ある穏やかな昼下がり、マグナは護衛獣であるバルレルと共に町を散歩していた。
 日ごろ熱心に行われているネスティとの勉強に休日が言い渡されたのだ。その時のマグナの喜びようは、メルギトスを倒したときに匹敵するのではないか、とバルレルは密かに思っている。
 何はともあれ、久々に何もしなくていい時間を得ることができたマグナは、早々に町へ繰り出していった。元々、書物を開いて勉強するよりも外で実戦訓練をしている方が好きな性質だ。休日くらい外で羽根を伸ばしたい。とはいえ、特に目的地があるわけでもない。マグナの隣を歩いているバルレルは無計画さに文句を言っているものの、彼から離れることはしない。実のところ、バルレルも暇を持て余しているのだ。
 メルギトスとの戦いが終わってから今まで、戦いらしい戦いなど行われていない。座学、座学、模擬訓練、試験。そんな毎日だ。争いを好む悪魔にとって、現状は退屈すぎた。マグナのドジや叱られっぷりを見ることができるのだけが救いだ。
「平和っていいよなー」
 町行く人々を目に映しながらマグナが呟く。
 ここ最近、バルレルがつまらなさそうにしていることは知っていた。しかし、それでも人間であるマグナにとって、争いのない平穏な日常というのは素晴らしいものだった。
 しみじみとした声に、バルレルは尻尾を軽く揺らしながら意地悪気な色を添えて言葉を返す。
「それも何時まで続くかわかんねぇけどな」
 特徴のある笑い声が上がった。
 悪意というには子供じみていて、彼が本気で平穏の終わりを望んでいるわけではないことはわかる。いや、口調が本気めいていたとしても、バルレルはそれを望まないとマグナは信じている。最後の決戦で見たバルレルの姿を疑う余地などありはしないのだ。
「お前はまたそういうことを……」
「んだよ。お前だってそん時のためにメガネの説教を毎日毎日、聞いてんだろーが」
「説教じゃなくて講義だよ、講義」
 反論してみるものの、マグナの声は弱い。
 講義を受けている、というのは間違いではない。ネスティもマグナもそのつもりだ。しかし、如何せんマグナはネスティの地雷を踏むことが多かった。
「ほー。講義ってのは、一日に五回も六回も怒鳴られるようなことを言うのか」
 マグナは眉を下げる。
 数えるのも嫌になるので怒鳴られた回数など数えていない。しかし、夕飯にありつけるころには精神がくたくたになってしまっていることを思えば五回や六回は怒鳴られているかもしれない。
「オレだって好きで怒られてるわけじゃ……」
「馬鹿だからしかたねーんだよなぁ?」
 バルレルは口角を上げながらマグナを見上げる。
 怒鳴られているのは無知や無鉄砲、はたまた居眠りまで、理由は様々だ。しかし、どれにしたところで毎度懲りずに怒鳴られているというのは、学習能力の無さがなせるものだ。
 反省はしているが、結果に繋がっていない。
 自分が悪いことは自覚しているので、マグナは静かにため息をつくことしかできなかった。
「ま、とっとと勉強なんてもんは終わらせて、面白いことがありそうな任務でもかっぱらってこいよ」
 軽くマグナの腰を叩く。バルレルなりに彼を鼓舞しているつもりなのだ。
「……あぁ、そうだな」
 ネスティとの勉強は嫌いではないし、ギブソンの家で仲間達と暮らす生活は楽しい。平和は素晴らしく、甘受し続けたいものではあったが、やはり多少の刺激は欲しい。何より、相棒であるバルレルの顔が最も輝くのは戦いの中だ。
 誓約は解いたままではあるが、このリィンバウムに縛っている身としては、あまり不自由を強いたくないという気持ちがある。できることならば酒も飲ませてやりたいと思っている。バレればアメルからのキツイお叱りが待っているので、滅多なことでは実行に移せないが。
「よーし。それじゃあ、公園で昼寝でもして英気を養おうかな!」
「お前、今日もオレが起こしてやるまで寝ていやがったくせに、まだ寝るつもりなのかよ。
 つーか、昼寝するならオレは帰るぜ」
 公園へと足を向けたマグナに合わせつつも、バルレルは口を尖らせる。
 マグナと違い、彼は睡眠を大量に取ることを好んではいない。平均的な睡眠時間さえ確保できればいいのだ。昼寝など考えられない。かといって、眠っているマグナの隣で何をするでもなくぼんやりしているのはなおさら性に合わない。
 ギブソン宅に戻ったとしても、特にすることはないのだが、それでも本を読むくらいのことはできるはずだ。
「えー。一緒に昼寝しようよ」
「嫌だね。
 何が楽しくてお前と一緒に眠らなきゃ――」
 バルレルが途中で言葉を消した。
 何があったのかとマグナは後ろを振り返る。
「バルレル?」
 特に何かおこったようには見えない。周囲はいつも通りの風景が見えている。彼が言葉をなくすようなことがあったようには思えなかった。
 呆然と立ちつくしている彼に声をかけてみるが、返事はない。ただ、見開かれた目が一点を凝視していることにマグナは気がついた。ゆっくりと視線をたどり、バルレルが見ているものを確認する。
「あれは、帝国の人間?」
 少し周囲から浮いた存在がそこにいた。
 浮いているとはいっても、悪い意味ではない。ただ、聖王国の人間ではないのだとわかるだけだ。
 それでも、帝国と聖王国は交流があるので、彼がこの町にいること自体は何もおかしくない。珍しくはあるがそれだけだ。
 ならばバルレルは何故、言葉を失い、立ちつくしているのだろうか。改めて問いかけようと、マグナは視線をバルレルに戻す。そして気づいた。
「お前、震えてる?」
 信じられなかった。
 メルギトスの魔力を目の当たりにしたときでさえ、バルレルは震えながらも気丈に振舞っていた。それ以外の時など、相手が強者であったとしてもいつも通りの皮肉と立ち回りをしていた。
 そんな彼が、今は黙してただ震えている。
 少しでも衝撃を加えれば、そのまま膝をついてしまうのではないかとさえ感じられた。
「バル――」
「……して、やる」
 そっと触れようとして、マグナは手を止めた。
 小さな呟きだったが、確かに聞こえた。
 刹那のとき、マグナはバルレルの口から発せられた言葉を数度思い返す。そして、彼の言葉を正確に認識した。
「殺して、やる」
 マグナはハッとしてバルレルの顔を見た。
 呆然としていただけの瞳には、確かな炎が宿っている。怒りや憎しみ、そういった負の感情だ。
 火傷をしてしまいそうなその熱量に、マグナはバルレルが恐怖や怯えで震えているのではないことを悟る。この震えは、怒りだ。抑え切れない殺意を押さえ込もうとするが故に生じた震えだ。
「バルレル!」
 叫ぶように名前を呼び、バルレルの手を掴む。
「――マグナ」
 正気を取り戻したようにマグナの方へ顔を向けたが、彼の瞳にはまだ炎が宿っていた。
「落ち着け。
 どうしたってんだよ」
 何があったかはわからない。しかし、バルレルに人を殺させるわけにはいかない。マグナはまだ彼と共にいたいのだ。送還を強いられることも、罪を負い閉じ込められるのも嫌だ。
 子供の姿をしているとはいえ、バルレルは強力な悪魔だ。いざというとき、自分に止められるだろうか。そんな不安を抱きつつ、マグナは先ほど視線を向けた帝国の人間へと再び目を向ける。
「――っ」
 寒気がした。
 背筋が粟立ち、脳が警鐘を鳴らす。
 咄嗟に、マグナはバルレルの腕を引いてその場から去った。
 バルレルに人を殺させないためではない。マグナが、あの人間の目から逃れたいと思ったのだ。
 まるで、奴隷を見るような、いや、もっと残酷なことを平然と行えるような、そんな目だった。
 しばらく歩いた。少しでもあの場所から離れられるように、ひたすら真っ直ぐ足を進めていた。
「おい」
 それでもマグナはまだ歩く。このまま町の端につくまで進み続けるのではないかと思えるほど盲目的に足を動かし続ける。
「おい、マグナ」
 バルレルを掴む力は強く、少々のことでは二人を引き離すことはできないだろう。
「おいって!」
 マグナが足を止める。
 先にバルレルが足を止めたのだ。マグナはそれに引っ張られるようにして動くことを止めた。
「いつまで歩く気だよ」
「……バルレル」
 すっかりいつものバルレルだ。
 瞳はどこか穏やかな色に戻り、体も震えていない。マグナの見知った彼そのものだ。
「あの人……知ってるのか……?」
 声は震えていた。体もかすかに震えている。今さらになって、マグナは恐怖を感じていた。逃げる必要がなくなり、対象が消失したことで、ようやく表に出すことが可能になった感情だ。
「…………」
「なぁ……」
 バルレルは沈黙している。所在なさげに視線をさまよさせた後に、マグナへと向けた。
「前の主人だよ」
 吐き捨てるように言葉を零された。
「前、の……」
 ファナンでの祭りに参加した時、バルレルが言っていた言葉がマグナの頭を過ぎる。
 あの時、彼は確かに言っていた。
 召喚される度に、体を切り刻まれた、と。
「あの人がっ……!」
 思わずバルレルの腕を取っていた手に力が篭る。
「いてーよ」
 本当にそう思っているのか疑わしい声だ。バルレルはマグナの手に己のそれを添える。
「お前がキレてどーすんだよ。
 マジでお前ってお人好しだよな」
「だって!」
 反論しようとして、マグナは止めた。
 バルレルが、笑っていたから。
「いつかぶち殺してやろうと思ってた。
 いや、今も思ってる」
 それだけの仕打ちを受けた。
 あの顔を見るだけで、また苦痛を受けるのだと唇を噛んだこともある。殺してやると叫びながらも、はぐれとなって元の世界への帰還が叶わなくなることをちらつかされれば従うしかなかった。
 あちらこちらを切り裂かれ、血を流し、肉を抉られても、耐えるしかなかった。
 今も思い返せば血が沸騰する思いだ。
「でもな、今の主人は不本意だがお前だし、お前が生きてる限りはあいつに召喚されることもねぇ。
 だから別にいいか、って思えた。
 お前も怒ってくれたみてぇだしな」
 マグナとバルレルは対等だ。
 命令を下すこともなければ、無意味な苦痛を与えることもない。
 本人は知らないだろうし、告げるつもりもないが、バルレルはそれが本当に嬉しかったのだ。生まれて始めて、大切だといえるものができた。それを持てる感情を得た。全て、マグナと出会えたからだ。
「――オレ、あの人が許せない」
 始めての護衛獣だった。今は対等な友人だ。それを傷つけてきた人間を許すことなどできない。
「殴ってやりたい、怒鳴ってやりたい。
 でも、きっとそれをすると、オレはお前と一緒にいられなくなるからっ! だから、我慢する!」
 今にも泣き出しそうな顔で宣言したマグナに、バルレルは吹きだした。
「バーカ」
「馬鹿って何だよ! オレは本気で思ってるんだからな!」
「へーへー。そりゃ有り難いこって。
 な、気分もわりぃし、もう帰ろうぜ」
 マグナの手から腕を引き、次はバルレルが彼の手を取る。
「……そうだな」
 マグナは赤くなったバルレルの耳を見ながら小さく微笑んだ。

END