海に落ちたセネルは、シャーリィに手を引かれて近くの海岸にたどりついた。先の戦いで傷を負い、体を動かすことさえ億劫ではあったが、セネルはどうにか自力で体を岸に乗せる。同時に、セネルは飲み込んでしまった海水を吐き、新鮮な酸素を肺に取り込む。心配そうにそれを見ているシャーリィと違い、セネルは陸の民だ。海からの祝福に目を奪われ続けることはできなかった。
呼吸が落ち着いたところで、セネルは体を横たえる。そのまま目を閉じてしまいたいくらいには疲れていた。肉体的にも、精神的にもだ。全てが終わったという解放感もある。眠ってしまうにはこれ以上ないほどの体調だ。
ぼんやりと空を見ながら、セネルは祝福の光景を思い出す。今すぐに眠れば、夢の中でもあの美しい光を見られるだろうか。
「お兄ちゃん、今すぐ回復のブレスをかけるから!」
徐々に目蓋を落としていく彼の姿は、死に逝く者のそれとよく似ていた。慌ててシャーリィが手をかざす。メルネスとして覚醒した彼女にとって、回復のブレスを使うなど雑作も無いことだ。しかし、彼女のブレスとはいえ、死んだ者に対しては意味を成さない。
瞳に涙を浮かべ、シャーリィは呪文を唱える。
暖かな空気がセネルを包む。痛みも、疲れも、苦しみもなくなる心地よさだ。
やはり、眠ってしまおうか。セネルは思った。むしろ、眠るのならば今しかないとさえ感じた。心地良さに包まれたまま、彼はそっと目を閉じる。暗闇の中では、ふわりふわりと光が舞っている。海が、新しい世界を祝福している。
「馬鹿者!」
聞き慣れた怒声と、痛みを頭部に感じた。
目蓋の裏側で見た光とは違う、衝撃からくる星をセネルは見た。少なくとも、怪我人が見るようなものではないはずだろうけれど。
「……ウィル」
薄く目を開けたセネルは、己を殴った張本人である男を視界に映す。ブレス系の爪術師とは、到底思えない体格と拳の痛さだ。今まで幾度となく下されたものではあるが、今の状況でそれを下すのは止めて欲しかった。
痛みと文句を訴える前に、彼を包む心地よさが増した。シャーリィのブレスに加え、ウィルとノーマのブレスがセネルを包んでいる。
「目を閉じたら、もう開けられませんよ」
冷たくとも、奥底では相手を気づかっている声はジェイのものだ。
いつの間にやってきたのか、全員が揃っている。ゆっくりと視線をずらしていけば、心配そうにこちらを見ている面々が見えた。そこで、ようやくセネルは自分が殴られた理由を悟った。
「心配、かけたか」
「当たり前だ。大馬鹿者め」
憮然とウィルが返す。ここまできて、一人欠けて帰ることなどできるはずがない、とまで付け加えられた。
普通ならば、あの高さから海に落ちただけで死亡ものだ。シャーリィの加護があったから命を取りとめることができたにすぎない。それがあったとしても、陸の民であるセネルは海の中で呼吸も回復もできない。セネルを追ったシャーリィを一瞬の間と共に見送ってしまった面々が、すぐに状況を理解して慌てたのも無理はないだろう。
「せっかく嬢ちゃんを助けたんじゃ。セの字がいのうなってどうするんじゃ」
「まったくだ。爪が甘いぞ」
心配している二人にセネルはわずかに頷きを返す。まだ全快はしていないが、体を多少ならば動かせるようになった。未だに回復を続けてくれている三人には感謝してもし足りない。
「でも、無事で良かったわぁ」
「貸しだかんね! 絶対! 返してもらうからね!」
グリューネとノーマは相変わらずだが、それでもセネルを心配してくれていたことはわかる。
彼女達に苦笑いを返し、ふさがっていく傷に意識を向けた。痛みが消えていき、体の自由が戻ってくる。流石に全快するまで回復のブレスを使わせ続けるわけにもいかない。
どうにか自力で歩くことができそうになったところで、上半身をあげる。
「まだ横になってて!」
「もう大丈夫だよ」
全快まで回復させようとするシャーリィをどうにか押し留める。そこまでしては、今度はシャーリィが動けなくなってしまう。
セネルの様子を見て、もう回復する必要もないと判断したのか、ウィルは静かに立ち上がり、ノーマはその場に寝転がった。
「……皆、ありがとう」
心配してくれたこと、回復のブレスを使ってくれたこと、ここまで来てくれたこと。感謝することはたくさんあった。だが、告げることができたのは一言だけだった。他には何も思い浮かばなかった。ただただ、ありがとう、という気持ちが溢れていた。
「本当に、ありがとうございました。
色々、ご迷惑をかけてしまいましたが、皆さんがいてくれたおかげで、こうしてまたお兄ちゃんと一緒にいられます」
セネルに倣い、シャーリィも感謝を告げる。頭を下げ、何度もお礼と謝罪を述べる。そこにいるのは、メルネスではなく、ただの女の子だ。
「別に、大したことではありませんでしたから」
素直ではないジェイの物言いに周囲も笑みを浮かべる。決戦の後とは思えぬような、いつも通りの風景だ。いや、穏やかな海があるという面に関していえば、いつもよりも素晴らしい風景であるといえるだろう。
「そうだな。オレ達はそれぞれの考えのもとに動いたにすぎない」
「私も、騎士として当然のことをしただけだ」
「家族は一緒におるもんじゃしの」
「はいはーい! お礼として、とりあえずセネセネの焼いたパンが食べたいでーす!」
「あらぁ。お姉さんも食べたいわぁ」
笑い声が上がる。セネルは疲れているんだぞ、と苦笑いを返したが、ノーマが彼の言葉を聞くはずもなく、チョココロネがいいだとかピザがいいだとかリクエストの並べていく。それは、ジェイが太りますよ、と告げるまで続けられた。彼女のリクエストに全て応えようとした場合、どれだけの材料が必要になるのかもわからない。
ひとしきり、普段通りの漫才が終わり、セネルは口を開く。
「皆がいてくれて、皆に出会えて、本当に良かった。
本当に、ありがとう」
今はもう、狂犬のようだと揶揄されたセネルではない。穏やかな表情を浮かべ、心の底から言葉を紡いでいる。おそらくは、こちらが本来のセネルなのだろう。追われる心配も、疑う辛さも、隠す苦痛からも逃れ、ようやく本来の自分を取り戻せたのだ。
周囲が沈黙した。何と答えれば良いのか迷ってしまう。気恥ずかしさや、驚きが各々の心にあった。
最初に動いたのは、モーゼスだった。
「ワイもセの字らと出会えて良かった思っとる。
それに、ワイらはもう家族やとも思っとる。じゃから、助けたのも、一緒におるのも当然じゃ」
歯を見せ、実に爽やかな笑みを浮かべる。
他の誰かがモーゼスと同じことを言ったならば、単なる冗談に思えたかもしれない。気恥ずかしいだけの台詞に感じたかもしれない。だが、人一倍家族を大切に思い、その関係に血の繋がりを必要としていない彼が言ったならば、それは真っ直ぐに人の胸へと突き刺さる。
「……家族」
セネルは零す。
孤児だった彼が、家族として過ごしてきていた人々を裏切った彼が、最愛の妹を守り続けてきていた彼が、欲さないはずのなかったもの。
「モーゼスは、家族に関しては本当に良いことを言う」
ウィルが笑いながら言った。そこに否定はない。彼もまた、モーゼスのいう家族を受け入れた。
「か、家族か。そうだな。
私と、クーリッジ達は、その、家族だ!」
「うわー。一気に大家族になっちゃったねー」
「お姉さん、嬉しいわぁ」
キャッキャと騒ぐ女性陣。
一人、沈黙を保ったままのジェイへモーゼスが目を向ける。もとより、素直でないジェイが喜びを示すとは思っていない。
呆然とした表情をしていた彼だが、己へ向けられている視線に気づいて不満気な表情を作る。
「あなた達と家族だなんてごめんですよ。
馬鹿が感染ったらどうしてくれるんですか」
「ワレは素直じゃないのー」
また一段と騒がしくなった面々にセネルは目を細める。
「シャーリィ」
隣にいる妹の肩に手を置く。
「オレ達の家族、だそうだ」
「……私も、家族でいいの?」
セネルと違い、シャーリィは彼らと共にいたわけではない。
時には捕まっており、時には水の民の里で暮らし、先ほどまでは敵だった。
「シャーリィはオレの家族だろ?」
家族の家族は「家族」でしかない。
そう言うと、シャーリィは戸惑いながらも頷いた。
「賑やかな家族だね」
誰もが笑っていた。楽しげで、これ以上なく幸せそうな笑みだ。
END