大統領を倒し、政権奪取を成し遂げたかと思えば、すぐに次の問題が浮上してきた。
 魔界の腐敗以上に、たかが人間にいいようにされている現状に、悪魔ならば誰もが怒りと驚きを顔に出す。
「閣下」
 反逆者として共に戦ってきた一行は、ネモの誘いに乗り人間界へ向かう。時空の渡人によって、仲間達が人間界へとその身を投じる。最後尾にいたフェンリッヒは目の前にいるヴァルバトーゼに声をかけた。その声は真剣で、どこか固い。
「どうした」
 振り返り、フェンリッヒと目をあわせる。階段の上にいるヴァルバトーゼと、下にいるフェンリッヒ。二人はいつもと逆の高低からお互いを見る。
 しばしの沈黙の後、フェンリッヒが口を開く。
「もしも、私が本当に致命傷を負ったら」
 十魔王との出会い頭に演じたのはただの茶番だった。だが、茶番に終わらせることができたのは、彼らが弱体化していたおかげともいえる。長年地獄でプリニーの教育係をしてきた二人の力は全盛期と比べて、確実に劣っている。
 フェンリッヒにとって恐ろしいのは、ヴァルバトーゼの存在が消えること。そして、足を引っ張ってしまうことだ。
 拳を握る。人狼族特有の鋭い爪が手袋を裂き、肉に刺さったが気にすることなく言葉を続ける。
「捨て置いてください」
「……何を馬鹿な」
 冷たく返し、再び時空の渡人へと向き直る。これ以上、冗談を聞くつもりはないという意思表示なのだろう。
「ヴァル様。約束してくださいませんか」
 ヴァルバトーゼが背を向けたことも気にせず、フェンリッヒは言葉を付け足していく。主が約束を重んじていることは嫌になるほど知っていた。だからこそ、約束をする意味があるのだ。
 返事をしようとしない、けれど無視して立ち去るでもないヴァルバトーゼに、フェンリッヒはさらに自分の思いを紡いでいく。
「今回のように、私を振り返らないでください」
 大したダメージにはならなかったが、あの十魔王の攻撃の後響いたヴァルバトーゼの叫び声は傷に響いた。それが喜びだったのか、敵に隙を見せるということの不安だったのかは未だにわからない。理解するつもりもなく、永遠にわからないままでいいのだとフェンリッヒは自分に言い聞かせている。
「その腕で私を抱き締めないでください」
 落ち着きを持った声だ。冗談などではなく、血を飲ませようと策略をめぐらせているわけでもない。
 今の言葉は、間違いなくフェンリッヒの本音だ。
 強く握られている拳に、さらに力をこめる。小さな痛みが走るが、その程度の痛みなどないも同然だ。
「私に気を取られている間に、敵からの攻撃があったら。そう思うと私は――」
「ならば、致命傷を負わなければいい」
 返された言葉は至極単純なものだった。
 無視するわけではないが、問答が続くことを良しとしない口調だった。命令にも似たそれに、フェンリッヒは口角を少しだけ上げる。
「もしもの話ですよ」
「仮定が意味を成さぬほど強くなればいい」
 ヴァルバトーゼはフェンリッヒに背中を向けたまま言葉を返していく。
 この魔界で一番重要なのは力だ。その考えは実に悪魔らしく、ヴァルバトーゼもフェンリッヒもその考え方を根本に持っている。ただ、フェンリッヒは正面からのぶつかり合いよりも、策略戦術のほうが得意な傾向にある。最悪の出来事が起こってしまう可能性は低くないはずだ。
 優秀な頭脳は最悪の場合を想定し、その上で閣下のことを考える。その結果として、今回は見捨てて欲しいという言葉としてヴァルバトーゼに放たれた。フェンリッヒは自分が正しいと信じていた。
 唯一無二の主から、次の言葉は発せられるまでは。
「お前はどのような道でも、オレについてくるのではないのか?」
 その言葉にフェンリッヒは目をわずかに大きくする。
 月に誓ったあの約束。どのようなことがあろうとも、ヴァルバトーゼについていくのだと、月と自分自身に誓ったあの夜のことがフラッシュバックした。
「……すみません閣下。
 私としたことが、少々気が動転していたようでございます」
 固く握っていた手を解き、胸に添えて頭を下げる。
「ふむ。ならば行くぞ」
「はっ」
 どうやら、思っていた以上に弱気になっていたらしいと、フェンリッヒは自分を叱咤した。ヴァルバトーゼの傍にいることができるように、今以上に強くならなければならない。新たな誓いを胸に秘め、ゲートをくぐる。けれど、思考の端ではやはり不穏なことを考えてしまう自分がいた。
 もしも先に死ぬのならば、最期は血を吸われるか、こちらを振り向きもせずに戦うヴァルバトーゼが見たい。そして、戦いの後にはひっそりと涙を流して欲しい。きっと、その日から、ことあるごとにフェンリッヒを思い出すだろう。些細な小言の一つまで思い出し、一人で寂しい思いをするのだろう。
「閣下。すみません」
 心の中で呟く。死を望み、主の不幸を望むシモベがどこの世界にいるというのだろうか。第一、死ぬということは約束を破るということだ。かつて、アルティナとの約束が果たせなかったときの閣下をフェンリッヒは知っている。だから死ぬことはできない。
「フェンリッヒ。オレはお前を信じているぞ」
「もったいないお言葉です」
 心の底からの言葉だった。


END