世界を救う旅を終えて一年あまり。ティアはガイの元を訪れた。長い間、彼らはかつての仲間の顔を見ることを避けていた。各々、立場があり、仕事に追われているのだということを理由にしていた。無論、仕事が山のようにあったことは事実なのだが、一日の休みもないわけではなかった。
 気の置けない仲間と距離を取ったのは、顔をあわせて彼のことを思い出すのが辛かったからだ。
 あの旅の中で、成長し、消えていった青年。
 今回、ティアが己の、仲間の苦痛を押し切ってまでガイの元へやってきたのには、特に取り立てるほどの理由はなかった。ただ、同じ存在を知っている者と会いたかった。そうでもしないと、忘れていいはずのない彼の記憶が風化してしまいそうになった。色彩を失っていく記憶を、再び鮮明にしたかった。それが例え、己へ苦痛をもたらすとしてもだ。
 仲間の中でもガイを選んだのは、消えてしまった彼をよく知っている人間で、彼と深い繋がりを持っていたからだ。他の仲間達も、消えた彼のことをよく知り、深い絆を持っているが、それでも世話係を務めた彼ほどのものには思うのには抵抗があった。
 何があったとしても、ガイだけは、彼を、ルークの記憶を風化させることなどないだろうと、確信していた。
 訪れる前にガイへ手紙を出していたので、ティアが彼の屋敷の前へつくと、使用人がやってきて奥へ案内をしてくれた。メイドでないのは、ガイの女性恐怖症が治っていない証拠だろう。
 ティアは使用人の背中を見ながら屋敷を進み、少しばかり違和感を覚えてしまった。彼女の中のガイは、使用人であった印象が少なくない。そんな彼の家に、使用人がいるのだから、奇妙な感覚になってしまう、マルクトで伯爵としての地位を得ているのだから、屋敷を持ち、使用人を持っていたとしても不思議ではないはずなのに、根付いた印象とは恐ろしいものだ。
「こちらです」
 通された広間はシンプルではあるが、高級そうなソファとテーブルが置かれていた。全体を通して落ち着いた雰囲気を持った部屋だ。その中央、テーブルの奥に、この屋敷の主はいた。ただし、その手にはティーポットとカップがあり、淹れたての紅茶のいい香りがティアの鼻腔をくすぐる。
「ガイラルディア様!」
「ん?」
「そのようなことは私達にお任せくださいと何度も――」
「いいじゃないか。紅茶くらい、オレだって淹れられる」
「そのような問題ではありません!」
 長い期間を使用人として生きていた弊害か、ガイは使用人の仕事を奪うことが多々あるようだ。説教とも嘆きとも受け取れる使用人の言葉に、ティアは同情の気持ちを向ける。と、同時に、ガイらしいと思わずにはいられない。
「まあ、今日はお客さんがきていることだし、この辺りで勘弁してもらえないかい?」
 そう言った彼の言葉に、使用人が慌ててたたずまいを直す。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、ガイらしいと思ったくらいよ」
 ティアが穏やかに笑ったのを確認してから、彼はもう一度頭を下げて部屋を後にした。
「どうぞ」
「ありがとう」
 勧められるままに、ソファへ腰を降ろす。柔らかなそれは、ティアを優しく包み込むようだった。用意されていた紅茶に口をつけると、とても美味しかった。旅の途中でも、ガイが淹れた紅茶を飲んだことがあったが、この紅茶は葉から違うのだろう。以前のものよりも美味しく感じた。
「キミから手紙がきたときは驚いたよ」
「突然ごめんなさい」
「いや、オレも会いたかった」
 暗い色を含んだ声に、ティアはハッと顔を上げた。
 ガイの暗い瞳を目にして、ティアは自分も同じような瞳をしていたのであろうことを悟る。
「ルークは……」
 世間話も、空白の時間も、全て省いて、ここへきた目的を果たすように口を開いた。
 ガイもティアもそれを望んでいた。一分でも、一秒でも、愛しい彼の存在を確認したいと願っていた。あの笑顔も、声も、姿も、幻や夢の類ではないことを自分の身に再び刻みつけたかった。
「きっと帰ってくるわ」
「約束、したからな」
 二人に笑みが浮かぶ。
「わがままに育てちまったが、約束を簡単に破るような奴に育てた覚えはないぜ」
「そうね。ルークは本当に変わったし、たくさんの人を救ったわ」
「あれで卑屈が直れば安心できるんだけどな」
「自信に関しては、昔の方が良かったかしら」
「いやー。昔だって、自信があったわけじゃないんじゃないかな」
「そうなの?」
「ああ、あれは張りぼてさ。
 ルークが屋敷にきたばかりの頃は、よく泣いてたよ。「オレは何もできない」ってね」
 まるで、彼がオールドランドのどこかに存在しているように二人の口からは、ルークのことが流れ出た。今にも、無作法に扉を開けて飛びこんでくるのではないかと思うほど、彼らの間に流れる空気は、一年前のものになっていた。
 そんな中、ガイが口を閉ざした。
 彼は瞳を左右に揺らし、目蓋を降ろす。次にティアが彼の青い瞳を見たとき、その色は先ほどの半分程度しか見えなかった。
「ティア……」
 目線を合わせずに、深く沈んだ声を出した。
 ティアは黙って言葉の続きを待った。
「こんなこと、キミに言うべきじゃないのかもしれない」
 ガイはゆっくりと視線を上げ、ティアの目を見た。
 戸惑いの色を浮かべながら、それでもガイは言葉を紡ごうとしていく。ティアはそれでいいと思った。彼が何を言うつもりなのかはわからなかったが、彼女がここを訪れ、心の支えにしようとしたのが最初だ。ならば、彼の心の支えになることを拒むことはできない。それが彼女の性格だ。
「オレは……オレはヴァンが羨ましい」
 ようやくのことで零された言葉は、ティアを動揺させるのに十分すぎるものだった。
「兄さん、が?」
 一年前、あの青年と共に倒した男。世界の破滅を阻止するために、世界の破滅を願うような男だった。目の前にいるかつての仲間は、かつての敵を、羨ましいという。
 ティアに言うべきではないのかもしれない。と、いう言葉の意味はわかる。ヴァンはティアの兄であり、実の兄を屠った彼女にヴァンのことを話すのは憚られるべきことだ。しかし、それでもガイは言葉を口にした。
「ルークが心の底から信頼していたのは、ヴァン一人だった」
 どこを見ているのかわからないガイの瞳は、重い色をしている。しかし、ティアはその奥に嫉妬とも憎悪とも取れる炎を見てしまった。
 思わず、体に緊張が走る。膝の上に置いていた手に力が篭った。普段のガイだったならば、ティアの様子にすぐ気づかいを見せただろう。だが、今はティアのことを気にしている余裕がないのか、こうなることをわかって口にしたのであえて無視をしているのか、自分の思いを吐き出していくばかりだ。
「裏切られても、捨てられても、酷い言葉を吐かれても……。
 ルークはヴァンのことを師匠と呼んだし、もしもヴァンが改心すると言ったなら喜んだだろうよ」
 ヴァンの妹であるティアから見ても、ルークはヴァンのことを尊敬していることがわかった。それを誇らしく思った気持ちも嘘ではない。けれど、ルークは一度アクゼリュスで仲間達に見捨てられている。その後、自分の非も罪も全て受け止めた上で仲間達を信頼していたように見える。
 けっして、ヴァンだけに与えられた特権ではないはずだ。
「ティア……。それは、ヴァンにだけではないって。思った?」
 淀んだ瞳がティアを映す。
「違うよ。あいつは、オレ達に対する信頼なんて持っていなかった」
 ガイは指を組み、ギリギリと己を痛めつける。
「信頼してたら、下手なことをしたら捨てられるなんて思わなかった。自分の存在をあれほど下に落とすことはなかった。
 あいつは、オレが、オレ達が何を言ったって聞かなかったじゃないか。自分はレプリカなんだって。そう言って笑うだけだった」
 その怒りはどこへ向けられているのだろうか。ティアは痛々しい叫びを聞いていることしかできない。
「オレは思うんだ。もしも、ヴァンがルークが必要だって言っていれば、ルークは瘴気の中和なんてしなかったんじゃないかって。ルークはもっと笑っていられたんじゃないかって」
 それが世界にとって正しいことなのか否かはどうでもよかった。
 今のガイの頭には、ルークのことしかなかった。それは、押さえつけられていただけで、旅の途中もずっとそうだったのかもしれない。
「あるいは、ルークがオレに、ヴァンにそうだったように依存していてくれれば……。そんなことまで考えたよ」
 ティアが始めてルークにあったとき、彼はまさに盲目だった。ヴァンが彼の世界だった。世界の言葉を疑うなど、当時の彼は考えもしなかったのだろう。
 ガイは、その盲目さの恐ろしさを目で見ていたはずだ。だというのに、彼は依存を望むと言う。
「三つ子の魂百まで。って言うだろ。
 ルークが屋敷にきて、三年間。オレは何をしてたんだろう。って思ったらさ、三年ずっとじゃないにしろ、ひたすらに恨んでいたんだよ。ファブレ公爵を、ルークを。
 自分が蔑まれていると知って、哀れまれてると感じて、泣いて喚いたルークが、オレの復讐心に気づかないなんて、あるわけがなかったんだ」
 彼の言葉は懺悔にも似ている。声は震え、ティアには見えないが、涙を流しているのではないかとさえ思える。
「始めの頃はオレを見て、火がついたように泣いたんだ。でも、他のメイドも使用人も、あんな赤ん坊の面倒を見るのは嫌だって言って、一番年下のオレに押し付けてきたんだ。
 そのうちに、ルークはオレしか頼れる人間がいないって学んだよ。怖がりながらも泣かなくなって、気づいたら懐いて、オレの恐ろしさを忘れていったんだ」
 始めて自分の名前を呼ばれたとき、ガイは心の奥底に根付いていた何かが溶けていくのを感じた。愛おしさをわずかながらにも感じたのだ。
 ゆっくりと愛情を持つようになった彼に、ルークはさらに懐いた。屋敷の中で、ただ一人、ガイにだけ懐いた。わずかな優越感を彼は得たのだ。誰よりも愛おしい者を独り占めできる優越感は甘美なものだった。
「でもダメだったよ。結局、ルークは最初から憎しみも哀れみも蔑みも全部隠したヴァンを信頼した。ルークの中に根付いたオレの復讐心は、最期までオレを信頼しなかった」
 自覚はなかったのだろうけれど、ルークにとってヴァンは始めての人だった。負の感情を己に向けない人間に、ルークは生まれて始めて出会うことができたのだ。その喜びは、想像できぬほどのものだろう。
 ガイは振るえながらも、深く息を吐き出した。
「もしもルークがオレに依存していたら、オレはずっと傍に居てくれってたのんだよ。瘴気もローレライも、世界も全て放っておいてくれって。そう縋っただろうよ」
「……きっと、私はそのルークを好きにはならないわ」
 ようやくティアが言葉を紡いだ。
「そうだな。それでも、オレは幸せだと思うだろうさ」
 最後に儚い笑みを浮かべたガイは、いつも通りの調子を取り戻して表情を苦笑いに変えた。
「すまない。こんな話をしてしまって」
「いえ。いいのよ」
「そうだ。いいクッキーがあるんだ。どうだい?」
「ありがとう。頂くわ」
 ティアは微笑んだ。
 ガイの内に潜む狂気に驚かされはしたものの、まったく理解できない感情でもなかった。
 人は何かに執着する。それは約束であったり、人であったり、故人であったり、様々だ。彼は復讐へ向けていた執着をルークに向けた。
 それだけの話だ。

END