ザップが薄く目を開けたのは、事が起こってから三日後、木曜日のことだった。
白い天井。HLでも変わらずに充満する消毒液の匂い。自分の置かれた状態を把握するには充分すぎる材料が揃っていた。
軽く眼球を動かせば、ザップが眠っているベッドに顔を突っ伏した状態で眠っているレオナルドの頭が見えた。いつからここにいるかなどわかりはしないが、お人よしの彼のことだ、あの日から殆ど毎日こうしていたのだろう、と想像くらいはできる。
「レ、オ……」
長い時間眠っていたせいで上手く発声することは叶わなかったが、その細い声は確かにレオナルドの耳に届いた。
途端、彼は顔を上げ、ザップの顔をまじまじと見つめる。普段は隠されている青い瞳が、これでもか、というほどザップの眼前にあった。
「ザップ、さん」
「おう?」
名を呼ばれたので返事をしてみた。
それだけで、レオナルドの目からは涙が溢れた。
「ザップさん、ザップさん、ザップさん」
「んだ、よ。何、泣いてんだ?
つかさ、腹、減ったわ、マジで」
ぎこちなく手を動かそうとしてみるが、ザップの手は思うようには動かない。点滴でのみ栄養を補給していたため、最低限の体力しか残っていないのだ。
「そう、ですね。
今、お医者さんを呼びます。
でもきっと、すぐに固形物は食べられないんじゃないですか?」
「馬鹿野郎。オレは、喰うぞ。
肉だ。肉。肉、持って来い」
レオナルドは小さく笑いながらナースコールを押した。
目が覚めたら押してください、と事前に言われていたのだ。幸いにも手術は成功していたので、いつ目を覚ましてもおかしくない、とのことを術後、すぐに聞かされていた。
「ザップさん。おはようございます」
少しすると、老年の医者がザップの病室に入ってきた。
「意識はハッキリしてますか?」
「ったりめーだ。
飯食わせろ」
「はは、それだけ元気なら安心ですね。
記憶はどうです? どうしてここにいるかはおわかりですか?」
そんな質疑応答を何度か繰り返し、ザップの脳に何ら問題は発生していない、ということを確かめると、医者は嬉しそうに頷いてくれる。気の良い人だ。
質問の途中、何度も肉、肉と食い下がったザップに対し、やはりすぐに固形物を与えるのは難しい、と医者は言う。始めは軽い流動食で胃を動かしてやらなければ、吐き出すはめになる、と。
余程腹が空いていたのか、始めは肉が食べたいと騒いでいたザップもしかたない、と諦め、大人しく流動食の世話になることにした。
「じゃあ、ボクは皆さんにあんたが起きたことを伝えてきますね」
HLとはいえ、基本的に病院内での携帯電話の使用は禁止されている。ただし、あくまでもマナーの範囲なので、わりと破られることも多い規則だ。
一応、レオナルドはザップの部屋を離れ、病院の外で携帯電話を取り出す。
数コールもすればスティーブンが応答する。
「レオナルドです。ザップさんが目を覚ましました。
はい、はい。元気なもんですよ。肉が食べたい、って騒いでました。
えぇ。お医者さんに言われて、とりあえず流動食からです。はい」
電話越しに聞こえるスティーブンの声は柔らかい。彼もザップの容態に関してはそうとう気をもんでいたようなので一安心した、というところか。
今から病院に向かう、という言葉を最後に通話が切れる。
「……本当に、よかった」
レオナルドはその場に力なく座り込む。
声は震え、目からは涙が流れていた。
瞼の裏に映るのは、真っ赤に染まり、動かなくなったザップの姿。死んでいてもおかしくはなかった。もう二度と、あの灰色の瞳を見ることは叶わなかったかもしれない。
生きてくれていてよかった。
今はそれだけでいい。
気持ちが落ち着くまで泣きはらしたレオナルドが病室へ戻ると、すでにスティーブン達が到着しているらしく、話し声が聞こえてきた。
「早かったんですね」
「お前が遅いんだよ。この陰毛頭。
どこほっつき歩いてたんだ」
ドロドロの食事を口に放りこみながらザップが文句をたれる。
早くも普通に喋れる程度にまで回復したらしい。驚異的だ。
「ずいぶんと元気になったようで安心した。
しばらくはゆっくり休むといい」
ザップの隣に立つクラウスは優しい声で告げる。
血界の眷属を密封できたのはクラウスの力とレオナルドの目による功績が大きいが、ザップが大怪我をしてまで仲間を守った、というのも決して小さくはない功績だ。
それを労わるのはリーダーとして当然のことであるし、仲間としては怪我をした者には無理をせずにいてほしい。特にザップは元々右腕が折れているのだ。
「まぁ、この体じゃなーんにもできねぇんで」
目は覚めたものの、体は全く思い通りに動かない。身じろぎ一つするのも億劫だ。
「これに懲りて、無茶はやめることだな」
「ちょっと血が足りなかっただけですって」
「そもそも、足りなくなるまで血法を使うことが間違いなんですよ」
労わりモードに入っているクラウスとは違い、スティーブンとツェッドは説教モードだ。動けないうちに、とばかりに懇々と説教が流され続けている。その言葉がザップの胸に一片足りとも入り込んでいないのは一目両全なのだが、彼らとて何かを言わずにはいられない。
ザップとしては説教をしてくる二人組みの言葉よりも、自分が横たわるベッドに顔を伏して泣いているK・Kの姿のほうが堪える結果となった。
「馬鹿馬鹿。ザップっちの馬鹿!
本当に死んだかと思ったんだからね!」
「女性を泣かすなんて最低……」
こちらのコンビは心に直接訴えてくる分、厄介だ。
誰も彼も、心の底からザップのことを心配していたのだ。そのことを彼はもっとよく知るべきだ。そうすれば、安易に危うい道へ足を向けたりしなくなるはずなのだから。
「反省してくださいよ、ザップさん」
「へーへー」
レオナルドの軽い注意も右から左へと流されていく。
この分では、また無理無茶をしてしまうのではないか、と心配になってしまう。
「そうだ、レオナルド」
「はい?」
「実は、先ほどお医者様と相談したんだ。
もう一日、付き添いを置いてもいいか、ってね。そしたら、快く了承してくれたよ」
今まではザップがいつ目を覚ますかわからない、という状態だったため、特別に付き添いが許可されていた。そのおかげで、レオナルドは朝から晩までザップの隣にいることができたわけだ。
彼が目覚めた今、付き添いはもはや必要ない。追い出されるのが当然だ。
しかし、あれほどの大怪我だったのだ。心配も残る。と、いうような旨を医者に伝えたところ、了解が得られたらしい。
「すまないが、もう一日、コイツの面倒を見てやってくれ」
少し困ったようにスティーブンは笑う。
仲間が気になる、とは言っても、クラウスやスティーブンは忙しく、K・Kには家庭がある。万が一、など起こりようもないけれど、流石に女性であるチェインと、脳みそ下半身のザップを同じ部屋に放り込むのはマズイ。
そこで白羽の矢がたったのがレオナルド、というわけだ。
矢も何も、始めからそういった経緯でこの病院に入り浸っていたレオナルドからしてみれば、今更過ぎるお願いだ。無論、彼も快く了承する。
「はぁ? 別に平気っすよ。
童貞君に面倒みてもらう必要なんてないですって」
「どうせずっと眠ってたんだ。今夜は寝付きにくいだろ。
レオナルドと話でもして暇を潰してろ」
その言葉は見事に的中することとなる。
夜、ライブラの面々が病室を立ち去ってからずいぶんと時間が経ってもザップに眠気はやってこなかった。体は回復を求め、休息を欲しているはずだというのに、不思議と眠ることができない。
元来、彼が夜型の人間である、というのも一向に訪れぬ眠気の原因かもしれない。
「あー。暇だー。
おい、陰毛、ゲーム持ってねぇのかよ」
「アンタ、自分が怪我人だって自覚持ってます?」
どれだけの大怪我を負っていようとも、ザップには血法がある。
流石に視力の代替はできないが、手先の代わり程度ならばいくらでもやりようがあった。漫画でもゲームでも、本来ならばこの怪我で触れることもできないような物に触れ、扱うことなど造作も無い。
「つっても暇で暇でしゃーねぇんだよ」
ザップは唇を尖らせる。
夜の病院でできることなどそうはなく、昼間のうちにトランプの一組でも用意させておくべきだった、と吐き捨てた。
「……なら、お話しましょうよ」
お話、というには、レオナルドの言葉には重みがあった。
鉛のような重みを伴ったその声に、ザップは眉をひそめる。言いたいことは何となくわかっている。そこまで他者の気持ちを鑑みれない人間でもないし、昼間のうちに仲間達からあれだけの言葉を向けられれば、自分がどれほど心配をかけたのかだって理解している。
初めて出会ったあの時、猿一匹殺すのを拒絶したレオナルドならば、ザップに向けられた死、という言葉を重く、深く受け止めていたに違いない。寝起きで泣かれたときは流石に焦ってしまったが、今となって考えればあの反応も妥当だろう。
「辛気臭ぇのは勘弁しろ」
ゆっくりとため息をつきながら答える。
何を言われるかはわかっているのだ。そして、それに応える気はない。
「どうしてボクを守るんですか」
強い口調で問われる。
ザップは横目でレオナルドの表情を盗み見ると、そこには予想通りの強い意思をこめた瞳があった。
「それがオレの仕事だろ」
「前まで、もっと雑だったじゃないですか」
「真面目に働いてんのに、何で文句言われなきゃなんねーんだ」
「あんな風に守られたって嬉しくありません」
「んなもん知るか」
言葉を重ねるごとに、レオナルドの声が硬く、強くなる。
「話を逸らそうとしないでください。
ちゃんと、理由を教えてください」
人工的な青さを持った瞳がザップを映していた。
忘れていたわけではない。レオナルドは幼く見える外見とは裏腹に、強かな一面を持ち合わせていた。頑固者でもあり、自分の意思を貫くために無茶もする。そして、決して退かない。
逃げ出す足を持たぬザップの負けだ。
こんな場所でレオナルドと二人っきりになるべきではなかった。うるさく喚いてでも止めるべきだったのだ。
「……お前には、帰る場所があるだろ」
強い瞳を見返すことができなくて、ザップは天井に目を向ける。
「その目のことも、妹ちゃんの足のことも、全部解決すれば、お前は外に帰るだろ?」
数ヶ月前、ミシェーラがHLにやってきた。兄であるレオナルドに婚約者を紹介するためだ。
初めてみたレオナルドの妹は、兄によく似て幼い顔立ちをしていたものの、目が見えない女性とは思えぬ凜とした雰囲気があった。HLでも中々お目にかかれない上等な女だ。
そんな彼女とレオナルドの再会を目の当たりにしたとき、ザップは自分の胸の中に一つ、ストン、と落ちてきたのを感じていた。
「お前は、オレ達とは違う」
それなりに長い時間、HLでレオナルドと共にいた。始めは特別な目を持っているだけのガキだったが、気づけば立派にライブラの一員をしていた。自分の後ろにいた少年が、気づけば隣に立っていて、実のところ、ザップは嬉しかった。
仲間が増えるのは喜ばしい。目をかけていた人間が成長し、HLに馴染み、隣にいるのは悪くない。
だが、真実は違っていた。
すぐ隣だと思っていただけで、実際は、ザップとレオナルドの間には分厚い壁があったのだ。ただ、その壁が透き通っていたから気づかなかっただけ。本当は全く別の場所に立っていたのだ。
「テメェは普通の人間だ。
その目がなくなりゃ、ライブラにいる意味もなくなる」
強かではあるが、レオナルドは普通の人間なのだ。
戦う力を持たず、非情にだってなれない。霧のない世界がよく似合う、普通の男。
「なのに、でっけぇ怪我してどうすんだよ。
いつかこの町から出れなくなっちまうかもしんねーんだぞ?」
もしも手が自由に動いたのならば、ザップは自分の顔を覆っていただろう。
ミシェーラがやってきたあの日、レオナルドは人知れず戦っていた。最後の最後まで足掻き、仲間を信じ、指を失いかけてまで戦っていた。
ザップはレオナルドの傍にいた。助けを求める声も聞いていた。
「だから、守ってやるっつってんだよ」
あの時は守ってやれなかった。
それが仕事であり、自分のあるべき姿だと思っていたはずなのに。
ならば、次こそは守りきらなければならない。
以前ならば、命があればどうにでもなる、と考えていたが、それでは駄目なのだと気づいてしまった。大きな怪我をした結果、この町の外で生きることができなくなってしまうかもしれない。そうなってしまえば、レオナルドはあるべき場所に帰ることができなくなってしまうのだ。
「今までの怪我はどうにか人間用の治療でどうにかなってんだ。これ以上、リスクを犯す必要はねぇ」
実のところ、この町では、ただ生きる、というのは存外簡単だ。
脳を盗られても、体を盗られても、その命をどうにか繋いでいる者は多い。だが、彼らはもう外の世界に出ることは叶わない。この霧に包まれた世界でしか生きていくことができなくなってしまっている。
レオナルドがそうならない、と、どうして言い切れるのだ。
「……他の奴らだってそうだろ。
もしも、もしかすっとだけどな、いつかこの町が、できたときみてぇに突然消えたらどうなる。
普通の世界で、昔みたいに裏で血界の眷属を探してぶっ殺す組織に戻るってとき、体がバラバラになったらどーすんだよ」
まるで夢のような話だ。
突如現れたこの世界は、今のところ消える予定はない。もし、消えてくれるというのならば、喜ぶ人間も多いだろう。世界があるべき姿に戻る。クラウス達は牙刈りとしての活動を裏世界で続けていき、レオナルドは普通の青年になる。
ただの、夢。
実際に起こりうるはずもない。
「アンタはどうすんですか。
そんな夢みたいなことが起きたとき」
ありえない、と否定するのは簡単だ。
しかし、そのありえないが起こってしまうのがHLという場所でもある。明日、突然、この病院が消え失せたとしても、誰も気にとめない。
ならば、同じように世界が消えてしまっても、誰も何も思わないのかもしれない。そんなことを思わせるだけの異常さがここにはある。
「オレはいいんだよ。もう手遅れだ」
ハッ、と笑う音。
レオナルドは苦しげに口元を歪め、ザップを見る。
彼は怪我の耐えない男だ。戦闘で負う傷も多い。レオナルドと出会ってからでもずいぶんと入退院をしていたはずだ。それがHLが生まれたときから繰り返されていたのだとすれば、確かにもう手遅れかもしれない。
すでに彼の体はバラバラで、外に出れば死んでしまうような出来なのだといわれても不思議ではなかった。
「だったら、怪我すんのはオレだけでいいんじゃね?」
「いいわけないだろ!」
さらりと言われた言葉に、レオナルドは勢いよく立ち上がる。
反動で椅子が倒れ、派手な音をたてたが、誰かがやってくる気配はない。
「それで死んだらどうすんだ!
いくらHLつっても、死んだら終わりなんだぞ!」
怒るレオナルドをザップは無感情な目で見ていた。
こんなことを言えば怒るだろう、とは思っていた。頭では理解してくれたとしても、心が受け止めてくれない。ライブラの面々に話したとしても、どうにか受け入れてくれるのはスティーブンくらいのものだろう。
優しいレオナルドだからこそ、本気で怒る。
ザップはそれが嬉しくもあり、面倒でもあった。
「……もう、ボクをあんな風に、守らないでください」
声が震え、また涙が出る。
「あんたに死んでほしくない。
そんな大怪我だってしてほしくないんです」
レオナルドの目から溢れた涙が床を濡らしていく。
彼の言葉に嘘偽りはない。たとえ、本当に外の世界に出られぬ体になってしまったとしても、誰かを責めることはしないだろう。笑みを浮かべて受け入れている姿が目に浮かぶ。
だが、それをザップは許すことができない。
「帰れる場所があるなら帰れ。
家族、なんだろ」
ザップは家族を知らない。
暖かい家庭など、噂に聞いた、という言葉が手前につくような有様だ。
「そのために使えよ。
ライブラも、オレも」
灰色の目がレオナルドに向けられる。
無感情、というにはあまりにも深く広い色合いをしていた。
「……別に、家族だからいつも、いつまでも一緒にいないといけない、というわけじゃないんですよ」
兄妹はいつか離れ離れになるものだ。
互いに家庭を持ち、それぞれの居場所を見つける。時折、手紙や電話を通して互いの近況を報告する。ミシェーラなどは既に新しい家族を持っている身の上だ。今更、兄がいなけらばならない、ということもあるまい。
「確かに、ボクは、今、ミシェーラのためにこの町にいます。
あいつの目を戻してやって、できることなら足だって動くようにしてやりたい」
青い目がザップを射抜いている。
強い光が、その意思を美しく彩っていた。
「でもね、その後、あいつのところに戻る気はあんまりなかったんです」
特に、今は、と付け足される。
彼女には新しい居場所ができている。ネットが発達し、テレビ電話だってある昨今、霧の外側であろうが内側であろうが大した差はない。
「ボクはとっくに、この町で一生を過ごす覚悟ができてたんです」
治療云々のことは考えたことがなかった。
ただ、漠然とこの町で生きる覚悟はしていたのだ。
「んな覚悟する必要ねぇだろーが」
ザップは怪訝そうな顔をしている。
極々普通の青年が暮らしていくには、この町はおぞましさで溢れすぎていた。
「あるんですよ。ボクにとっては、大事なことなんです」
レオナルドは枕元のキャビネットに手を伸ばす。
正確にはその上に置かれていたメモ用紙に。
暗闇の中、レオナルドは迷うことなくさらさらと何かをしたためていく。ザップはそれを黙って見ているばかりだ。
「ほら、これでいいでしょう?
こうすれば、もうあんな風に守る必要はなくなる」
突きつけられたメモ用紙には、『Marriage Certificate』という文字と、レオナルドの名前が書かれている。
それは、結婚を証明するものに似せられており、妻の名前が入るはずのところは空白になっていた。
「……は?」
言葉が出ない。
どうにか出たのは意味のない音だけだ。
「オレはあんたの隣で生きていく覚悟をしてたんですよ」
自覚したのはついさっきでしたけど、と付け足される言葉もザップの耳には入らない。
つまるところ、レオナルドは盛大なプロポーズをかましてくれているのだ。それも、ザップに妻になってくれ、と。
「あんたがここで生きていくなら、ボクもここで生きます。
だから、過剰に守ってもらわなくて大丈夫です」
確かに、ずっとザップの隣にいるというのならば、外の世界へ出て行くことを考える必要はなくなるかもしれない。そうなれば、治療の種類について考える必要もなくなる。
だが、それほど簡単な話ではないはずだ。色々と。
「大体、何ですか。HLがなくなったら、って。
もしそうなったとして、誰がアンタを一人置いていくんですか。
心配すぎるでしょ。ツェッドさんは絶対にこっちに残りますよ」
レオナルドの青い瞳は瞼の裏に隠され、いつもの糸目がザップを見ていた。
「ボクも残ります。
これはその証明だとでも思ってください」
『Marriage Certificate』
アメリカでは州によって同性婚も認められているが、HLではどうなのだろうか。そもそも、そういったことは何処に申請するものなのか。
ザップの小さな頭はぐるぐると迷走と続けていく。
「き、気が変わる、ってことも、あるだろ」
あれこれ考えた結果、出てきたのはこんな言葉だけだ。それも、発する声は震えている。
「変わりませんよ。
こんな紙っぺらじゃ信用できませんか?
なら、退院したら指輪でも買いに行きましょうか?」
給料三ヵ月分、きっちり用意します、とレオナルドは言った。
本気の声だ。後輩の本気と冗談を聞き分けられないほどザップは耄碌していない。
告げられている言葉の意味も、そこにこめられた愛とやらもわかる。だが、わかるだけなのだ。ザップ・レンフロという男は真実の愛など知らないし、与えられたことも与えたこともない。未知数なものを突きつけられても手に余るばかりだ。
「そしたら、絶対に指輪つけてくださいね。
アンタが女遊びをやめられるなんて思ってませんからね。
せめて、ボクのものだって、アンタにも女の人にもわかってもらわないといけませんから」
そう言って、レオナルドは包帯だらけのザップの手に軽く口づけをする。平素ならば薬指があるであろう場所だ。
ザップは顔に血が昇っていくのを感じた。褐色の肌と暗闇のおかげでバレはしないだろうけれど、きっと今頃、顔が真っ赤になっているはずだ。
童貞の癖に、童貞の癖に、と心の中で罵倒してみるが、口にしていない言葉がレオナルドに伝わるはずもなく、当の本人は穏やかな笑みをザップに向けている始末。
「とりあえず、サインしてくださいよ。
もうボクをあんな風に守ったりしない、って契約書に」
嘘つきだ。
それは守る守らないの契約書ではない。
夫婦になるための、永遠の愛とやらを約束するものだ。
「…………指輪」
ザップはレオナルドと反対の方向に顔を向ける。
せめてもの抵抗だ。
「指輪、が気に入ったら、書いてやっても、いい」
帰るべき場所に、と思ったのは、レオナルドのことが大切だったから。
愛なんてものがわからなくて、自身の胸に芽生えたものを感じることもできず、それでも、彼のために何かをしてやりたいと願った。最上級の幸せを送ってやれたならば、と思った。
たとえ、レオナルドの幸せに自分がおらずともよかったのだ。
普通の妹と普通の兄妹のように笑いあう彼を見て、胸がチクチクと痛んでいたような気もする。その焦燥感の意味も理解せぬままに事件が起こったから、色々なものがすり替わっていたのかもしれない。
嫉妬はレオナルドが帰れなくなる、という心配に。
寂しさは周囲の者達をも巻き込んだ不安に。
「この町一番を探しておきます」
きっと、どのような指輪が送られたとしても、ザップにとってソレがこの町一番になるのだろう。
END