人狼族は悪魔の中でもプライドの高い種族だ。基本的には一人で行動し、主と認めた者に生涯尽くす。
 だからヴァルバトーゼはフェンリッヒの今の姿を見るのが辛かった。主である自分が人間と約束を交わしてしまったばかりに、彼の生活は非常に苦しいものとなっている。本来は血の滴る肉を好む種族なのだが、今のヴァルバトーゼにそれを得ることはできない。狩るための力も、得るための金銭もない。
「閣下。お食事です」
「……うむ」
 そう言って差し出されるのは、新鮮な魚だ。調理はされている。広いテーブルの上に、ほんの少しだけの食事。フェンリッヒはもそもそと魚を食べるヴァルバトーゼを見守っている。今まで、ヴァルバトーゼはフェンリッヒの食事風景を見たことがない。
 だが、日に日にフェンリッヒが弱っていることはわかった。笑顔に力がない。体が細くなっている。ヴァルバトーゼは自分の不甲斐なさに唇を噛む。傷ついた唇からじわりと血の味がした。
 これは自分の血なので、問題はないだろうと結論付け、流れた血を舐め取る。
「閣下。自分の体を傷つけるようなことはやめてください」
 止まらなかった血を、フェンリッヒがティッシュで拭う。白に滲んだ血はヴァルバトーゼの中にある本能を刺激したが、約束の重さを思い出し理性を働かせる。
 やはり、この程度の栄養では膨大な魔力を必要としているヴァルバトーゼの体を保つことはできない。このままではダメだとわかっているが、血を飲むことはできない。弱っているのはフェンリッヒだけではないのだ。ヴァルバトーゼもまた、着実にその身を削っている。
 広い屋敷の中、自分の部屋にこもりヴァルバトーゼは考える。今の非力な自分は、いったい何ができるのだろうか。頭の中でぐるぐると考えていると、目蓋が下がり始めた。燃費の悪い体は、できるかぎり消費を抑えようとしているようだ。
 これ以上本能に逆らうことは難しいと考えたヴァルバトーゼは、素直に眠りの中へと引きこまれる。暗闇の中は穏やかで、何の心配もない。
 心地良い空間を壊したのは、わずかな物音だった。いつもならば、この程度のことで眠りが妨げられるということはない。
「フェンリッヒ……?」
 この屋敷の中で、自分以外に物音をたてるような者は一人しかいない。
 部屋の扉をそっと開け、足が動くままに進んでいく。途中、鉄臭い匂いがヴァルバトーゼの鼻をついた。
「……っ」
 まさか、侵入者にでも襲われたのではないか。不安を胸に、先ほどよりも足を早く動かす。
 あの曲がり角の先。というところで、ヴァルバトーゼは足を止める。見てはならぬような気がした。けれど、見なければいけない。激しく脈打つ心臓を落ち着けようと、一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。それでも心臓は忙しく動いていた。
 喉をならし、そっと覗く。
 目を大きく見開き、すぐにきびすを返す。足音を立てぬように気を配りながら、それでも少しでも早くあの場所から離れようと早足で歩く。自分の部屋につくと、すぐに扉を閉めて肺の中にある酸素をすべて吐き出す。
 手のひらで顔を覆い、壁に背をつけてうずくまる。
「オレの、せいか……」
 見えたのは月明かりに照らされ、銀色の髪が光っているフェンリッヒだった。けれど、それは美しいだけだはなかった。
 口元は血で赤く染まり、手には低級悪魔の死骸が抱かれていた。
 空腹だったのだろう。肉以外食べることができぬ誇りを守るために、低級悪魔を手にかけたのだ。無論、それは罪に問われるようなことではない。しかし、自分よりも幾分も格下の相手を食す気分はどうだったのか。心の内を考えるだけで胸が締め付けられる。
「フェンリッヒ。お前がオレのためにそこまで堕ちるというのならば」
 ヴァルバトーゼはマントをはためかせる。目には決意の色が映っていた。
「それに報いよう」
 一瞬、コウモリが彼の姿を隠した。
 次に現れたのは先ほどとは違い、幼い風貌をした青年だ。
 青年は部屋の窓を開け、暗い空の中飛びたつ。
 魔界に朝はこない。けれど、感覚としての朝ならば存在する。フェンリッヒはいつも通り、体についた血を拭い、血の匂いを消してから主であるヴァルバトーゼの部屋へと向かう。
 ノックを三回。声をかける。
「閣下。お食事の用意ができました」
 だが、返事はない。不審に思い、失礼しますと声をかけて扉を開ける。鍵のついていないそれはあっさりとフェンリッヒを部屋の中へといざなう。
「……閣下?」
 少しばかり広い部屋を見渡してみても、主の姿は見えない。開いた窓から入ってくる風がカーテンを不気味に揺らす。
「閣下? 閣下! どこですか!」
 衰えたとはいえ、元暴君の名を持つヴァルバトーゼを狙う輩がいても不思議ではない。フェンリッヒは冷汗を流しながら主を呼ぶ。迷子の子供のように悲痛なその叫び声は屋敷の周辺にまで響いた。
「うるさいぞフェンリッヒ」
 絶望の中、聞こえてきた声は、フェンリッヒを救い上げる。
「閣下! どこに行ってらした……んです、か」
 言葉の最後方はあまりにも小さく、ヴァルバトーゼの耳には届かなかった。
 フェンリッヒは目を見開き、己の主をじっと見つめている。
「行くぞ」
 告げられ、背を向けられる。
「行くって……どこへ、ですか?
 というか、その姿はどうなさったんですか?」
 疑問を口にしながらも、その足は迷わずにヴァルバトーゼの後を追う。
「この屋敷は売った」
「え?」
「この姿は、今のオレの魔力にあわせた。
 以前の姿は燃費が悪過ぎる」
 あと、と続け、ヴァルバトーゼは少なくないヘルをフェンリッヒに手渡す。
「今日は肉が食べたい」
「そんな無茶言わないでください。
 家を売ってしまってこれからどうするんですか」
 呆れたような言うシモベにヴァルバトーゼは眉を寄せる。
「なら好きにしろ。それはお前に全て預ける。
 ただし、オレの体と同じくらい、お前の体も大切にしろ」
 真っ直ぐな瞳がフェンリッヒを射抜く。
「シモベを犠牲にせねば生きていけない、情けない主だと思うな」
 敵わない。素直にフェンリッヒは感じた。ヴァルバトーゼは一度決めればその意見を変えることはまずない。
「……全ては、我が主のために」
 跪く。
 表情は見えなかったが、ヴァルバトーゼが満足げに笑っていることだけはわかった。


END