魔立邪悪学園の奥深く、ただ一人にだけ扉を開く部屋がある。もしも、興味の赴くままにそこを訪れれば、後悔することになるだろう。同時に、二度と普通の体で外の空気を吸うことはできなくなる。
 外界からの刺激を全て遮断しているその部屋は薄ら寒い恐ろしさがある。そこを拷問部屋だと称しても、誰も異議を唱えることはないと思われるほどだ。
 悪魔ですら恐れるその部屋には、一人の男がいる。彼は部屋の主ではない。実験体として監禁されてしまったのだ。そこに同情を寄せる必要がないことは彼を知る者ならば誰もが知っていた。
 静か過ぎる部屋に、足音が響く。どこか弱々しい歩調だった。ゆるやかで、一定のリズムを保つことさえできぬ音に、部屋に監禁されていた男は眉をひそめる。
 金属と薬品の匂いに溢れた部屋の主は、平素ならば楽しげに手を伸ばす器具には触れず、本をめくることさえしない。ただ真っ直ぐに、己が監禁した男の元へと向かった。
 手術台の上に張りつけられている男は、その昔に超勇者として名を馳せた人間だ。今となっては、彼を人間と称してよいのかはわからない。数百年の時を生き、幾多の魔王から得た力を操る。一般的に見れば、それはバケモノといって相違ないものだろう。
「どうした」
 超勇者、オーラムは威厳の残る声で尋ねる。
 足音は消え、彼の声が静かな部屋に染み渡る。
 オーラムが見つめるのは、白髪の魔王だ。かつて、至上最悪の魔王になるべく育てたことさえある少年の機微に、彼は不本意ながらも敏感だった。
 見たことのある感情こそ少ないものの、やや俯き加減な様子は、幼い子供が涙を堪えているようにも見える。
 人間の目線から語るのであれば、マオは既に子供というには長い年月を生きていた。だが、彼は悪魔だ。長い年月とはいえ、一生のうちから考えれば、まだ短すぎる生だ。
「……坊ちゃま」
「その呼び方はやめろ」
 即座に否定の言葉が紡がれた。
 マオを騙していたときの声色と呼び方は感に触ったらしい。
 部屋に降りたのは重い沈黙だ。オーラムの言葉を否定した割りに、マオは何か言葉を発するつもりはないらしい。思いを汲み取れということなのか、紡ぐべき言葉がわからないのか。
 おそらくは、後者なのだろう。オーラムは確信していた。伊達に、数百年を生きてきたわけではないし、マオの隣にいたわけでもない。
 今現在のマオは、彼が望んだ魔王の姿とはかけ離れている。
 脆く、弱く、繊細な姿だ。まるで、どこにでもいる、守るべき子供のような、弱者のような姿だ。手足の自由が利くのならば、すぐにでも抱き締めてやりたいと思ってしまうようなものだ。
「寂しい、というような顔だな」
「誰がっ!」
 マオの顔が上がった。
 不満気に寄った眉も、下げられた口角も、寂しげな赤い瞳の前には意味を成さない。むしろ、全てが泣きそうな顔を構築しているようにさえ見える。
 オーラムが執事として仕えていた頃には見せなかった表情だ。本物の勇者となった元偽物の男がきてから、マオは変わってしまった。オーラムが望む魔王としては最低の形に、マオの父親が望んだ魔王としては最高の形に。
「お前にはたくさんの仲間がいるのではなかったのか?」
 遠い昔にオーラムがなくしてしまったものだ。勇者が失くしたものを魔王が持っていると見せつけてくれたのは記憶に新しい。
 時間の感覚などないような場所なので、己が倒されてからどれ程の時間が経っているのかはわからないが、あまり長い時間が経過したわけではないだろうとあたりをつけている。
「それこそ、あの勇者が」
「……あいつは」
 ようやく否定以外の言葉を口にする気になったらしい。
 震える唇は、マオの表情と相まって泣き声を紡いでいるように思えた。
「――帰った」
 やっとのことで吐き出された言葉に、オーラムは納得がいった。
 マオは否定していたが、やはり寂しいのだ。勇者アルマースは、マオにとって始めてできた本当の友人であり、始めて心を開いた男だ。彼自身が思っている以上に、アルマースという男の存在は大きかったのだろう。
 人間界と魔界を行き来することは難しいことではないが、今までのようにずっと傍にいるというわけではなくなってしまった。
「そうか」
「ずっと、一緒だっと言った癖に……。
 我の傍にいるのではなかったのか……」
 勇者は嘘をつかない。そんな綺麗事を信じているマオではない。実際問題、それで痛い目を見たことがあるのだから当然だろう。また、アルマースはマオから逃げ出したわけではない。単純にいるべき世界へ帰っただけだ。今生の別れというわけでもない。
 故に、裏切りとまではマオも認識していない。
 ただ、思っていたよりも早い別れだったというだけの話だ。
 もっとずっと、それこそ数百年はぐだぐだと過ごすのだと心のどこかで思っていた。人間と悪魔では、絶望的なほどに寿命の差があることなど忘れていたのだ。
「我にはたくさんの仲間がいるから、安心だと言いよった。
 誰が仲間だ。全員、我の子分だ。そうだろ?」
 答えなど求めていないくせに、マオの語尾には疑問符が宿る。
 じいとして、勿論でございます、とでも答えてやればいいのだろうか。オーラムは少しばかり思案する。
「いくら大勢子分がいたところで、勇者など、一人しかおらぬというのにな」
 オーラムが何らかの返答をする前に、マオは再び言葉を紡いだ。壁にでも話しているくらいの心境なのだろう。吐き出さずにはいられないといった雰囲気が感じられる。
「運が悪くて、ヘタレで、マヌケで、お人好しで……。
 そんな悪魔、どこを探したところでおらぬわ」
 赤い瞳から涙でも流しているのだろうかと思い、オーラムは視線を上げた。しかし、赤い瞳は乾いたままだ。涙を流さぬように育てたのは己であったが、今は透明な雫を目にしたいと思った。
 寂しいのだと大声を上げて泣けばいいのだ。
 オーラムの目から見てもアルマースはお人好しだった。マオが心の底から引き止めれば、人間界へ帰る選択を迷っただろう。結果として、人間界へ帰ってしまったとしても、マオのことを心配して頻繁に顔を出すに違いない。
 悪魔の頂点に君臨する魔王として、その程度の狡猾さは持って然るべきだ。それとも、魔王だからこそ弱味を見せてはいけないのだろうか。
 誰にも知られぬ場所で、一人心を吐露し続ける魔王を眺め、オーラムは小さく息を吐いた。
 こんなことになるのならば、正体を明かしてしまう前にあの小さな勇者を悪魔にしておけばよかった。
 心の内に溶けた言葉は重い塊になって、オーラムの胸に残った。

END