「あん時はすまんかったの」
 シャーリィは目を丸くする。
 買い物を頼まれ、家を出るとそこには意外な人物がいた。彼がそこにいることにも驚いたが、己に向けられた言葉にはさらなる驚きを得ることとなってしまった。
 思わず無言になってしまった彼女に、眼帯をつけたその男は再び言葉を渡す。
「一度、ちゃんと謝っておかんと、と思っとったんじゃ」
 バツが悪そうに頭を掻いた彼、モーゼスはすまん、と改めて謝罪の言葉を口にした。
 謝罪を受けているシャーリィはといえば、突然すぎる事態に思考回路を停止させてしまっている。ここ数日を思い返してみても、彼女はモーゼスと接触していない。各々、するべきことに追われているような毎日で、戦いを共にした仲間とはいえ頻繁に会うことは少なくなっているのだ。
 そのような状態で、何か謝られるような事態はあったのだろうかとシャーリィは必死に考える。
「嬢ちゃん?」
「えっと……あの……」
 無言を貫くシャーリィに、モーゼスが怪訝な顔をする。
 心配させてしまったということと、未だにまとまりきっていない思考に彼女は意味のない音を出すことしかできない。せめて、唐突な訪問でなければ、思考もまとまり謝罪にも合点がいっただろうに、というのはシャーリィの言い訳にすぎなかった。
「……そげに怖がらんでもえぇじゃろ」
 モーゼスは、戸惑う彼女の様子を見て何か勘違いをしたらしい。拗ねたような顔をして、少しばかり恨めしそうにシャーリィを見る。仲間の間ではいじられることの多い彼なので、こういった表情は付き合いの短いシャーリィにもよくよく見覚えのあるものだった。
 見知った彼の表情を見て、彼女も少し落ち着いたらしい。ようやく、モーゼスの言葉を反芻し、飲み込むことができるようになった。
「――あ」
 思い当たる事柄に言葉をもらす。
 遺跡戦へ足を踏み入れたときのこと。彼女はすぐに兄と慕っていた人物から引き離された。他でもない、目の前の男の手によって。
「……今さら、ですね」
「うっ」
 ポツリと零せば、モーゼスは苦しげな呻き声をあげる。
 シャーリィが拉致され、アジトに閉じ込められてから、もうずいぶんと時間が経っている。あれから今までの間に、様々なことがあった。シャーリィがまた別の者に拉致されたこともあった。彼女自身が世界を滅ぼそうともした。仲間のために戦ったこともあった。
 短いながらも共に過ごし、二人っきりになったことこそないものの、同じ空間にいたことは何度もあったはずだ。しかし、モーゼスがはっきりと拉致のことを謝罪したのはこれが始めてだった。
「言い訳はせん。すまんかった」
 苦しげな顔から真剣な顔へと変わる。真っ直ぐな瞳がシャーリィを見ていた。
 彼女は視線を真正面から受け止め、こっそりと呆れを息に変えた。
 シャーリィは幼い子供ではない。他者の事情を考えることだってできる程度には大人の女性をしているつもりだ。彼らが大沈下を防いだ後、モーゼスはギートを気づかって森で過ごしていた。あれはストレスを発散させることで魔獣化を抑えていたのだろうことはわかっているし、その後は黒い霧の騒ぎで落ち着いて謝罪もできなかったことだってわかっている。
 第一、世界を守ってくれた人、己の兄を支えてくれた人に対して、いつまでも過去のことをグチグチというような性格はしていないとシャーリィは自負している。勿論、冗談として口にすることはあっても、だ。
「怒ってませんよ。
 モーゼスさんにも事情があったことくらい、わかってます」
 肩をすくめ、シャーリィは笑みを浮かべて言った。
 心の狭い女性だと思われるのは、セネルにいつまで経っても妹扱いされるのと同じくらい面白くない。そんな気持ちを声に乗せる。
「……いや、ワイは酷い男じゃ」
 わずかにシャーリィから視線を外し、モーゼスは自己嫌悪を滲ませた。
 予想だにしていなかった彼の表情にシャーリィはまた驚かされることになった。彼のことだから、すぐに笑みを浮かべるのだろうと思っていた。いつも明るくて、元気で、新しく友達になったトレジャーハンターの彼女と彼はとてもよく似ているというのに、この表情は何なのだろうか。
 言葉をかけることも、疑問を呈することもできない彼女にモーゼスは赤い瞳を向ける。苦しいことがあったとしても、相手を真っ直ぐに見つめることのできるモーゼスの強さをシャーリィはいつも羨ましいと思っていた。
「あん時も言うたが、ワイは嬢ちゃんのことを同じ人間やと思っとらんかった」
 シャーリィの胸に痛みが走る。
 水の民は人類ではない。迫害される同族。道具のように使われる己。痛い記憶が脳を駆け巡り、彼女の胸を傷つけていく。
 自身の言葉がシャーリィを傷つけるものだとモーゼスもわかっていた。今も、彼女の痛みが表情から伝わってくるようだった。しかし、それでもモーゼスは言わなければならなかった。真の謝罪を口にするためにも。だからこそ、彼はシャーリィの痛みから目をそらさない。悲しげな表情もすべて受け入れなければならない。
「で、も……。
 モーゼスさんは、私を、痛めつけたりはしませんでした」
 拉致され、閉じ込められはした。しかし、暴力が振るわれることはなかった。柔らかいベッドを用意してくれ、食事も与えてくれた。何なら宝石を渡そうとだってしてくれた。
 彼が山賊の首領だということを踏まえて考えれば、人間的な扱いをされていない、ということはなかったように思える。
「そりゃ当然じゃ。ワイは殺しはせん。無駄な暴力も好かん」
 当たり前のように言ってくれる言葉が、どれほど嬉しいものなのかをモーゼスは知らない。彼がしなくて当然だと断言するような行為を平然と行える人間は少なくない。モーゼスも知識としてはそのことをわかっているのだろうけれど、己が特別に優しい人種であることはわかっていない。
 けれど、そんなモーゼスが言ったのだ。シャーリィを同じ人間だと思っていなかった、と。
「じゃがな、ワイはメルネスに家族がおるっちゅうことを考えとらんかった」
 シャーリィの傍にいたセネルを家族とは認識していなかった。そもそも、家族がいるという発想が頭から抜け落ちていた。
「それは、私とお兄ちゃんが似てないから……」
「いや、ワイは血の繋がりだけが家族じゃとは思っとらん。
 今のワイらが家族なように、な」
 流してしまいそうな程、自然にモーゼスは自分達が家族であることを口にしてしまえる。シャーリィは痛む胸も忘れ、少し頬を緩めてしまった。長い間、家族はセネルだけだった。同族も失い、メルネスと崇められて唯一の兄さえ捨てようとした。そんな彼女に、家族という言葉は少しくすぐったい。
「メルネスは特別じゃ思っとった。それこそ、天から降ってくるような、そげな風に思っとった。
 嬢ちゃんが普通の女の子じゃいうのは話したらすぐにわかったはずじゃのに。
 ワイは、セの字が嬢ちゃんのことを妹じゃ言うまで、メルネスに家族が、そこまで心を通わせられる人間がおるとは思っとらんかったんじゃ」
 伝説のメルネス。モーゼスはシャーリィのことをメルネスとしてしか見ていなかった。それ故に、家族の存在を思い当たることができなかった。
 眉間にしわを寄せ、断罪を待つ罪人のようにモーゼスはシャーリィを見つめている。
「……ふふ」
 シャーリィは朗らかな笑みを浮かべた。
 今度はモーゼスが驚く番だった。まさか、笑われるとは思いもしていなかったのだ。
「な、何じゃ……?」
「モーゼスさんは馬鹿です」
 その言葉は腐るほど聞いてきたが、シャーリィから言われたのは始めてだ。
「そんなの、とっくに帳消しされてるじゃないですか」
 助けてくれたのも、兄を支えてくれたことも、家族だと言ってくれたことも、ちょっとした思い込みを補って余りあるほどの幸福だ。そもそも、モーゼスはセネルの言葉一つでシャーリィが人間であると気づいてくれたではないか。
 断罪されるほどの罪でもない。
「じゃが!」
「じゃあ、こうしましょう」
 まだ何か言おうとしていた彼の言葉を遮る。これ以上、彼の口から謝罪など聞きたくなかった。
「私をさらった理由を教えてください」
 本当はわかっている。彼が聖爪術を望んだ理由など一つしかない。ただ、モーゼス自身の口から聞いてみたかっただけだ。
 わずかに間を置いて、モーゼスは息をついた。シャーリィの頑固さは彼も知っている。
「聖爪術が欲しかったんじゃ。
 ギートよりも、ずっと、ずっと強くおるために」
 大人のグランドガルフよりも強く。そうしなければ、いずれ別れがやってくる。モーゼスは遺跡船にくる前からそれを恐れ続けていた。
 結局、彼とは別れることになってしまった。だが、悲しい別れではなかった。家族の旅立ちだ。いつか訪れる再会のための別れだった。聖爪術はギートとの一生を確保してくれなかった。しかし、家族の絆が消失してしまうことは防いでくれた。それだけで十分だった。
「私をさらったこと、後悔してますか?」
 海のような、優しい笑みだった。モーゼスはつられるように笑う。
「嬢ちゃんには悪いが、しとらんのぉ」
 謝るべきだろうとは思っていた。しかし、後悔はしていなかった。
「もし、嬢ちゃんをさらっとらんかったら、セの字達とは関わりのないままやったやろうしの。
 聖爪術も、ギートとの絆も、こがに上手くはいかんかったじゃろ」
 セネル達と共にいた日々は大切なものだ。彼らがいたからこそ、得られたものが多くある。それら全ては、シャーリィを拉致したことから始まっている。今さら、それを後悔しているとは言えない。
「私も、同じ気持ちですよ」
 シャーリィはモーゼスに近づき、右手を差し出す。
「皆さんに会えて良かったです」
 思いを打ち明ける勇気ができた。友人ができた。水の民と陸の民の橋渡しができた。それは、とても幸福なことだから。
「あぁ。会えて良かった」
 二人は手を取り合い、固い握手を交わした。

END