脳を直接揺さぶられたような感覚があった。衝撃を痛みとして認識するころには、体の自由は利かず、視界も黒く、否、赤く染まっていた。何が起こったのかをぼんやりと考え、一瞬の空白。その後、石丸は目を開けた。意識していなかったのだが、一瞬の空白の内に目を閉じてしまっていたらしい。
開かれた視界は通常通りの色合いを見せている。赤くもなく、黒くもない。周囲に広がっている光景に見覚えがないことを除けば、概ね問題ないといっていい。
「……ここは」
首を動かし、辺りを見る。
美しい風景だ。自然があり、空も光りもある。先ほどまでいたはずの学園とは真逆のものだ。久々に感じる暖かな光りに、石丸は心が癒されるのを感じる。
深呼吸をし、冷静になって現在までを振り返ろうとした。意識がなくなる寸前のことから、遡るようにして一つずつ丁寧に思い出していく。あの学園のこと、仲間のこと。
「あ、れ……」
石丸は頭を抑えた。
振り返った記憶の中には違和感があった。小さな、等とはいえない。とても大きな違和感だ。見過ごすことのできないはずの大きさに、石丸は思考を停止させかけてしまう。
思い出すことが最善ではない。
身の内から声がした。
けれど、彼はその甘美な誘いに乗れるような男ではない。どうにも融通の利かぬ彼は、自身の忠告を無視して記憶を探る。
そうして、絶望を手にした。
「――あぁ」
目から涙が溢れる。とめどない涙は、彼の苦しみと悲しみを癒しはしない。
得たのは絶望と、失われた二年間だった。
始めてできた友人、親友。自分でも信じられないような、心からの笑みを浮かべられた瞬間の数々に、叱りながらも楽しさを感じていた時間。どれもこれも、希望や幸福に相応しい色を持っていた。
それを構築してきていた人達が、死んで逝き、殺しあい、今もなおそれを続けている。
これほど悲しいことがあるのだろうか。自分達は、互いを殺めあうためにあの場所に留まったわけではない。それを選択したのは、世界の希望と仲間達のためだったはずだ。
「どうして……!」
石丸が嘆き、吼える。悲しげな慟哭は周囲の空気を揺らすが、それだけで何も返されることはない。木々は揺らがず、小鳥は羽ばたかず、人の姿は見えない。だからこそ、彼は思う存分に吼えることができた。
未来に絶対の幸福を夢見ていたわけではない。苦しいことがあるということも理解していた。だが、それでも進んでいけると信じていた。あのような絶望に身を投じることになるとは欠片も思わず、今もまだ、作りあげられた絶望に囚われている。
どれ程の時間、嘆いていただろうか。
空は相変わらず青く、時間の経過を感じさせない。
ただ、石丸はとても疲れていた。その疲労だけが、嘆いた時間の長さを思わせた。
「石丸君」
声をあげることも、涙を流すことも疲れてしまった彼の耳に、優しい色の声が聞こえてきた。
聞き覚えがある、というものではない。求めていたとも言えるものだ。
「――不二咲君」
顔をあげ、声の主を見る。
そこにいたのは、確かに不二咲だった。
スカートを身につけてはいるが、今の石丸は彼が男であることをしっかりと認識している。同時に、彼が死んだ人間であることも、理解していた。故に、反応が鈍る。彼と再び見えることは、叶うはずのないことだった。それこそ、アルターエゴを介さぬ限りは。
「どうして、きちゃったの?」
不二咲は悲しげに問いかける。
その問いと、彼の表情を見て石丸は全てを察した。
何てことは無い。単純明快な答えだ。今まで気づかなかった方がおかしい。
「……すまない。
ボクも死んでしまったようだ」
瞳は涙で濡れ、目蓋は赤くなっている。それでも石丸は笑った。
相手に不安を与えぬように、安心感を与えられるように。だが、それは建前だ。本当は、彼自身の心の内に純然たる喜びも存在しているだけだ。
アルターエゴのようなプログラムではなく、本物の不二咲がそこにいる。それを喜ばずして何とする。
「ボクで最後にして欲しかったよ……」
「だが、キミにも、死んでもらいたくはなかった」
不二咲が地面を蹴り、石丸のもとへと駆ける。
二人は互いに涙を流していた。それが再会の喜びによるものなのか、親しい人物の死に対する悲しみなのかはわからない。今は、涙を流しているという事実が存在するだけでよかった。
彼らは相手を強く抱きしめあう。もはや体温などとは無縁なのだが、目の前にいる人物が確かに存在しているという確認をせずにはいられない。逃がさぬよう、離さぬよう、二人は力を込める。
吼えることもせず、それは静かに行われていた。
そのうち、石丸が口を開いた。
「キミは、兄弟を恨んでいるか?」
いつだったか、アルターエゴにも投げかけた言葉だ。
大和田は不二咲を殺した。計画的な犯行ではなかったようだが、信頼を裏切り、相手を殺したことは変わらない。厳しい言い方にはなるが、許されなくて当然。恨まれてもおかしくはない。
石丸は気に病んでいた。あの時、それがどの時なのかはわからないが、大和田の苦しみに気づいてあげられていたら、もっと傍にいれば、と意味のない後悔と反省を重ねた。アルターエゴによる許しと大和田の言葉があったからこそ、少しは持ち直すことができたが、それも偽りだ。本人からの許しではなく、本来の救いでもない。
逃げ出した自覚はあった。石丸は己のことを許せないのだろうという予感を抱いている。しかし、それと目の前にいる不二咲からの許しは別ものだ。浅ましいかもしれないが、一人の人間として、彼は許しを乞うた。罪を清算するために。
不二咲の瞳も見れず、石丸は次の言葉をただ待った。
「……恨んでないよ」
穏やかな声で紡がれた言葉は、アルターエゴのものとよく似ていた。
「ボクの分も生きて欲しかった」
それに、と続けられた言葉は悲しげで、弱々しいものだった。
「ボクが大和田君を追い詰めちゃったから、だし。
意識がなくなる前に、見たんだ。真っ青な顔をしている大和田君の顔」
自分は強いのだと思いこまなければ前へ進めなかった彼は、他人に弱いところを見せなかった。それは、絶望の中でも、それ以前でも同じ。唯一、大和田のそういったところを見ることができたのは、まだ穏やかな学園生活を送っているとき、兄の死について話されたときだった。
時間をかけ、共に成長し、ようやく明かされた過去に、不二咲と石丸は大和田を抱きしめた記憶がある。
辛かっただろうと、キミは弱くないと。そんな言葉をたくさん投げた。
「泣いてたんだ。お兄さんのことを話してくれたときだって、大和田君は泣かなかったのに。
それで、ボクに謝りながら、強いってまた念じてたんだぁ」
自身の弱さを突きつけられ、それでも大和田は認めることができなかった。かつての告白を思い出したからこそわかる。彼には、そんな余裕がなかったのだ。
己を支えているのは約束だけで、そのために強く有らなくてはならなくて、でも本当は重すぎる罪悪感に潰されそうで。そんな大和田が、あのような動機を提示され、真っ直ぐ立っていられるはずがなかった。
二年間の記憶を失い、また一からのスタートとなってしまったため、気づいてあげることができなかった。
「だから、恨んでないよ」
そう言ってはいるが、不二咲の手は震えている。
思い出しているのだろう。殺された瞬間のことを。
大和田のことを思い、悲しみもしている。だが、不二咲は殺されたのだ。自分の命が消えていくその瞬間を恐れぬはずがない。
「すまない。酷いことを聞いた」
改めて不二咲を強く抱きしめる。
空気が読めないだとか、デリカシーがないだとかはクラスメイト達からもよく言われていた言葉だ。改めねば、と思いはしているのだが、これがなかなか難しい。
「ううん。大丈夫だよ。
それにね、死んじゃったから思い出せたこともあるから」
失われていた記憶。
それは幸せなものだった。勇気を出して性別のことをクラスメイトに告白したことも、その後も彼らは何一つ変わり無く接してくれていたことも思い出せた。あれらは、とても楽しく、希望に満ちた時間だった。
「だから、本当に平気」
笑える不二咲は、本当に強い人間だ。
本当に大切なのは肉体の強さではない。そんな当たり前のことを実感させてくれる。
「そうか……。
だが、謝らせてくれたまえ。
ボクが兄弟を止められてさえすれば」
「やめてよ」
力強い声に、石丸はいつの間にか下がっていた視線をあげる。
「ボクは誰も恨んでないんだから。
石丸君が謝る必要もないんだよ」
あの状況で反抗を阻止できるような人物がいたら、それは超常的な能力を持っている者だろう。当然、石丸にそのような力はない。
冷たくはあるが、あの事件に関してだけいえば、石丸は第三者だ。謝る必要など微塵もない。
「……ありがとう」
「えへへ。
どういたしまして」
二人は互いに笑いあう。
それで終わりだ。生死一つで崩れるような友情ではない。
「そうだ! ここが死後の世界だというなら、兄弟も、兄弟もいるのか?」
気を取り直した石丸は不二咲の肩を掴み、今度は真っ直ぐに目をあわせる。
涙で濡らしていた瞳と同じものであると信じられぬほどの輝きがそこにはあった。その輝きに名をつけるならば、希望、になるに違いない。
故に、不二咲はその瞳を直視できなかった。
「不二、咲……君?」
嫌な予感がした。無いはずの血の気が引き、やはり無いはずの胸が激しく音をたてているような。そんな嫌な気分だ。
「あのねぇ……」
彼の目にまた涙が浮かぶ。
傷口を抉るような問いかけをしてしまったのだ。そして、そこに塩を塗るような言葉を吐かせようとしている。石丸は直感的にそう判断した。けれど、不二咲の言葉を止めることができなかった。最後の最後、終わりのときまで希望に縋っていたかった。
「いない、の」
とうとう涙が零れる。
つむがれる言葉も嗚咽にまぎれ、聞き取りづらくなる。
「誰かを殺しちゃった人は、これないのっ……!」
確定した事項ではないが、ここは天国と呼ばれる空間なのだろう。そして、人殺しである大和田が堕ちたのは地獄。二つは交わらない。
「――そう、か」
震える唇で、石丸はやっと呟く。
正直、期待していなかったと言えば嘘になる。
死んでしまえば、大和田に会えるのではないかと、誰かに殺されれば後は幸せだけがあるのではないかと。
「ボ、ボクのせいで……」
「やめたまえ。キミは何も悪くない」
不二咲を抱きしめ、子供をあやすように背中を優しく叩く。
被害者が悪であるはずがない。特に、不二咲は強くありたいと願っただけだ。彼を責められるはずがない。
「……一つだけ、弱音を吐いても構わないか?」
「うん」
規則的に背中を叩いていた手が止まる。
その手は震え、不二咲の背中を強く握った。
「こんなこと、思ってはいけないのだろうけれどっ!」
声は涙で震えている。
涙というものは不思議なものだ。いくら流したところで、枯れる気配がない。
「ボクはっ……。だ、誰かを、殺しておけばよかったと……!」
考えただけだ。もはや生者のおらぬ場所で、それが実行できるはずもない。また、規律と秩序を重んじる石丸にできるはずのない行為でもある。それでも、否、だからこそ石丸は自分が許せなかった。
誰かを殺しておけばよかった、などと考えた醜い自分が。
「兄弟は、悪い人間んではないんだ。
罰も受けた。あ、あんな、無残な、姿にっ……。
だから、そんな、死んでなお苦しみを受けるような、そんな人間じゃないんだ!」
きっと、不二咲に言うべき言葉ではない。
頭ではわかっていた。けれど、目の前にいる、親しい友人に縋らずにはいれなかった。
大和田の断末魔が今も、石丸の耳にこびりついている。呻くような声が叫びに変わり、掠れていき、最後には消えていく。その苦痛と、成れの果てを考えれば、償いは終えたといってもいいはずだ。そう信じずにはいられない。最後まで大和田の無罪を信じ、願った石丸だからこそ、その思いは強い。古い記憶を取り戻した今ならばなおさらに。
暴力的な一面や怒鳴り癖はあったかもしれない。けれど、それ以上の優しさと懐の大きさを持っていたことも知っている。他者を思いやる気持ちに長け、動物のために一生懸命なところもある。リーダーシップもあり、いざというときは頼りにもできた。
それが、絶望の果てに地獄へ落とされた、と。
信じられるはずがない。認められるはずがない。
「あ、会いたい……。
ボクは、兄弟にっ……」
叱ってやりたかった。抱きしめたかった。また笑いあいたかった。
「……うん。そうだね。
会いたかったね。ボクも、会いたかったよ」
殺されはしたが、それでも不二咲は大和田のことを尊敬していた。
隠し続けてきたことを弱さとした彼だったが、それも一つの強さだ。たった一人で抱えこみ、限界まで耐えていた。状況が悪かっただけだ。だから、会って、一言だけ言って、それで終わりにしたかった。
そうして、また共に笑える時間を望んでいた。
「どうして、こうなっちゃったんだろうねぇ」
二人分の涙が落ちる。
死ぬ程度では、絶望から逃れられないのだろうか。
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