父のものとは全く違う、けれども自分のそれよりはずっと大きくて暖かい手がエミーゼルは好きだった。
子供扱いをして頭を撫でるその手が、楽しげにギターを引くその手が、臆病なくせに力強いパンチを叩きこむその手が、口にこそしなかったが、ずっと好きだった。
「手、繋ぎますか?」
「馬鹿。ボクを子供扱いするなっていつも言ってるだろ」
「いいじゃないですかー」
アクターレはそう言うと、エミーゼルの手を無理矢理に掴む。体温というのは子供の方が高いとよく聞くが、幼いエミーゼルよりもアクターレの体温は高い。握られた手のひらから伝わってくる体温に、エミーゼルはどこか気恥ずかしさを感じた。
彼は一人っ子だったが、兄というものがいたらこのような感じなのかもしれない。アクターレには年の離れた兄弟がいると聞いたことがあるので、彼からしてみればエミーゼルは弟のようなものだろう。
それは大統領の息子として見られるよりも、ずっと気分の良いものだ。
「へへー。坊ちゃんも嬉しそうな顔してるじゃないですか」
空気の読めないアホはこれだから困る。エミーゼルはとたんに眉間にしわを寄せ、アクターレの手を振り払う。
「誰が!」
「あ」
一瞬だけ目を見開き、すぐにまた笑う。
「もー。照れ屋さんなんですから」
「照れてない」
平和で、つい最近までこの魔界が存亡の危機に瀕していたなど信じられない。
「ちょっと待ってくださいよー」
「待たない」
先へ先へと行ってしまうエミーゼルを、アクターレが慌てて追いかける。いつもの光景とはいえ、どちらが年上なのかわからない。
ようやくエミーゼルに追いついたアクターレは、自然な動作で手をとりしっかりと握る。一度、エミーゼルは口を開いたが、アクターレが鼻歌交じりの笑顔を浮かべているところを見てしまい。振り払うことも文句を言うこともできなくなってしまった。
その代わりに、握られた手を力強く握り返す。
悪魔として生まれてきて良かったと思うのは、こんな何でもない幸せな時間を味わっているときだったりする。
人間に生まれていたら、この幸せがあっという間に消えてしまうのだ。柔らかな時間がじっくりと流れているのを楽しんでいる人間達に自慢してやりたいとすら思うのだ。自分達悪魔は永遠を望む必要がないほど長い時間を生きられるのだと。幸せな時間を共有できるのだと。
「そこでオレ様は言ってやったんですよ!」
「あーはいはい」
嘘か本当かわからないアクターレの話に適当な相槌をうつ。話の内容は、大抵別魔界での話だ。この魔界から出たことのないエミーゼルからしてみれば、アクターレの言葉を確かめる術はなく、全てを信じるには普段の行いがあまりにも悪い。
「つかさ、お前ちゃんと仕事しろよな」
そう言ってやると、アクターレはあからさまに目線をそらす。分かりやすいにもほどがあるその様子にエミーゼルはため息をついた。
こうしている時間は好きだが、それとこれとは話が別だ。仮にもこの魔界の大統領なのだ。アクターレという男は。
本当に必要なことは、何だかんだと言いながらヴァルバトーゼやフェンリッヒがこなしてしまうため、アクターレには危機感というものがいまいちない。彼についている『大統領』が肩書きだけのものになっていることは、この魔界に生きる全ての悪魔が知っている。
「わかってますってー」
明日はちゃんとします。という言葉がようやく呟かれたが、それは本当に『明日だけ』のことなのだろう。
「……ま、仕事するだけマシか」
普段のことを考えると、たった一日とはいえ真面目にするのならば良いと思ってしまうから不思議なものだ。
「そうだ。じゃあ明日は会えないんで、明後日遊びに行きましょう」
「おい。仕事しろ」
エミーゼルの言葉は都合よく入ってこないのか、アクターレはどこへ行くかについて頭を働かせ始める。
最終的に彼が出したのは、未だに残っている訓練場という名の遊園地だ。確かに、あそこならば退屈しないですむだろう。
「ね? 坊ちゃんも好きでしょ?」
「勝手に決めるなよ……」
悪態をつきながら小指を差し出すと、アクターレも同じように小指を差し出し、エミーゼルのそれと絡める。人間がよく行う約束の方法だ。
「じゃあ絶対ですからね! 嘘ついたらヴァルバトーゼい言いつけますよー」
「お前って本当にプライドがねぇよな」
すでに明後日の仕事をサボる気しかないことがフェンリッヒにでもバレれば、それは口にしがたいような拷問に合わされるのは確定しているというのに、まだヴァルバトーゼの名を口にする勇気があるのが不思議だ。
とは言うものの、ヴァルバトーゼに感化されているエミーゼルが約束を違えるはずもない。
「わかった。わかった。絶対に行くよ」
暖かい約束を交わし、その日は別れた。もう夜も近かったのだ。
次の日、エミーゼルはアクターレに会わなかった。その次の日、彼に会うことができた。
木でできた棺桶の中に彼はいた。
「……なんだよ、これ」
いつもは騒がしい口は一文字に閉じられ、無駄に輝いている瞳も今は見えない。エミーゼルは棺桶の横に膝をつく。
「熱狂的ファンってやつよ」
フーカが答えた。これも夢だと思っているためか、はたまたアクターレの存在にそれほどの価値を見出していないのか、その口調はあっけらかんとしたものだ。
続けられた言葉を統合すると、別魔界でダークヒーローをしていた時代のアクターレが好きだったその悪魔は、わざわざ別魔界にあたるこの魔界にまでやってきたらしい。そして、アクターレの姿を見ると、いてもたってもいられなくなり、そのまま殺害。および自害。
「あまり落ち込むな。気持ちはわかるが、な」
ヴァルバトーゼの優しい言葉に、これは嘘でもドッキリでもないのだろうと知る。
彼はアルティナが死んだときのことと、今のエミーゼルと重ねているのだろう。
「……約束」
エミーゼルはポツリと零す。
「約束、したんだ。
一昨日、明日は仕事をするから明後日は遊園地に行こう、って」
棺桶の中に手を入れ、あのときと同じように小指を絡める。
すっかり冷え切ってしまっていた体は、指を絡めることさえ難しい。
「約束は守れよ……アホターレ」
ボロボロと大粒の涙が溢れ、零れる。
冷たい手のひらは好きだったものとはどこか違う。
この手はもうエミーゼルの頭を撫でないし、ギターを弾かない。誰かを殴ることだってしない。もう二度と動かないのだ。
「アホターレェ……」
「小僧……」
あのフェンリッヒまでもがエミーゼルを心配そうに見ている。
アクターレの亡骸は別魔界に住んでいる家族の元へ送られるのだ。どのような葬儀が行われるのかはわからないが、それが一番良いだろうとヴァルバトーゼが言う。
確かにそうだろう。何を言っても、アクターレの口から家族のことを聞かなかった日はないのだ。彼らの元へ返してやるのが一番に決まっている。ただ、それを受け入れられるかと、問われれば答えは否だった。
「わかりゃしないよ。悪魔の寿命は長いんだ。数千年くらいならバレないよ」
「エミーゼル」
震える声にかぶさったのは、重みのある渋い声だ。
その場にいた全員が声の方向へと顔を向けた。
「……父上」
そこにいたのは先代の大統領であり、エミーゼルの父であるハゴスだった。
「あまり酷いことを言うものではない」
「でもっ!」
静かな瞳を息子に向け、ハゴスは淡々と言葉を重ねていく。
「これから先も彼の家族は待ち続けるのだぞ。
帰りを、手紙を、連絡を」
「…………」
エミーゼルは俯き、唇を噛む。
「……エミーゼル」
ハゴスは優しく息子の体を抱き締める。
暖かな体温は、アクターレの手を思い出させ、涙が余計に溢れた。
END