大亜はやりたいことができた。
 今まで、腐った家以外の場所に己と弟の居場所を作ってみたり、そのために力をつけてみたりと、やってきたことはたくさんあった。しかし、そのどれもが「やりたいから」ではなく「やらなければならないから」という、半分強制じみたものだった。
 そんな彼であったが、ある日、天からお告げが舞い降りたかのようにやりたいことを見付けたのだ。
「親父、学校を辞めるからすぐ弟子にしてくれ」
 とある大工の親父に大亜は頭を下げた。今まで、誰にも下げたことのない頭だ。暴走族の総長である彼の頭は、簡単に下げることができないだけの重さをもっている。無論、大亜もそれは自覚していた。その上で、中年を越えた男に頭を下げた。
 理由は単純。彼がそうしたかったから。
 暴走ることと、学校へ行くこと、喧嘩をすること。大よそこの三つで構成されていた彼の人生は、目の前にいる男と出会うことで変わったのだ。特別カリスマ性があるというわけでもなく、腕が良いというわけでもないと思われる男だったが、何故か大亜は惹かれてしまった。
 男を見て、形のある物を生み出したい考えることができた。大亜が今までに作った数少ないモノ達は、全て目に見えないものだ。物語の中では、目に見えないものは大切なもの、という扱いを受けることが多いが、やはり男として生まれてきたのならば、一つくらい形に残るものを作り上げたいと思うものだ。無意識下に存在していた願望を、大工の親父は見事に引き出してしまったのだ。
「んなこと言われてもなぁ」
 始め、男は困惑顔をしていた。それも当然だろう。大和田大亜と言えば、地元では有名な暴走族の総長だ。頭を下げられたとしても、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。そうでなくとも、暴走族の総長を迎え入れたいと思う人間は多くはない。
 大亜もそのことはわかっていた。簡単に受け入れてもらえるはずがない。だからこそ、大亜は毎日のように親父の仕事場へ通い、頭を下げ、頼みこんだ。
「……わかった。
 お前がそこまでやりてぇってんなら、もう止めねぇよ」
 仲間達の目を掻い潜って頭を下げにくる大亜の気概にとうとう親父が負けた。けれど、しぶしぶ頷いたわけではない。彼の男気と体格、そして真剣な態度に心打たれたのだ。
「しっかし、お前は暴走族の頭なんだろ? そっちはいいのかよ。
 言っておくがな、単車に乗りまわしながら大工になろうってぇのは無しだからな」
 どのような世界にあっても、頭というのは責任が付きまとう。そう簡単に辞められるはずがない。それが、頭のカリスマ性によって形成された集団であるならば、余計に。
 解散だと言うことはできるだろう。しかし、大亜が自分を慕ってくれている人間をあっさり切り捨てられるとは思えない。暴走族連中からしてみれば、あのチームはもう一つの家のようなもののはずで、総長の夢一つで壊していいものでもないはずだ。
 心配する親父を他所に、大亜は良い笑みを浮かべていた。
「あぁ、そっちは大丈夫」
 何の不安もない目だった。
「オレの弟に任せるから」
 彼の声色を聞くだけで、いかに弟を信頼しているのかがわかる。
 ただ弟だから、という理由で総長の座を譲るのではない。強さや心を認めているからこそ譲るのだ。多少の色眼鏡はあるかもしれないが、それでも大亜は暮威慈畏大亜紋土を任せられるのは弟の紋土だけだと考えていた。
「ま、一応数ヵ月後に引退ってことにするから。
 そしたら、よろしくお願いします」
 改めて頭を下げる。
 高校を卒業する前に夢を見つけられて良かった。向かう先を決めることができてよかった。心の底からそう感じていた。
 帰宅後、大亜は紋土に引退の話をした。何をしたいのかまでは言わなかった。正式に弟子入りしてから告げたかったのだ。唐突で理不尽な大亜の言葉に紋土は反対を叫ぶが、彼の意思は変わらない。
「大丈夫。お前はオレの、最高の弟だからよ!」
 本心だった。
 親には恵まれなかったが、兄弟には恵まれた。喧嘩をすることもあったが、互いをよく理解しあうことができた。そこいらの血が繋がっているだけの兄弟とは違う。二人は魂から繋がりあっている兄弟なのだ。
 だからこそ、何も心配はしていなかった。
 チームの連中に引退を発表し、紋土に対する陰口が流れているのを耳にしても無視した。紋土ならば自分の力でどうにかできると信じた。本当は、愛する弟の陰口を叩いている人間を片っ端から殴りたい気持ちではあったのだ。自分が最高だと思っている弟が二代目になることを反対する者の存在を消してやりたくなりもした。
 しかし、今の段階で手を加えれば、この先も紋土はずっと兄の庇護下にあると言われてしまう。安心して暴走族を辞めるためにも、口を挟んでしまうわけにはいかなかった。
 拳を握り締めて耐える大亜に応えるように、紋土は総長としての振舞い方を考えるようになっていった。二ヶ月間の猶予ではあったが、その中で紋土は様々な方法を模索した。健気ともいえるその姿を見て、大亜はやはり己の弟は最高の男だと再確認する。
 今は紋土の素晴らしさを理解していない連中も、いずれ理解するだろう。そんな甘い考えを抱いているうちに、引退の日がやってきた。
 暮威慈畏大亜紋土を作り上げた総長の引退式ということで、ド派手なものにする予定だった。誰もが単車にさらなる装飾を加え、旗を手にしている。大亜も、最後の暴走りになるということで、感極まる思いだった。
 そんな時だ。
「兄貴、勝負だ」
 紋土が大亜に向かって言い放った。
 喧嘩をしたことは何度もあったが、真正面から勝負を言い渡されたことは今までなかった。
 同じ土俵にいるのも今日が最後となる。一生一度の、弟との勝負。受けない理由がない。
「いいぜ。
 んで、何で勝負するんだ?
 喧嘩か? 暴走りか?」
 どちらでも大亜は紋土に負ける気はなかった。最後とはいえ、次の総長が相手とはいえ、兄として弟には負けられない。第一、わざと負けるようなマネをすれば、紋土は怒るだろう。沸点が低い弟を宥めるのは大変だ。
「暴走りだ」
 端的に告げられた勝負方法は、今日という日にピッタリなものだった。
 単車で暴走る最後の日に、最愛に弟と暴走りで勝負をするのだ。もしかすると、派手な引退式なんぞよりもずっと思い出に残るかもしれない。
 大亜は口角をあげ、近場にいた男に審判を頼む。その男はチームの中でも真面目な部類に属しており、どのような結果になったとしても公平な判断を下してくれるだろうことも折りこみ済みだ。
 二つ返事で男が了承すれば、後は暴走るだけ。大亜はこれから始まるさほど長くはかからないであろう時間に胸を高鳴らせる。女に心を寄せたときよりもよっぽど心地の良い高鳴りだった。
「よーい」
 笑ってしまうのを抑えることができない。
「スタート!」
 出だしは同時。しかし、少し走れば差が出てくる。
 当然、勝っているのは大亜だ。
 紋土に暴走り方を教えたのは大亜だ。当時に比べれば紋土の技術も上がったが、それでもやはり師匠に勝つにはまだ早かった。
 弟の成長を喜びつつも、負けるつもりはない。
 大亜は軽く後ろを振り返った。どの程度離せているか、相手は何をしようとするか。それを確認するためだ。
 しかし、紋土を目にした彼は、勝負に勝つための方法など全て吹き飛んでしまうこととなった。
「――紋土」
 単車の爆音で声は届かないだろう。大亜は呆然と呟く。
「お前、そんな顔してたのか」
 胸が痛んだ。先ほどまでの高鳴りなど、死に絶えた。
 彼の背後に、思っていたよりも近距離にいた紋土の表情は、苦痛に塗れていた。
 喧嘩で骨を折られたときだって、今ほど顔を歪めてはいなかった。焦燥感と圧迫感と敗北感と、そんなものを全てごちゃ混ぜにして生まれた苦痛だ。鬼のようであり、地獄の亡者のようでもある。
 間違えた、と大亜は思った。
「何で気づいてやれなかったんだろうなぁ」
 考えてみれば、あの大工の親父に認められたことが嬉しくて、夢ができたことが嬉しくて、まともに紋土の顔を見ていなかった。必死に総長としての振るまいを身につけようとしている紋土を見ても、どこか微笑ましさを感じるだけだったが、もっとよく見ていれば苦しげな表情があったのかもしれない。
 今となっては憶測でしかないが、おそらくは真実だっただろう。
 勝手に最高だと思って、勝手に信頼して、勝手に大丈夫だとばかり考えていた。
 大亜は、チーム連中からわいてくる陰口を紋土がどのように受け止めていたのかさえ知らない。普段の紋土ならば、愚痴でも相談でも真っ先に自分にしてくることを知っていたのに。それがなかったことに違和感を覚えもしなかった。
 追いつめてしまったのだ。兄を越えなければ総長にはなれないと周囲が言い、兄を越えるためには兄を頼ることができず、紋土は一人っきりになってしまっていた。誰よりも一人を恐れていた弟を、兄である大亜が突き離してしまったのだ。
「すまん……」
 だが、今さら気づいたとして何ができるのだろうか。
 ここで負けてやることはできる。チーム連中にならば気づかれないだろう。しかし、紋土は気づく。確実に、手を抜かれたのだと察してしまう。そうなれば、また余計なものを紋土に背負わせることになってしまうのではないか。
 大亜の脳はぐるぐると打開策を考える。ゴールまでにどうにかしなければならない。焦りが生まれる。
「くそがぁ!」
 背後から紋土の声が上がった。
 見れば、無茶なことをしようとしていた。勝負を焦ったのだろう。
「紋土!」
 怪我をするかもしれない運転が、一転して死への切符になる瞬間を大亜は見た。
 対向車線に飛び出してしまった紋土の目の前にあるのは大型のトラック。当たれば命はない。
 咄嗟の行動だった。何も考えてなどいられなかった。
 気づけば、大亜は紋土を押しのけ、トラックの前に飛び出していた。
 ブレーキの音と、骨が砕ける音と、走馬灯。大亜は一瞬のうちに様々なものを感じた。そして、次の瞬間には体が道路に叩きつけられていた。
「……あ、にき」
 離れたところから弱々しい声が聞こえてきた。
 どうやら庇ったかいあって、紋土は無事らしい。
「あにき、なあ、あに、き」
 倒れている大亜の傍らに紋土が膝をつく。
 最期に顔を見たくて、大亜はどうにか目蓋を持ち上げる。
「も、んど……」
 情けない顔が見えた。
 何が起こったのかいまひとつ理解していないに違いない。だが、すぐにそれも変わる。
「オレが、オレのせいで!
 あに、兄貴! ああ……!」
 悲鳴が響く。紋土の目から溢れた涙が大亜の頬を濡らしていく。
 久々に見た弟の涙に、大亜はこんな状況にも関わらず、やっぱりコイツは弟だなぁ、などと考えていた。兄の真似をするのが好きで、いつも後ろをついてきていた。最愛の弟だ。
 守れてよかった。
 しかし、一つだけ心配がある。
 これから、紋土はどうなってしまうのかということだ。
 自分という身内を亡くし、心を預けられる場所がなくなってしまう。ようやく作り上げた居場所も、このままではきっと崩壊してしまうだろう。勝負を焦ったがために身内を殺してしまった男に、今のチーム連中がついてくるとは思えない。
 紋土が他に居場所を持っていないことを大亜はよく知っていた。これから本当に一人っきりになってしまう。
「おい……」
 最期の力を振り絞る。弟を守るために、嘘をつかせるために。
「後は頼むぞ……。
 ぜってーに、チームを潰すんじゃ、ねぇぞ……」
 現状のままでは、チームは確実に潰れる。紋土にもそのくらいはわかるはずだ。
 チームを守るためには、何をしなければならないかも、理解できるはずだ。何が何でも守らせなければならない。自暴自棄に捨てさせるわけにはいかない。
「男同士の、約束だ」
 こう言えば、紋土は破らない。
 居場所があれば生きていける。チームの連中も時間が経てば紋土が総長に相応しいことを理解するだろう。それまでは頼りない居場所かもしれないが、認められさえすれば立派な居場所として紋土を支えるに違いない。
 大亜は笑う。
 もう思い残すことはない。いや、本当は大工としての未来が心残りではあるが、それを告げずにいて良かったとも思っている。
 これ以上、紋土に何を背負わせようというのか。
「兄貴ッ!」
 紋土が呼ぶ。しかし、応えられない。
 もしも、チーム以外で居場所を見つけられたなら、いつかきっとその時はくるから、その時は、本当のことを言ってしまって構わない。それでチームが潰れてしまっても構わない。
 最期の最後にそれだけ言いたかったのだが、それは叶わないようだ。
 大亜の意識は闇に侵食されていき、とうとう闇に食われた。

END