ずいぶんと昔に死んでしまい、それでも生きている。そんな矛盾を孕んだ男は、夜の闇を歩きながら笑っていた。
男には名前がある。しかし、それは捨てるつもりだ。取り引き相手にも偽名を使っている。
今夜で全てが終わる。
胸の中にある闇も、鬱憤も、屈折しきってしまった感情も、名前も、全て捨てることができる夜なのだ。鼻歌の一つも奏でたいところではあったが、それは最後のお楽しみにしても構わないだろう。男はキャリーバッグの中にいる相棒を思いながら歩く。
「シセル。オレと一緒に生きてくれ」
死なない男が言う。
キャリーバッグの中にいる相棒は、甲高い声で鳴いた。それは同意の声であり、男もそれを理解していた。
「ありがとう」
相棒は真っ暗な闇の中、たった一つの光だった。
姿こそ黒色をしているが、彼の色は闇などとは全く違う。例えるならば、月の出ている夜のような色なのだ。その色に、この十年間、どれほど男が救われてきたか。どのような言葉を用いても、男は納得しないだろう。
男とは違う種ではあるが、彼のことをよく知っている猫、シセルは狭いキャリーバッグの中、男を思う。
哀れで、可哀想で、優しくて、暖かい心を持った男だ。だからこそ、シセルは彼の傍にいた。生まれて始めて手を差し伸べてくれた男の傍以外に、彼は生きる場所を見つけようともしなかった。
時折、部屋の隅や路地裏でうずくまる男を何度も見てきた。涙こそ流さないものの、その声と呻き声は間違いなく嗚咽だ。
猫であるシセルは、男を励ますことができない。優しい声をかけることもできない。できることといえば、甲高い声で鳴くことと、傍にいることだけだ。そんな自分が、彼と共に行くことができるのは嬉しかった。
「私を覚えているかい?」
外の声に耳をすませる。
「……ごめんなさい。わからないわ」
「そうかい。私は、十年前――」
男が知らぬ女と話している。
シセルはその言葉に耳を傾ける。人間の言葉は理解できる。しかし、彼らの言っていることはよく理解できなかった。十年前と言えば、シセルが男と出会ったときでもあるのだが、何せ生まれたばかりの頃だ。記憶も曖昧であるし、どのような経緯があったのかなど知るよしもない。
そうこうしているうちに、男の体から力が抜ける。
シセルは何度もその姿を見ていた。彼の体がヌケガラになる。そして、彼が何かをする。
危険なことをしていなければいいのだが。そんな風に思っていた。
人間とは違う聴覚を持っているシセルが、引き金の音を聞き取った。次に聞こえてきたのはつんざくような音。そして消える視界。
二度目の発砲音をシセルは聞くことをしなかった。できなかった。彼はすでにその生涯を終えてしまっていた。
「シセル。ちょっと体を借りるな」
男のタマシイはそう言って黒猫の体を乗っ取る。
彼の声はいつだってシセルに届いてはいなかったが、それでも言葉は紡いでいた。最低限の礼儀とでも言うのだろうか。
猫の鳴き声が事件現場に響き、男のヌケガラを落として去っていく。悠々としたその姿は、誰もが見惚れるに違いない。男は美しく、俊敏なシセルの体が好きだった。始めてトリツクことをした体という贔屓目もあるのかもしれない。
「よし。後は――」
男は猫の体で目的地を目指す。
しなやかな脚を使い、地をかけ、ゴミや壁を登る。それは、今までにもおこなわれており、あのヌケガラをアヤツルのと同じくらい当たり前にできることだった。いつもと何ら変わりない体だった。シセルは男がアヤツルことに抵抗をしない。
男の能力を理解しているのか、していないのかはわからないが、抵抗する必要はないと認識しているようだった。
だからこそ、男は気づかなかったのだ。
「よっと……」
塀に飛び乗ると同時に、何かが零れる音がした。それも大量に。
男は振り返る。
赤い血がそこにはあった。見れば、今まで自分が歩いてきた道に、点々とした跡をつけていた。
「……何だ?」
ない血の気が引く。
体を見ても、毛皮に隠れた傷は見えない。両の手は人のモノとは違い、毛をかきわけて傷を見るようにはできていない。傷を知るための痛みも男は感じない。だから、男は続いている赤い跡と、今もなお自分の足元に広がり続ける血を見て判断するしかなかった。
「シセル?」
呼びかける。
返事がないのはいつものことだ。一つの体に二つのタマシイがあることに違和感を覚えないのもいつものことだ。
「シセル! たのむ! 何か、何か言ってくれ……」
男は悲鳴のような声を上げ、近くにあったモノにトリツク。
そこにシセルがいるのならば、何事もなかったかのように猫は歩きだすはずだ。
「頼む。ああ、お願いだ……」
モノの中から男は願いをかける。
時が動き出す。
黒い体はゆらりと揺れ、そのまま道に倒れた。
ピクリとも動かず、腹も動かない。
「ああ……。嘘だ。まさか!」
猫が死ぬ瞬間など、一つしかありはしない。
銃声を男は思い出す。一発目、上手くアヤツルことができずに、外した一発。あの銃口はどこに向いていたのだろうか。
「また……。また失うのか……。
オレは、また……。シセル。お前を、また、失った……」
かつての恋人であったシセル。闇の中でも男の標となってくれたシセル。
男のタマシイはさめざめと涙を流し続けた。
生き返らせることができるのならば。あの、死ノ四分前に戻れるのならば。どれほど救われただろうか。
男の慟哭は誰にも聞かれず、ただ闇に溶けた。
END