男は力なく頭を垂れるザップを見下ろし、舌なめずりをする。
自慢の血法を封じられ、残った片手と片足は重い金属の鎖で繋がれており、煮るも焼くも男の意のまま。事前に収集した情報が正しければ、ザップを助けにわざわざこんなところまでやってくる者はいない。
化け物じみた風貌と研鑽の数々は、彼を強くする代わりに人の輪の中で生きることを不可能とした。
おそらく、ザップ自身もそのことに気づいている。彼の濁った目は助けを待つつもりも、期待するつもりもなく、わずかな隙間すらない絶望の色をしていた。
「ねぇ、キミはさぁ、どうしてそこまで力を求めたわけ?」
雑談のように軽く、しかし、言葉を口にする男の目は鋭い。
「…………」
問いかけにザップは答えない。
反抗の意思からではなく、男が口にした問いかけの意味がわからなかったのだ。
情報を吐き出させる、という意図はわかる。だが、それならば牙刈りの上層部について、精鋭メンバーについて、といった情報を聞くのが当然というもの。ザップが力を欲した理由など知ってどうするというのか。
「答えろよ!」
怒声と共に男はザップの頭を鷲掴みにする。
姿形こそ人間と同じだが、男は明らかに人間ではありえない力を持っていた。ザップの頭蓋はミシミシと音をたて、このまま脳髄も脳漿も曝け出すより他にないのかと思うほどだ。
死を間近に感じ、心臓が激しく動く。
頭から突き抜けるような痛みと血管が削られる痛み。両方の苦痛にザップは歪みきった悲鳴を上げた。
「おっと、危ない、危ない。
殺すわけにはいかないからね」
パッと手が離される。
締め付けられるような痛みはなくなったが、代わりに体中を駆け巡る痛みが明瞭に感じられるようになってしまった。毛細血管が断絶されていく痛み一つ一つは微かであれども数が増えれば苦痛も増す。
「キミはボクの質問に答えればいいんだよ。
それ以外は考えなくてもいい」
鬱蒼と嗤う男は、見ようによっては美しくも見える。
人でないからこそ生まれる妖艶さは、ザップが久しく触れていないものだった。
「それとも、娘さんを横に吊るしてほしい?」
浮かべられているのは、やはり笑みだ。
心底楽しいと男の顔は言っている。娘を引き合いに出され、背筋を凍らせたザップを見て嗤うのだ。
長年の計画を潰してくれた者が、手駒を悉く破壊してくれた者が、誰もが恐れた修羅が、今はただの人として男の前に繋がれている。いいや、人ですらない。ただの虫けら、それ以下の生物。肉の塊。
愉しくないはずがない。
「呪い……ノぜ いで、戦うご どがでぎ、な……っだ、が……ら」
「あぁ、キミの体にへばりついている呪いか。
血管に影響するなんて、面白い呪いだよね」
伊達に長い時間の中を生きているわけではない。男はひと目見た瞬間からザップを蝕む呪いを見抜いていた。常人ならばすでに死していて当然な程、根深く侵食していることまでも。
そのような呪いを負っているにも係わらず平然と戦いに赴くザップに目を剥いた。ある種の感動すら覚えていたかもしれない。けれども、結果的にそれが判断を瞬きの間遅らせることとなった。男が敗北した要因の一つにその遅れがあったことは言うまでもないことだろう。
「腕や足も、そもそもはその呪いのせいで失ったんだって?
そういえば下等な生物は逆境に陥れば適応のために進化するんだよね」
ザップには呪いという枷があった。それを振り払い、なお戦うためにザップは化け物のような力を身につけることとなった。ならば、その呪いがなければどうなるのだろうか。
安寧は生き物から進化する力を奪い、その場に留まらせることで退化へ導いていく。
男は目的のために知るべき事柄を正確に理解する。
「……なら、その呪いはいつ、何処で、誰の手によってかかったものなのかな」
穏やかに問いかける表情の奥底で、男は綿密な計画を構築していく。彼の持つ知識を総動員し、持てる力を全て使いさえすれば、過去を改変することも不可能ではないのだ。
正しく名前を述べれば四時間以上を有する神の力を用いれば、ほんのわずかではあるが過去に介入することができる。世界が巡る中で、一度使えるか否かという究極の手段。安易に触れることは許されない。
触れるべき過去はどの地点にあるのか、どのように触れれば望む未来に繋がるのか。幾重もの可能性を考え、塞ぎ、導く道筋を作り出す。
「んな、ノ……覚え で……な、い……」
「思い出せばいいじゃないか」
ザップからしてみれば遠い過去の出来事だ。
何もかもを失い、ここまで駆けてきた時間は薄っぺらい密度しかないはずだというのに、幸福な過去に霧をかけてしまっている。痛みも相まって思い出す、という作業が非常に困難だった。
無論、男とて簡単に欲する情報の全てが手に入るとは思っていない。
それどころか、それでは困る、とすら思っていた。
「もしかすると、血のめぐりが悪いからかもしれないよ」
男はどこからともなく歯の荒いノコギリを取り出す。
錆びの見える銀の刃はおぞましい光を浮かべていた。
「キミには無駄が多いように思える。
ちょっと削ったほうがきっと血のめぐりも良くなるはずさ」
「お……い、ま……で よ」
冷たい金属がザップの足首に添えられる。
次に起こるであろう事態を彼は瞬時に理解し、逃げるために足を動かそうとして止めた。
「イイコだね。よくわかってるじゃないか」
「フッ、ゥ……」
唇を噛み、荒れる呼吸を押さえつける。
体がわずかに震えていたが、そちらはどのような意識の持ちかたをしても止めることができない。
ザップはどこまで行っても人間だ。恐怖という原始的な感情を消し去ることはできやしない。今から行われるのは失うための行為ではない。与えるための行為だ。
「さ、鳴いてくれ」
荒い刃が皮膚を肌を削る。
「――――ぁっ!」
甲高く、細い悲鳴が部屋中に反響し、ザップの耳へまた戻る。
劈くようなその音に耳が痛くなりそうだが、それ以上に足へ与えられている痛みは強烈だった。
皮膚と肉が引っ張られ、削れ、千切れ、呪いによって傷つけられた血管が口を開いて血を吐き出していく。歯がこすれていく振動は体全体に響き、脳にまで直通で痛みを届けてやまない。
錆びた金属では肉は綺麗に切断されず、足首の肉は細切れになって床へベタベタと落ちていく。時折、あらぬ方向へ飛んでいった肉片が壁にへばりつき、重力に従って跡を残しながら床にまで垂れ下がる。
「ぅ……ぇっ……」
部屋はあっという間に鉄臭さが充満し、ザップは何も入っていない腹から胃液を吐き出す。酸によって喉が軽く焼け、ヒリヒリとした痛みが残る。体を折り曲げることができなかったため、口の中や鼻腔に残った胃液がすっぱい臭いと味の余韻となり、また吐き気をもよおさせる。
上手く口外へ出すことができた胃液も、結局は真下の床に落ちただけなので臭いから逃れることはできない。
「汚いなぁ。
キミさ、自分で腕を切り落としたこともあるんだろ?
ちょっと我慢しなよ」
確かに、ザップは自身の腕や足を切り落としたことがある。
けれども、それは鋭利な焔丸で痛みを感じぬほど綺麗に落としたからこそできる芸当だ。そうでなければ、誰が悲しくて己に耐え難い苦痛を与えなければならないのか。
「あとちょっとだからさ」
その言葉と共に、硬い音と振動がした。
「や、め……い っで、よぉ……」
情けなくも、ザップの眼孔からは透明の液体が滴り落ちていた。とっくの昔に枯れたと思っていた液体だが、骨にあたる金属の感触に再び舞い戻ってきたらしい。
一度、男がノコギリを手前に引く。
「あ……ぁあっ――!」
角張った刃が次々に骨に当たり、硬質な部位が削れる。こんなところにまで神経というものは通っているのか、と、知りたくもない情報が嫌でもザップの頭に叩き込まれていった。
引ききられたノコギリは、次に奥へと押し出される。
また、骨は荒い金属によって削られる。進んでいるのかいないのか。わかるのは痛みが激しくなっていく、ということだけであり、痛み以外の全てが脳から消去されていく。
細胞の一つ一つまで懇切丁寧に潰され、細胞液と真っ赤な血が混ざり合う。それはわずかずつではあるが、着実に失われていく骨の隙間に入りこみ、ぐちゃぐちゃと嫌な音を奏でていた。
じっくりと時間をかけ、骨の半ばまで刃が届いた辺りで男は唐突にノコギリを引く手を止める。
「そういえば、人間は血が無くなると死ぬんだよね?」
優しく笑った男はノコギリを床に置くと、そのままザップに背を向けて何処かへ去っていく。吊り下げられているザップの目には見えない位置に扉があるらしく、重厚な開閉音だけが耳に入った。
残された部屋はとても静かで、胃液と血の臭いが混ざり合ってさえいなければ、少しは心安らげたかもしれない。
近いうちに自分は死ぬのだろう、とザップは思う。拷問によってではなく、かつてギッドロから受けた呪詛に蝕まれ、ありとあらゆる血管を破壊されて赤い海の中で絶命する。その光景は想像力を働かせる必要もないくらいにすぐ傍にある未来だった。
せめて短い命の中、あの男の思い通りにならぬ方法はないものか、と頭を働かせてみるのも悪くはないが、まだ見ぬ娘の命がかかっていると思えばそれもできない。
ザップにできるのは、せめてあの男の気を損ねないように昔のことを思い出すことだけだ。
「お待たせ」
実際、どの程度の時間が経っていたのかはわからない。
ザップはのろのろと顔を上げ、拷問部屋に戻ってきた男を見る。彼の手には輸血用のパックが吊り下げられたポールがある。どこぞの病院で入手してきたのだろうか。
「はい。これで失血の心配はなくなったよね」
入れればいいというものではないのだけれど、人間でない男に言ったところで無駄だろう。ザップは黙って点滴の針が首に刺されていくのをぼんやりと見守る。
適切な輸血などできるのだろうか、と思っていたが、ザップを苦しめるために手段は選ばぬつもりなのか、意外なほどに手際よく体外から身の内へと血液が入り込んでいく。しかし、入ってくる血液量よりも、足から流れている血のほうが明らかに多い。
「こっちの出血も止めないとね」
男は黒い棒状の物を取り出す。
ひと目みただけではその道具の用途はわからない。
しかし、男がその道具に設置されているスイッチを押してみせると、嫌でもどのように使用されるのかがわかってしまう。
バチ、という独特の音と共に、一瞬、黒い道具の周囲が明るくなる。
電気が流れているのだ。それも、少し痺れる程度ではすまない。高圧で、高熱を伴う電流。男はザップの出血を止めるために、肉を焼こうというのだ。
「――ひっ」
意識の外側で引きつった声が出る。
そろり、と棒状のものはザップの足へ寄せられ、触れたとほぼ同時にスイッチが押される。
強制的に流し込まれた電流により、彼の体はビクビクと震え、鎖をガチャガチャと五月蝿くかき鳴らす。押し付けられている部位からは肉の焼け焦げた臭いが漂ってくる。神経が焼き切れ、細胞が凝固していくのをザップは確かに感じていた。ただ、体で感じていることすら、瞬きのうちに忘れ去ってしまうほどに苦痛が大きい。
「ほら、これで大丈夫」
数分も経たぬうちに電流は止められた。
足の感覚はもはやないも同然だが、また骨を削りだせば耐え難い苦痛が襲ってくるのだろう。先のことを考えるまでもなく、ザップは現状、与えられている苦痛だけで意識を飛ばしそうになる。
しかし、男がそれを許すはずがない。
「眠らないで。ボクが楽しくなくなる」
顔面に水がかけられる。それも、氷が入っていたらしく、肌を刺すような冷たさの水であった。意識は無理やり浮上させられ、ザップは否応なしに足首を削られていく感覚を味わうはめになった。
時に低く、時に高く、悲鳴と呻き声と断末魔の手前にある叫び声が何度も何度も繰り返された。骨が削られ、骨髄が垂れ、また血肉が焼かれ、骨の向こう側にあった血と肉が削られ、辺りに飛び散る。
ボトリ、と重たい音がしたとき、ザップはあろうことか幸福感すら感じていた。
これで悪夢が一つ終わるのだ、と。
「意外と手こずっちゃったね。
さて、何か思い出したことはあるかい?」
問いかけられ、何の話だとザップは思う。
「キミは馬鹿だね。
――馬鹿は嫌いだよ」
もともとキミは嫌いだけど、という呟きと共にザップの腹に高圧の電流が押し込まれる。
「呪いの話だよ。
いつ、何処で、誰によって、か」
そういえばそういった質問だった、とザップは霞がかる頭で思う。
体中の痛みを押し込め、どうにか口を開く。
「ギ……ッド、ロ……っで、や……づ、に」
「ギッドロ?
何処かで聞いた名前だな」
それもそのはず。ギッドロは十年前とはいえ、裏世界でも名を馳せた男だ。眼前で拷問に勤しんでいる男の耳にも名前くらいは届いたことがあるだろう。
「ヘ、ル……ッド、ノ……ま……で、ライブ、ラ……ノ、任……む」
元よりまともな声帯を失っているザップは、先ほどの拷問でさらに喉を傷つけている。息をすることすら辛いというのだから、話すという動作はなおさらに苦しい。
それでもザップは喉を震わせ、口を動かす。
「あれ、ハ……じゅ、ね……ま、え……」
思い出せる限りの情報を。
しかし、大切な思い出だけは汚されぬように守りぬいて。
碌に戦うこともできぬ彼を見捨てなかった仲間達のことに関しては上手く隠し通してみせる。必須事項というほどの情報でもないのだから、黙っていたってバレやしないだろう。
あの日、失われた大切な者達を、今一度ここで失うわけにはいかない。
命絶えるその瞬間まで、ザップの心の中で幸福な時間は輝いていなければならないのだ。
「思い出した。
そうか、ギッドロを捕まえたのはライブラだったのか」
男は途切れ途切れになっているザップの言葉を解し、情報を頭の中に入れていく。それと共に、ザップの足に新たな道具を設置していく。
次は何をされるのかと戦々恐々としているザップに男は、気にしないで、と一言だけ告げて情報の吐露を促す。
「あ……ノ、日ハ……朝が、ら……」
思い出せる情報を順々に言葉にしていると、いつの間にか男の準備が終わっていたらしい。
立ち上がった彼はザップににんまりとした笑みを向ける。
「痛みがあると色々思い出せるみたいだから、ボクも手伝ってあげるよ」
大きなお世話だ、と、昔のザップなら唾を吐いていただろう。
十年前のことを口にし続ける彼に目を向けたまま、男は手元のダイヤルを少し回す。
「逃、げら――あぁあああ!」
悲鳴。
足元、失われた足首よりも上、膝から痛みが走り抜ける。
「どうしたのさ。早く、色々教えてよ」
膝の内側と外側から棘が食い込んでいく。どうやら、男の持つダイヤルは締め上げる速度を設定するためのものらしい。
太い棘は皮膚を破り、肉に食い込む。そう時間が経たぬうちにそれは骨にまで到達し、じりじりと膝を砕きにかかる。出血量こそ少ないものの、痛みは激しく、ザップは酸素を取り入れるために呼吸をすることすら困難になった。
一本しかない腕を必死に動かし、少しでも痛みから逃れようとするが、当然ながら痛みが退くことはなく、腕の皮膚が手枷との摩擦によって擦り切れるだけに終わる。
「そんなダンスを踊って、ボクに媚を売っているつもりかい?
いつもならそんな手には乗らないんだけど、今日は気分が良いから乗ってあげてもいいよ。
ほらほら、もっと踊ってくれよ。面白いダンスをさ」
必死に体を揺らすその様子は、趣味の悪いダンスに見えなくもない。かつては、焼いた鉄の靴を履き、躍らせるという処刑方法があったらしいが、ザップの姿はそれに酷似するものがある。
ボロボロと目からは涙が流れ、か透明だったそれはいつしか鈍い赤色を含むようになっていた。
「……それにしても、キミの声は素晴らしいね。
とても良い子守唄になりそうだ」
本来ならば男は別段、睡眠を必要としない体をしている。
しかし、目の前で苦痛に呻くザップを見ていると、どうしようもなく眠りたい気持ちに陥った。それは心地良さだけが理由ではない。
「キミの膝が砕ける音を目覚ましにしようかな」
男はいつの間にやら少し離れた場所に置かれていた椅子に腰掛け、そっと目を閉じる。痛みで眠ることのできないザップを前にして悠々と眠ることの優越感はたまらない。
ザップを精神的に追い詰める要因の一つにもなるだろう。
それが男は楽しくて、嬉しくてしかたがないのだ。
何時間か経ったのだろう。鈍い音が聞こえ、一拍遅れてから今までにない絶叫が響く。
「……おはよう」
目を開け、ザップの膝を見てみれば、そこには見事に潰れた足があった。
棘は膝を貫通し、肉も皮も骨も混ざり合い、何がどの名称であったのかわからなくなっている有様だ。
肝心のザップは口からだらしなく涎と胃液とわずかな血液を垂らし、目は虚ろに男を見ていた。身体的苦痛と精神的疲労。眠ることができない、というのは地味ではあるが最も有効的で残酷な拷問の一つに数えられる。
「眠りながら色々考えたんだけどさ」
膝に設置していた危惧を外す。
どろり、と様々なものが共に体外へ引きずり出され、既に吐瀉物や汚物に塗れた床へ落ちる。男が無造作に足でかき混ぜてやれば、全てが混ざり合い、見るもおぞましい物体へと早変わりした。
「ギッドロを殺してしまえばよかったんじゃないか?
キミならそのくらいできただろうに」
次はどうするか、と男は周囲を見渡す。
多種多様な拷問道具を用意してはいるが、おそらくザップは数日も経たぬうちに死ぬだろうことが目に見えているので、全ての道具を使うことはできない。
とりあえず手軽にできるものを、と男は手短なところにあったガーゼを取る。
力ないザップの顎を上へ向けさせ、口を開かせた。彼のからの返事を聞く気はあるのだけれど、どうにも痛めつける手を休めることができない。
開かれた口の中にガーゼを乱暴にねじ込み、少しずつ水を滴らせる。水分を含んだ荒い目をした布は自然の法則に従って下へ、すなわち喉の奥へと進んでいく。
ザップの薄呆けた頭ではこれがどのような種類の拷問なのか判断するのは難しい。
始めこそ質問に答えるべく喉を動かしていたのだが、ガーゼが奥に落ちてくると共に話すことを諦める。徐々に臓腑へ向かって喉を侵食してくる感触は気持ちが悪い。
嘔吐き、喉が動く。すると、またガーゼが体内への道を進む。顔を上に向け続けさせられているため、吐き出すことはできない。仮に、それができたとしても、またすぐに口の中に戻されるだけなのだろうけれど。
「たくさん吐いて、喉が汚れちゃっただろうから、綺麗にしないとね」
水が染みこんだガーゼで喉の中をふき取ろうとでもいうのだろうか。
男の言葉にザップは目を閉じ、苦痛を享受する姿勢をとった。
静かな部屋の中、時折、高圧の電流を与えられ、棘のついた鞭で体を傷つけられながらも、ザップは口を開けたままだった。苦痛に呻くたび、ガーゼが喉を這う。何もせずともそれは奥へ奥へと落ちていく。ゾワゾワとした感触が胸を通過した辺りで、男はガーゼの端をそっと摘む。
「さ、掃除の時間だ」
引き抜くために力を入れられた一瞬で、ザップは全てを理解する。
ほんのわずか引き戻されただけでガーゼの荒い目が喉の内側にある全てを絡めとり、共に外の世界へ誘おうとしたのだ。柔い肉が通過していくそれに耐えられるはずがない。
止める間もなく、止められるはずもなく、ガーゼは一気に引き抜かれた。
垂らされていた水とザップの体液に塗れたその布は、本来ならば清潔感溢れる白で構成されていものだ。しかし、ザップの体内に浸っていたガーゼのおよそ四分の一は薄く赤が滲んでいる。
荒い目が喉を傷つけた証拠だ。
「ぅ、げぇっ」
びちゃ、と床に水っぽいものが落ちる。
ガーゼが抜かれたことで、ザップの体は正常に嘔吐の動きを示したのだ。胃液と血液が吐き出されるが、ただの嘔吐ですむはずもない。
酸味を舌で感じ、喉が焼けるくらいならばよかっただろう。しかし、現在、ザップの喉はガーゼによって出血するまで傷つけられている。焼け付くような痛みは傷の中に入りこみ、さらなる激痛を生み出す。加えて、荒い傷の中に残った胃液は体外へ排出されることなくその場に留まり続けるのだから、痛みも持続するというもの。
もしも、今のザップが自由にできる腕を持っていたとしたならば、間違いなく喉を掻き毟っていただろう。喉を裂き、清水で中を洗浄させてくれと懇願したことだろう。
「あーあ。せっかくボクが綺麗に拭ってあげたのに」
拷問の意図も苦痛も理解した上での行動だっただろうに、男はそ知らぬ顔をして嗤って見せる。
「謝ってよ」
冷たい声。
視線は肌を裂き、臓腑を握りつぶさんばかりだ。
「ず……ぃま、ぜ……ん、で……ぁ」
傷と染み渡る痛みでザップの声は殆ど枯葉がこすれるような音にしかなっていなかった。
だらしなく口を開き、喉の奥から少量の胃液を垂らす姿は、服従を誓って頭を垂れているようにも見える。それだけで男の胸の内は言い知れぬ充足感で満ち満ちるのだ。
「本当に反省してる?」
「ぁ……ぃ……」
細切れにされた声を聞き、男はザップが吊り下げられている位置から少し離れた壁にまで進み、何やら操作を始めた。
すると、ザップの腕を拘束していた鎖がカラカラと音をたてて緩み始める。つま先がどうにか床についている、という状況から、踵がつくまでになった。それでも鎖は緩み続け、いつしか立つ力も残されていないザップの膝が床についた。
異臭の元である吐瀉物や汚物、体液等々の水溜りがかろうじて残されていたズボンを侵食していく。本来ならば、気持ち悪い、という感想を抱くのだろうけれど、もはやザップにそのようなことを考える領域は残されていない。
「キミのせいでボクまで汚れちゃったからさ、ほら、舐めて」
向けられたのは上等な革靴だ。
言われてみれば先端部分に血だか吐瀉物だかが付着している。
「…………」
躊躇う瞬間などなかった。
ザップは阿呆のように開け続けていた口をそっと近づけ、舌を革靴に這わせる。
味の良し悪しなどわからず、ともすれば間近に迫った異臭すら感じることができずにいた。本能のように、義務のように、ザップは舌を靴の先端から中ほどまで移動させ、汚れを落としていく。
何度も何度も、様々な場所を舐めた。赤い舌が乾くまで舌を出し続け、男の靴を綺麗にするためだけに屈辱的な行為を繰り返す。
楽しげにそれを眺めていた男は、一度足を退いてその場に軽くしゃがむ。
「もういいよ。キミの反省はよくわかった」
ザップの手枷に繋がっている鎖に触れ、男は彼を汚れきったその場から少しだけ別の場所へ誘導していく。ザップはほとんど自力で動くことができないので、殆ど引きずられるような形での移動となった。
赤黒い筋を作りながら移動した先で、ザップは体を横たわらせることとなる。天井から繋がっていた鎖は彼の頭上で固定された。
拘束されてから、もうずいぶんと時間が経っていたため、彼の手は血の巡りが悪くなっており紫色になっていた。付け加えるのであれば、手枷によってこすれた皮膚は破れ、血が滲んでいた跡が見受けられる。もはや、ザップに残された片腕は手枷がなくとも自由に動かすことができないだろう。
「良い子にはご褒美を。
リラックスして、色々教えておくれ」
これも嘘だ。
男の言葉で信用していいのは、ザップを痛めつけるための言葉だけ。
安らぎは全て苦痛への布石でしかない。現に、ボロボロになってしまっているザップの片足が徐々に引っ張られていく。どうやら、彼が寝かされている場所は、ローラーの上らしく、次は体を引き伸ばす拷問にかけよう、という算段が明け透けに見えた。
だが、何が透けて見えたところで、ザップに抗う術はない。
彼は口を開き、雑音のような声で過去について語っていくだけだ。
体のあちらこちらが赤黒く染まっており、全身で内出血がおこっていることが第三者から見てもわかるようになっていた。男もそれを知っているからこそ、性急に拷問の種類を変えていこうとしているのだ。
細かな血管が削られ、切れていく中、脳や心臓といった生命活動を維持する上で重要な血管は最期まで残されている。ザップを蝕んでいる痛みが病によるものではなく、呪いによるものだという何よりもの証拠だ。
時間が経てば、指先から切断された足の先までがピンと張る。まるで一枚の布にでもなったかのようにすら思える。しかし、それでもまだ足を引く力は緩まることなく、少しずつではあるが着実に彼の体を引き伸ばしにかかっていた。
無論、痛みはある。
体内も体外も総じて痛い。違うのはその種類だけだ。
削られる痛みと引き千切られる痛み。その二つが同時に与えられ、混ざり合い、例えようのない痛みへと変貌していく。
「も、じ……ら、あ ノ……ぎ、あい、ツ……を、ご……」
あの日、あの時、呪いを受けなければ、ギッドロを殺せていたならば、この苦痛はなかったかもしれない。世界が大きく変わっていたかもしれない。
どれもが推測でしかなく、もはや変えようの無いものばかりだ。後から悔やむと書いて後悔。起こってしまったことを変えるなど、人間が触れてもいい領域を優に超えている。最も、HLというものが出現したこの世界、それがなかった頃に比べれば、触れてはいけない領域に手が届きやすくなってしまっているのだけれど。
「そういえばさ、キミはクラウス・V・ラインヘルツのことをなんて呼んでたの?」
「ぁ……ダ、ん……ナァ……」
この呼び名を口にするのもずいぶんと久しぶりだ。
最期はいつだったか。昔は毎日のように顔を合わせ、呼び、じゃれ付いていたというのに、今となっては懐かしさしか存在していない。
幸せな記憶は人の心を癒すものだが、時として、それは真逆の効果をもたらすこともある。
男に問われ、一つ一つ口にしていくにつれ、当時のことがつい昨日のことのように浮かび上がり始める。大切に、綺麗に飾っていた記憶が間近に迫り、ザップは胸が苦しくなった。
彼らはもういない。
あの時、自分が何もできなかったせいで、死んでいった。
自責する必要などない、と告げてくれるような、今もきっと天の上から願っていてくれるような、優しく良い奴らだった。世界に存在し、世界を守ることが誰よりも似合っている人達だったのに。
「ダ、ず……げ、で……」
ゴキン、と鈍い音がした。
引かれる力にザップの関節が負けたのだ。
脱臼し、繋がれているべき部位同士が離れる。別れた部位同士をかろうじて繋いでいるのは、薄い皮と筋肉だ。しかし、それも引き続けられる力にいつかは負けるのだろう。今も皮膚が悲鳴を上げ、裂け目を作り始めている。
「面白いことを言ってくれるじゃないか。ザップ・レンフロ」
男の目は弧を描き、彼の指は張り詰められた皮をそっと撫でる。鞭の跡や電流が押し当てられた跡が痛ましく、滑らかな肌は何処にもない。
「どこの誰がキミのような化け物を助けてくれるというんだ。
帰ればそれなりに対応してもらえるだろうけど、決して歓迎はされないだろうね。
石を投げられ、火で炙られるようなことがないだけマシだと喜べばいい」
時間があったのならば、男はそれらもするつもりだったに違いない。
拘束され、身動きの取れないザップに石を投げつけるのはさぞ楽しいことだろう。焼けた鉄板の上で醜いダンスを踊らせ、芋虫のように這わせるのはどれだけ優越なことなのだろう。
ザップは閉じることさえできぬ口から微かな呻き声を絞りだしながら、牙刈りのことを思い返す。
自分を遠目に見ている連中。端的に与えられる危険で汚い仕事の数々。言外に死ね、と告げる瞳。間違いなく、彼らはザップを救おうとしない。指先一つ動かしてはくれないだろう。
そのことをわかっているからこそ、ザップは彼らに期待しない。願うこともない。
救いを求める声を向けるのは、遠い過去の顔ぶれへだ。
彼らならば、きっと動いてくれただろう。自分のために危険を犯してほしくはないが、こちらが拒絶したところで、絶対に手を差し伸べてくれる。そういう連中だった。
「どうせ帰れやしないし、キミはもうすぐ死ぬんだろうけど」
体が痛い。
何処もかしこも痛くて、気持ち悪くて、歪で、自分の体であるはずなのに、どこか遠くに感じてしまう。どうせならば、苦痛も遠くに行ってしまえばいいのに。
足や腕が千切れるよりも、背骨がどうにかなってしまうほうが早いだろう。背中から嫌な音が聞こえてくる。
死ぬことは怖くない。
痛みは喜ばしくはないが、恐れ戦くものではない。
けれど、どうせならば、死ぬ間際に見たい顔があった。もう二度と見れないと知ってはいるのだけれど。
苦痛に呻き、生を終える瞬間、あの優しい手に触れてもらいたかった。
どうして、今、ここに、自分は一人なのか。
暗くて冷たくて臭くて苦しくて悲しくて辛い。そんな場所で、嗤い声を聞きながら死ななければならない。
「あっちこっち、内出血ですごい色してるね。
中はどうなってるのかな」
冷たい感覚が痛みの中に紛れ込む。
発生源は腹だ。
「――ぁ、あ……ぅあ……」
切られた。
そのことを認識したのは、一拍遅れてやってきた痛みと、腹から溢れた生暖かい血が肌を伝う感触がやってきてからだった。
「すごい、すごい。この量の血をどこに隠してたんだい?」
中に手を入れられた。
麻酔など打たれているはずがなく、今もなお感じている引き裂かれるための痛みが腹の痛みを和らげているような錯覚さえ覚える。
軽く内臓を撫でられる感触がぞわぞわと広がっていく。
ずるり、と引き出されるのを感じた。ザップは思わず力を振り絞り、自身の腹を見てしまう。
褐色など見る影もなく、真っ赤に染まったそれ。赤系統の色で染まりきったそこは、ザップが呼吸するのとあわせて脈動する内臓が入っている。気の弱い者ならば卒倒してしまうだろう光景だ。
しかし、常日頃戦いの中に身をおき続けてきたザップからしてみれば、然程グロテスクにも見えない。自分のモノだと認識していても漠然とした感慨が緩やかにやってくるだけのはずだった。
今、ザップは、脂汗を滲ませ、目の前の光景を見つめている。
呼吸さえできない。
「意外と綺麗な内臓じゃないか」
取り出されていたのは、ザップの腸だった。
途中で切れぬよう、傷つけぬよう、丁重に出された内臓は、呪いによって妙な色に変色してはいるものの、臓器としての機能を損なっている様子はない。
それがゆっくりと取り出されていく。
男が軽く引くと、ザップの腹から腸が出ていく。気持ちの悪い感触、そして鈍いようで鋭い痛みが走る。
嫌味なほどに丁寧な手つきは、宝物を触れているようにさえ見えた。
「キミが死んだら、これに肉を詰めてソーセージにでもしてみようかな」
ずるり、ずる、引かれる度、ザップの中身が空に近づいていく。
吐くことすらできない。異様な光景に怖気ることしかできない。
時折、内臓から新たに赤い血が溢れ、床に垂れる。
拷問を受けている最中であろうと、呪いの手は休まらない。それどころか、早まる脈拍によって血管を傷つける速度は上がり、相対的に威力も増していく。
一つが裂ければ別の場所も裂け、腹からは止めどなく血が溢れ続けていた。
「良いことを教えてあげよう」
腸を巻き取りながら、男は囁く。
「キミが死んだら、ボクはキミの娘に重大な役目を与えようと思う」
ザップの濁った目が見開かれる。
出会わせてはならない。何をさせるつもりなのかはともかくとして、目の前の残虐な男に関わっても良いことは何一つとしてないのだから。
「ゃ……め、ろ……」
「キミを台無しにするためにね、色々考えたんだ」
ザップの懇願を無視し、男は言葉を続ける。
「ボクの計画を邪魔させないためには過去のキミを殺すのが一番良いのだけれど、未来の人間は過去の人間を殺すことは許されていない」
世界が世界であるために、神といえども制約は存在している。その一つが、未来に生きる生物の手によって、過去の生物を殺めてはならない、というもの。
「だから、キミの娘さんにやってもらうよ」
体が壊れてもいい、目の前の男を止めるためならば、命だって惜しくはない。その一心でザップは言葉を吐こうとした。だが、無情にも時間はやってきてしまう。
大きな血管が切れる。
一箇所ではない。あちらこちらの血管が崩壊し始めた。
肺を通る血管が破れ、ザップの肺が赤い血で満たされ始める。当然、呼吸はできなくなり、口から出るのは鮮血だけになった。
「おやおや。
もうお別れか。
寂しいことだ。良い気味だ」
酸素の供給がなくなり、思考が消えていく。この分では脳の血管もやられているかもしれない。
「それでは、ボクはキミをスポイルするために動くとしよう。
キミがギッドロを殺し、異常なまでの強さへの執着を失った世界を作るために」
男は手にしていた腸を床に落とし、踏みつける。
断末魔の叫びも肺に満たされた血に邪魔され、開かれた口からは赤い血がだらだらと流れ出るばかりだ。
そんな中、ザップは胸中で謝罪をする。
まだ見ぬ娘。愛すべき者。お前がこれから残虐な男と出会うことを喜んでしまう父を許してくれ。
消し去らなければならぬ喜びなのだろうけれども、ザップは考え、笑んでしまう。あの男が発した言葉はどれも信用ならぬものであったが、今の言葉だけは信じてもいいはずだ。
彼がやろうとしている行動の先に、思い描く成功があるのだと確信しているのが声色でわかる。
愚かなことだ、とザップは思う。
仮に、ザップが今ほどの強さを得ていなかったとして、しかし、そこにはきっと彼らがいるのだ。男に全てを打ち明けていないからこそわかる。
男は呪いの苦痛によってザップが今ほどの力を得たと考えているが、実際は違う。あの日、大切なものを失ったからこそ、自分の非力さを確信したからこそ、ザップは力を欲したのだ。
もし、変えられた未来で、ザップが男を止められぬ程度の技しか身につけていなかったのならば、その隣には彼らがいる。彼らに止められぬ世界の危機などありはしない。
可能性だけを考えるならば、そこには、話にしか聞いたことのない弟弟子とやらもいたっておかしくはない。ベッドに伏していた故に顔をあわせることができなかった彼は、どのような声で、どのような話し方をし、どのような技を使うのだろうか。
腐りきった過去を変えてくれるというのならば、ザップは諸手を挙げて歓迎することしかできない。
深い謝罪と歓喜を胸に抱き、ザップは呼吸を止め、心臓を止め、思考を止めた。
END