グリューネが消えてしばらくの時が経った。
精霊の出現に関して一行はまたあちらこちらへ足を運ぶことになってしまっていた。遺跡船の人々は大陸暮らしの人間よりも、非日常に多少は慣れている。しかし、突如として現れた異形の存在をあっさりと受け入れられる程ではなかったのだ。
黒い霧が船を覆った直後だったこともあって、人々は驚き、戸惑い、ちょっとした騒動になった。それを止められるのは、精霊という存在をある程度認識できていたセネル達以外にはいない。
各地を回っている最中に、ウィルが精霊についてもっと詳しく聞いておくべきだった、とぼやいたのも仕方のないことだろう。沈静にかかり、説明をするセネル達とて、精霊という存在についてしっかりとした知識があるわけではない。幸いだったのは、精霊と意思の疎通ができたことだ。おかげで、始めの一人と接触した段階で最低限の知識を手に入れることができた。
「よーし。今日のお仕事はお終い!」
ノーマが腕の筋を伸ばしながらいう。空はすでに暗く、今からウェルテスの街に帰ることはできない。こんなとき、大陸ほど街がない遺跡船を憎らしく思う。今日は野宿決定だ。ダストを使用していればこんなことにはならないのだろうけれど、精霊の出現に伴う遺跡船の変化を知っておく必要があったのだ。
面倒ではあったが必要なことであったし、凶暴化した魔物を相手にしてきていたセネル達にとって、今の魔物など相手にもならない。山や草原を歩くのは疲れるが、それ以上の疲れはあまりない。
「じゃあ、その辺りでベアでも狩ってくるかの!」
「どうぞどうぞ。その間にボク達はパンを食べておきますので」
楽しげに槍を手にしたモーゼスに、ジェイが言葉を返す。
「んじゃとぉ?
たまには焼きたての肉でも食いたいとは思わんのか!」
「思いません。ボクはあなたみたいな大喰らいでもなければ、肉馬鹿でもないんで」
「そげなこと言っちょるからいつまでも背が伸びんのじゃ」
「今、それが関係あるんですか?」
売り言葉に買い言葉。
二人はすぐに口論まで発展していく。酷いときにはお互い手まで出る。
いつものことだと傍観していた面々は、ウィルが動くのを見て、これまたいつものことだと苦笑いを浮かべた。
「やめんか。馬鹿者!」
拳骨が二つ落ちる。
さらさらと言葉が流れ落ちていた口は呻き声をあげるだけの代物へと早変わりだ。
「モーゼスも単独行動は控えろと言ってあるはずだ。
通常の魔物に戻ってはいるが、何か異常が起きてからでは遅い」
大黒柱の風格を持って告げられる。年長者としての責務を感じているのか、そういう性質なのか、シャーリィを止めに行った頃からウィルは変わらない。そして、彼の言葉に仲間が逆らうことも殆どないことも変わらない。
ウィルの言葉を狩りの禁止と捉え、モーゼスは唇を尖らせた。
今さら魔物に遅れをとるつもりはないし、本当に肉を食べたいと思っていたのだ。丁度いいことに、周辺にはベア系の魔物が生息している。一体仕留めれば、仲間全員分の肉になるはずだ。
「行くならジェイと行ってこい」
「ちょっと!」
狩りは禁止ということではないのかと、ジェイが抗議の声をあげる。
「単独行動をするな、と言ったんだ。二人で行くなら問題はない。
機転の効くお前となら安心できるしな」
信頼されていることを喜べばいいのか、いいように扱われているのか悩むところだ。
不満気に顔を歪めたジェイと違い、モーゼスは満面の笑みだった。ジェイの意見などそ知らぬ顔で、彼の腕を掴む。
「よっしゃ!
行くぞ、ジェー坊!」
「ボクは行くなんて一言も――」
セネル達は最後まで言葉を聞くことができなかった。
自由を体言しているような男が、ジェイを引き連れてあっというまに闇へと繰り出して行ってしまったのだ。呆然としながらも、あの二人ならば大丈夫だろうという思いもある。根拠は今までの戦闘と経験だ。
焚き火を囲んだ面々に見送られた二人は、手ごろな場所で足を止めた。
「さーて。どこにおるかのぉ」
ジェイの腕を掴んだままにモーゼスは辺りを見回す。暗闇の中ではあるが、野生児のモーゼスと元忍者のジェイからしてみれば視界が少し悪い程度にしか感じられない。ハンデにはなるだろうけれど、致命的なものになることはない。
「そろそろ離してもらえませんか」
「お? おぉ、すまんの。痛かったか?」
いつまでも腕を離そうとしないモーゼスにジェイが告げると、今しがた気づいたとばかりな言葉が返された。目の前のことにしか集中できないモーゼスらしい。
「別にそういうわけじゃないです。
ただ馬鹿が感染ると困るので」
「ワレはほんまに可愛げのない奴じゃのぉ!」
モーゼスの赤い髪が怒りで震えているのが見えた。
それを冷めた目で見つめながら、先ほどまで彼に掴まれていた腕をさする。痛かったわけではない。体格の差があるとはいえ、ジェイは前衛でモーゼスは中衛の人間だ。後ろにいる者の力で根をあげるような鍛えかたはしていない。
ただ、腕に残った温もりに慣れることができないだけだ。
「……みなさん、本当にお人好しですよね」
軽く目を伏せる。
仲間達は全員、ジェイが昔に何をしてきていたのかを知っているはずだ。それなのに、暗闇の中、平気でジェイと誰かを二人っきりにさせる。無論、ジェイとて危害を加えるつもりは毛頭ないが、それでも無条件の信頼というのはどうにもむず痒い。
声色と雰囲気で彼が何を思っているのか察したのだろう。唐突にモーゼスはジェイの頭に手を乗せた。
「ジェー坊はアホじゃのー」
力任せに髪をかき混ぜる。乱暴ではあるが、温かみのある行為だ。
自分のものとは比べものにならないほど大きな手にジェイは一瞬、呆けてしまう。
「――や、やめてくださいよ!」
我に返り、頭の上から手を払う。自分の手でおこなったことなのに、頭上の温もりがなくなってしまったことにジェイは寂しさを覚えた。
「大体、あなたにアホだとか言われる筋合いはないんですけど」
「いつまでも昔のことをごちゃごちゃ根に持っとるからじゃ」
モーゼスは肩をすくめる。
「ここは遺跡船じゃぞ」
「わかってますよ」
いや、わかっとらん。モーゼスはすぐさま言葉を返した。
口で負けるつもりはないが、いつにない彼の雰囲気にジェイは思わず後退してしまう。闇の中でなければ、モーゼスの赤く光る瞳に負けてしまっていたかもしれない。
「ワイがセの字らと一緒に行動するようになる前、何をしちょったか知っとるじゃろ?」
ジェイは当たり前だと返す。計画を邪魔される前からモーゼスのことは知っていた。情報屋として、札付きの山賊に関する情報は持っていて損のないものだった。金持ちから金品を強奪しているところを見たことだってある。
ただ、彼の信条として、殺しはしていないということも知っていた。
「じゃが、罰らしい罰は受けとらん。
これが大陸じゃったら、間違いなく数年は独房の中じゃったろうにな」
「それは……ヴァーツラフから遺跡船を守ったからでしょう」
返してみたものの、モーゼスの言っていることにも一理ある。いや、ジェイも本当はわかっている。遺跡船という場所が、いかに特殊な場所なのか。しかし、それを認めてしまえば、全てが許されたように思えてしまう。手を汚してきたことを忘れてしまうかもしれない。
「オの字はどうじゃ?
ワイらは許した。街の人のために働いてくれ言うた。
じゃが、本来なら罰を受ける身じゃいうことはワイにもわかる」
ジェイは黙したまま拳を握る。
いつも馬鹿にしていたが、モーゼスも大切なところは理解しているのだ。
罪には罰を。何が罪とされているのか。そこに信条を組みこみ、道理を曲げることはあるが、根本をしっかりと理解し、その上で受け入れている。
「ようわからんが、ここはそういうとこなんじゃろ」
「……遺跡船は、法を定められるほど人も街もありませんからね」
長いような、一瞬のような沈黙の後、ジェイはゆっくりと吐き出した。
「ウェルテスの法も街で騒ぎを起こさないというようなものだけ。
その他の場所は遺跡で、人が住んでいるような所はない」
法は文明だ。人と街があってようやく生み出される。未だ発展途上の遺跡船では、それが確立されていない。今の遺跡船で人を裁くのは法ではなく、人なのだ。
故に、クロエが許せばオルコットは許される。街の人々が受け入れれば山賊達は無罪になる。
山賊達を野蛮だと嫌う者はいたが、強奪された金品に関していつまでも文句を言っているような者はいなかった。本当に大切なものは持ち込んでいなかったし、金持ち達は少しばかりのスリルを遺跡船に求めていたということもある。
「なぁ、ジェー坊」
ギートに語りかけていたときのような穏やかさだった。
ジェイは闇に隠れかけているモーゼスの瞳を見る。
「そろそろ、ワレを許してやったらどうじゃ?」
今となっては、ジェイの罪はジェイだけのものになってしまった。誰にも罰せられず、許してやることさえできない。
「――そんなこと、できませんよ」
忘れることが怖かった。
犯した罪を忘れ、殺した人を忘れ、のうのうと生きてしまうことが怖かった。
「大丈夫じゃ」
モーゼスが膝を折り、ジェイの手を取る。
大きな手が小さな手を包み込んだ。
「ジェー坊の手は綺麗じゃ。
嫌じゃったんじゃろ? 今も悔やんで、苦しんどる。
十分じゃ。もう、十分じゃ」
ジェイは目を丸くして、顔を俯ける。
どうして、馬鹿は人を救ってしまうのだろうか。温もりが嬉しくて、泣いてしまいそうだった。
モーゼスの温もりは、モフモフ族の温もりとよく似ている。本当は、欲しくて欲しくてたまらない言葉を与えてくれる。それに甘えるのが嫌で、でも、甘えてもいいんじゃないかと思えてしまう。
「――ボクは、忘れません」
震える声で言った。
「でも……少しずつ、進みます」
「ほうか」
最後にもう一度ジェイの頭を撫でて立ち上がる。
「ワイと違ってジェー坊は賢いからの。
ちゃんと進めるじゃろうな」
「当たり前です」
すっかりいつも通りの様子だ。
ジェイはクナイを取り出し、モーゼスの真横に投げつける。
「ひょえ! ななななな、何するんじゃぁ!」
「早く帰らないとウィルさん達に怒られますからね」
そう言い、モーゼスの後方を指差す。
指し示された方向を見ると、そこには一体のベアが倒れている。脳天にクナイが一本刺さっていた。
「一言あってもよかったんと違うか!」
「いいじゃないですか。結果オーライですよ」
文句を言いながらも、モーゼスはベアを掴んでセネル達のもとへ向かって歩きだす。ジェイはその後に続いた。憮然と先を進む背を眺める。
運ぶのを手伝えと言われたら、仕留めたのはボクなのだから、とでも返してやろうと決定した。
ふと、先ほどモーゼスが言っていた言葉を思い出す。
自分と違ってジェイは賢いから、と言った。賢いジェイがちゃんと進めるならば、そうでないモーゼスはどうなのだろうか。いつも前を見て走り続けている彼は、ちゃんと進めないのだろうか。
しばしの思考。そしてジェイは目を細めた。
「本当に、馬鹿な人だ」
小さく小さく呟く。モーゼスにも聞こえないような囁きだ。
モーゼスは罪を理解している。遺跡船では許されることを知っている。自身が、自身の意思だけを持って罪を犯したことを知っている。
ジェイは少し小走りになり、モーゼスの隣に並ぶ。
「あなたの手は、無骨ですけど汚くはないですよ」
他愛もない話のように言う。
横目でモーゼスを見れば、片目がわずかに見開かれているのが見えた。
「……敵わんな」
「モーゼスさんごときがボクに勝てると思わないことです」
苦笑いをしている彼の隣で、ジェイは満足げに微笑んでいた。
END