしたんだ」
 彼の真剣な言葉に、スタンもマルレインも小さく頷く。
 普段は大人しく気が弱い、しかし戦士であるルカが言うのだ。その直感を疑う理由はどこにもない。
 あまり整備されていない木製の扉を開け、階段を一番飛ばしに駆け上がる。誰もが無言だった。ルカは駆けた勢いのまま家の玄関扉を力任せに開け放つ。
 乱暴な音が響く中、ルカは二階へ上がる階段の中腹に自身の妹と、かつての仲間の姿を見た。
「どうかしたの? お兄ちゃん」
「何があったの?」
 室内であってもピンクの傘を手にしている彼女は、「分類」が消えた世界でも勇者を名乗り続けているロザリーだ。彼女は息の荒れたルカと彼の影になっているスタンを認識すると同時に、真剣な目と声を向けた。
 彼女もまた、ルカという戦士の直感を信じているのだ。さらに、傍若無人で自由気ままな魔王であるスタンが、主導権を全て明け渡してしまうような形態になっているあたり、ルカを全面的に信頼し、彼の意思を尊重しなければならない事態が起こったのであろうことを示している。
 魔王と平凡な少年の間に、それほどまでの友情が育まれてしまっていることに関して言えば、頭が痛くなるばかりではあるのだけれども。
「じ、実は――」
「待て子分。
 おい、全自動おまわり女」
「誰のことよ!」
 事の次第を説明しようとした声を遮り、スタンは黄色く大きな目にロザリーをそっくりそのまま映す。
「あの学者や元偽魔王どもを呼んでこい。
 二度も三度も説明するのは面倒だ」
「……あんたがするわけじゃないくせに」
 眉を寄せて言葉を投げ返しながらも、彼女はすぐに背を向けた。
「そっちの部屋で待ってなさい。
 ルカ君は息を整えておいてね」
 居間のほうを指差したかと思えば、ロザリーは二階の奥へと消えていく。
 渋々ながらも、スタンの言葉には一理ある、との判断を下したのだろう。
「さ、ルカ君。行きましょう」
 マルレインに手を引かれ、ルカは居間へと進んで行った。
 こんな時ばかりは、仲間達が全員一つ屋根の下に住んでいて良かった、と思わざるを得ない。たとえ、日常生活の中で現状に疑問を抱く時間が毎日毎日あったとしても、だ。
 あの日、ルカは旅を終え、切なくも仲間達らしい別れを告げて、家路についた。その後は舞い戻った実家で平凡な日常を送るはずだった。だった、のだ。
 しかし、蓋を開けてみれば、実家には正真正銘、本物のマルレインの姿があり、すぐにスタンがルカの影へと舞い戻り、それを追うようにしてロザリーがやってきた。そのことを聞きつけたリンダがエプロスを伴って訪れ、さらにキスリングはより「分類」について知るためには君達の傍が効率的なのだ、とビッグブルを護衛につけてルカの家へ突入してきたのだ。
 平穏、というのは一日にも満たず、未だ旅をしているかのような錯覚を覚える日常になるのに一週間もかからなかった。
「ルカや、何があったかは知らんが、どんなときも焦ってはいかんぞ」
 居間でのんびりとしていた祖父からこんな言葉がかけられた。いつになく真剣な目に見つめられ、ルカは黙したまま頷く。それにあわせ、祖父は静かに祖母と居間を後にしてくれた。
 聞かれて困る類の話ではないのだけれど、気をつかってくれたのならばそれを無碍にすることもないだろう。
「で、何があったというんだい?」
 退室した祖父母と入れ替わるようにしてキスリングが、その後にエプロスやリンダの姿も見える。
 ゾロゾロと入ってきた面々は、笑顔であったり真剣であったり、と面持ちに少々差があったものの、誰一人として侮るような顔だけはしていなかった。
「うん。実は、さっきおとーさんのところに行ったときなんだけど」
 ルカは歯車の剣に起こった出来事を仲間へ伝えるため、言葉を紡いでいく。こうして周囲から注目されることなど、旅をする前ならば考えられないことだ。
 彼の言葉を聞き、仲間達は床に置かれた剣を見る。
 製造方法も材料も不明。確かなのは切れ味だけ。という何とも不可思議な剣だ。今更、これが魔剣でした、といわれたところで大した驚きもない。
 問題があるとするならば、周囲に与える影響が未知数なところのみだ。
「振動か」
 エプロスは顎に手を当てて考える。
 マルレインを除けば、彼はここにいる誰よりもベーロンに近く、世界についても知っている者だ。若干の期待が寄せられるが、残念ながら彼の知識と経験を持ってしても原因はわからなかった。
 古代の遺物である歯車が何らかの魔力を放出した、という可能性も否定はできないが、現時点では歯車の剣から魔力は感じられないのだ。
 すまない、とややうな垂れる様子を見せたエプロスだが、誰一人として彼を責めるような者はいない。誰に責任がある、という話でもないのだから当然のことだ。判明すれば僥倖、としか皆思っていない。
「……ならば、製作者殿にお聞きするのが一番ではないかね?」
 どうするべきか皆が考えた沈黙の一瞬後、キスリングが告げた。
 その結論は容易にたどりついて然るべきものなのだが、誰もが目を逸らさずにはいられない事柄でもある。この場にて、唯一それをしなかったのは、歯車の剣を受け取った際にはいなかったマルレインだけだ。
 ルカ達が小さな歯車を集めきり、この不可思議な剣を手に入れたとき、すでにマルレインの目はベーロンによって遮断されてしまっていた。
「何か、問題でもあるの?」
 おそるおそる、といった風にマルレインが尋ねる。
 彼女はこの世界の根幹をよく知っている。それ故に、ここは本質的に優しい場所で、真におぞましいものなどない、と考えていた。だが、それは彼女が自由に歩きまわれていた昔々の話であって、徐々に「分類」が歪み、世界が綻び始めていった世界でもその根幹が保たれたままであったのかまではわかっていない。
 知っているはずなのに、わからない。
 それはとても恐ろしいことだった。
「問題って言うか……。
 あの人ってちょーっと頭おかしい感じ」
 腰に手をあて、リンダはため息をつく。
 基本的に普通の人間とは価値観や美的センスが異なる彼女なのだが、今回ばかりは誰も否定の言葉をぶつけない。
「言ってることがよくわかんねー人だったッスよ」
「世界図書館にいた者達が彼のことを知っていたようだから、キミならば見覚えがあるかもしれないね」
 はっきりとした確証はない。広大な世界図書館にいた男達の一人がルカ達に話してくれた男に、歯車の剣を渡してくれた老人は酷似しているように思えただけだ。
 二人を直接会わせたわけでもなければ、確認の言葉を向けたわけでもない。
 同一人物ではない、といわれてもおかしくはないくらいだ。何せ、あの場にいた、便宜上、図書館職員、とする男は、自分と似た男、の話をしてくれた。だが、歯車の剣を手渡してくれた男は、彼らとは少々風貌が異なっていた。特に、年齢を感じさせる白い髪や髭などが顕著なものだろう。
 そうであるにも係わらず、キスリング達は図書館職員の言う男と歯車の老人を同一人物だとほぼ確信している。それは、図書館職員が語ったように、他人を好き勝手な呼び方をしていたという点や、高名な学者であるキスリングでも見聞きしたことのない技術を使っている点、そして、不可思議な剣を手渡してくれた点。それらが綺麗に一本の糸になって結びつくからだ。
「……あそこにいた、ヒト?」
 マルレインは眉を顰める。
 あまり思い出したくないのだろう。
「ポラックですか?」
「ちげーんじゃねぇッスかね」
「ポラックとは違った方法で、と語っていたから、、おそらくは違う人間だろう」
 キスリングの言葉に、マルレインは首を傾げる。
 正直なところ、世界図書館にいたヒト全てをマルレインは把握していない。どいつもこいつも似たような顔、声をしているのだ。判別しろ、という方が無茶というもの。
「それも、会ってみればハッキリするだろう」
 静かな声と共に、エプロスの手にトランプが出現する。いつでも旅立つ用意はできている、ということか。
「スタンもそれでいい?」
 念のため、とルカは自分の背後に目を向ける。
 未だ影の姿のままになっているスタンは、周囲の言葉に返事することも、意見することもなく、ただただ無言だった。いつもならば人一倍口を開くというのに、どことなく奇妙な感じだった。
「まあ、今は世界征服に向けての準備期間で、少々暇を持て余しているところだ。
 子分のわがままくらい聞いてやろう」
 だが、と言葉を続け、スタンは影の状態から、本来の姿へと形を変える。
 金色の瞳が瞼によってわずかに隠された。
「余は、いいぞ。余は、な」
 強い口調で言う彼の目は、マルレインへ向けられている。
「その言い方は何よ」
「まったく。貴様の頭には鉄屑しか詰まっておらんようだな」
 スタンの太い指がゆっくりと持ち上げられ、目線の先にいる彼女へと向けられた。鋭い爪は、それだけで人を傷つけられそうなものだが、今のところ彼が他者を物理的に傷つけたことはない。
「自由の身になったというのに、こんなところでのんびりしているような子供が、親父と関係のあるヤツと接触することを好むと思っているのか?」
 真っ直ぐすぎる言葉は、マルレインの肩を震わせるだけの威力を伴っていた。
 忘れがちであるが、彼女は言わば家出娘。ベーロンの異様な執着や過保護さを知っているからこそ、誰も何も言わないでいたが、本来ならば親元へ帰してやるのが普通、という状況に彼女はある。
 父親と会話も、接触も全て拒絶し、今に至っている。遠い昔に、彼女達親子に何があったのかを知る者はいない。わかっていることといえば、マルレインは今も父親と和解するつもりはない、ということくらい。
「あ……」
 スタンの言葉にロザリーも合点がいったのか、気まずそうな目でマルレインを見る。キスリングやエプロスも同様の顔をしていた。
「嫌なら留守番してればいいじゃない」
 さらりとリンダは言うが、そうだねそうしよう、とはならないのが人の心というもの。
 ルカのことを憎からず思う心、それ以上に閉じた世界から自身を解放してくれた恩人であり象徴でもある彼と離れることへの恐怖。
 これがただの冒険の旅、というのならばマルレインは勇んで後を追ったことだろう。絶対的な安全が失われた世界を満喫してやる、とだって思えたはずだ。
 だが、今、目の前にある現実は違っている。
 「分類」を付与し、制する力を失ったベーロンが一人の男としてマルレインを探している、というのはルカと再会を果たしたその日に聞いたことだ。そして、それを聞いてなお、彼女はここにいる。それが全ての答えなのだ。
「わ、わらわは……!」
 不安げに赤い瞳が揺れる。
 思わず一人称が変わっている辺りに彼女の動揺が見えた。
「……大丈夫だよ」
 そっとルカはマルレインの震える手を握る。
 守らなければならない。そう思ったのだ。あの時、偽物とはいえ、彼女を守りきることができなかったあの瞬間から、ずっと決めていた。次は、守るのだと。
「無理にこなくてもいい。
 でも、キミがきてくれるなら、ボクは絶対に守る」
 緑の瞳は、戦士の輝きを放っていた。
 かつて、人形越しに見た彼の瞳は、弱々しくて、それでも優しいものだった。今だってその優しさは残っている。だが、それだけではなくなったのだ。ルカは優しさのための強さを手に入れている。
「安請け合いをしてもよいのか?」
 迷いながらも、行く、と言おうとした。彼の気持ちに応えたかったのだ。だが、それよりも早く、スタンの大きな手がルカの頭を掴んだ。
「力を失ったとはいえ、あのクソ親父のことだ。娘を見たら死に物狂いで向かってくるやもしれん。
 そうなったらお前はそいつの目の前でヤツを殺すのか?
 以前のようにボコボコにする程度では止まらんだろうなぁ」
 ニヤつくような声でスタンはマルレインを刺す。とっさにロザリーが彼女を庇おうと足を踏み出すが、右肩をキスリング、左肩をエプロスに抑えられる。
 彼らの視線は、このままで、と告げていた。
 ロザリーとてわかっているのだ。不本意ながらも、それなりに長く、濃い付き合いだ。
 あの刺すような言葉はスタンなりの心配で、ルカとマルレインの覚悟を試しているもの。そこを曖昧にしてしまえば、最終的に傷つくのはあの二人。
 余談ではあるが、この時、リンダは目の前で繰り広げられるラブロマンスめいた展開に、思わずビッグブルの首を腕で絞めていた。
「……ちゃんと、話し合ってもらう」
「ほう?」
「力ずくでも押さえつけて、ちゃんとマルレインの話を聞いてもらう。
 マルレインにも、ベーロンさんの話を聞いてもらう」
 一度、緑の瞳はマルレインへ向けられ、けれども、すぐにスタンへと向き直る。
 強い力を持った目だ。「分類」がこの世界を支配し、その枠組みの中、人々から認識されづらい存在として在った頃から変わらない。押しに弱く、心優しい色を浮かべながらも、進むべき道だけは違えようとしなかった真っ直ぐな瞳。
 スタンはその決意を認め、マルレインへと目を向ける。
 視線は問う。
 貴様はどうなのだ、と。
「……わらわは」
 ルカは選んだ。
 次はマルレインが選択しなければならない。
 しかし、それは容易なことではない。今まで、それこそずっと昔から目を背け、逃げ、隠れていた問題だ。あの父と顔を合わせ、まともに話せる自信がマルレインにはなかった。
 連れ去られ、閉じ込められ、再び父の用意した檻に閉じ込められる未来のほうがずっと身近に感じられてしまう。危険もロマンもない、ただただ繰り返されるばかりの物語。そんなものを欲する年頃は過ぎているというのに。
 この場所を離れ、仲間達と引き離されてしまうのが怖い。だが、実の父が血を吐き、捕らえられる姿を見るのもまた、マルレインにとっては辛いことだった。
 スタンはベーロンが死に物狂いになる、と言った。そうなった哀れな父を見て、何も思わずにいられるのか。
 ルカは力ずくでも押さえつける、と言った。それでも、おぞましいほどに強く娘を求める父とまともに話ができるだろうか。
 揺れる天秤から、片方だけを選ぶのは恐ろしい。一つを手にした瞬間、もう片方が奈落に落ちるのだ、と思えばなおさらに。だが、マルレインは選ばなければならない。この場で選択する権利を手にしているのは彼女だけなのだから。
「わらわは……!」
 細い指先に力がこもる。
「それでも、お前と共に、いたい」
 握られたままだった手に力を込め、彼女はルカの手を握り返す。
「……うん」
 ルカは目を細め、優しく微笑む。
 同時に、彼女の選択を過ちにしないために守る意思をさらに強くした。
「まあ、そもそも、図書館にいた人達の話から考えるにだね、あの男はベーロンとは袖を別ったようだったしね。
 ベーロンが出てきたりする確率はほとんどゼロだと思うよ」
 心が決まり、進むべき道とメンバーが決まったところでキスリングが言った。
 皆、あの旅の最終決戦から然程日が経っていないこともあって過剰なまでの警戒心を抱いてしまっていた。再度彼との決戦を迎えてしまうのが当然、という心積もりになってしまっていたのだ。
 だが、冷静になってみればキスリングの言う通りで、可能性がない、とは言い切れはしないが、ないに等しい、とは言ってしまえる。
 それでも、マルレインに父親と対面する覚悟が必要だったことに変わりはなく、だからこそ、キスリングは今の今まで黙っていたのだろうけれど。
「仮に出てきたとしても、私達が守ってあげるわよ」
 ロザリーを始め、元魔王の面々もマルレインに笑顔を向ける。
 心を支えてくれる仲間がいることの、何と心強いことか。
「……ありがとう」
 花が咲くように、暖かで可憐な笑顔が浮かぶ。
 素直じゃなくて、わがままで、それでも可愛い、女の子の笑みだ。
「さて、それでは行くとするか」
 空間が心地よい雰囲気に満たされていた中、エプロスが毅然とした態度で言う。何が起こっているのかはっきりしない以上、出発は急ぐに限る。一歩の遅れが世界を危機に陥れるやもしれないのだから。
「え、何で?」
 誰もが張り詰めた空気を身の内から引き出そうとした、その瞬間の出来事だった。
 少女の疑問符が飛び込む。
「え?」
 思わずエプロスが気の抜けた声を出しながら、スタンは呆れた顔をしながら、他の皆は少しばかり驚いた顔をしながら、声が飛んできた方向を見る。
「そんな急に旅に出ちゃ駄目だよ。
 おにーちゃん」
 この部屋の入り口、少し開いている扉からひょっこりと顔を出しているのは、この家の長女、アニーだった。
「何故だ?」
「あー、そうは言うがな、これは一刻を争う事態やもしれんのだぞ」
 問いを投げるエプロスの後を追うようにして、スタンは些か諦めたような口調を持ってしてアニーへの言葉を投げる。彼はあの旅の始まり方をよくよく知っているのだ。
「駄目駄目。
 旅は家族みんなで見送らないとだもん」
 そう言ったアニーは歳相応の笑みで場にいる面々を見る。
「今日はおとーさんも夕方にならないと帰ってこないし、明日の朝出発だね」
 彼女はあたかもそれが決定事項のように語った。いや、彼女の中では、間違いなく決定事項と化しているのだろう。
 だが、誰もがそれを受け入れるわけではない。特に、エプロスはパーティの面々の中では比較的常識人と言える人物であり、急くことの重要性も理解している。
 見送りのために出発を遅らせるなどありえない。
「ルカ君を見送りたい気持ちはわかる。
 だが、これは世界を左右するかもしれない。わかってくれ」
「大丈夫だって。そんな気、全然しないもん。
 家族の旅立ちは家族全員で見送る。それがうちの決まり。わかった?」
 退くつもりは一切ないとばかりに、アニーはそのまま駆けるようにして自室へ向かっていく。今のうちに、とも思ったが、見れば台所から出てきたルカの母があらあら、とばかりに笑って玄関広間に立っていた。
 のほほんとしている彼女だが、その実、それなりの手練である。肝も据わっており、強行突破や説得は意味を成さない。
「諦めろ。ヤツらは馬鹿だが頑固だぞ」
 スタンは肩をすくめる。
 本当にルカの家族なのか、と疑いたくなるほどの我が道を行くその姿はまだ古い記憶と化していない。ルカを旅にやる時も本人の意思をまるっと無視してやりたいように見送っていた。
 あれを強く拒否できなかったのは、ルカの気が弱いからとか、家族の応援を無碍にできないからとか、そんなちっぽけな理由ではなかった。ただただ、彼らの押しと目が強すぎた。
「……ま、まあ、我々は、こちらに居候させてもらっている身なわけで」
「郷に入ったからには、郷に染まらないと、ってことね」
 比較的広い住居とはいえ、一個人の家に赤の他人九人。迷惑でないはずがない。そもそも部屋数も足りておらず、彼らの殆どは居住者の部屋を間借りさせてもらっている状況だ。
 ロザリーは自身を慕ってくれるアニーたっての希望で彼女の部屋へ。マルレインは彼女を娘のように慈しんでいるルカの母と同室。何故か母と夫婦の関係であるはずのルカ父はキスリングと同室になっているのは疑問に思って然るべきなのだろうけれど、誰もつっこまずにここまできている。スタンは当然のごとくルカと同室になっており、当初はマルレインから強い反発を受けていた。
 残された四名は、といえば、まずエプロスとリンダは空いていた一室に入ることとなった。本来ならば男女は別室になる予定だったのだけれども、リンダの強すぎる要望と、彼女の言葉に根負けしたエプロス、という背景がここにはある。
 そうして、本来ならば女性用の部屋、となる予定だった一部屋にビッグブルが突っ込まれ、あと一人、スタンの執事であるジェームスは相も変わらず出てきたり消えたり、としており、いまひとつ所在が掴めない。
 付け加えるのであれば、ここに食費やら何やら、といった費用がかかってくる。
 ある程度、仕事のあるロザリーやキスリング以外の面々に収入源などあるはずもなく、エプロスが大道芸をやってみせるくらいの微々たるもの。それでもいつも笑顔で居候させてくれているのだから、せめて家のルールくらいは尊守しなければならないというもの。
「しかし……」
「ええい、うるさい!
 いつまでもうだうだネチネチと……。
 貴様、それでも元魔王か!」
 それでも反論を口にしようとしたエプロスの頭が軽くはたかれる。
「元とはいえ魔王を名乗っていたのならば、堂々たる態度を崩すでないわ」
 金の目がギッとエプロスを睨む。
 わずか一瞬だが、彼はその瞳に思わず体を硬直させた。
 普段はマヌケな面がよく見られ、偽悪者とまで言われてしまうようなスタンだが、こうして対面してみれば、その身の内に隠された邪悪に嫌でも気づかされる。
 間違いなく、彼は世界に選ばれた真の魔王だった。
 未だ魔のモノとして在るエプロスが魔王に逆らえるはずもない。
「この世界は余の物となるのだ。
 どこの馬の骨ともしれんヤツにどうこうさせるつもりはない。
 今日出発であろうが、明日出発であろうが、何も変わらん」
「キャー! スタン様カッコイイー!」
「さっすがアニキッス!」
 黄色い声を上げるのはリンダ。その隣で目を輝かせているのはビッグブル。
 常日頃の言動はどうであれ、やはり魔のモノとしてはスタンのカリスマに惹かれるものがあるのだろう。楽しげな二人と静かなエプロスを横目に、ロザリーはルカの母親に事情を説明していく。
 旅から戻り、平穏な日常を取り戻したはずの一人息子だ。彼が連れて行かれれば心配の一つもするだろう。戦いを伴う冒険は、いつだって傷と死と隣り合わせなのだから。
「――そう」
 よくわかっていないことが多すぎるため、詳しく説明することはできなかったけれど、それでも世界が危機に瀕しているかもしれないので再び旅にでる、という旨だけはしっかりと伝える。すると、ルカの母はそっと目を伏せた。
 おおよその見当はついていたのだろうけれど、実際に言葉にされれば現実が急速に近づいてくるもの。母の心中は如何なるものか。
「なら、明日は皆でお見送りをしないとね」
 眉を下げていたロザリーとは対照的に、母は満面の笑みだった。
 まるで、明日、息子が結婚する、と聞かされたかのような喜色にロザリーのほうが圧倒されてしまう。
「え……、えぇ……?」
 困惑しつつも、そういえばこういう家だったなぁ、と思わずにはいられない。この家で過ごした約一ヶ月だけではない。マルレインと共にきた日、マルレインを失って新たな旅に出た日。いつだって、この家族は変わらなかった。それを愛おしいと思ってきた。
「今日はご馳走にするわね」
「はーい! あたし、シチューがいいー!」
「リンダ、お母様にわがままを言ってはいけないわ」
「えー、じゃあマルレインちゃんは何がいいの?」
「そういうことじゃなくて……」
 張り詰めていた空気が徐々に薄れ、マルレインも普段通りの言葉遣いに戻る。リンダのリクエストをルカの母は了承し、さらにマルレインへ要望を尋ねる。実子であるはずのルカには問いかけがなかったが、それも一つの愛、なのだろう。
「さて、ルカよ。
 怖い旅が明日に伸びた、ヤッター! などとは思っておらんだろうな?」
「思ってないよ」
 ゾロゾロと女達が台所へ向かっていき、男達も明日の準備をするために部屋を出た。残されたのはルカとスタンだけだ。
「ほう。ならば、世界を危機から救う勇者気分か?」
「まさか。勇者役はロザリーさん一人で充分だよ」
「その剣を受け取った責任でも感じたか?」
「違うよ。頼んで貰ったわけじゃないし」
 わかってるくせに、とルカは笑う。
「また皆と冒険できるのが楽しみなだけ」
「物好きなヤツめ」
 歯車の剣に起こった異変に驚き、焦ったことは嘘ではない。世界を心配する気持ちもある。だが、それ以上に、ルカの心は明日の旅立ちでいっぱいだった。
 平穏が嫌いなわけではない。むしろ愛している。けれども、ルカの体に流れる血か、あるいは性か、ひと時の冒険の経験か、いずれにしても、彼を冒険へと駆り立てている。機会が転がってきたのだ! 行け! と叫ぶ。
「楽しみだね」
「ふん、どのような敵が現れたとしても、このスタン様がギッタンギッタンのボッコボコのぺらんぺらんにしてくれるわ」
 そんな言葉の投げあいをしつつ、二人も部屋を後にした。
 旅立ちに必要なもの。
 武器、防具、旅費、木の実、ビンとお札と他色々。それらを詰めて、ルカは立つ。
 豪華な夕飯は食べた。ゆっくり眠った。頭も起きた。
「行こう」
「足手まといになるなよ?」
 狭いルカの部屋を出て、二階の吹き抜け回路へと出る。眼下には既に旅の準備を終えた仲間達と、彼らに言葉をかけている家族の姿があった。
 しれっとジェームスが見送る側に混ざっているが、これも毎度のことなのでつっこむ必要もあるまい。
「あ、おはよー、おにーちゃん」
 アニーの言葉に家族達がルカを見る。
「おはよう」
「余よりも先に起き、出迎えの準備をしているとは殊勝な心がけだな」
「だーれがあんたを待ってるってのよ」
 どうやら今日もスタンとロザリーの低レベルな口喧嘩は好調らしい。
 わいわい言い合っている横をルカが通り抜け、マルレインのもとへと向かう。彼女は普段着のワンピースよりも少しばかり防御面を気にした服を身にまとっている。
「そういう服を着てるのは新鮮だね」
「……変じゃない?」
「全然」
 見慣れたワンピースでも、豪華なドレスでもない服。だが、まるで彼女のためにあつらえられたかのように今の服もよく似合っていた。
「おにーちゃん、やるぅー!」
「あらあら」
 家族の野次にルカは唇を尖らせる。
 マルレインとはそういう関係ではないのだ。互いに好意は寄せ合っているものの、恋愛感情かと問われれば首を傾げてしまうような、そんなものだ。
「まあまあ、言わせておあげなさい。
 それも親孝行の一つですよ」
 何故かしたり顔のジェームスに言われ、ルカは渋々家族からマルレインへ視線を移す。彼に何かを言ったところで事態が好転するような気が全くしないのだから仕方がない。
「キミを守るからね」
「私、守られるだけの女の子じゃないわよ?」
「……知ってる」
 出会い頭、ルカに非があるとはいえ、顔面に重い一撃を食らったことは今でも忘れられない出来事の一つだったりする。
 苦笑いと共に、当時の痛みまでもが頬に浮かびそうだ。
「もう……!」
 マルレインもルカが苦笑いを浮かべながら肯定した理由に思い当たったのか、頬を膨らませてしまった。それを見ている周囲は、どこかほのぼのとした気持ちになってしまう。
「ルカや、出かけるのかい?」
 見送ってくれる父や母、祖父母や妹とも話しをしておこう、とルカがマルレインから手を離したと同時に、祖母が軽く彼の服を引っ張る。ボケが始まっている彼女だが、時々、ドキリ、とさせられるような言葉を発するから侮れない。思い返してみれば、ルカが完全に「分類」からはじき出された時でさえ、祖母は彼のことを覚えていた。
「うん。それほど遅くはならないつもり」
「そうかい、そうかい。
 じゃあ、ご先祖様に会ったらよろしくいっておいてくれるかい?」
 柔和な笑みを浮かべ、ころころと告げられた言葉の何と恐ろしいことか。
 思わずルカも血の気が引く音を感じた。
 幸か不幸か、その発言を聞いていたのはルカだけだった。
 マルレインはすでにルカの母のもとへと足を進めており、スタンは未だロザリーと口論の途中。キスリングはルカの父と言葉を交わし、元魔王達もそれぞれ勇者と魔王の喧嘩を見守ったり、今後のことを考えてみたり、と好き勝手している。
「……おばーちゃん、それって」
 祖母にはルカの死に様でも見えているというのか。
 この旅のゴールはこの家ではなく、天に召された先祖の下だとでも言うのだろうか。
「さて、ルカ」
 唾を飲み込むまでにどれだけの時間がかかっていたのだろう。
 改めてルカが問いかけなおそうとした時、背後から父の声がした。
 気づけば皆、それぞれ別れの挨拶が終わったようだった。
「また旅に出るんだね」
「……うん」
「私は誇らしいよ」
 言葉を体現するように父は胸を張る。
「初めてお前の旅を見送ったあの日と比べてどうだ。
 今はこんなに多くの仲間が我が息子の周りにいる」
 彼らは「分類」によって引き合ったかもしれない。だが、共にあることを決めたのは「分類」の力ではない。
 個人の思想、感情、縁。そんなものが絡み合い、この混成軍は誕生した。その中心にいるのは誰か、と問えば、全員が、スタンでさえも、渋々、といった声で答えるのだ。
 ルカがいる、と。
「お前は大きく成長した。
 おとーさんは嬉しい」
「そうね、とても立派になったわ」
 ニコニコする両親の隣には快活に笑うアニーと、慈愛に満ちた目をしている祖父母が並ぶ。
 時々、ルカのことを忘れてしまうようなこともあったけれど、いつでも優しくて暖かい、ルカにとって大切な家族。
「なので、今回の旅もお前を大きく成長させてくれることだろう」
 ルカは小さく頷いた。
「あ、でも今度はお土産もよろしくね」
 最後まで締まり続けられないのが、何とも父らしかった。
 軽く肩を落としながらも、自分がよく知る父の姿にルカはかすかな笑みを浮かべる。どのようなお土産がいいのかつらつらと並べられたところで、どれもこれも普通の店に売っているとは思えないようなマニアックなガラクタばかり。手に入る図が想像できない。
「いい加減にせんか」
 祖父が軽く父を小突くことで、ようやく土産談義が終わる。
 そのことにほっとしたのはルカだけではないはずだ。
「もー。大切な話なのに……。
 おほん、それでは――」
 家族の笑みが一列に並ぶ。
「いってらっしゃーい!」
 それぞれの声が綺麗に重なり、ルカ達の背中を押す。
 初めて見送りを受けたリンダやビッグブルは楽しげに手を振り返し、エプロスは何処となく気まずげな顔を向ける。まるで、本当の家族のような暖かさがルカの家族からは溢れていた。
 そのことがどうにもこそばゆく、嬉しくもあった。
「……良い、ご家族だな」
 テネルを通り過ぎ、橋を渡ろうかというところでエプロスが呟くようにルカへ声をかけた。
 人が良い、とはずっと思っていた。あの家に足を踏み入れたその瞬間から。「分類」の影響が残っているのかと疑ってしまうほどの警戒心のなさに、元魔王ともあろうモノが不覚にも心配し始めたのはいつからだったか。
 呆れにも似た、けれどもそれとは違う感情を胸の内で燻らせていたが、今ならばハッキリと賞賛を口にできるだろう、とエプロスは思った。
「ありがとう」
 エプロスの言葉にルカは礼を言う。
 家族を褒められて悪い気はしない。
「あれは馬鹿みたいに警戒心がないだけだぞ」
 ほのぼのとした雰囲気の中、空気を裂くようにして低い声が挟まれる。
 見れば呆れた顔をして立っているスタンがいた。口を開く片手間に近づこうとしている低級オバケを追い払っている姿は、ペラペラの影ではなく、尖った耳と髪が印象的な真の姿だ。
「今はまだ「分類」の影響が残っているからか、どいつもこいつも、のほほんとしとるが、世界は変化し続けている。
 そのことを貴様が伝えてやってもあいつらは変わらん。余の姿を見ても特にリアクションもなかったしな……」
 要約すると、警戒心ないままだと危険で心配、ということだろう。後、少しは怯えろ、といった願望。
 浅い付き合いでもないので、スタンの偽悪者っぷりは誰もがよくよく知っている。それを言うと本人は烈火のごとき怒りを見せるのでロザリー以外の者達は口を閉ざしているだけだ。
「村の人達だって優しい人ばかりよ。
 あなたが思うようなことはきっと起きないわ」
 細い手には不似合いなナイフを握り締め、マルレインが言う。体を危険に晒すような冒険は始めてである彼女に与えられた武器は、護衛用のナイフ一つだった。
 オバケと対峙するには些かか弱い武器ではあるが、周囲が彼女をサポートするので問題はない。元より、アダッシュ砂漠や世界図書館に行こうというわけでもないので、オバケもそれほど強くはなかったりする。目的地であるポスポス雪原には、多少強いオバケが出現する傾向があるものの、特筆するようなレベルではない。
「もー。ストーンサークルが使えればよかったのにー」
 桜色の唇をわずかに尖らせたリンダは苛立ちを含んだ息を吐く。
 旅の途中、大いに役立ってくれたストーンサークルは、「分類」が力を失ったためか、ベーロンという神が倒されたためか、移動手段としての機能を失っていた。おかげで雑魚敵を追い払いながら横断トンネルまで歩いていかなければならない事態に陥ってしまったのだ。
 気が遠くなるほどの距離があるわけではないものの、一日二日でたどりつける距離でもない。途中、マドリルを経由するので物資の調達が容易であることだけが救いだといえる。
「グチグチ言わないの。
 オバケ達も前ほどはこっちを狙ってこなくなったんだから、大したことないでしょ」
「そーですけどぉ」
 前回の旅では、オバケ達が「分類」に支配され、己の役目を忠実すぎるくらい忠実に果たしていた。人々を襲う悪くて怖いオバケ、それが世界に在るオバケの在り方だった。そのおかげで、毎日毎日大量のオバケに狙われ、追い掛け回され、ヘトヘトになった記憶はまだまだ夢に出てしまいそうなほど、身近にある。
「「分類」のない今、何故オバケちゃん達は我々を襲ってくるのか……。
 新たなオバケちゃんが誕生する可能性があるのかどうか……。
 いやー、実に楽しみだ! 戦闘はキミ達に任せて私は本職に励むとしよう!」
 キスリングは目の色を輝かせながら、手元のノートに何かを書き出している。ひじょうに癖のあるその字は、ひと目見ただけでは文字として判別することが難しいほどに崩されていた。もしかするとこれは、研究者として自身の情報や研究内容を秘匿するために必要な技能なのかもしれない。
「新たなオバケ……。なるほど、それは興味深い」
 ここ一ヶ月で幾分かの魔力が回復したエプロスは、キスリングの考察を聞き、魔法を使ってみせる。傍から見ている素人連中にはよくわからないことだらけだが、彼らの中では何らかの計算の上、成されている行動らしい。
 それで何がわかるのか、と問うたところで、返ってくる言葉が理解できるとは思わないので誰も聞かないが。
「うおー! 戦いなら任せるッス!!」
 相も変わらずビッグブルは己が身一つで敵の渦中に突進していき、思う存分戦いを楽しんでいる。
 熱すぎるその光景に、仲間でさえもやや足を後退させた。
「……ふふ」
 研究に勤しむキスリングと、それを眺め、時折口を挟むエプロス。ワガママなリンダを諌めるロザリーとそれをからかうスタン、戦いに励むビッグブル。バラバラでありながらも、一定の距離を保つ集団を眺め、マルレインは小さく笑う。
 ルカが首を傾げてみせれば、彼女は返事を投げてくれる。
「皆は変わらないな、って」
 マルレインの旅にエプロスはいなかったけれど、他の者達は何も変わっていない。
 世界が変わろうとも、マルレインが変わろうとも、変わらないモノがある。それはとても嬉しいことだった。「分類」がないからこそ、目の前に広がる有限たるモノの価値を信じることができる。
 かつて、ベーロンはマルレインに不変を与えようとした。恒久たる安全と楽しみを湯水のように流し込んだ。親の愛から生まれらそれらは、とても不自然なもので、彼女はいつしか世界に不信感を抱くようになっていった。
 欲したのは、作り出された不変ではなく、自然に形作られる有限だ。
「私、幸せよ、ルカ」
 大きく可愛らしい目が細められる。
 頬をかすかに赤く染め、口角は緩く上がっていた。
「……うん」
 永遠に変わらないモノなどない。
 いつか、また、世界図書館が壊れたあの時のように、皆がバラバラの道を歩む日がきっとやってくる。
 ルカはあの時の寂しさを知っている。
 関係性が変化して、心の繋がりが変わって、それでも、この未だ暖かな夢を望む少女は笑ってくれるだろうか。永遠を信じてしまいたくなるような世界が崩れ、有限を目の当たりにしたとき、悲しみはしないだろうか。
 父親に反発しながらも、彼の作った籠の中、不変だけを手にしてきた彼女は、今更、有限を受け止め、乗り越えられるのか。
「はやくマドリルに行きましょ。
 私、あの大きな歯車を触ってみたいの」
 マルレインがルカの手を引く。
 ルカは頷き、足を進める。
 今、彼女は笑っている。ルカにとってはそれが全てで、いつかくるかもしれない未来に怯えるよりも、その時までに幸せをたくさん積み上げてやりたい、と切に願う。
「そうだ子分よ、あの町についたらロバートとかいうガキのところへ行ってみようではないか」
「え?」
「「分類」が消えうせた今、ヤツラがどうなっているのか実に楽しみだ」
 ニヤけ面のスタンが言うが、鈍いところがあるルカにはいまひとつピンとくるものがない。意外と面倒見が良いというか、子供の相手をするのは嫌いではない、というところのあるスタンだから何かしらあるのだろう、と思うくらいだ。
 故に、特に止めなければならない理由もなく、ルカは時間があるならいいんじゃないか、という返事をするに留まった。
 一行は一度、ウィクルの森で野宿をし、マドリルに入った。そこでスタンがマギーとロバートをからかい一騒動を起こし、キスリングはエプロスと共に研究所へ向かいちょっとした事件を引き起こし、リンダは未だ呪いの解けていないファンを起点として自身のファンクラブを作ろうとしたり、と主にロザリーとルカが駆け回る事態となってしまった。
 無駄に消費した日数に肩を落としながらも、ようやくルーミル平原に入り、横断トンネルまで一直線に向かう。とはいえ、日も暮れる頃だ。ただでさえ気温の低いポスポス雪原に入るのは自殺行為に他ならない、というキスリングの意見に皆が賛成を示し、一度野宿し、暖かな太陽が昇ってからの行進となった。
「……寒い」
 朝の太陽があるとはいえ、ポスポス雪原は年中雪で覆われた地域だ。地面から立ち上る冷気は半端でない。防寒具を用意していたとはいえ、思わず体が震えてしまう。
 スタンを始め、リンダやビッグブル、エプロスは平然としている辺り、種族の違いがいかほどまでに大きいか知らされる。
「大丈夫?」
「うん。平気。
 人形の時は寒さなんて感じなかったから、ちょっとビックリしただけ」
 トリステの中にいたマルレインは人形の目を通して世界を見ていた。だが、共有できたのは視覚や聴覚のみ。気温や痛みといったものはあまり感じることができなかったらしい。
「あたしはこのくらいが丁度いいけどなー」
「そういえば貴様はここに自分の城を作っておったな」
 懐かしい場所にテンションが上がったのか、リンダは雪に足跡を残しながら一足先に駆けて行く。誰も引き止める声は上げない。目の前で順調に倒されていくオバケを見ていればそれも当然だろう。
「雪原は方向感覚が狂いやすいから注意したまえよ」
 キスリングのそんな声を聞きつつ一行は、自主的に露払いをしてくれるリンダの後を追うようにして雪原を進んでいく。少々距離はあったのだが、冷たい地面で野宿ができるはずもなく、足取りを速めて目的の場所を目指す。
 時折、雑魚が鬱陶しいと叫んだスタンが周囲にドレッドの上位版を放ち、雪を溶かし周囲の気温をわずかに上げてくれるため、体力の消費を予想以下に収めることができた。
 そうこうしている間に日は落ち、空には星が瞬く。
 ルカとエプロスがそれぞれに松明を持ち、一行の先頭と殿につき、スタンとロザリーが主となってオバケを倒していった。
 生身での冒険にマルレインの歩みが遅れることもあったが、リンダが無言で彼女の手を引いてくれたので、さしたる遅れもない。
「……ここ、です」
 日が暮れてからどれだけの時間が経ったのだろうか。月がほぼ真上にきた頃、ルカの持つ松明が小さな小屋を赤々と照らす。
 元捨てられた町、今はその存在も徐々に周知され、中にいた者達も少しずつ活動を始めるようになった目覚めの町、トリステ。その手前、小道に入った場所、そこにその小屋はあった。
 しつこいくらいに何もない、という「分類」を押し込められたそこは、本来ならば誰にも見つかることのない小屋だったのだろう。
 だが、「分類」を持たぬルカと、彼に影響された仲間達はそれを発見することができた。認識することができた。
「誰かいますか」
 数度、ルカがノックをする。
 無言で突撃してもよかったのだが、マルレインの心構えも考え、ワンクッション置くことになったのだ。
「……返事、ないッスね」
 静かな雪原だ。誰かが声を発すればどれだけ小さな音だったとしても気がつくはず。
「もう一度だけノックをしてみて、それでも返事がなければ……。
 止むを得ん、力ずくで押し入らせてもらおう」
 再度ノックすることを勧めておきながら、エプロスの周囲には既に魔力が集まっている。普段の様子だけを見ると、理性的な男といえるのだが、やはり彼も魔王、ということだろう。
 まさか小屋ごと仲にいるかもしれぬ者まで破壊する気ではあるまいか、という疑念を胸に、ルカは再度ノックをする。
「すみません、誰かいませんか?」
 コンコン、コンコン。
 静かな世界にノックの音が響く。
 だが、他者の返事はない。
「ルカ君、そこをどいてくれたまえ」
「待て。そこまで派手にする必要もなかろう。
 子分よ、どうせ鍵なんぞかかっておらんだろう。とっとと開けてしまえ」
 スタンの言うことはもっともで、歯車の剣を受け取ったときもノックなどせずそのまま小屋に押し入ったのだから、今回もそうすればいいだけの話だ。
 確かに派手な演出はマルレインの緊張を緩和する効果を持つ。エプロスなりに彼女のことを考えての行動選択だ。しかし、彼女は扉をノックされている間、ただ震えているだけの少女ではない。
「……そうね。
 ルカ、開けて」
 意志の強い赤い目がルカを見つめている。
 怯えの色が全くないわけではない。だが、ルカは彼女の意思を尊重した。
 ギィ、と木製の扉が軋んだ音をたてる。
「こんばんは」
 静まり返った部屋にルカの声が反響する。彼が小屋に足を踏み入れると、それに続くようにして仲間達が踏み込む。
 外からではわからなかったが、部屋には灯りがあった。小さな蝋燭が作り出す、小さな灯りだ。ルカは無言で松明をエプロスに渡し、彼は雪の中にそれを入れた。
「やあ、こんな夜更けにどうしたんだい、コロッソ君」
 静寂を引き裂くような声量で小屋の主は言う。ここが住宅街でなくて本当によかった。心地よい眠りの中にいる人々を現実に引きずり上げてしまうことになってしまうことになっていたはずだ。
「――あ」
 ルカのすぐ後ろにいたマルレインが声を上げた。
 想定の通り、心当たりのある顔だったのだろう。
「……む、キミは」
 老人のほうもマルレインに気づいたらしく、わざとらしいばかりだった声量がわずかに絞られる。
「そうか……。
 「分類」が消え失せ、出てこられるようになったのか」
 温和な笑みを浮かべた老人は、ゆっくりとマルレインに近づく。
「あぁ、時間が経てば、小亀もこれほど大きくなるものか」
 しわくちゃの手が彼女の手を握る。
 小亀、と言われ、当の本人であるマルレインは困惑顔だ。ただ、周囲の者としては、あの笑い話のことを言っているのだろう、と予想がついた。
 オチが消されてしまった笑い話。「分類」が消えても、オチは戻ってこなかったようだが、元ネタを知っている彼らは何となく想像できていた。悲しみと愚かさが混じった笑い話。そのオチを。
「キミがあの男のもとを去り、この世界ではどれほどの時間が流れたことだろう。本来ならば歳を取らぬはずの私も、ヤツのもとを去ってからは少しずつ、少しずつ、こうして歳を取っていった。
 この世界の住人とは接触しておらんからな、時間の流れもよくわからん。
 「分類」が消えたように感じたのも、歳のせいでボケたのかとも思ったが、キミがここにいるならば勘違いの類ではなかったようだ。
 それにしても、私もずいぶんと研究と努力を重ねたつもりだったんだがね。結局、あのまどろっこしいやり方を選んだポラックと同等の時間がかかってしまった、というのが口惜しい。
 だが、この世界の住人を巻き込みに巻き込むようなやり方は今でもどうかと思っているんだ。ホプキンスにもずいぶんと苦労をかけたみたいだからね。あの馬鹿は」
「ホプキンス?」
 つらつらと語られていく中、声を挟んだのはロザリーだ。
 彼女としては、勇者の大先輩にあたる人の名前を聞いて黙ってはいられなかった。
「ん? 嬢さん達は誰だ?」
 老人は首を傾げる。
 この様子では、ルカに歯車の剣を手渡したことすら覚えていないかもしれない。
「あの人達が父を倒し、「分類」を消してくれたのよ」
「おぉ……。それはそれは、苦労をかけてしまって申し訳ない。
 ポラックの同僚として、ベーロンの元部下として、キミ達に謝罪をしなければならないな。
 「分類」という最強の力を降したということは、キミ達にかかっていた「分類」は消えていたのだろう? だとすれば、非常に生き辛かったことだろう。そして、「分類」を脱ぎ捨てたとはいえ、あの男と対峙するのは楽な道のりではなかっただろう。
 こんなことは言い訳にしか聞こえないだろうけどね、私は反対だったんだよ。この世界の住人に、「分類」を壊させるなど。世界の在り方を根本から変えてしまうような、大いなる責任を負わせることは、ね。
 そんなものは、世界を作ったあの男か、それに追従していた我々がして、そして責任を負わなければならないことだったはずなんだ。だからこそ、私はこんなところに引きこもり、あの男にバレないよう、研究を続けてきた」
 再びつらつらと言葉を紡ぎだしながら、老人はゆっくりとルカ達の方へと近づいてくる。
 敵意は見えないが、キスリングに似た面倒くささが言葉の端々から伝わってきた。老人の言葉を熱心に聴いているのはキスリングとエプロスくらいだ。
「――ん?
 それは、歯車の剣か?」
 不意に、老人が眉を上げる。
 彼の視線はルカの腰に差されている剣にあった。
「はい。あなたが、ボクにくれました。
 覚えてませんか?」
 鞘から剣を抜き、ルカは尋ねる。
「うーむ、覚えているような、覚えていないような。
 目に蜘蛛の巣がかかっているような男だったが、ヤツに私のしようとしていることがバレないよう、工夫を重ねた結果、自分という「分類」さえ曖昧になっていてね。
 いや、だが、確かに、歯車の剣を渡す約束をしたことは覚えているよ。それは、私が作り出した、向こうの世界とこの世界を繋げる装置が生み出す副産物。
 「分類」を操るベーロンに有効な何よりもの武器。
 そうだ、だから私は、これを勇者に、ホプキンスに渡す約束をした」
 言葉を零すごとに、老人の頭は回転し始めたのか、疑問符ばかり浮かぶような口調から、何かを思い出すようなそれへ変化していく。
「工夫、ね。
 前に会ったとき、適当な名前ばかり呼んでいたのも、その一つかもしれないね」
「どーいうこと?」
「ありもしない名前を並べることで、誰かを「分類」しないようにしていたってこと。
 そもそも「分類」というのは、他者が口にすることで発生し、周囲の環境と共に定着していく印象をさらに決定的に強め、強制的に付与することで――」
「わかんなーい」
「……つまり、テキトーな名前で呼んでると、誰を呼んでるのかよくわかんない、ってこと」
「へー」
 ルカの後ろ、外に繋がる扉に近い辺りでキスリングとリンダは、どうにもいまひとつ噛み合わない会話をしているのであった。
「そうか……。私はホプキンスに手渡したと思っていたが、あれはキミだったんだね」
 老人の声はどこか寂しげだ。
 知った人間が、知らぬうちに死んでしまっているのにも気づけぬほど、彼は深い霧の中で生きてきたのだろう。
 目が覚めてみれば、たった一人。
 それは、とてつもなく、寂しいことだ。ルカは胸の辺りをギュッと握る。
「ホプキンスがきたのはいつのことだったんだろうね。
 ポラックと一緒に私を見つけ出してね。あいつは、今度こそ上手くいく、って豪語していたよ。
 結局、それは上手くいかなかったみたいだけど、あいつの残した種は時間をかけて上手く芽吹いたらしい。
 あぁ、何故、私がキミをホプキンスだと思ったのか、今わかった」
 髪、と老人はルカの頭を指さす。
 燃えるような赤ではなく、血のような赤でもない。他に類をみない穏やかな赤色の髪。
「キミの髪は、ホプキンスによく似ている。
 もしかすると、子孫かもしれないね。そう思えば、目の色も似ているような気がしてきたよ。
 影が薄いといわれたことはない? 「分類」の制約を取り払ったことは? いいや、そもそも、その剣とともにベーロンを倒したというのなら、抵抗する力を手に入れていたということ。それは、ポラックがホプキンスに与えた力だ。
 血によって受け継がれる、力。やはり、キミはホプキンスの子孫なんだね」
 憧憬の眼差しで老人はルカを見つめる。
 しかし、それも長くは続かない。
 彼の背後にいた二人が、彼を反転させたからだ。
「ルカ君が? ホプキンス様の?」
「ううむ……。そう言われてみれば、似ておらんことも……ない、ような……?」
 ロザリーとスタンはルカの頭のてっぺんからつま先を何度も何度も繰り返し見つめる。
 流石にホプキンスの姿までは知らないロザリーと違い、転生前の記憶をある程度引き継いでいるスタンはルカの部位一つ一つを記憶と照合させていくかのような緻密さで視線を動かし続けていた。そして少しずつ、その顔を強張らせていく。
「おほん、色々聞きたいことも、語り合いたいこともあるのですがね。
 我々は今回、この剣について尋ねにきたんです」
 このままでは話が一向に進まないことを察したキスリングがルカ達を押しのけて前へ出る。
「「分類」を切り裂く力のことか?
 話してもいいが、この世界の住人でしかなかったキミ達が理解するには相当の時間がかかることが予測される。
 無論、私にはまだまだ時間があり、今から延々と語って聞かせるのもやぶさかではないよ。だが、キミ達はそれでもいいのかな? 見たところ、キミと後ろにいる派手な青年以外は私の話に興味を持ちそうもないのだけれど」
「その辺りについても是非、お聞かせ願いたいところですな。我々は「分類」についても、推測の域を出ない部分が多すぎる。
 ですが、今日はそれについて聞きにきたのでもありません。
 この剣に起こった異変についてお尋ねしにきたんです」
 異変、という言葉に老人は眉を寄せ、未だルカの手に握られている歯車の剣に目を落とす。
 手入れを怠っていないことがよくわかる刃身は、老人が生み出したときよりも鋭利な光を放ち、自身が実践用であることを声高に叫んでいる。
 キスリングがここにいたる経緯を話すと、老人は腕を組みわずかに考えを巡らせる様子を見せた。
「……あの剣自体には大した力はない。
 次元を切り裂き、世界を繋ぐための媒体とした剣に、「分類」を切り裂く力がわずかに宿るだけだ。
 あれ単体では世界を裂くことはできないし、他者を「分類」から解き放つこともできない。できたとして、相手は大怪我か死ぬかしているだろうね。
 だから、もしもソレに異変があったとするならば、大本の装置の影響。
 即ち、世界が繋がったことに反応したのだと思われる。
 それ自体に意味はない。キミ達が熱いものに触れ、思わず手を退くのと同じくらい、些細な現象だ。世界が落ちるような事態にはならない。私が保証しよう」
 何とも拍子抜けする結論だが、恐ろしいことが起きていないのならばそれが一番だ。
 エプロスはマルレインを見る。その視線を受け、彼女は笑みを返す。
「彼は嘘や根拠のないことは言わない人だったと思うわ」
「そうか。ならいいんだ」
 老人のことをよく知らない身からしてみれば、彼の言葉の真偽を計るのも一苦労だ。目の前に安心がぶら下がっているからといって、何も考えずに掴むのは愚の骨頂といえる。
 だからエプロスは疑い、マルレインに問う視線を向けた。
「ところで、だ」
 唐突にスタンが老人へ言葉を向ける。
「ルカ君のことはもういいのかね?」
「三百年も前のヤツの子孫かどうかなどわかるか!
 それよりも、だ。
 貴様、先ほどから別の世界がどうたらと言っておるな」
 スタンの口は楽しげに歪み、金の瞳を爛々と輝かせていた。
 それは、新しい玩具を前にした子供とよく似ている。
「言った。
 この世界は、本来あるべき世界から切り取られた世界だ。過去のモノ、として残っているものの殆どは、今も向こうの世界で普通に使われていることだろうさ。
 切り取られ、「分類」を貼り付けられ、ここにいた住人達は変えられてしまった。
 私はそれをあるべき姿に還そうとしていた。そして成功した。
 元々一つであった世界は、壁に一つ穴を開けてやるだけで同一化を始める。こちらの世界はずいぶんと様変わりしてしまっているから、完全に元通りになるには長い長い時間がかかるだろうけどね。
 世界は自分のことをよく知っている。自分やそこに住む人々が壊れない速さで自然と馴染んでいくことだろう」
 おそらく、人々が変わるのと同じ程度の速度なのだろう。ルカ達が生きている間には大きな変化が見られないほどの。残念ではあるが、急激に世界がどうにかなってしまうわけでないと知り、ルカ達はほっと胸を撫で下ろす。
 だが、それに意義を唱えるのが、魔王の役目だ。
「何を安心した表情をしているのだルカ!
 新たな世界があるというのならば、それを侵略し、制圧してやらねばなるまい!
 こうして余がこの場にいるのも、世界がそれを望んでいるからとしか思えん!」
 ロザリーは何を馬鹿なことを、と呆れた声を出すが、高笑いをしているスタンにその声は届かない。それどころか、彼は楽しげな表情のまま、鋭い爪を老人の眼前へと向ける。
「どうすれば向こうの世界とやらに行ける。
 教えろ。さもないと……」
「あんた何やってんのよ!」
 とっさにロザリーがレイピアを抜き、周囲が慌しくなる。しかし、老人は動じる様子一つ見せず、真っ直ぐにスタンを見ていた。
「……キミが、魔王?」
「そうだ! 何処からどう見ても、魔王スタン様だ!」
 ここぞとばかりに主張しているが、どうしてか魔王としての威厳が見えないのがスタンがスタンたる所以だろう。憎めない雰囲気が出てしまっているのだが、本人は気にしていないどころか認めてもいない。
 老人はしばしの間、スタンを眺めてから小さく笑った。
「なるほど。そういうことだったのか」
「人を見て笑うとは失礼なヤツだ。余を侮っておるのではあるまいな……?」
「あんた、いい加減にしなさいよ。
 魔王、って言われたって、ペラペラの影だったころと同じくらいの威厳しかないじゃないの」
「この力強い余の肉体を見て何をほざく、ケツ太もも一体型女!」
「ななななななんですって! このペーパー魔王!」
 本日何度目かの低レベルな口論に周囲も肩を落とす。
 こんなところにまできていつも通りの争いを見るハメになるとは、という鎮痛な思いが表情にはっきりと映し出されていた。
「向こうの世界を見てみたいかい?」
 勇者と魔王の争いを止めたのは、老人の静かな声だった。
「キミの思うような世界ではないかもしれないよ」
 ロザリーも、周囲も、静かにスタンの返事を待った。
 老人がそれを望んでいるのだろう、と思ったから。
「当然だ。
 どのような世界であろうとも、余が統べてやれば同じこと」
 圧倒的なほど、傲慢に言い放つ。
 欠片の不安も揺らぎも見せず、彼は自信を持って言葉を吐いてみせた。
「うん。なら、見てみるといい。
 この世界を「分類」から解き放ったキミ達なら、見る権利がある。
 見て、感じて、世界が一つになるということを考えてみてほしい」
 そう言うと、老人は部屋の壁を指差す。
「あそこを歯車の剣で切ってみなさい。
 そうすれば、穴が一時的に広がり、人が入れるようになるはずだ。
 帰るときも穴を広げればいい。場所はキミ達が出て行った先だ」
 あっけないほど簡単に説明され、思わず一瞬の間ができてしまう。それはスタンだけではなく、周りとしても同じ気持ちだった。
「……ふっ。殊勝な心がけだ。
 よかろう。ならば、その権利とやらを行使してやろうではないか。
 おい、行くぞ、ルカ」
 ズルズルと首根っこを掴まれ、数歩の距離を引きずられる。後は剣を振るうだけ。ルカにしてみれば慣れた行為だ。しかし、本当にそれをしてもいいものか、という疑問は残る。
 慣れ親しんだ世界と同一の、しかし、違う世界に行く。老人は簡単そうに言ったが、本当に戻ってこれるのだろうか。そもそも、向こう側は安全な場所なのだろうか。
 不安と疑問がルカの頭をぐるぐると巡る。
 助けを求めて仲間達へ目を向けるが、探究心旺盛なキスリングやエプロスは早くやれ、と言わんばかりの目をしており、ビッグブルやリンダは事が起こってから考える、と事態を静観している。頼みのロザリーやマルレインも迷う素振りこそ見せるものの、スタンを止めようとはしていない。
「早くせんか」
 楽しげな声に、ルカは肩を落とす。
 もう止められない。
 こうなってしまえば、後はなるようにしかならない。
 それに、この仲間達と一緒ならば、どんな世界でだってやっていけることだろう。楽しく、慌しく、時に困りながらも進んでいける。
 ルカは息を大きく吸い、吐き出すのと同時に剣を振るう。
 手にあったのは、壁を切る感触ではない。もっと柔らかく、弾力があり、それでいて紙のような、なんともいえぬ感触が刃から柄に伝わり、手を通して脳にまで入り込む。
「行くといい。魔王と勇者と仲間達。
 「分類」のない世界は素晴らしい。
 支配されていないだけで、魔王は人と在り、人は魔王と在ることだってできるのだから!」
 背後で聞こえていた老人の声が遠くなっていく。
 気づけばルカの背は仲間に押されていた、手はスタンに引かれていた。軽く後ろを見れば、楽しげな顔をした仲間達が目に入る。新しい場所、というのはどうしてこうも人を惹き付けるのだろうか。
「貴様、楽しそうだな?」
「え?」
 どうやら、楽しげな顔をしたいたのは仲間達だけではないらしい。
 長い時間、世界を隔てていた壁は薄いものではなかったらしく、一行が抜けるのに数秒ほどではあったが時間がかかった。
 浮かぶような、沈むような、何とも奇妙な感覚に身を包まれながらも抜けた先には、見知らぬ風景の町があった。
「……ここが、外の世界?」
 ロザリーが呆然と呟く。
 一見すると、そこは彼女達がいた世界とそう変わりはない。姿形もそれほど変わらぬ人々が歩き、武器を持っている人間もちらほらと確認できる。彼らは冒険者なのだろう。
 町並みは、綺麗に整備されたトリステ、といった風で、あちらの世界と大きく違っている部分を見つけ出すのは難しい。植物の生態も、詳しくはわからないが違いはないように思える。
 元々が同じ世界とはいえ、歯車やオルゴールといった過去の遺物を生み出した世界だ。もっと目に見える違いがそこかしこに散らばっているのだとばかり思っていた分、拍子抜けだ。
「そう。ここは外の世界。
 あなた達のいた世界が舞台上ならば、ここは観客席を飛び越えた会場の外、と言ったところかしら」
 周囲を眺めていた面々に声がかかる。
 当然、こちらの世界で彼らに知り合いがいるはずもなく、一瞬、別の誰かに話しかけているのだろう、と思ってしまった。だが、その声が発する言葉はどう考えてみても、ルカ達に向けられているとしか思えない。
 彼らは目を見開き、声のほうを見る。
「こんにちは」
 そう挨拶してきたのは、声の主、一人の女だった。傍らには、何処かでみたことがあるような男が立っている。
「――ホプキンス?」
 小さな呟きは、スタンのものか、マルレインのものか。
 周囲はどちらの声だったのか判別することができなかった。それほどまでにその声は小さく、また、彼らは同時に同じ言葉を呟いていた。
「久しぶり、ううん。始めまして、のほうがいいのかな? マルレインちゃん」
 ホプキンス、と呼ばれた彼女は小さく笑いながら、深い緑色の目にマルレインの赤を映し出している。大人の余裕、のようなものが彼女の瞳にはあった。
 ロザリーは横目でルカを見る。
 目の前にいる女性と彼は何処となく似た雰囲気があった。あの老人がうっかり間違えてしまうのも、わからなくはない、と思えるほど。
「待て待て待て! 貴様が何故、こんなところにいる?
 そもそも、ただの人間が三百年も姿形変わらずいれるはずがないだろう!」
 見詰め合う女性二人の間に割り込んだスタンは、褐色の肌をやや青ざめさせている。その様子こそが、彼女こそ、かの勇者ホプキンスである、という何よりもの証明に思えた。
「キミは……?」
 彼女が首を傾げると、ルカよりも幾分か長い髪がさらりと肩にかかる。
「余はスタン・ハイハッド・トリニダート十四世! 世界で唯一、ただ一人の魔王だ!」
「魔王……。そう。
 ゴーマの転生、なのね?」
「そ、そうだ」
 スタンが彼女の言葉を肯定すると、途端にその顔は喜びに満ちた。
 声が弾み、緑の目は細められ、まるでダンスパーティーに招待された少女のようにうっとりとした顔をしてみせる。
「ポラックに「分類」が消えた、と聞いて、もしかしたら、って思ってたの。
 でも、本当に、本当にこんな日がくるなんて! 今日は何て素敵な日なんでしょう」
「ま、待って。
 あなたは本当にホプキンスなの?
 それに、そっちにいるのは……」
 マルレインが目を向けた先にいるのは、ホプキンスの傍らに立っていた男だ。
 眉間に皺をよせたその顔は、生来の頑固さをひしひしと感じさせる。
「久しぶりだな、お嬢ちゃん」
「……ポラック」
 その名前にカッと目を見開いたのはキスリングだ。
 ポラックといえば、図書館の職員も口にしていた名前。さらに、スタンが封じ込められていたのはポラックのツボ、実際にはよく似たツボ、とルカの両親は言っていたが、おそらく、いや、ほぼ確実に、それは正真正銘、本物であったはずだ。
 ポラックのツボといえば、誰もが知る伝説の品。人の運命を変える、とされていたが、考えてみればなるほど、それは人との世界の運命を大きく変えた。
 目の前の男の名が、上記のものと無関係であるはずがない。
 よくよく観察してみれば、件の男は図書館にいた者達とそっくりだ。
「あんたとまた、こうして会える日がきてくれて嬉しいよ」
「私もよ、でも……。
 そう、少し、混乱してるわ」
 マルレインが戸惑いを顔に浮かべると、ポラックは小さく笑ってその手を取る。
「ゆっくり話そうじゃないか。
 こんなところで立ち話もなんだ。
 そうだろ? ホプキンス」
「えぇ。まったくだわ。
 私の家がすぐそこにあるの。そこでお茶でも飲みながら話ましょう。
 色々と、ね」
 怒涛の展開に、上手く思考がついていかない面々は、二人に導かれるまま、一軒の家に足を踏み入れる。可愛らしい概観をしたその家は、それなりに広く、中は片付いていた。
 居間の部分には大きなソファが並べられており、一行はそこに腰を降ろす。
 彼らの正面にポラックが座り、ホプキンスはお茶を淹れてくる、と断りを入れて台所へ入っていった。
「……正直、今もわからないことだらけだわ」
 マルレインが小さく零す。
 声はか細く、彼女がいかに混乱しているのかがよく伝わってきた。
「それも仕方のないことだ。
 全部、お嬢ちゃんがいなくなってから事は動いていたのだから」
 ポラックの言葉にマルレインが悲しげな顔を浮かべる。
 父親に縛られるのが嫌で、逃げて、隠れて、耳と目を塞いでいたあの時間。目の前にいる男は何を思い、行動したのか、彼女は知らない。
 それが申し訳なくて、情けない。
「一先ず、状況を整理したい。
 質問に答えてもらえるだろうか?」
「そうだな。それが一番てっとり早いかもしれない」
 ポラック達が始めから最後まで事の次第を説明したところで、簡単に理解できることではない。そもそも、持っている情報に差異がありすぎて、どこを取捨選択するべきかが非常にわかりにくいことになっている。
 こうなってしまえば、状況が理解できていない側からの質問に答えるほうが互いのためだ。
「はーい!
 じゃあ、何でおじさん達はあたし達がここに来るってわかったの?」
 我先にと手を上げたのはリンダだ。
 物怖じしない彼女は、ずっと胸に抱いていたらしい質問をそのままぶつけてくる。
「「分類」がなくなったことも知ってたみたいだし……。
 もしかして、こっちからはあっちの世界が観察できてたり? しちゃうわけ?」
「いや、「分類」が存在している限り、向こうはベーロンの世界だ。
 こちらから干渉することは難しい。
 だが、私は向こう側に一つ、楔を残しておいたのだよ」
 ポラック曰く、それはマルレインが人形を通して世界を見ていたのと似ているらしい。
 残した楔を通し、不透明ではあるが、大雑把な状況を把握していたという。
 マルレインとの違いは、常に見ていられるわけではない点と、楔自体に意思があり、それ独自に行動させていた、という点だ。時折、コンタクトを取り、指令を出してはいたらしいが、それも何度もできるようなことではなかったと言う。
「楔……」
 エプロスはスタンをちらりと見る。
 ポラックが残したもの。明確な言葉があったわけではないが、おそらくはポラックのツボを指すのだろう。そして、ツボはそれ単体では動くことも、意志を持つこともできない。ならば楔とは何か。ツボに入っていたモノか。
 ツボにはスタンが封じられていた。だが、彼は三百年もの間、一人っきりだったわけではないことをエプロス達は知っている。
 そして、ソレは途方もなく自由で、意思を持ち、時には「分類」を超えるようなことまでしてしまうことも、見てきていた。
「……ジェームス」
 静かに、零れるような声だった。
 スタンの目はわずかに見開かれ、ポラックに向けられている。
「そうだ。私の持てる力を全て使い、生み出したオバケ。
 ホプキンスがゴーマを封印したい、と言い出したときに仕込んだ秘蔵の楔だ」
 元々の性格なのか、相手が魔王であるからか。ポラックはスタンの様子にも構わずあっさりと肯定の言葉を並べていく。
 本来であるならば、彼の行動にキスリングやエプロスは賞賛の言葉を送ったことだろう。先を見据えた行動と、それを成せるだけの術。すぐに結果を出すことができるようなものではない。だが、それは世界全体を見据えようと思えば必要不可欠な要素になるのだ。
 そうであるにも係わらず、彼らは口をつぐむ。
 時として他者の感情を横に置いておくことさえある探求者であるとしても、空気を読む、という行為くらいはできるのだ。
「……そう、か。
 どうりで、余の言うことをイマイチ聞かんヤツだと思っていたわ。
 余が目覚めたときには共に封印されておったしな。その割に、転生前の薄っすらした記憶の中にヤツの姿は見えなかった。
 長年の疑問がようやく解消できたというもの」
 数拍の間。その後、つらつらと並べられた言葉の数々は、どうにも空虚だった。
 だが、それも仕方のないこと。何せ、三百年だ。途方もなく長い時間をスタンはジェームスと二人っきりで過ごしていた。腹立たしく思うことも多く、楽しい等と感じたことは殆どありはしない。
 けれども、ジェームスがいなかったとしたら、スタンは目覚めてからの三百年をどのように耐えたのだろうか。
 誰もおらず、何もなく、変わることもない日々。
 一種の拷問だ。
「アニキ……」
 流石のビッグブルもかける言葉をなくす。リンダなどポラックを睨みつける始末。
 強がってはいるが、スタンは間違いなく傷ついた。何処か抜けているところのある魔王は、存外寂しがり屋なのだ。
「大丈夫だよ、スタン」
 ルカは自身の隣で何処となくしょぼくれてしまった魔王に声をかける。
「全部が全部、嘘だったわけじゃない。
 確かに、ジェームスさんはポラックさんが作ったオバケかもしれないけど、だからって、今までスタンと一緒にいた彼が変わるわけじゃないよ」
 金の瞳がルカを見る。
 視線だけ寄こされ、ルカは心の内で小さく息をつく。
 スタンもちゃんとわかっているのだ。ジェームスは間違いなくジェームスで、そこには自由があった。共に旅をしてくれなかったことも、女性を片っ端から口説いていたことも、全て彼自身の意思で行われていた。
 ならば、思い出の全てが嘘になってしまうこともない。
 三百年という時間の中にいたのは、スタンとどこぞの男ではない。
 紛うことなく、魔王スタンと執事ジェームスであるのだから。
「最終決戦に向けて、ボクに修行をつけてくれたり、スタンのためにマダラネコ団に土下座してくれたり……。
 ねぇ、それは、やっぱりスタンのことが好きだからしてくれてたことでしょ?」
 子供っぽいところのある魔王は、こういった言葉を欲していたのだ。察しのいいルカは甘い飴玉をコロコロとスタンの耳に放りこんでやる。
 誰だって、第三者から肯定されたい時があるものだ。
「……わかっておる、と言っているであろう」
 そして、それを素直に受け取れないのが、大魔王スタン様だ。
 口を尖らせ、余計なことを、とでもいいたげな色が目に浮かんでいる。
 ルカはそれにごめんね、と一言返した。
 どうやら、スタンの機嫌はどうにか持ち直したらしい。視線だけではなく、顔がルカの方を向いたのがその証拠。
 周囲もそれを察し、ほっと一息つく。
 相手が魔王とはいえ、見知った者が傷つき、うな垂れている姿というのは、見ていて愉快なものではない。
「で、あなた達はどうしてこっちにいるの?
 ポラックさんはともかく、ホプキンス様は私達と同じ側でしょ?」
 場の雰囲気も安定したところでロザリーが新たな質問を投げかける。
 どれほどの年数がかかっていたのかは知らないが、ポスポス雪原の老人が時間をかけて二つの世界を繋げた。いくら元図書館職員がいるとはいえ、そう簡単にこちらの世界に来ることができるとは思えなかった。
「追い出されちゃったのよ」
 ロザリーの質問に答えたのは、淹れたての紅茶を運んできたホプキンスであった。トレイの上には人数分の紅茶と、大量のクッキーが入った皿が乗せられている。
 彼女は順々に紅茶を置きつつ、言葉を続けていく。
「私達が「分類」を消そうとしてることがベーロンにバレちゃってね。
 余程、気に障ったんでしょうね。気がついたらここにいたの」
 全ての紅茶を並べ終え、ホプキンスはポラックの隣に腰を下ろす。
 その姿に元勇者の面影を見ることはできず、どこにでもいる普通の女性のようにしか見えない。
「できること全部やっちゃった後で本当に助かったわ」
 カラカラと笑うホプキンスにポラックは頷きを返す。
「ヤツの目が腐っていて本当に助かった」
「お父様……」
 ポラックの返答に頭を抱えたのはマルレインだ。
 実父が馬鹿にされていることに関しては何ら思うところがないどころか、もって言ってやってほしい、と言わんばかりの彼女だが、彼の目が腐っている最たる要因が自身であることは自覚している。
 父の細かな事情や感情など知りたくもないが、「分類」を拒絶し、世界からその影を消したマルレインをベーロンが必死に探していたことは人形の目を通して見ていた。
 その度、置いていってしまったことに対するわずかな罪悪感と、過保護過干渉について反省のはの字くらい見せたらどうだ、という憤りを抱えていたのだ。
「でも、ホプキンスの姐さんは前の魔王さんを倒すくらい強かったんッスよね?
 そんならベーロンの野郎もぶっ倒せばよかったんじゃねーんッスか?」
 「分類」を消す小細工をするよりも先に、世界から追い出されるよりも先に、力で解決できるならそれが一番手っ取り早かっただろう、とビッグブルは言う。
 常日頃から筋肉を妄信している彼らしいといえば彼らしい発想だ。
「……それは、無理だと思うわ」
 ビッグブルの提案を打ち消したのは、話題にの中心人物である男の娘、マルレイン。
「「分類」の力は、きっとあなた達が思っているより、ずっと強いもの」
 それこそ、「分類」が消えるだけで、存在全てがなかったかのように扱われてしまうほど、あの世界において「分類」は物事を構成するのに重要な位置にある。
 定められた役割の前には、どのような思想も持つことは許されず、自由意志など存在しない。
「その通り。故に、私達ではベーロンを倒すどころか、ヤツに傷一つつけることは叶わなかっただろう」
 図書館職員はその他の何も知らぬ住人より少しばかりベーロンに近い位置にいる。しかし、それは「分類」が付与されていない、というわけでも、全てにおいて自由が許されている、というわけでもない。
「私とて、お嬢ちゃんの件がなければ、未だにあの図書館にいただろう」
 全てを司り、操る張本人が「分類」にかまけていられなくなった。それが全ての始まりだ。
 ベーロンはあの世界を娘のために作った。完璧で、ほころびも、歪みも許さない世界。だが、マルレインが姿を消し、ベーロンは世界のことなど、どうでもよくなってしまった。娘を探す合間に世界を調整し、娘の代わりを旅させるついでに世界の歪みを視る。
「私達の在り方はゆっくりと、しかし着実に変化した」
 自由意志を持たぬ図書館職員達が、「分類」の緩みによって自分自身の意見を持つようになったのだ。
 ある者はベーロンに同情し、またある者は世界を哀れんだ。
 娘のこと一つ理解してやれぬ男に管理され、今はずさんに手入れするだけで後は放り出されている。このままだといずれ、世界は歪に耐えることができなくなるだろう。
 素朴な住人達は、当たり前のように植えつけられている知識に疑問を抱き、それぞれの存在を疑い始める。
 そうしたとき、人々は何処へ矛先を向けるのか。
 きっと、それはいるかどうかもわからぬ神にではなく、また、見ず知らずの創造主でもない。
「私はいつか、世界の人々が互いを憎むようになるのではないかと思った」
 解消されぬ不安や歪さを人々は互いへ向けるだろうと。
 ならば、それよりも先に、誰かが歪に気がつく前に、彼ら自身の手によって「分類」が消えてしまえばいい。多少の混乱はあるかもしれないが、体中が負の感情に満たされていなければ人々はゆっくりと世界に適応していくはずだ。
「だから私はヤツから離反した」
 他の図書館職員にも憂いを伝え、ポラックがしようとしていることも散々に伝えた。だが、それに同意してくれる者は少なく、結局彼はたった一人で成し遂げなければならなかった。
 ベーロンに全てを伝えずにいたことだけが、元仲間達がしてくれた唯一の協力だったといえる。
 ただ一人、同意にも似た発言をしてくれた男もいたのだが、彼はポラックのやり方をまどろっこしすぎると言い、別の道を歩むことになってしまった
「……だが、そうだな。
 ヤツからしてみれば、それもどうだっていいことだったのだろう」
「どういうことだ?
 ベーロンはキミ達を邪魔に思い、こちらの世界に追い出したのだろう?」
 嘆息するポラックにエプロスは首を傾げた。
 話を聞くに、ベーロンがポラックのことをどうでもいい、と考えていたとは思えない。
「私が世界図書館を抜けてから、こちらの世界にくるまで、どれだけの期間があったと思う?」
 逆に問い返され、エプロスは言葉に詰まる。
 事は少なくとも三百年以上も前に起こっている。世界の在り方も今とは全く違っていたことだろう。当時のことを想像するだけでも難しい。
「二千年はあったかな」
 その場にいたホプキンスとマルレイン以外の全ての人間が目を見開く。
 百年単位どころではない。とてつもなく長い時間。スタンが生まれるよりも、先代の魔王が生まれるよりも、ずっと以前にポラックは世界図書館を抜け、秘密裏に行動していたのだ。
 何度も冒険を繰り返してきた、というマルレインの姿を見れは彼らにとって時間というものがいかに無意味かわかる。しかし、だからといって二千年、という時間が短いものであるはずがない。
「マルレイン……」
 思わずルカは彼女の名前を呼ぶ。
 長い年月は、そのまま彼女が一人っきりでいた時間と言って相違ない。
 彼とそう歳の変わらないように見えるマルレインだが、彼女の心についた傷は、大きく深いものだろう。
「平気よ。ルカ。
 私、一人じゃないもの」
 ルカの言葉を正確に読み取った彼女は優しい声で言った。
 今は仲間がいる。その前も、人形を通して世界を見ていた。
 本当の自分の周りに人がいなくて、寂しくて悲しかったことは否定できないけれど、それでも今は、幸せだと何の曇りもなく言える。
「それだけの時間、離反した私に気づかなかったか、あるいは何もできないと高をくくっていたのか。
 どちらにせよ、ヤツにとって私という存在が如何にちんけなものであったかがよくわかる」
 だが、鼠とて猫を噛む。蟻とて象に歯向かう。
 ベーロンがそのことに気づいたとき、全ては終わっていた。
「計画の最終段階でようやく事の大きさに気づいたヤツを見たときは、爽快だったよ」
「うむ。それはさぞやスカっとしたことだろう」
 忌々しげに舌打ちをし、それでもどうにもならない事態に顔を青くさせているベーロンを想像するのは実に愉快なことだった。スタンはしきりに頷き、どことなく楽しそうですらある。
「それまでが色々大変だったんだよ?」
「キミには悪いことをしたと思っているよ。
 でも、最終的には世界の住人にやってもらう必要があったからね」
「具体的には何をなさったんですか?」
 キスリングは身を乗り出す。
 身の内から湧き上がる探究心が、心を焦がす。
 知りたいのは答えだけではない。そこに至るまでの数式も大切なのだ。全てを知るためには、細かなことをおろそかにしてはいけない。
 知的欲求を前にすれば、途端に外聞などどうでもよくなってしまうのが、彼の良い部分であり、悪い部分でもあった。
「元々、あちらこちらが綻んでいた世界だ。
 糸をゆっくり解いてやって、ゆっくりと人々に変化を与え、自ら「分類」を脱するように世界の方向性を導いてやる」
「そして、人々が少し自分の意思や疑問を持ち始めたところで「分類」を退ける加護を与える」
 ポラックの言葉を奪い取るようにして言ったホプキンスは、暖かな紅茶を少し飲み込み、柔和な笑みをキスリング達へ向ける。
「加護は人を介して大きくなるらしいの。
 私がポラックから受けた加護は、私が愛した男との間に生まれた子供にも受け継がれ、その子もまた、加護を持った子供を生む」
 加護は表面に現れることもあるだろう。また、人の体内に隠れ、片鱗さえ見せぬこともあるだろう。しかし、着実に、加護は育つ。
 いずれ、その加護は「分類」から自身を守るようになるのだ。強く大きく育った加護は、他者にまとわりつく「分類」さえも退けるようになり、ベーロンを討つ力となる。
「あなたが生まれてくれて、良かった」
 その言葉と瞳は、真っ直ぐ、ルカに向けられていた。
「ひと目見ただけでわかったわ。
 あなたが私の孫……ううん、子孫なんだ、って」
 誰もがその可能性を考えながら、否定してきたことを、彼女はあっさりと口にしてしまう。
 ルカこそが、ホプキンスの血を受け継ぎ、ポラックからの加護を開花させた者なのだと。
「――いや、待て。
 さっきも言わせてもらったが、それはおかしいだろ」
 周囲が息を呑むなか、スタンだけが声を荒げる。
「貴様は普通の人間だろうが!
 だというのに、ちーっとも歳を取っておらんではないか!」
 鋭い爪がホプキンスに向けられるが、彼女は相変わらずの笑みを浮かべたまま。怯えた様子一つ見せないのは、流石元勇者、というところか。
 だが、彼の言うことももっともだ。
 ポラックは普通の人間ではない。しかし、ホプキンスは正真正銘、箱庭の世界に住んでいた人間。三百年という時を経てもなお、姿形と命を保っていられるはずがない。
「そっか。言うのを忘れていたわね」
 指が一本立てられる。女性らしく、細い指だ。しかし、剣を振るうことを生業としていたためか、指ダコが見える。
「一年。私がこっちにきてから経った時間は、たった一年、よ」
 驚愕再び。
 スタンは呆然と口を開け、キスリングやエプロスは顎に手をやって熟考の姿勢を見せた。
 唇を尖らせたのはマルレインで、小さく愚痴のような言葉を吐く。
「私だって歳をとってないわけじゃないもん……」
 何百、何千年と生きてきた老婆には見られたくないが、だからといって、歳を取らぬ小娘とも思われたくない。絶妙な女心がその声には込められている。
 しまった、という顔をしたのはロザリーだ。
 普通の女の子が自身の歳の話など進んでするはずがない。ベーロンという神に近い能力を持つ男の娘なのだから、歳もの取らないのだろう、と勝手に早合点していたのが悔やまれる。
 女同士でゆっくり話しを聞けば、もっと早くに解明されていたかもしれないというのに。
「マルレインちゃんに何度も冒険をさせるためだろうね。
 基本的に、魔王が復活するまでの平和な時間っていうのは、とても早く過ぎてるんだって。
 住人の体感としては一年は一年、一日は一日、なんだろうけど」
 つまり、スタンが孤独に過ごしていた三百年、というのは、外の世界から見れば数ヶ月程度の時間、というわけだ。
「おかげさまで私は未亡人になってしまいました、というわけ」
 ホプキンスは軽く肩をすくめるが、心の内側まではわからない。
 彼女が愛した男や子供は、もう既に死んでいる。老衰だったのか、病死したのか、あるいはオバケに殺されてしまったのか。それすらホプキンスは知ることができない。
 ルカという子孫が確認できたのだから、順調に血を繋いでくれたことはわかるけれど、孫の顔さえ彼女は見ていないのだ。
「……って、ちょっと待って!
 だったら私達も早く戻らないと――」
「問題はない」
 時間の流れ方が違うのであれば、今すぐ戻らなければホプキンスの二の舞だ、とロザリーが荒っぽく立ち上がる。テーブルか揺れ、カップに入っていた紅茶が少し零れた。
 焦るロザリーに、ポラックの冷静な声が被さる。
「すでに「分類」は消え、二つの世界は融合を始めている。
 時間の流れに差異はない。私も、お前達も、二つの世界が一つになったところを見ることは叶わないだろう」
 落ち着いた低い声に、ロザリーは安堵の息をもらす。そのまま重力に従ってソファへ腰を下ろした。
「驚く気持ちもわかるわ。
 私だって、まさか子孫やゴーマの生まれ変わりに会えるだなんて思ってもみなかった」
 笑いながらそう言ったホプキンスは、皿からクッキーを一枚つまみあげる。細い指はそのまま彼女の口元へは行かず、スタンに伸ばされた。
 あげる、とでも言いたげな目に、スタンは眉を寄せる。
 直接、顔を合わせたことはない。だが、敵同士だ。「分類」がなくとも、いる世界が変わろうとも、ロザリーが勇者であるように、ホプキンスもまた、勇者だ。
 ならば、スタンが彼女と馴れ合う理由などない。
「あなたはちょっと意地っ張りね。
 ゴーマとは正反対。ベーロンも色々考えたのかもね」
 くすり、と笑い、ホプキンスは指先のクッキーを自身の口に放り込んだ。
「そんなに違いますか?」
 ルカは尋ねる。
 スタンはゴーマの生まれ変わりであり、転生前の記憶を引き継いでいる。ならば、ある程度、性格が似ていて然るべきはずだろう。
 今更、前の魔王の話を聞いて、スタンに対する評価や印象を変えることはないが、目の前に疑問を広げられると気になるのが人の性。
「違うわよ」
 自身の子孫が何を思い、問いかけを口にしたのか彼女はわかっているのだろう。
「耳が尖ってるところとか、顔立ちとかは似てる。
 でも、髪は黒くて長かった。
 どちらかといえば知性派だったんじゃないかな。作戦を立てたりするのが上手だったわ」
「うわー、真逆。
 あんたはその知性をどこに落としてきたのよ?」
「何だと! 貴様の脳みそなんぞピーマンのようにスッカラカンのくせに!」
「はぁ? 私はあんたみたいに、力任せに敵を倒すなんて無粋なことしませんから!
 華麗に! 効率的に! 迅速に! 戦う私のどこが脳みそ空っぽなのよ!」
「いや、ロザリー君の戦い方は意外と荒っぽい気もするが……」
 勇者と魔王は同時に立ち上がり、互いに顔を付き合わせ罵声を投げあう。間に挟まれる形になってしまったキスリングにはご愁傷様、と仲間達は心の中で手を合わせる。
 日常茶飯事の光景とはいえ、ホプキンスやポラックには見慣れない光景だろう。彼らの目は丸く見開かれ、前方で繰り広げられる低次元な争いをただただ見つめていた。
「もう、二人ともやめてよ」
「むしろどちらかが倒れるまでやっちゃう?」
「キミは少し黙ってくれないか……」
 ルカがスタンの手を引き、リンダは残念そうに言う。最後にエプロスがため息をつき、ようやく小さな小さな喧嘩が幕を下ろす。
「……今度の勇者は、魔王と仲が良さそうで羨ましいなぁ」
 これに顔をしかめたのは、言う間でもなくスタンとロザリーだ。
 二人はこれ以上ないほどに顔を歪め、ホプキンスを注視する。
 彼女の口調や表情には何かを揶揄するような色はない。ただただ純粋に思ったことを口にしただけのようだ。それがまた二人の神経を逆撫でする結果となった。
「今ならばその言葉、撤回する時間を与えてやるぞ」
「ホプキンス様。嘘ですよね。冗談ですよね。
 私がこんな元一反木綿と仲良く見えてるなんて、嘘ですよね」
 威嚇するような声と懇願するような声。
 相反した二つのそれにホプキンスは思わず仰け反った。
「え、えっと……」
「今のはキミが悪いよ。ホプキンス。
 先ほどの喧嘩を見れば、彼らがそれを肯定しないことくらいわかりそうなものだが」
「つい出ちゃったの!」
 ポラックの諌める言葉に彼女は呻き声じみた反論を返す。
 仲間内から見てもスタンとロザリーの仲は悪くない。だが、良好かと言われば首を傾げてしまうのも確か。彼らに相応しい関係性は、悪友だとか腐れ縁、といったものだろう。
「だって、私はゴーマとちょっとしか話せなかったし。
 それも結局、ベーロンに邪魔されちゃったし」
「そうなの?」
「知らん」
 ホプキンスの言葉を受け、ルカが疑問符を投げてみる。だが、スタンの返答は非常に端的であった。
「まあ、記憶の改竄くらいはされているだろうしね」
 冷静な言葉を吐いたのはキスリングだ。
 自分にとって都合の悪いことをあのベーロンが記憶や記録に残しておくはずがない。今、スタンに残っている記憶で確かなものは、彼が彼として復活して以降のものだけともいえる。
「彼は話のわかる魔王でね。
 「分類」の話をしたときも真剣に聞いてくれたの。
 だからこそ、あなたは彼と正反対の性格にされたんだろうけど」
 賢い魔王、として生み出されたゴーマは、その「分類」に従い、知識を取り入れることに抵抗がなかったらしい。例え敵であろうとも、話す言葉の筋道が通っており、尚且つ有益であると判断すれば思うが侭にそれらを取り込んだという。
 その結果、彼はベーロンの期待を裏切るという解を導きだした。
 完全なる巨悪。憎悪と腐敗の化身。そうあれと望まれた魔王は、世界を変えてしまい、真に支配することを望んだのだ。
「正直、最終決戦なんてよく覚えてないのよ。
 私もゴーマも「分類」を強められて、強制的に戦わされたようなものだった」
 ルカ達の脳裏に世界図書館の最奥で行われた戦いが蘇る。
 誰の声も届かなかったあの決闘。ボイスレコーダーが手元にあったからこそ、雌雄を決する前に止めることができたが、そうでなければ、おそらくスタンが死んでいたのだ。魔王とは、そう在るべきモノだから。
「……最後の最後、ようやく自分の意思が持てたとき、私は必死だったよ。
 私達は色々話して、そして、約束してたから」
「約束?」
 かつての勇者と魔王が秘密裏に会談していたなど記憶にないし、聞いていて面白くもない、とばかりにふて腐れていたスタンだが、ホプキンスの口から出た単語に小さく反応を返す。
 魔王として、約束なんぞは破るためにあるものだと思っているし、人間という弱小な種族はそれを守れと声高に叫ぶわりによく破る、という認識が大きい。故に、あまり好ましい響きではないのだが、それを成すためにホプキンスが必死になった、というのならば興味の一つもわくというもの。
「もし、私達が対決することになって、私がゴーマを倒すなら……。
 私は、ゴーマをポラックの力を宿したツボに封印する、って約束」
 封印しなければ、ゴーマの魂はベーロンのもとに還り、また勇者がやってくるまで最終ダンジョンにこもっていることになっていただろう。それを防ぐためにも、彼らは死した魂を封じなければならなかった。
 新たな魔王が封印された場所で目覚めれば、復活するにせよ、封印が解かれるにせよ、第一歩があの世界の何処かになることだけは間違いないのだから。
「封印のことを聞かされて、慌てて私はあのツボに楔を打った。
 ついでに、一つ、呪いも」
「の、呪い……?」
 自分が封じられていたツボは呪われていました、と聞かされて嬉しくなるはずもなく、スタンはやや苦い顔をする。
「魔王の魂はホプキンスを継いだ者の傍へ在るように。
 加護と共に在るように」
 一同の視線はルカに向けられた。
 ホプキンスの血を受け継いだ末裔。
 スタンが彼のもとにたどり着き、影を乗っ取ったのは運命付けられていたものだったのだ。
 魔王に魅入られた一族、など、世が世ならば迫害を受けてもおかしくない。おぞましく悲惨な呪いといえる。ルカや彼の家族が幸せなままであるのは結果論に過ぎない。
 そもそも、「加護」自体が既に呪いじみている。他者から認識されなくなることの絶望や悲しみは、かつてのトリステを見ていただければすぐにわかるはずだ。
「じゃあ、あんたはなんで私のとこに来たのよ!」
「誰が好き好んで行くか!」したする。
 彼女がスタンを毛嫌いするようになった原因は、ツボに封印されていた彼を解き放ってしまった結果、影がピンク色になってしまったからだ。そう思ってみれば、ツボがロザリーの前にこなければ二人の間に今ほど大きな溝はなかったのかもしれない。
「もしかすると、ロザリー君が勇者だったから、かもしれないね」
 ギャーギャーと騒がしい中、キスリングは冷静に己の意見を述べていく。二人の喧嘩に慣れきってしまった成果、ここに極まれり。
「ホプキンスさんを継ぐ、というのは二通りの意味でとることができる。
 一つは血。つまり、ルカ君を指す。
 もう一つは「分類」。つまり、勇者。我々の世界には大勢の勇者がいたが、本来在るべき勇者はロザリー君、キミだったはずだ」
 ポラックの呪いは確実に発動した。
 故にツボはホプキンスを求めた。そして、始めにホプキンスの「分類」を継いだロザリーと接触した。しかし、彼女は加護を持っていなかったため、スタンをツボから完璧な形で解き放つことができなかった。
 そうして出来上がったのが、お笑い系勇者、というわけだ。
「……じゃあ、何?
 私の影が蛍光ピンクになったのは、ツボにかけられた呪いのせいなの?
 華麗な私の勇者としての道が閉ざされたのも!」
 ふざけないで、という叫びと共に、ロザリーが日傘を放り投げる。
 今の今まで、彼女が持つピンクの物体にツッコミを入れなかったホプキンス達だったが、これによってロザリーが何を隠そうとしていたのかを知ることとなった。
「そういうことだな。わかったら余を追い掛け回すのはやめて、そこのオッサンを追いかけるがいい」
「これをどうにかできるのはあんたでしょーが!」
 空気抵抗の原因となっていた日傘が投げ出されたことで、ロザリーの身は一気に軽くなる。
 素早く動けるようになった体で、彼女は腰に差していたレイピアを抜き取り、勢いのままにスタンへ攻撃をしかけた。彼女の手の動きで行動を予測することができていたスタンは鋭い突きを最小限の動きで避け、ロザリーへ爪を繰り出す。
「スタン君が入る影にキミやキミのママさんが好まれたのは、加護を身の内に持っていたからだろうね」
 キスリングはしみじみと言う。
 「分類」からの脱却と加護の強さが比例していたのならば、ルカの持つ加護はさぞ強大だったことだろう。
 魔力を殆ど失い、ポラックからの呪いを受けたツボに封印されていたスタンが彼を好むのは当然の結末だったというわけだ。
 だとしても、これほどまでの友誼を交わすのは、二つの世界に住む全ての人々、神々、誰も予想しなかったことのはずだろう。
「影?」
 ホプキンスは首を傾げる。
 大まかなことはジェームスを通してポラックが把握し、それを彼女に伝えていたが、細かなところはまだまだわかっていない。
「そうね、話すことはたくさんあるわ。
 ルカのこと、魔王達のこと、冒険のこと……」
「聞きたいこともある。
 「分類」やこの世界のことを私はもっと知りたい」
「はーい! あたしはホプキンスさんについてもっと知りたい!
 てっきり、男の人かと思ってたから女の人で驚いたし」
「オレは一度手合わせをお願いしたいッス」
 楽しげな声にホプキンスは目を細める。
「うん、そうね。
 私も色々話したいわ。
 前からマルレインちゃんとは色んな話がしたかった。
 今の勇者さんにも話を聞いてみたいわ」
 時間は有限だ。
 しかし、ここに彼らを縛るものは何もない。
 一方からの視点で「分類」された者ではなく、様々な属性や在り方が混じりあった彼ら自身がそこに在る。
「おい、ホプキンス!」
 腰にルカがしがみ付いてきている状態のスタンは、何処から話を聞いていたのかホプキンスに声を投げた。
「こんな泥尻女より、貴様のほうがずっと骨がありそうだ。
 貴様を倒し、こちらの世界も余が征服してくれる。
 覚悟しておけ!」
「本当にあんたって馬鹿! 馬鹿馬鹿!
 こっちもあっちもあんたなんかが支配できるわけないでしょ。馬鹿魔王!」
 ロザリーの前にはキスリングが立ちはだかり、どうにかスタンとの聞くも悲しい低次元な争いを収めようとしている。
 この場には十人の存在がある。それぞれは勇者であったり、魔王であったり、人間であったりする。彼らは望んだ通りの存在になれ、思うがままに生きている。
 ホプキンスはそれがとても嬉しかった。
 ポラックに「分類」の話を聞かされたあの時から、こんな光景ばかりを望んでいた。
 自分は勇者ではなく普通の女で、誰かと一緒にゆっくり話しをしてみたいと思っていた。魔王とだって優雅なお茶会をしてみたいと思った。馬鹿なことをして、馬鹿なことをされてみたかった。
「どうだい、ホプキンス」
 ポラックは尋ねる。
 彼もまた、目の前の光景を望んでいた。
「……うん、とっても良い感じ」
 ホプキンスは小さく笑うと、自分の分の紅茶を一気に飲み干す。
「私の腕はまだまだ落ちてないわよ?」
 彼女は自身の剣を取りに行くべく立ち上がる。
 勇者という「分類」は嫌いだったが、彼女は勇者である自分を誇りにも思っていた。
 だからこそ、こちらの世界にきてからも鍛錬は欠かすことなくおこなっていたし、剣の手入れも万全だ。
「あ、それとね」
 一度、ホプキンスは足を止め、振り返る。
 彼女の目はマルレインとリンダを交互に見つめ、そして意地悪気に笑うのだ。
「勇者が女なのは当たり前よ。
 あの親馬鹿、馬鹿親が可愛い可愛い娘の隣に男の勇者を置くわけがないでしょ?」

END