ゆっくりとした覚醒だった。
 呼吸をするように、自然と目蓋が上がる。
 長い時間、目を閉じていたのだろう。視界がかすんでいた。
「――こ、だ?」
 声も上手く出せない。
 ぼやけた視界に映っている天井に見覚えはない。慣れ親しんだアジトの天井とも、望んでいたような高貴な天井でもない。どこにでもあるような、木造の天井だ。
 バノッサは体を起こそうとしたが、どうにも力が入らない。どこもかしこも、自分の一部だとは思えないほど自由が利かない。手足など、まるで鉛のように重く、今までこれをどうやって動かしていたのかすらわからない。
 そもそも、現状が全く理解できなかった。
 見知らぬ場所にいることも、体が動かぬことも、何もかも霞がかかっている。
 ただ、近くに誰もいないのが少し寂しく感じた。
「あー!」
 突然、大きな声が聞こえてくる。
 よく知った声ではない。子供特有の甲高い声だ。
「バノッサ起きたー!
 目を覚ましたよー!」
 緩慢な動きで声の方に視線を向けたときには、すでにその姿はなかった。代わりに、バタバタと騒がしい足音が遠ざかり、また近づいてくるのが聞こえた。目や思考とは違い、耳はしっかりと働いてくれているらしい。
 変に冷静なバノッサは動けぬままに足音がたどり着くのを待つことにした。人がいるのならば、そこから良くも悪くも現状を知ることができるはずだ。
「バノッサ!」
 焦るような声と共に現れた顔には見覚えがあった。いや、見覚えなどという言葉では生温い。その存在を認識した瞬間から、憎くて恨めしくて羨ましくて、たまらなかった存在だ。奴の全てを葬り去ってやりたいとすら願った。
「は、ぐれ、野郎……」
 バノッサの声を聞き、トウヤが近づいてくる。
 彼は驚いているようだが、かすかに喜びの感情が見えていた。
 記憶している限り、自分とトウヤは敵同士だったはずだ。何故、喜ぶのだろうか。そもそも、彼がいるということは、ここはフラットのアジトなのではないか。だとすれば、己がここで寝ている意味がわからない。バノッサは混乱する思考をどうにかまとめようと必死になる。
 怪訝な感情を隠すつもりはないのだが、トウヤがそれに気づく様子はない。もしかすると、表情筋までもが鈍っているのかもしれない。
「よかった……。
 気分はどう? 痛いところとか、苦しいところとか無い?」
 安堵した風にトウヤは語りかけ、バノッサの横に手をついた。ベッドがわずかに沈む。
「もうアレからずいぶんと経ったんだよ?
 目が覚めなかったらどうしようかと思った」
 アレから、と脳内で言葉を噛み砕く。
 そして、唐突に思い出した。
「――カノン! カノンは!」
 上半身を起こそうとするが、やはり体は動かない。どうにか片手を伸ばし、弱々しい力でトウヤの胸倉を掴む。あまりにも弱々しいそれは、縋っているようにさえ見えた。
 以前のバノッサならば、己のそうした弱さを認識するのを嫌い、他人に見せることを疎んだ。しかし、今はそれどころではなかった。自身のプライドを捨ててでも、確認したいことがあったのだ
 そのためならば、かつて憎んだ相手にも縋るだろう。
「大丈夫だよ」
 トウヤはそっとバノッサの手に、己の手を重ねる。
 不安気な彼の瞳と目を合わせ、穏やかに微笑んだ。
「彼はキミよりずっと先に目覚めたから。
 今は仕事に出かけていて居ないけど、すぐに帰ってくる」
「本当、か……?」
「ああ。本当だよ」
 バノッサの手から力が抜け、ベッドの脇に垂れ下がる。
 尋ねておいておかしな話かもしれないが、バノッサはカノンが生きているとは思わなかった。
 禍々しい光が彼の胸を貫いた瞬間を、己は確かに見たのだ。虚無と絶望が一挙に押し寄せてきた感覚は、今も残っている。カノンの顔を見るまで、それは胸の内から沸き続けるのだろう。
「……なんで、オレは、生きてる?」
 思考は淀みなくめぐるようになり始めていた。声も自然に、とは言い難いが出る。体だけが満足に動かない。
 彼の記憶では、己は魔王に取り込まれてしまったはずだった。世界が破滅していないところを見ると、魔王は倒されたのだろうけれど、それにしては己が生きていることが不可解だ。
「結界が修復され、光が降り注ぐ。
 ――そんな奇跡が起こったなら、キミ達が助かる、なんて奇跡だって起こっていいじゃないか」
「……お人好し、が」
 つまり、トウヤの力なのだろう。
 かつての英雄と同じ力を手にした男だ。容易ではないにしろ、カノンとバノッサと助けるという奇跡くらい起こしてみせるかもしれない。
「それで、お前は、オレ様を助けて楽しいか。
 優越に浸って、哀れみを向けて」
 途切れさせながらも、バノッサは言葉を紡ぐ。
「ボクはそんな」
「だが」
 哀れみも優越もない、そう告げようとしたトウヤの声をバノッサが阻む。
「ありがとう」
 トウヤが目を見開く。そんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
 バノッサはバツが悪そうに顔を背けているが、それでも言葉に偽りがないことはわかる。
 二人はそれっきり言葉を交わさず、ただ同じ空間にいた。トウヤは立ち去ろうとしなかったし、バノッサもそれを促すことはなかった。部屋の空気も、今まで彼らが対峙したときのような険悪さはなく、穏やかなものだった。
 しばらくして、バノッサは再び眠りについた。まだ本調子ではないのだ。けれど、またすぐに目を覚ますに違いない。次は、カノンがいるときに目覚めればいい。そうすれば、二人の笑顔が見れるはずだ。
 穏やかな表情を浮かべ、ベッドの隣にある椅子に腰かけながら、トウヤはその瞬間に思いを馳せた。

END