二人で暮らすことが再び日常になった。
 当然のように朝の挨拶をし、朝食を食べる。人はどれほど幸せだと感じていても、それが長く続くと幸せを感じなくなる。これは人に限ったことではない。国の化身である彼らもまた、同じだった。
 ドイツは毎朝早くに起き、洗顔などの身支度をしてからベルリッツ達の散歩に出かける。帰ってくればすぐに朝食の仕度をし、未だに起きてこない兄を起こす。何度か声をかけ、ようやくベッドから出てくる兄と朝食を食べ、仕事に出かける。
 家に帰れば夕飯を作る。まれに兄が作ってくれていることもあるが、それは一年に数回あれば良い程度のことだ。
 昼間、兄のプロイセンが何をしているのかドイツは知らないが、掃除も洗濯もしてくれていないのは確かだ。唯一の救いは昼食とその後始末だけはしっかり自分でやっていることだろう。
 毎日の営みが続き、ドイツは知らずに昔の兄と今の兄を比べていた。
 ドイツが幼いころのプロイセンは誰もが敬愛すべき人物だった。時代のこともあり、昔から家事をしている姿は見なかったが、厳格で意外にもこまめな人だった。自分で出したものは自分で戻し、さらには整理までしていた。ドイツの性格はそんな兄から受け継いだものだ。
「兄さん」
「お? どうした?」
 眉間を抑えながら言う。
 昔のプロイセンならばと思う。
 ドイツの目の前には、出したものは出しっぱなしの惨状が広がっている。
「出したものくらい片付けてくれ!」
「後で片すつもりだったんだよ。うるせーなぁ」
 頭を掻きながら立ち上がり、そこいらに転がっているものを手に取っていく。怠惰なその姿を見ていると、自然と言葉が出てきていた。
「昔のあなたなら」
 口にしてしまったことに気づき、慌ててプロイセンを見る。
「あ……」
 途端に襲ってきたのは後悔よりも強い恐怖だ。
 怒っているわけではない、ただ冷たく無機質な目がドイツを映していたのだ。
「ドイツ」
 小さく開いた口が名を紡ぐ。普段は使わぬ名を紡ぐ。小さな声だったはずなのにやけに大きく響く。
 応えることができず、情けない瞳を向ける。
「お前がそれを望むなら」
 ゆっくりと近づき、その場に跪く。片膝をついてドイツを見上げるその姿は一枚の絵画のようだ。強い意思を秘めた赤い瞳は昔のものと寸分とたがわぬものだ。
「我が王よ」
 手の甲に忠誠のキスでもしそうな勢いだった。だが、現実には音もなく立ち上がり、片付けを再開する兄の姿があるだけだ。何かを言うべきなのだろうかとも思ったのだが、言葉が出ない。
 その場に立っていることしかできないドイツを瞳に映しプロイセンは言う。
「ヴェスト、何つっ立ってんだよ。座れよ」
 ふわりと笑われ、ドイツは安心した。あれはただの戯れだったのだろう。
「いや、夕飯の仕度を」
「実は! 今日はオレが作っていたりするんだぜ!」
 しっかりと片付けを終わらせてから、台所へ歩いて行く。スープが温められ、食卓に並べられる。今日は一年に数回あるうちの一回だったようだ。
「うめぇか?」
「ああ」
 先ほどの失言をなかったことにしたいあまり、ドイツは何も言わなかった。
 それが間違いなどと、誰が思うだろうか。プロイセンの瞳がわずかに変化していることなど気づくはずもない。
 次の日から、ドイツの日常は変わった。朝、散歩から帰ってくると朝食が用意されていた。昼間は軍の訓練へと出かけると告げられた。突然の変化に戸惑いはしたものの、昔の兄が戻ってきたようで嬉しかった。
「大丈夫なのか?」
「おう。平気だぜ」
 家にこもっていたころと比べると、元気になったように見える。訓練に携わることにより、昔の血が騒いだのだろう。
 誰に見せても、どこに出しても恥ずかしくない兄だ。ドイツは胃の痛みが和らいだ。まとまらない会議も苦ではない。家に帰れば食事が用意され、笑顔の兄が出迎えてくれる。これほどの幸せがどこにあるのだろうか。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
 会議も終わり、帰宅しようとしていたドイツに声をかけてきたのはハンガリーだった。心配そうに眉を下げている。
「いいが。何かあったのか?」
「……あいつ、どうしちゃったの?」
 ハンガリーが誰を指しているのかわからず、ドイツは首を傾げた。
「プロイセンよ! あんたの兄の!」
 彼女が誰のことを指しているのかはわかった。しかし、彼のことを心配しているのかがわからない。以前よりも健康的な生活を送り、活発に生きていることの何が心配なのだろうか。少しの間考え、ドイツが出した結論は、プロイセンが度々ハンガリーの家に上がりこんでいたのではないかということだ。
 日中、古い友人の家に行っていたのかもしれない。よくきていた人間が、突然現れなくなれば心配くらいするだろう。
「安心してくれ。ここ最近は軍の訓練に顔を出しているらしい」
 途端に見開かれる目。崩れ落ちる膝。まるで悲劇を目の当たりにしたかのようだ。
「ハンガリー? 大丈夫か?」
 膝をつき、手を差し出すが、その手が取られることはない。
「どうして、どうしてそんなことをさせたの?」
 震えながら、涙をためながら問いかける。
 ドイツが答えずにいると、ハンガリーは立ち上がり早足で歩いて行く。
「ま、待ってくれ」
 細い腕を掴むと、逆の手で頬を強くぶたれた。フライパンではなく、素の手でだ。
 本気の目で睨まれ、言葉をなくす。
「あいつ、前に言ってたわ。
 『もう戦いたくねぇ。これからは隠居暮らしだ』って」
 幸せそうに語る姿が目に浮かぶ。
 忘れていたわけではなかった。帰ってくるたびに血と泥にまみれていた彼の姿を、友人の死に涙を流す彼の姿を。
「それと、あんたには言わないでって言われたけど、このさい言ってやるわ」
「ハンガリー!」
 悲しみの声にかぶさるように怒声が響いた。
 軍の訓練のついでに向かえにきてくれたのだろう。泥で汚れた服のまま、大またで歩いてくる兄の姿が目に入る。表情を見なくとも、溢れる怒りが具現化されていると錯覚するほどの怒気が感じられた。
「余計なことを言ってんじゃねぇよ」
「だって……!」
 怒りを抑え切れていないプロイセンと、ひたすらに涙をこぼすハンガリー。ドイツの居心地は非常に悪い。
「帰るぞ」
 それでも、聞かなければならないことがあった。
「兄さん」
「あ?」
 真っ直ぐに瞳を見て言葉を吐く。
「あなたはオレに何を隠しているんだ?」
 真実が知りたい。
 いつかのように彼は何かを隠している。それは痛みだろう。ドイツへ牙を向ける痛みをプロイセンはいつでも背負っている。
「別に」
「本当のことを教えてくれ」
 口を閉ざしたままのプロイセンへ黒いフライパンが振り降ろされる。寸前のところでそれを避け、頭にコブを作ることからは逃れる。
「――あ」
 プロイセンは視界が歪み、暗転していくのを感じた。
 もう体は限界だ。両手を上げ、お手上げ状態。
「兄さん!」
 ドイツが倒れるプロイセンの体を支える。
「体力がないんですって」
 呟くように言われた。
「昼間は寝てることが多いって。ご飯も食べれないって言ってたわ」
 プロイセンの体を支えていた手に力が入る。足元から崩れていくようで、何かにすがりたかった。こんなときにすがりたくなるのは兄なのだ。
 昼食に使われた食器がないのは食べていないから。ちらかったままの部屋は片付けるだけの体力がないから。そんな状態だというのに、彼は軍の訓練へと足を運んでいたのだろうか。何のためかと問われれば、やはりあの時の言葉なのだろう。
「昔のあなたなら……そう言った」
 これは懺悔だ。
 昔を求めたからこそ、プロイセンは自分にできることを探した。それは戦うことだった。体力もない体でその技術を他者へと与えた。
「何も、知らなかったのよね」
 だからしかたないとでも言ってくれるのだろうか。何の慰めにもならない言葉だ。ずっと共にいたと言うのに、彼の体調に気づかなかったのだ。それだけで十分な罪だ。
 眠るプロイセンの頬にドイツの涙が落ちた。


END