意識の奥底で魔王はニタリと笑う。
 トウヤと呼ばれていた人間は、何も知らぬままに日常を送っている。己の意識の中に魔王が潜んでいるなど、欠片も考えていない。その可能性について、彼は知っていたはずだ。しかし、今はもう覚えていない。覚えている必要がなくなってしまった。
 魔王や召喚獣という存在を認識させていたのは、今トウヤが過ごしている世界ではない。遠い別世界だ。
 彼はリィンバウムでの出来事を真実として認識していない。幼稚な夢だと片付け、築き上げてきた友情も親愛も、全てを幻想というカテゴリーに放り込んだ。正確には、放り込まれてしまった。
 他でもない、身の内に潜む魔王の手によって。
「オレって、本当に優しい男だよなぁ」
 彼はトウヤの視界を盗み見ながら呟く。応える声はないが、気に止めない。トウヤと言葉を交わすことは大した労力もなく達成することができる。しかし、魔王はそれを望まない。
 だからこそ、己自身のことと、リィンバウムのことを夢にしてしまったのだ。ここで声をかけては全てが無に帰してしまう。飽いてしまえばそのようなことも全て忘れ、あっさりと声をかけるのだろうけれど。
「お前の望みを、ぜぇんぶ叶えてやったんだからよぉ」
 視界の中には驚くほどの平和がある。
 笑っている女や男が見える。誰も彼もがトウヤを慕っているらしい。思えば、リィンバウムでもこの男は慕われていた。お人好しな一面と冷静に物事を見ることができる思考力がそうさせるのだろう。
「リィンバウムを救ってやった。
 あの男も殺さないでいてやった。
 元の世界にも還してやった」
 どれも、トウヤの願いだった。
 表面上に現れることはなかったが、魔王はずっと彼の中にいた。そこで、全てを眺めていた。目が回るような展開を楽しみ、戸惑い変わるトウヤの精神を楽しんでいた。あの瞬間、魔王はトウヤの一部だった。考えを読み取ることなど雑作もないことだ。
 始めは帰りたいと願った。臆せずに剣を取った男だったが、それでも平和に慣れ親しんでいた身だ。人が死ぬ姿を見るのは恐ろしかっただろう。生き物を殺す瞬間は血の気が引いただろう。始めて命を喪ったことを自覚したあの精神状態は、非常に心地のいいものだった。同時に弱い心だとも思ったが、こうしてトウヤの生きてきた世界を見ていると納得できてしまうものもある。
 平和な世界へ帰りたいという願いは、日に日に薄れて行っていた。刺激を欲していたトウヤは、リィンバウムのことを好意的に見ていたのだ。それに加え、彼にはガゼルやレイド、フラットの面々がいた。幸せで、満たされていたのだ。後ろ髪を引かれつつも、彼は二つの世界を天秤にかけ始めていた。そんな時だ、トウヤの中で元の世界よりもリィンバウムに比重が向いた。
 魔王を召喚しようとした忌々しい連中がきっかけだ。彼らの存在と目的が明らかになった瞬間、トウヤはリィンバウムを救うということで頭がいっぱいになった。さらに、お人好しの彼は傀儡になろうとしていたバノッサまでも救いたいと願ったのだ。
 割り切るということを知らないトウヤは、全てを望んだ。傲慢にも、世界とバノッサの命、両方を欲した。
 だから、叶えてやった。
 あまりにも傲慢で、愚かで、無知な子供に、魔王は手を差し伸べてやったのだ。
「まぁ、この世界も悪くはない」
 かつて、トウヤが仲間と称していた連中には、サプレスに帰りたいだけだと告げ、力を取り戻す強力をさせた。事実、魔王はさっさとサプレスに帰りたいという気持ちもあった。だが、トウヤの住まう世界にも興味があった。
 つまらなければ滅ぼしてやろう。そんな軽い気持ちでやってきただけだ。
 一時的に体の主導権をトウヤに返してやり、リィンバウムでの記憶に霧をかけてやった。それだけで、彼は全てを夢だと勘違いしてくれた。
 トウヤの目から見た世界は、平和そのものだった。しかし、平和ゆえに溢れる負の感情を見るのは愉快なものがあった。魔力の概念がなく、機械であふれているように思わせながら、自然が残っているところも面白い。
 魔王はこの世界を滅ぼすのはもっと先でいいだろうと思った。
「オレは優しい魔王様だからな。
 お前が何も知らないまま死ねるようにしてやるよ」
 喉で笑いながら言う。
 禍々しい声ではあるが、どこか慈愛を含んでいるようにも聞こえる。
「ガキや孫に囲まれて、息を引き取るその瞬間まで、オレは潜んでいてやろう。
 だが、その瞬間。生と死の刹那、オレはお前の前に姿を現してやる」
 その時、トウヤは何を思うだろうか。
 リィンバウムでのことを思い出し、愕然とするだろうか。彼はあの世界で生きることを選びつつあった。こちらの世界で向かえる死に絶望でもするだろうか。
 魔王を平穏な世界を落として逝くことを不安に思うだろうか。
 還してくれてありがとう、とでも言うだろうか。
 何も理解せぬままに刹那を終えるだろうか。
「どれでもいい」
 選択がどれであったとしても、魔王は楽しめる自信があった。
「ひとまず今は――」
 平穏で、退屈で、負に溢れていて、面白い世界をただ眺めていてやろう。

END