政権奪取のための戦いを続けていた。目の前にいる男は、この区域では唯一ヴァルバトーゼに従っていない者だ。一人くらい捨て置いてもいいだろうと言ったのはヴァルバトーゼで、フェンリッヒは余計な芽は早めに摘んでおくべきだと主張した。
 二人の付き合いはかなりの長さになる。その長さから、ヴァルバトーゼはフェンリッヒのことを信頼していた。悪魔にあるまじき信頼の強さだった。それが仇となったと周りが気づいたのは、ヴァルバトーゼの腹から剣先が見えたときだった。
「……フェ、ン……リッヒ?」
 首だけを動かし、後ろにある銀色の髪を瞳に映した。ヴァルバトーゼからは見えなかったが、フーカやエミーゼルにはよく見えていた。フェンリッヒが手にしている短剣がヴァルバトーゼを突き刺している。深々と刺さったそれをフェンリッヒが抜くと、腹からは赤い血が流れた。ヴァルバトーゼはその場に膝をつく。ただでさえヴァルバトーゼの体は血が不足しているのだ。
 口からもわずかながら血が溢れた。地面に染み込む己の血を見て、ヴァルバトーゼはぼんやりともったいないと思った。
「フェンリっち? あんた……なに、してんのよ」
 フーカが震えた声で尋ねる。手にしていた短剣を地面に突き刺したフェンリッヒはいつもの意地悪な表情ではなく、本当に悪魔のような笑みを浮かべていた。
「すべては、我が主のために」
 そう言ってフェンリッヒは対峙したいた男に頭を下げる。
「よくやった。私の犬よ」
「…………」
「う、嘘デスよね? フェンリっちさん」
 ヴァルバトーゼのように、彼と長く付き合ってきたわけではない。けれど、この短い時間でも互いを知ることは十分にできていたはずだ。少なくとも、デスコ達の知るフェンリッヒは誰かに犬扱いされることを是とするような者ではなかった。なにより、ヴァルバトーゼ以外に頭を下げるはずがなかった。
 何も答えないフェンリッヒに代わり、声を出したのは地面に膝をついていたヴァルバトーゼだった。
「お前は、すでにそいつのシモベだったというわけか」
「そうですよ。閣下」
 見下すような声色の返事だ。
「そうか……」
 小さく微笑んでいるヴァルバトーゼの表情は悲しげだ。
「ヴァルっち……」
 誰もこのような表情を見たことがなかった。
「フェンリッヒ! お前、本当にそいつが主でいいのかよ!」
「そうデス! そんな奴よりも、ヴァルっちさんの方が、ずっと、ずーっと素敵デス!」
「やめろ」
 非難の声を止めたのは、やはりヴァルバトーゼだった。力が入らないのか、震える足でどうにか立ち上がる。フェンリッヒと視線をあわせ、苦しげな声で言葉を続ける。
「人狼族は一生に一度しか主を持たん。
 大方、オレが暴君と呼ばれている時代に、暗殺させるつもりでフェンリッヒを送り込んできたのだろう」
 フェンリッヒと出会って、そう時間も経たないうちにヴァルバトーゼは力を失った。そんな男に価値はなく、送り込んでいた人狼のことも目の前の男は忘れていたのだろう。しかし、今になってヴァルバトーゼは再び魔界にその名をとどろかせ始めた。
 持っていることも忘れていたジョーカーを切るのに、これほど絶好のタイミングはなかった。
「オレは嘘が嫌いだ。契約を破棄することも同じだ」
 だから、フェンリッヒが裏切ったことを責めることができない。
「オレとの約束を破ったのは……まあ、いい。どうだフェンリッヒ」
 冷めた目をしている元シモベへ指を向ける。
「お前は痛みを感じているか?」
「……くだらん」
 他の誰が気づかなくとも、ヴァルバトーゼだけは気づいていた。冷めた目をしているフェンリッヒの拳は固く握られている。鋭い爪が今にも手のひらの肉を突き破りそうだ。彼は確かに痛みを感じていた。それを口に出さないだけだ。
「どう転んでも、お前は約束を破らねばならん。
 オレか、そいつか。好きな方を選べ」
 青白い顔がさらに白くなっている。これ以上血を流すのは危険だ。エミーゼルが心配そうな目を向けている。
「今言っていたじゃないですか。人狼族は、一生に一人しか主を持たないんですよ」
 主を変えるというのは、人狼族にとってはこれ以上ない罪だ。プライドの高いフェンリッヒがそれを選ぶはずもない。
「そうか」
「本当に、後悔しないのね?」
 フーカが問いかけると、フェンリッヒは静かに頷いた。
「わかりました。フェンリっちさんを倒すのデス」
「それしか、ないよな」
 ヴァルバトーゼを守るかのように三人が立つ。フェンリッヒは一瞬、驚いたように目を見開いてまた細めた。
「やれるものなら」
 地獄で鈍ったとはいえ、フェンリッヒも暴君時代のヴァルバトーゼに近づくだけの実力はあった。たかが人間とそれに作られた魔物。ついこの間まで親の傘のしたでぬくぬくと暮らしていた小僧に負けるつもりはなかった。
 本当の主に命じられるがままに、本来の姿をかつての仲間にさらす。
 鋭い爪はさらに鋭く、細身だった体は戦うのに相応しい風貌を持ち、口には立派な牙が揃う。
「えーフェンリっちってそんな姿だったのー?」
「うう、怖いデス……」
「何いってんだ! ヴァルバトーゼが戦えない分、オレ達が戦わないでどうするんだよ!」
 怯えながらも、三人は果敢に立ち向かった。
 戦いに参加はできずとも、一人だけ意識を失うわけにもいかぬと、ヴァルバトーゼはその場で腹を抑えながらじっと見ていた。じょじょに圧されはじめたフェンリッヒ達を。
「どうよ!」
 結果、勝ったのはフーカ達だった。
 愛用のバットをフェンリッヒにつきつけ、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「勝っちゃったのデス!」
 喜ぶ彼らとは対象的に、フェンリッヒは不服そうな顔をしていた。負けた側としては当然の表情だ。
「……殺れ」
 射殺さんばかりの瞳を閉じ、フェンリッヒは静かに告げた。彼の主はとうの昔にフェンリッヒを置いて逃げ出している。
「フェンリッヒ。お前、手を抜いただろ」
 そっと近づき、血まみれの手でヴァルバトーゼがフェンリッヒに触れる。
「……さて、何のことやら」
 目を開けたフェンリッヒはそうだ、と口角を上げる。
「裏切り者の血でも飲んだらいかがですか? 今にも死にそうですよ」
 血を流しすぎたヴァルバトーゼの体は冷たい。
「オレにはイワシがあるから大丈夫だ」
「言うと思いましたよ」
 二人の間にあるのは穏やかな空気だ。今までと何ら変わりのないその雰囲気に、周りは首を傾げる。
「……お願いです。血を、私の血を吸って、そのまま殺してください」
「だが断る。知っているだろ?」
「お願いします。最期の、お願いです」
 フェンリッヒは顔を歪ませ、両手で顔を覆う。
「私はあの人のシモベです。生きていれば、またあなたを殺さなければならない」
 泣いているのかもしれない。そう思わせるほど、フェンリッヒの声は弱々しく、どこか震えていた。
「ですが……。そんなことできるはずがない。
 私はいつの間にか、主よりもあなたに惹かれていた。四百年以上もの時が私を狂わせた」
「フェンリッヒ。オレはお前を殺さない」
 優しい笑みを浮かべ、ヴァルバトーゼは立ち上がる。
「傷はもうずいぶん癒えた。イワシの力を舐めるなよ」
 迷うことなく、歩いて行くヴァルバトーゼにエミーゼルがどこへ行くのだと問う。
「決まっているだろ」
 マントを広げ、声高に宣言する。
「フェンリッヒの主のところだ!
 欲しいものは奪い取る。それが悪魔の美学だ」
「閣下……?」
 上半身を上げたフェンリッヒへ、ヴァルバトーゼが声を投げる。
「覚悟しておけ。お前はもうすぐ、正式にオレのシモベとなる」
「……はい」
 それはとても甘美な魔ニフェストだった。


END