崩壊を始めている空間で、一つの雄たけびが上がる。それを聞いていた面々は、目の前にある強大すぎる力が収束していくのを感じ、武器を握り締める力をわずかに緩めた。
彼らは機械と融合したメルギトスをやっとの思いで倒すことができたのだ。人知れず、世界を救うことに成功した。その安堵と達成感は、言葉では言い表せぬほどだ。
しかし、それは相手から世界を滅ぼせるほどの力を奪ったというだけの話で、トドメを刺すまでにはいたらない。誰一人として、メルギトスにトドメを刺せるだけの力を持っていなかった。
何しろ相手は大悪魔で、その身を機械魔に貶めることでさらなる力を手に入れていた。彼の魔の手から世界を守ることができただけでも奇跡に近く、その命に終わりを与えることなどできるはずもない。
無傷の状態でもメルギトスを屠ることは難しい。今のように満身創痍の状態ではなおさらだ。
互いに相手の命を取ることはできない状態だ。メルギトスの思惑を防げた分だけ人間側の勝利、といったところでしかない。完全な負けも、勝ちもこの場には存在していない。
それでも、メルギトスは許せなかった。
「にんげんノ、ココロ……」
人間と、天使の甘い言葉ばかりが耳に届く。
信じる心も、絆も、特別な力に変わるようなものではないはずだった。憎しみや疑心が、人々を争いに駆りたて、その中で強さを生み出していくのだ。長い年月の中で、メルギトスはその光景を何度も堪能してきた。
第一、目の前の者達がいくら偉そうな言葉を並べたところで、遠い過去に人間であるクレスメントの一族がメルギトスを裏切った事実は変えられない。
先に裏切ったのは人間の方だったではないか。
思わず笑いが込みあげる。
「確かに、私は解っていなかったようですねぇ」
メルギトスが人の姿を取っていれば、力ない笑みを浮かべていたことだろう。
解っていなかったことは認めよう。しかし、それでも、負けを認めることだけはできない。
彼の中では、現状は間違いなく負けなのだ。己の口に惑わされ、同種同士で傷つけ合うような愚かな人間ごときと引き分けるなど、ただの敗北でしかない。
ここまで追い詰められ、計画を邪魔された。これほどの屈辱を受けたのは、アルミネと対峙したとき以来だ。彼女の魂の欠片を持った少女が敵としている今、再び煮え湯を食わされたも同然。
二度目の敗北だ。それも、悪魔としての身を捨ててまで成そうとしたことを阻まれた。メルギトスのプライドはもはやズタボロだ。命が助かることなど、虫が生まれくる瞬間と同じほどに価値がないものだった。
もはや、何もかもがどうでもよくなった。彼の中にあるのは、ただの意地だけだ。
「――これはっ!」
ネスティが叫ぶ。
黒い風が周囲を駆け巡り、胸の隙間に入り込む。自分の見たくない部分、認めたくない部分を引きずり出そうとしてくるような、嫌な風だ。
「源罪ッ……!」
バルレルが呻くように言った。
強い悪魔がその身に宿す源罪は、他者の中にある黒い感情を引きずり出し、また植えつける。元々悪魔であるバルレルに影響はないが、マグナ達には辛いものがあるだろう。
無論、今も世界を守るために戦いを続けているであろう蒼の派閥達にも影響はある。
「我が命と引き替えに、この世界へさらなる争いの種を撒き散らすのだ!」
平和しかなかったリィンバウムを争いのある世界にしたように。悪魔のつけいる隙を与えたように。
例え、今が敗北であったとしても、待っているのが死であったとしても、黒き源罪がある限り悪魔は力を得、復活の時を待つことができる。今の敗北は敗北ではない。次への布石へと変わるのだ。
メルギトスは高らかに笑う。それが、マグナ達には絶望への案内に聞こえた。
「……止めないと」
未来を救うには今すぐに源罪を止めるしかない。多少の影響は残るかもしれないが、まだ間に合うはずだ。
マグナは歯を食いしばり、一歩前へ踏み出す。
体が痛い。剣を握る力が上手く入らない。
「無茶はやめて!」
「今の状態を考えろ!
メルギトスの前に、キミが死ぬだけだ!」
アメルとネスティが悲痛な叫びにも似た声をあげ、マグナを引き止める。
彼らとて、動くならば今しかないとわかっている。それでも、目の前でマグナを犬死させるわけにはいかなかった。人間は、単純な利害だけで行動することはできないのだ。
「それでも、やるしかないんだ!」
最後の力を振り絞れば、一撃くらいはメルギトスに与えることができるかもしれない。たった一撃で、と思われたとしても、マグナはじっとしていられない。その一撃のために命をかけることに決めてしまう。
誰の制止も聞くつもりはなかった。
「……やっぱ、ニンゲンにゃここが限界か」
「バルレル?」
マグナの前にバルレルが立つ。
余裕な顔をしているが、彼も体中に傷を負っている。力づくでマグナを止めることも、メルギトスを止めることもできないはずだ。状況を判断し、利害を計ることができるバルレルが、どうしてこんなところにいるのかマグナには理解できなかった。
「付き合って――」
赤い光がマグナの視界を奪う。
その色は、バルレルの髪の色とよく似ていた。
「られねぇぜ!」
光が消え、視界が回復する。
見れば、先ほどまで立っていたはずのバルレルは姿を消し、代わりに本来の姿をとったバルレルが立っていた。
マグナの胸辺りまでしかなかった身長は彼を優に越すほどになり、幼さが残っていた顔は凛々しい青年のものに、未成熟な体は成熟し力強さを持ったものへと変化している。そして、最も大きな変化は、バルレルの体からほとばしる魔力だ。
強い魔力が体中から溢れ、メルギトスにつけられた傷が急速に回復していく。
「これが……バルレル君の、本当の姿……?」
アメルが呟く。信じられないという気持ちを抑えることができない。
彼女が知っているバルレルは、幼いくせに酒を飲もうと企む悪戯小僧だ。周囲を凌駕する力を持った悪魔ではないのだ。
「契約をし直すこと、忘れてただろ?」
バルレルはマグナに目を向け、口角を上げる。
以前、大量の敵から逃れるためにマグナはバルレルにかけていた誓約を解いた。その後は慌しかったことと、彼を信用していたこともあって、新たに誓約をし直すことはなかった。
だからこそ、バルレルはこのタイミングで本来の姿と力を取り戻すことができた。
「おかげで、好き放題にできるってもんだぜ!」
悪魔的な笑い声と言葉だ。
何も知らぬ者が見れば、さらなる危険が現れたと認識するだろう。しかし、マグナは違う。
「今までの借り、万倍で返してやるぜ!」
「――やめろ!」
嫌な予感が背筋を走るよりも先に、声を出していた。
主としての命令でもいい。後でどれほど蔑まれようとも、嫌われようとも構わない。
「やめてくれ!」
何も失いたくなかった。
だから、この道を選んだはずだった。
「覚悟しやがれ!
メルギトス!」
力強い叫びと共に、バルレルは地面を蹴る。
後ろからマグナの叫び声が聞こえたが、振り返ることはしない。
決意が揺らいでしまう。
「貴様……。
悪魔のくせに、ニンゲンに肩入れするのかぁ!」
メルギトスの怒声が空気を揺らす。
下にいる人間達は耳をふさぎ、身を屈めているが、本来の力を取り戻したバルレルはビクともしない。
「バーカ。
そんなんじゃねぇよ」
命のやり取りをしているはずなのに、バルレルの表情は穏やかなものだった。
過去を懐かしみ、大切に慈しむような。
「ただ、お前よりもあいつらの方が数百倍、面白そうだったってだけだ」
「それだけのことで……。
この、裏切り者が!」
同じ悪魔として、メルギトスはバルレルのことを憎く思った。
それは、片や人間に裏切られ、片や信頼を寄せ合っている。そんな関係が羨ましかったのかもしれない。
「裏切り者ぉ?
そりゃ、褒め言葉だぜ!」
魔力をまとったバルレルの腕がメルギトスの眉間に鋭く突き刺さる。今さら頭に腕一本突き刺されたくらいでは、彼は死なない。ゆえに、メルギトスはこれが死を与えるための攻撃ではないことをすぐに悟った。
一先ずは身を退くべきだろう、と考えるのだが、如何せん巨体だ。動くのは一苦労で、彼が一歩下がる前にバルレルが距離をさらに詰める。
「てめぇの源罪は、そりゃ不味いだろうなぁ」
そう言いながらも、バルレルは舌で唇を舐める。
「まさか……貴様っ!」
「ありがたく思えよ?
このオレ様が、てめぇごときの源罪を喰ってやるんだからよぉ!」
叫ぶのが早かったか、源罪が動くのが早かったか。
バルレルが突き刺した腕を通して、メルギトスの源罪が流れ出ていく。
「ネスティ! あれって、まずいんじゃないのか?!」
地上で二人の悪魔を見ていたマグナが声を荒げた。
声が届いているので何が起こっているかはわかっているが、それがどういった結果をもたらすのかは考えたくない。
「……バルレルが強い力を持つ悪魔だとしても、メルギトスが蓄積してきた程の源罪を身に宿せるとは思えない」
ただでさえ、悪魔には自身の持つ源罪があるのだ。他の悪魔の分まで受け止めることなど、本来ならばありえない。
マグナは縋るような目でネスティを見ている。けれど、その思いに応えることはできないのだ。
「あのまま吸収を続ければ、おそらくはバルレルが源罪に飲み込まれる」
搾り出すように発せられた言葉は、彼がどれだけ苦しい思いをしながらこの言葉を吐いたのかを表している。だから、マグナは嘘だろ、とも言えず、駄々をこねることもできなかった。
感情を失くした瞳で、その場に膝をつくことしかできない。
「そ、んな……」
「マグナさん……」
アメルがそっと寄り添うが、今のマグナには何の思いもわかない。暖かさを感じることもない。
上空で源罪のやり取りをしているバルレルにも、下の様子は何とはなしに伝わっている。
みっともない姿を晒すなと怒鳴りつけてやりたいのはやまやまなのだが、どうにも気を抜けるような状態ではない。体は悲鳴をあげ、自身の魔力は今にも暴走を始めそうだ。
メルギトスが悔しさと苦痛を混ぜたような呻き声をあげていなければ、こんな辛いことは投げ出してしまっていたかもしれない。
「オレ、様も、やるかいが、あるってなもんだ」
無理矢理に口角を上げてみせてやったが、メルギトスがそれを見ているかどうか怪しい。もしも、バルレルが源罪を全て吸収するようなことがあれば、メルギトスに待っているのはただの死だ。復活することもできず、人間に痛手を負わせることもできずに終わる。それも、同種の手によって。
あまりの悔しさに、メルギトスは血涙を流しそうですらあったほどだ。
「――あぁ、こんなの、ガラじゃ、ねぇなぁ」
バルレルは目を細め、静かに零した。
己は悪魔で、人が発する負の感情が好きだった。今でもそれは変わっていないつもりだ。しかし、人間のために身を投げ出している事実は変わらず、源罪がリィンバウムから消えればいいとすら思っている。まったく、悪魔失格だ。
源罪を受け入れることが困難になり始めた体は、あちらこちらにヒビが入っている。もうあとわずかな時間で、この体は砕け散るのだろう。
後悔はない。メルギトスは昔からいけ好かないと思っていたし、始めて心を許すことができた人間のためにとった行動だ。命が果てることも覚悟の上だった。ただ、このまま自分が死ねばどうなるのだろうかとは考える。
身に移した源罪は、またリィンバウムを漂うのだろうか。メルギトスが最期のあがきとばかりに暴れはしないだろうか。悪魔らしからぬ心配事ばかりだ。自覚はしているが、思わず失笑してしまう。
ついでに、バルレルは願う。
この身が砕けてもいい。源罪は砕けた欠片の中に留まれ。できることならば、吹いた源罪もすべてこの身に宿れ。大切な人間が住まうこの世界に平和をもたらせ。
その瞬間、バルレルの視界は光に包まれた。
刹那の間に、彼は自身の死を悟る。
「バルレルー!!」
聞こえたのはマグナの声だった。
彼の安否を確認する術はもうないけれど、幸福な未来を夢見、また願うことくらいはできた。
「あ……ぁ……」
マグナの頬を涙が伝う。目の前で、バルレルが砕けた。つまりは、死。
一瞬きの後、マグナは怒りで血管が焼き切れるのではないかと感じた。弔い合戦というような良いものではない。ただ怒りをぶつけずにはいられなかった。
手に剣を握り、再び立ち上がる。
足を踏み出す前に、メルギトスは断末魔を上げた。同時に、足元にいた人間達は不可思議な力で外へ放り出される。
「な、何が起こったの?」
ケイナが体を上げ、周囲を見る。
そこは赤黒い空間ではなく、穏やかともいえる森だ。一見すれば、始めて訪れたときから何も変わっていない。
「おい! 見ろよ!」
リューグの声に、全員が施設のあった場所を見た。
そう、そこにはもう、施設は存在していなかった。
「これは……」
「木、ですか……?」
ロッカとアメルは、視線をじょじょに上げながら呟いた。
目の前にある木は、彼らが目にしてきた木よりもずっと大きなものだった。普通の木とは到底思えない。葉の一枚一枚から、温かな光が降り注いでいるならばなおさらに。
「――バルレル」
仲間達が状況把握に勤しむ横で、茫然自失状態だったマグナが目に光を取り戻し始める。
「マグナ?」
ミニスが彼の様子に気づき、名前を呼ぶが反応はない。
ふらつく足でゆっくりと木に近づき、そっと触れる。
指先から木の温もりと生を感じるが、暖かな肌の温もりと血潮の動きは感じられない。
「お前、こんな姿になって……」
誰が信じずともいい。マグナ自身が信じているのだ。
涙を流し、木に縋りつく。物言わぬ木であったが、第三者から見ても、どことなく木がマグナを慰めているように見えた。だから、仲間達はこの大きな木がバルレルであることを信じることにした。
悪魔の彼が、源罪を吸収し、暖かな光を降り注がせているなど、とても面白い話ではないか。
いつか、還ってきたときにからかってやるいいネタができた、と
。
END