平穏が壊されるときというのは、何の前触れもなくやってくる。それは永遠の安寧を約束されていたはずの場所でも変わらないようだった。
 予測もできず、理解もできず、対策もできない。理不尽に絶望はやってくるのだ。
「やっぱり舞園さんは歌が上手だねぇ」
「当然じゃないですか! 私は超高校級のアイドルですよ?」
 湖の近く、元超高校級達は穏やかにピクニックをしていた。
 用意したお弁当を食した後、舞園が楽しげに歌と踊りを披露してくれた。その姿と歌声は、日本中をわかせたアイドルに相応しいもので、彼女の努力を思わせる。
「不二咲君もどうです?」
「えぇ! ボ、ボクはいいよぉ」 
 困ったように不二咲は返したが、案外気の強い舞園はその程度で引き下がらない。
 少しの間を置いてから、彼女は不二咲の手を取った。
「私がちゃーんと教えてあげますから」
 アイドルは実に可愛らしい表情を見せる。
 町中をあるく男性百人に聞けば、九十九人は絶賛するであろう笑みだ。
 その笑みを崩さぬまま、舞園は不二咲を反強制的に立ち上がらせる。そして、軽くリズムを口ずさみながら彼の手足を動かす。ぎこちない動きではあるが、それは先ほどまで舞園が踊っていたものと同じ振りつけのようだった。
 楽しげな舞園に対し、不二咲は困り顔だ。一応は男であるはずなのに、女性である舞園にいいように操られているのだから、それもしかたない。それでも、彼は強く言い返したり拒絶を口にしたりはしない。それは、彼が気弱だということもあるが、舞園がからかいを目的に行動しているわけではないことを知っているから、というのが大きい。
 舞園は不二咲が女のような容姿で格好をしていることを揶揄しているのではない。単純に、不二咲と踊りたい、歌いたいという思いだけで動いている。そこに悪意は一切含まれていないのだ。
「仲良きことは美しきかな!」
 そう言うと、石丸は満足げに頷いた。眺めていれば、少しずつではあるが不二咲も楽しそうな表情を浮かべ始めている。喧嘩だ、いじめだ、と止める必要性は感じられない。むしろ、とても幸福な光景だ。
「あぁ。とても楽しそうだ」
「大神君も参加してきてはどうだ?」
 同意してくれた大神に石丸が返す。
 大神も女性なのだから、アイドルに憧れることもあるだろう。口には出していないが、彼女達を見つめる瞳にそんな色が見てとれた。石丸は不二咲のように見た目もとくに可愛らしいわけでもなく、性別も紛うことない男であるため参加するのは気がひけるが、大神は女性なのだから舞園と不二咲に混じってもとくにおかしくはないはずだ。
「いや、我は……」
「いいですね!」
 舞園が声をあげた。どうやら、石丸達の会話を聞いていたようだ。
 彼女は不二咲の手を片手で握ったまま、大神へもう片方の手を差し出す。
「一緒に踊りましょう!」
 可愛いだけがアイドルではない。心の優しさや、明るさが人を惹きつける。それらを兼ね備えているからこそ、舞園は超高校級のアイドルだったのだ。
 大神は舞園の細く、白い手を見つめ、しばし考える。どう見たところで、己は舞園や不二咲のような容姿ではない。強さを求めた結果がこれなのだから、後悔はしていないけれど。そんな自分が二人の中に入って共に踊る。ちぐはぐな光景にも思えた。
 だが、それは杞憂だ。心配する必要もない。
「ボクからもお願い」
 不二咲が握られていない方の手を大神に差し出した。
「……あぁ」
 硬直していた大神だったが、二人の笑みとそれを見ている石丸の笑みに背中を押された。
 二人の手をそっと取り、立ち上がる。
「じゃあいきますよー!」
 舞園が歌を奏で、振りつけをする。不二咲と大神はその後を追うようにして振りつけを返していく。まるで文化祭前の様子にも見える。皆が皆楽しそうで、参加はしていないが見ている石丸は十分に満足だった。
 その内、ある程度の振りつけをマスターした不二咲が石丸を踊りに誘った。
「ボクだって踊ってるんだよ!」
 一人だけ見ているのは寂しいしずるい。そんな風に言われては、断ることなどできるはずがない。石丸は自ら立ち上がり、三人の輪の中へ入っていく。やるからにはしっかりとマスターするつもりだ。何事も経験と努力。信条を曲げるつもりはない。
「それじゃあ始めから行きますよー」
 最も長い時間、踊り続けているはずなのに舞園は元気だ。昔、体力がなくてはアイドルなどやっていられない、と言っていたことがあったが、あながち間違いではないらしい。
 舞園の指示にしたがい、石丸もダンスをしようとした。その時だ。遠くの方から悲鳴が聞こえてきたのは。
「た、助けてぇ!」
 声をあげながら、一人が石丸達の横を通り過ぎていく。
 何があったのか。それを脳が理解するまえに、大勢の人間がこちらへ向かってやってきた。誰も彼も顔を青くし、必死になって逃げている。それは、異様な光景だった。
 この安寧として空間に置いて、見るはずがないと無意識のうちに思っていた表情であり、光景だ。それ故に、石丸達は硬直してしまっていた。
「な、何があったんだ」
 石丸の呟きに応えるものはいない。小さな声だったので聞こえていなかったのかもしれないが、例え聞こえていたとしても返事などできるような状況ではない。逃げ惑う人々と、それにつられるようにして逃げ出す人々。周囲は完全にパニックへ陥っていた。
 生温い平穏に慣れてしまった人間というのは、どうにも不測の事態に弱くなってしまいがちだ。それが、永遠の平和を約束されている場所だと信じきっていればなおさらに。
 呆然とした時間から石丸が我に返ると、すでに辺りは見知らぬ人ばかりになっていた。どうやら仲間達とはぐれてしまったらしい。だが、迷ったのは一瞬で、彼はすぐに逃げ惑う人々が向かう方と反対の方へ足を進めた。誰かが悪事を働いたならば咎めなければならない。事故があったのならば助けなければならない。打算のない思いだった。この辺り、超高校級として生きていた頃の名残が抜けていないといえる。
 仲間のことは心配だったが、皆一筋縄ではいかない者達だ。特に、人類最強とまで言われていた大神がいるのだから、そう危ないこともないだろう。そんな判断からの行動だった。
 逆流するようにして進み、ようやく人の波が収まった場所に出た。それは、つまり人が逃げ切った後の場所だ。
「やあ。元気にしていたかい。人間よ」
 辺りを見回している石丸に、女の声がかかる。
 思わず声の方を向く。
「キミ、は……」
 そこにはやはり女がいた。胸を張り、何の不安もないような顔をしていた。逃げ惑っていた人々とは対照的な表情は、彼女こそが騒ぎの原因なのだと証明している。石丸が想像していたようなバケモノでも、凶悪な面でもなかったが、状況から見て間違いないはずだ。
 しかし、騒ぎの原因が彼女かどうかなど、石丸にはもはやどうでもよかった。
 問題は、女の顔に見覚えがあったことだ。そして、その詳細を思い出せないことだ。
「あ、お久しぶり、です……。
 確か……あなたも、私が、黒幕……と知らない、でしたよ、ね?」
 先ほどとは打って変わった様子を見せる女を石丸は確かに知っている。知っているはずだった。
 彼女の顔と声を見聞きして、思うところはある。だが、脳の片隅に積もっている記憶に手を伸ばそうとすれば、警鐘めいたものが鳴り響くのだ。触れてはいけない。思い出してはいけない。必要がないものは忘れてしまえばいい。そんな声がぐるぐると回る。
「どうしたのですか?
 ショックで声も出ないということでしょうか」
 また女の雰囲気が変わる。彼女の冷たい瞳が石丸を射抜いた。
「わ、からない」
 搾り出すようにして石丸は声を出した。
 頭が痛い。胸が押しつぶされそうだ。
「キミは、誰だ……!」
 石丸は以前に出会った男のことをぼんやりと思い出していた。彼は言っていた。何かを忘れているような気がする、と。そして、石丸は自身にもそれを感じた。目の前にいる彼女は、忘れてしまった記憶に関する人物なのだろうか。
「はぁ?」
 女は眉間にしわを寄せる。整った顔をしているからこそ、しかめられた顔は恐ろしく見えた。
 だが、石丸はその程度のことで怯むような男ではない。うるさい警鐘を頭の奥で聞きながらも女を見据える。
「あんた、まさか忘れたのかい?
 このアタシが作り上げた絶望のゲームを」
 仮に、石丸が希望ヶ峰学園での生活を忘れているだけならば、女の顔を見て名前を呼ぶことはできたはずだ。中身はむくろであったが、あの時に名乗った江ノ島盾子の名前を。
 それを呼べなかったということは、彼は忘れているのだ。どこからどこまでを忘れているのかはわからないが。少なくとも江ノ島のことを忘れていることは確実のようだった。
「ゲーム……」
 忘れるはずがない。大切な二年間を奪われ、行われた。
「あ、れ……?」
 石丸は顔を青くした。
 思い出せない。言われるまで気づかなかったが、彼はゲームのことを漠然としか覚えていない。
「石丸君!」
 男にしては高い声に呼ばれ、石丸は青い顔のまま振り返る。
 そこには、不二咲だけではなく大神や舞園もいた。どうやら、石丸の行動パターンから騒ぎの中心にやってきていることを割り出し、迎えにきてくれたようだ。
 彼らを見て、石丸の瞳は揺れる。
 どうして自分達はここにいるのか。そんな単純なことがわからない。誰が誰にどうされたのだ。あのゲームはたしかに暗い感情を伴ったものだった。それは、悲しみなのか絶望なのか怒りなのか虚無なのか。それすらわからない。何も、わからない。
「あらー。みんな、勢揃いね!
 おっひさしぶりー」
 江ノ島は可愛らしい声を作り、後からやってきた三人に手を振る。
 だが、三人の反応は石丸とよく似たものだった。
 体を硬くし、視線を固定し、それでも何も思い出せないという表情。絶望という名をつけてもいい顔ではあるが、江ノ島としてはまだ物足りない。まだまだ物足りない。
「あなた達も……。忘れて、しまったんですか……。
 私のことも、みんなの、ことも……」
 三人は必死に記憶を探る。けれど、彼女のいう「みんな」がわからない。おそらく、クラスメイトのことなのだろうということはわかる。だが、思い出せない。
「私達、十六人いましたよね?」
 青い顔をした舞園が誰に聞くでもなく言った。
「何でわからないんですか!
 私と、不二咲君と、大神さんと、石丸君と、苗木君と、霧切さんと、十神君と、朝日奈さんと、葉隠君と……。
 あと……。あと、誰なんですか!」
 最後には悲鳴のようになっていた。
 答えを口にする者はいない。江ノ島を除いた全員が、舞園と同じ気持ちだった。膝から崩れ、頭を抱えている彼女を励ますことさえできない。
「あぁ。なるほど。そういうことか」
 江ノ島が納得したように声を発した。
 四人は顔をあげ、答えを求めるように彼女を見る。
「でもぉ。どーしよっかなぁ
 教えてあげてもいいけどぉ」
 彼女は嗤う。
「よし。教えてやるよ!
 その方が、サイッコーに絶望できだろうからな! イエス!」
 中指でもたてそうな勢いで、四人を見下すようにしている江ノ島の行動原理はたった一つ。
 相手が絶望するか否か。そこに集約される。
 かつては思い出せないことを希望とし、絶望を生み出した。今回も似たようなものだ。思い出せなかったという希望を、真実という名の絶望で破壊してやればいい。
「あなた方が思い出せない人物、それは罪人ですね」
 単刀直入な言葉だった。
 あまりにも真っ直ぐで、容易に受け止められない。
「罪人?」
 大神が唸るように問う。
「そう……。
 人殺し、です。……大神さん以外の、あなた達を、殺した人、も含めて」
 三人は息を飲んだ。
 忘れていたが、言われてみれば確かに、自分達は誰かに殺されたはずだった。誰かから絶望を与えられていた。
「それにしてもぉ、みーんなが忘れてるなんて、流石に思わなかったよ!
 おかげで、計画が台無し!
 まぁ、これも絶望的だけど!」
 硬直している面々を放置して、江ノ島は明るく言い放つ。そして、少しの間彼らに背を向けて歩いたかと思うと、またすぐに反転して戻ってくる。ただ、彼女は何かを掴んでいた。
「絶望のために連れてきたが、こうなったらあまり意味ねぇかもな!
 だが、連れて帰るのもめんどいし、テメェらにくれてやるよ!」
 乱暴な口調と同じように、彼女は乱暴に何かを二つ放り投げた。
「それは好きにするといい。
 私様からのプレゼントです。体は再生されているので、さほどグロテスクでもないのが残念ですが。
 まぁ、それでもすぐに連れ戻されるかもしれませんね。それはそれで絶望的でしょうけど」
 石丸は投げ捨てられた一つに目を奪われ、彼女の言葉を聞くことができなかった。
 一つはデジカメだ。こちらはどうでもいい。だが、もう一つ、物とは呼べない、どこか見たような気さえする、男。
「――――」
 声が出ない。石丸は何か言葉にしようとするのだが、口からは空気が出るばかり。一文字も喉から出やしない。
「それでは失礼するよ。
 アタシはまだここを絶望させるという仕事が残ってるんでね」
 真っ青を通り越したような顔色をしている石丸に満足したのか、江ノ島は楽しげに去って行く。彼女の頭には、すでに次の絶望が詰まっていた。
 残ったのは男とデジカメ。そしてどうにもできぬままに硬直している四人。
 始めに動いたのは石丸だった。
 そっと男に近づき、彼の傍らに膝をつく。見れば見るほど見覚えがあり、同時に、こんな姿をした人物に心当たりがあるはずがない、と思わさせられる。
 男は一目で素行が悪いと察せられる格好をしていた。金髪のリーゼントに、黒い長ラン。強いていうならば、大亜に似ているといったところか。まともに焦点を定めることさえできない目で視てみれば、彼の長ランに描かれているものは大亜の特攻服のものと瓜二つだ。
 無意識のうちにその男の体を石丸は抱きしめていた。涙こそ流れなかったが、むしろ流れない方が不思議なくらいに胸が痛く、息ができない。
「だ、大丈夫?」
 動かぬ石丸を心配して、不二咲が近づく。
 すぐに大丈夫だと返さなければ、と石丸はどこか遠くで思っていた。だが、肝心の手も口も顔も、男から離すことができない。
 彼の瞳は死んでいる。心はもう無いのだろう。きっと、体さえ動かすことができない。ただそこに存在しているだけ。からっぽな存在だ。あまりにも痛々しく、されど、そのせいだけではない混乱と不安が石丸を襲っている。
「そやつ、何か言っているのではないか」
 次にやってきた大神に言われ、石丸は男の口元へ目をやる。かすかにではあったが、確かに動いていた。
 石丸は反射的に男の口元へ耳を近づける。彼の言葉をどうしても聞きたかった。
「――――き」
 小さな、それこそ極限まで耳を近づけているのか、断言できるほど聞き取ることができない程に小さな声だった。しかし、石丸は確かに男の言葉を聞き入れていた。
「兄貴……?」
 誰を呼んでいるのか。何を言いたいのか。それが知りたくて、石丸は聴覚に全神経を集中させた。だが、それ以上は何も聞き取れない。もう少しでいい。大きな声を出してくれ。そんな風に思っていたときだった。舞園が声をあげたのは。
「これ、一つだけ動画が入っていますよ」
 抜け殻となっている男と無関係のものとは思えない。その動画を見れば、何かがわかるのだろう。石丸はデジカメへ目をやる。だが、動かない。
 目をやっただけて、すぐに動かなかったのには理由がある。格好良いものではなく、頭を使ったものでもない。情けない話しではあるが、怖かったのだ。
 男を見ただけで、抱えただけで胸が抉られるように痛い。きっと、動画を見れば、さらなる痛みが待っているのだろう。あの女が土産だと称して置いていたものに、希望が残されているとは何故だか思えない。
「石丸君……」
 不二咲は相変わらず心配そうな顔をしていた。
 返事もなく、固まっている石丸を見る。そうして彼は、一度目を瞑り、そっと開く。その瞳には、強い意思が宿っていた。
「見よう。あの動画を見なきゃいけない気がする」
 きっと嫌なものがあると不二咲もわかっていた。彼もまた、力ない抜け殻を見て胸を痛めていたのだ。
 けれど、ここで逃げれば、また何もかもわからない状態に戻ってしまう。胸の痛みも忘れ、また緩やかに過ごすだけになってしまう。それだけは、嫌だった・
「……あ、あぁ」
 頷き、それでも石丸は男の体を離さなかった。
 一度手放せば最後、二度と触れることができなくなると言わんばかりに。
 結果、石丸は男を抱き締めたままに舞園へ近づき、全員で動画を見ることとなった。
「再生、するよ?」
 ボタンを押したのは不二咲だった。
 彼の細い指がボタンを押すと、動画が再生される。
「これは……」
「酷いっ……!」
 大神が顔をしかめ、舞園は手で顔を覆う。
 再生されたのは、彼らがいる場所とは対象的な場所。地獄と呼ぶに相応しい場所の光景だった。誰もが苦痛を口にし、叫び、死を繰り返している。目を覆いたくなるような光景をぐるりと映した後、カメラは男を映した。石丸の腕の中にいる男と同じ姿だ。しかし、画面の中にいる彼には、まだ光りがあった。絶望に染まり、苦しみを口から発しながらも、まだ抜け殻になっていない。
『あ、にき……』
 男が叫ぶ。
 体を火で炙られ、煙をあげながらも、誰かを呼んでいる。
『不二、さき……。きょう、だい……』
 舞園と大神が不二咲を見た。
 画面の中の男は、彼を呼んだ。偶然、同じ名字の人物を呼んだだけとは考えられない。
 不二咲が呆然としている間にも動画は進んでいく。手を変え、品を変え、男は痛めつけられていく。所々カットされているようだが、時間が経つにつれ、男の目から光りがなくなっていくのが如実にわかる。
 声も小さくなり、最後には口が動いているのが見えるだけになった。
 そこで動画も終わり、静かな空間だけが残った。
「ねぇ……。今のって、どういうこと、かなぁ」
 震える唇で不二咲が問うが、この場にいる者が答えを持っているはずもない。
 ただ、石丸は先ほどよりも強く男を抱きしめていた。
「キミ達、大丈夫かい?」
 不意に、見知らぬ声が聞こえた。
 見ればどこかで見たような服装をした男がこちらへ向かってきている。四人の記憶が正しければ、彼はこの場所を管理している人達の一人だ。騒ぎを収束させるためにやってきたのだろう。遅すぎたとも言えるが。
「すまないね。地獄から脱走者が出たらしい。
 これからはもっと警備を厳重にするよ」
 何も答えない四人に、彼は謝罪を口にする。
 地獄からやってきた者に危害を加えられたと判断したのだろう。それはある意味では正しく、ある意味では誤りだ。
「ん?」
 管理者は石丸が抱いているモノに目をつけた。その瞬間、優しげな色は消え、厳しい色だけが残る。
「ソレは?」
「え?」
 石丸が目を見開く。
 ソレ、と言った。その人は、でもなく、彼は、でもない。
「地獄のモノだろ?
 危険だ。離しなさい」
 大股で石丸に近づき、彼が抱き締めている男の首根っこを掴む。乱暴なその動作は、皮肉な話ではあるが、江ノ島が男を放り投げたときと同じだった。
「や、やめてください」
 渡せない。石丸はそう判断し、必死に首を横に振る。目には涙が浮かび始めていた。
「キミには必要のないモノだ!」
「違う!」
 力ずくで奪いにかかる相手に対し、石丸はとうとう怒声をあげた。
 腕の中にいる彼はモノではない。必要のないモノではない。そもそも、危険なはずがない。
「やめてください!
 もう、十分です!」
 不二咲も石丸の加勢に加わり、舞園、大神と四人が男を守ろうとする。
 彼らは、男が何をしたのかわかっていない。だが、あれ程の苦しみを受けてもなお清算しきれぬ罪ではないはずだと信じていた。
 頑なな四人を前に、管理者はため息をついた。彼も無理矢理に引っぺがしたいわけではないが、これも仕事で、それが彼らのためになると思って行動している。
「いいかい?
 キミ達は穏やかに、安寧を受け入れていればいいんだ。
 そのために、辛い記憶や、苦しい記憶は薄れていく。当然、地獄に落ちるようなモノのことなんて覚えていなくていいし、考えなくていい」
 優しいことを言っているようで、実際は酷い言葉だ。石丸達は管理者の言葉をナイフのように感じていた。
 全てを忘れることが幸せだとは思えない。忘れていたことは事実で、今までそのことに気づきすらしなかったのも事実だ。けれど、わずかに思い出せるような気がしただけで、これだけ胸が痛い。またこれを忘れることを考えると、腹の底が冷たくなるような恐怖だ。
「やめ、て……」
 管理者が再び男に手をかけた。石丸が否定を口にする。
 全員が抵抗するが、不思議なことに大神でさえ彼には大したダメージを与えられない。常人には理解し難い力で守られているようで、石丸達は成す術もなく男を奪われる。
「ボクから兄弟を奪わないでくれ!」
 石丸が悲痛な叫び声をあげた。とうとう涙は零れ落ち、その瞳は絶望の色に染まっている。
「どうしても連れて行くのなら、ボクも連れていってくれ……」
 男を兄弟、と呼んだものの、石丸は彼のことを思い出せてはいない。ただ、離れるという現実があまりにも耐え難く、地獄も天国も変わらないと思わされただけだ。
 それを見ていた管理者は哀れむように石丸を見つめ、穏やかに言う。
「忘れるさ」
「嫌だ!」
 どれだけ石丸が拒絶したところで、いつかは忘れてしまう。
 ここはそういう場所なのだ。死者を苦しみから解き放ち、幸せな安寧だけを享受できるようにできている。そこに、辛かったけれど最終的には大切なものになった思い出、など存在していない。
 いつかは忘れるだろう。けれど、今の石丸は苦しんでいる。きっと、忘れてしまうまで、彼は苦しみ続け、絶望し続ける。管理者はそれを哀れに思った。何も考えず、流れに身を任せられるような人間であれば、もっと幸せになれただろうに。
「お願いします!
 連れていかないで!」
 不二咲が管理者に縋りついた。大神よりも遥かに小さい彼の体では、さほど効果のない行為だということは重々承知の上だ。すべて理解していても、感情を完璧に抑えることはできない。時に、人は感情のみで動く。
「何を言われても――」
 無駄だ、そう言うつもりだった。
 彼が首根っこを掴んでいた男が動くまでは。
「な、くな」
 掠れた声だったが、その場にいる全員の耳に届くだけの大きさを持ったものだった。
 男は手をぎこちなく動かし、不二咲の涙を拭き取る。無骨な手のわりに、その行為は優しい。
「兄弟……」
 石丸が彼を呼び、不二咲の隣に並ぶ。
 動き、言葉を発したとはいえ、男の目に光はない。限界ギリギリのところで動いている、といったところか。
 次に何をするべきなのだろうか。不二咲と石丸が考えをまとめるその前に、男がゆっくりと二人に腕を回した。
「赦さないで、くれ。
 泣かないでくれ」
 一瞬、男の腕に力がこもり、すぐに離れる。管理者が彼を引き剥がしたのだ。その時、二人の目に映った男は、どこか不恰好な笑みを浮かべていた。他人の気持ちなどすべて放って、自分だけ満足してしまった顔だ。
 きっと、彼は全て覚えているのだろう。石丸は察した。
 自分達が彼のことを忘れてしまっていることを知ってか知らずか、男は笑うのだ。それは幸せそうで、今から地獄へ落される人間のものとは思えない。
「赦させてくれ! 泣かせてくれ!」
「行っちゃヤダよ!」
 二人の叫びは届かない。
 男には抵抗する気力などなく、管理者はこれ以上の長居は無用だと考え、背後の声に気を向けることなく進んでいく。強いて言うならば、早く死んでしまえ、と男に思うだけだ。あれだけ悲しんでもらえるような人間だ。肩まで罪に浸かっていたとしても、それなりの理由があったのかもしれない。もしそうならば、地獄で味わう永遠の苦しみから早く逃れてしまえばいい。
 消失というなの解放ではあるが、地獄の住人にとって一番の幸福はそこへたどりつけることだ。
 ふと、管理者は抵抗が軽くなるのを感じた。疑問のままに、男を掴んでいたはずの手を見る。
 そこには何もなかった。
「……消えたか」
 男は消失した。
 後ろを振り返れば、すでに石丸達の姿は見えない。それだけで管理者は男の考えが読めてしまう。
「本当、良い奴だったんだな」
 消えていた心をどうにか呼び戻し、石丸と不二咲に最期の言葉を残した。男はそのとき、もうすでに消失してしまうはずだったのだろう。彼を生かしていたのは、罪を償わなければならないという信念だけで、己のことなどすっぱり忘れてしまっていたらしい二人を見てそれが折れたのだ。
 最適な言い方に直すならば、折れたではなく安心した、だろう。
 無理に形を保ち、罰を受け続けていた男は、最期に彼らの顔を見ることで自分を解放してやることができた。最後の最期まで、二人のことを思い、全なる消失を見せまいとした心意気は立派なものだ。
「早く忘れてもらえるといいな」
 消えた魂に声をかけても無意味だと知っているし、ましてや上にいないことなど百も承知だ。
 わかっていながらも、管理者は空を見上げて呟いた。それが消えてしまった男にとっての幸せだろうから。

END