人間という生き物はやっかいなものだ。
バルレルは一応は主であるマグナの部屋の前にある手すりに腰かける。悪魔である彼の耳には、ネスティが調律者やゲイルについて話しているのがかすかに聞こえていた。
背後にある部屋ではマグナがふさぎこんでいる。ネスティやアメルが声をかけたが、出てくる気配はなかった。気持ちがわからないわけではない、ということで一先ずは、そっとしておくことに決まった。
それでも時間を無為に過ぎさせるわけにはいかないので、他の面々はマグナを抜いて話し合いを進めている。ただ、バルレルだけは部屋の前から離れようとしなかった。
護衛獣ということに括っているわけではない。離れる気になれなかっただけだ。何か間違いがおこるとも思っていないし、自分がここから離れることでマグナの精神に何らかの影響があるとも思えない。理屈ではないのだ。バルレルにはいまひとつ理解できなかったが、自分がしたいと思ったからこそ、こうしている。
多少の暇を持て余した彼は、尻尾を揺らしながら遺跡の中でのことを思い返す。
何とも忌々しい話だった。こうして別世界に呼び出され、命令を受ける立場に置かれることでさえ納得がいかず、胸がはち切れそうになることが何度もあった。ゲイルという存在は、そうした召喚術を軽く上回るものだった。
体をいじくられ、人格や精神をも破壊される。残るのは純粋な力と抜け殻だけだと言うではないか。そんなものを許容できる生物が存在するというのならば、是非とも紹介していただきたい。
悪魔も生きているのだ。意思があり、価値観があり、命がある。それを他人に好き勝手されることは耐え難い屈辱だ。人間は寿命が短い分、頭も悪いのではないかと思わされる。少し考えれば、サプレスに生きるモノも、メイトルパに生きるモノも、全て彼らと同じ生きた存在であることが理解出来そうなものなのに。
「……ッチ」
舌打ちを一つする。嫌なことを思い出してしまった。
マグナの前にバルレルを召喚した術者は本当に糞野郎だった。他者の痛みを理解せず、好き勝手にバルレルの肉体を刻んだ。生理的な涙も流れた。アレほどの屈辱を彼はサプレスでも受けたことがない。
ゲイルにされるということは、あれ以上の苦痛と屈辱を受けるということなのだろう。想像だけでも腸が煮えくり返る。
その術を生み出し、始めに施したのがマグナの祖先だ。
嫌な気持ちがバルレルの胸に渦巻く。こんな気持ちは人間にだけあればいいのに。負の感情は悪魔であるバルレルの好物だ。しかし、自身の中にそれが生み出されるのは気分が悪い。悪魔が持つべき負の感情というのは、清々しい程の悪意と嘘と欺瞞だけだ。発散することすら躊躇われるような感情をバルレルは知らない。扱い方もわからない。
感情があちらこちらに揺れる。
傍にいてやりたいのに、傍にいたくない。
「胸糞わりぃ……」
遺跡で見たマグナの表情が網膜に焼きついている。
悪魔の体を好き勝手に弄繰り回すことを咎めたとき、彼は苦しそうな顔をしていた。バルレルはあの表情をよく知っている。あれは罪を認識し、それに苛まれるときの顔だ。
そんな顔をさせたかったわけではない。感じたことをそのまま口にしただけだった。あの言葉を誰かに向けたものとするのならば、それは遠い昔にゲイルなどというものを生み出した奴ら本人に対してだ。けっして、一族へ、末裔であるマグナへ向けたものではなかった。
今まで出会った召喚師達の中で、マグナは最もまともな人間だった。そう告げたのは嘘ではなかったし、それだけバルレルがマグナのことを気に入っていた証拠でもある。無理な命令をすることもなく、拒絶を示したとしても脅迫をしてくるようなことはなかった。人道的に考えれば、それが普通なのだろう。しかし、召喚師という者の多くは、召喚した対象に対して人道的ではなかった。
マグナとバルレルは対等だった。守る側と守られる側、という前提はあったが、どこか友人のようですらあった。他の誰かに召喚されてしまう危険性があるくらいならば、このままずっとマグナの護衛獣をするのも悪くはない。バルレルはそんな風に思うこともあった。
しかし、クレスメントの一族に対して抱いた嫌悪感は消えない。
一種のトラウマなのだろう。バルレルは自身の体を弄られることを想像しただけで吐き気がした。
久々に全てを殺したい衝動にかられた。楽しかったことも忘れ、人間への憎しみに頭が支配された。マグナはバルレルのそうした感情を直に受け取ってしまったのだろう。
マグナは違う。そう自分に言い聞かせても、彼がクレスメントの末裔であるという事実が、バルレルに一抹の恐怖を与える。いつかまた、我が身が切り裂かれるかもしれない。次は意識まで消し去られるかもしれない。
バルレルは手すりから離れ、マグナが篭っている部屋の扉に手をつく。
薄い扉を一枚隔てた場所に彼がいる。お人好しなマグナが、クレスメントの末裔であるマグナが。
「――マグナ」
小さく言葉を紡ぐ。未だにしっかりと呼んだことのない名前だ。
扉に触れた手を伝い、部屋にいる彼の感情が流れ込んでくる。バルレルが好む感情だ。しかし、今はそれが苦くて飲み込めない。
絶望も、悲しみも、罪悪感も、マグナには似合わない。
「お前は笑ってりゃいいんだよ」
言って小さく笑う。
そうだ。たったそれだけのことだ。何を迷っていたのだろうか。
バルレルは不安を振り払うように頭を振る。
今まで彼が目にしてきたものが真実だ。マグナという人間は、楽天家で、絶望も悲しみも罪悪感も似合わないような奴だ。その真実が言っている。マグナはクレスメントとは違う。以前に見た召喚師とは違う。
ノブに手をかけ、自身の手がわずかに震えていることに気づいた。
深呼吸を一つし、震えが止まったことを確認する。
「おい、いつまでそうしてんだよ」
バルレルは扉を開けた。
今は立ち止まっているときではない。進むべきときだ。マグナにとっては酷なことかもしれないが、当事者が避けて通れる問題でもない。ここは一つ喝を入れてやらねばならない。
いつまでもウジウジしているようならば捨ててやろう。
そんな心意気でバルレルはマグナを見据えた。
END