江ノ島盾子は自らが用意したおしおきによって命を落した。残されたのは脱出ボタンと書かれた赤いスイッチだけだ。
 あからさま過ぎて罠なのではないかとすら思える。しかし、今の苗木達には江ノ島の残した物を信じるより他に道はない。既に空気清浄機は止まっている。食糧も長くはもたないだろう。
 彼女が死んでも苗木達の記憶は戻らなかった。そのため、彼らは今までとなんら変わりなく、外の世界のことを殆ど知らないままに出ていかなければならない。江ノ島の言葉が真実ならば、さぞ絶望的な世界なのだろう。あの世からこちらを見て絶望さににんまりとした笑みを浮かべているに違いない。
「ねぇ、最後に一度、みんなを見ておきたんだけど……」
 一晩休んでから外へ出ようと決まったとき、朝日奈がおずおずと言い出した。
「外の世界でちゃんとお墓作ってあげられるかわかんないし。
 それに、勇気が欲しいの」
 彼女が外に出る勇気を得ることができたのは、今は亡き親友との絆があったからだ。死んだ者は帰ってこない。しかし、最後にその顔を一目だけでも見ておきたい。苗木にはその気持ちが痛いほどわかった。
 彼もまた、最後に舞園の顔を見ておきたいと思っていたのだ。
「オレは行かんぞ。
 行きたい奴は勝手にしろ」
 十神はそう言い捨てて自室へと戻って行った。他人の死体を弄るような男だ。己にひれ伏すことしかできない愚民、と認識している者の死体を見にいくはずもない。
 彼の後を追ったのは腐川だ。彼女は十神に従うという理由の他に、おそらくは血が付着しているであろう死体を見ることを遠慮したい、という気持ちもあった。ここでまだジェノサイダーが出てこられても困るので、苗木達としても腐川の行動はありがたいものだったりする。
「あー。オレっちもやめとくわ」
 最後に退散したのは葉隠だ。
 小心者の彼は、死体を見る、という行為に臆したのだろう。勿論、誰もその感情を責めたりはしない。
 結局、最後まで残ったのは苗木と霧切、朝日奈と石丸という面子だった。石丸に至っては、もう意識があるのかどうかも危うい。今の状態で、死者が眠る生物室に連れて行ってもよいのか、という疑問はある。しかし、放置しておくにも危険な様状態だ。
 苗木はわずかに考え、石丸を連れて行くことに決めた。傍に置いておいた方が、何かあったときにも対処しやすい。
 四人は口を閉ざしたまま生物室へと向かう。談笑する気分ではなかった。かといって、落ち込んでいるわけでもない。絶望と希望の狭間で揺れているような気分だった。
 だからこそ、彼らに会いたかったのかもしれない。
「……空けるね」
 生物室の扉をそっと押しあける。
 冷え冷えとしていたはずの部屋は、わずかな寒さが残る程度になっていた。この部屋も物理室と同じように、機能を失ってしまっているのだ。
「腐っちゃうね……」
 ポツリと朝日奈が零す。
 今はまだ冷たい部屋だが、それもすぐに常温へと変化するだろう。そうなったとき、ここに眠っている者達は土に帰ることもできず腐り果てる。ただの想像ではあるが、その光景を考えただけで涙が出そうになる。
 薄く張った涙をどうにか抑え、朝日奈は先陣を切って遺体を保存している装置に手を置いた。順番に数えて七番目。大神の眠る場所だ。
「さくらちゃん。
 アタシ、ちゃんと前に進むからね。だから、最後に一目だけ、いいよね?」
 スイッチを押す。
 ガコン、という音と共に、布に包まれた物体が出てきた。
 朝日奈はそっと布を外す。薄い布の奥には、想像したままの親友の顔があった。苦しんだ様子もなく、静かに目蓋を閉じている。
「うぅ……。さくら、ちゃん……」
 眠っているようで、しかし、頭と口元にこびりついた血の跡が現実を知らしめる。朝日奈は小さく嗚咽をもらしながら、大神の遺体に縋りついた。泣くのは最後にしよう。そんな思いを抱え、今だけは耐えることを止めた。
 弱々しい朝日奈の背を見てから、苗木も奥へと足を進める。彼が向かうのは一番目の場所。そこには彼が憧れていた舞園が眠っている。
 コロシアイ学園生活を始めた者であり、始めの被害者でもある彼女。苗木は舞園のことを忘れたことはない。笑顔も、恐怖している顔も、遺体と化したときの顔も。全て覚えている。これからもずっと記憶に残し続けるつもりだ。
 一つ呼吸をして、苗木もスイッチを押す。
「舞園さん」
 彼女も大神と同じく布に包まれた状態で出てきた。苗木は丁寧に布を外し、舞園の顔を見る。最後に見たときと変わっていない。到底生きているようには見えなくて、それはわかっているはずなのに、また目を覚ましてくれそうな気もする。
 それは舞園がアイドルという、テレビ画面を挟んだ存在であるという認識が強かったからかもしれない。とあるドラマでは死に役をしながらも、同時期に放送されている別のドラマでは生きている、そんな風に捉えてしまっている可能性を否定しきることはできない。
「終わったよ。全部。
 ボク達は外に出る。そこは、もうボク達の知ってる世界じゃないみたいだけど」
 舞園を連れて外には出られない。学園から出てすぐに絶望した者達に襲われないとも限らないのだ。余計な荷物、といえば聞こえは悪いが、体の動きを邪魔するものは持たない、ということに話し合いで決まっていた。
「心は持って行くから。
 約束したもんね。舞園さんを絶対にここから出してあげるって」
 果たされなかった約束を思う。
 体は無理でも、心だけは外へ。そんなものは生者の欺瞞だ。目に見えず、存在すらも危うい心を運べるはずがない。
「一緒に行こう」
 わかっていても、せずにはいられないときがある。
 苗木自身のためなのか、渇望していた彼女のためなのか。問うのは無粋というものだ。
「……本当は、みんなの顔も見たいけど」
 全ての遺体を見る勇気はない。
 殺された者達はともかくとして、おしおきを受けて死んだ者達の亡骸は凄まじいことになっている。顔の判別どころか、性別すら確認できないだろう。
 せめて被害者達の顔だけでも見ておこうと考え、苗木は不二咲が眠っているであろう場所に手を伸ばす。そのとき、視界の端で誰かが動いたのが見えた。
「石丸君?」
 呆然と立ち尽くすばかりだったはずの石丸だ。
 彼は緩慢な動きで苗木に近づいてくる。否、不二咲が眠っている場所の近くへ歩み寄っていた。
「――そこは!」
 苗木が手を伸ばす。石丸が触れようとしているのは、不二咲を殺したクロが眠る場所。すなわち、大和田が眠っている場所だ。
 彼の死に責任を感じ、精神を崩壊にまで追いやった石丸だ。中を見れば今度こそ壊れきってしまうかもしれない。さらなる絶望を阻むべく、苗木は懸命に動いた。しかし、あと一瞬、時間が足りなかった。
 石丸の手はスイッチを押してしまったのだ。
「……兄弟」
 ガコン、という音と共に出てきたのは、苗木や朝日奈が見たような布ではなかった。
 大柄の人間もゆうに収納できるサイズのボックスに、ポツンと一つ、白い物体が置かれている。
 苗木は言葉を失くした。
「本当、に……。
 食べられてしまったのだな」
 石丸は頬をわずかに引きつらせながら、どうにか笑みを浮かべていた。無理矢理すぎる笑みは見る者を辛くさせる。
 彼は手を伸ばし、大和田バターと印刷されたパッケージを手に取った。蓋は開いており、空っぽになっている中が見えた。わずかなバターも残っておらず、本当にパンにされてしまったのかはともかくとして、全て使用されてしまったのは確かなようだ。
「置いていってしまうんだな。
 いや、ボクが捨てたのか?」
 涙が落ちた。一筋、なんてものではない。
 ボロボロと、目玉ごと転がり落ちてしまいそうな量を石丸は流した。
「でも、もう離さない。
 ずっとずっと、今度こそ共にあろう」
 手にしていたパッケージをギュッと抱きしめる。
「石丸君……」
「いいじゃない。
 あの大きさなら、持っていても邪魔にはならないわ」
 止めようとした苗木を霧切が引きとめた。
 普通のバターパッケージよりは大きいが、それでも大和田であったものはずいぶんと小ぢんまりしてしまっている。持ち運ぶのに支障はない。第一、外で襲われたとして、石丸がまともに動けるとは考えられない。
「……そう、だね」
 苗木は唾を飲み込む。
 彼の視界にいる石丸は、悲痛な涙を流しながらも、やはり笑っているのだ。
「兄弟。外だ。外に出よう。
 キミの仲間達にも会おう」
 ゆらりと体を揺らめかせながら、脳を通していない言葉を吐くだけの石丸は、やはり狂っているのだろう。
 生き延びたのは七人だった。しかし、本当の意味では、六人しか生き延びれていないのかもしれない。

END