ツェッドがライブラに所属してから幾年か経った日のことだった。
 その日も世界には危機が訪れ、ライブラが出動していた。細かな情報収集も抑えるべきモノも抑えられ、後は力に任せて戦うだけ、というところまでお膳立てされていた任務だ。
 同流派のザップとツェッドは共に行動し、組織を壊滅させた。簡単、と軽く言うことはできない戦いではあったが、骨が折れる、とまではいかない。やりきったという感覚だけが体に満ち、倦怠感はなかった。
「……お前って、何年くれぇ生きるんだ?」
 帰り道、ザップは唐突にそんなことを問いかけてきた。
 普通ならば口にしないような言葉だ。まともな神経の持ち主ならば、その疑問を抱いたとしても、胸の奥底に沈めておく選択肢以外選ぶはずかない。
 何せ、ツェッドは人工的に生み出された生物だ。水中生物と人型生物。その二つの特性を併せ持つ彼は、この世界にただ一種の生き物。そのことについて、ツェッドは常に重たいものを抱えているような気持ちでいた。
 汁外衛と初めて出会い、世界が広がったあの時、彼に言われた言葉は間違いではなかった。
 果てしなく広い世界の中で、ツェッドだけが一人きりなのだ。それは寂しいことであり、悲しいことでもあった。ライブラという場所に所属し、気の置けない仲間ができても、同門の兄弟子がいたとしても、心の隅に巣くう寂しさは消えやしない。
 そのことを知らぬザップではない。ライブラの面々も、直接ツェッドの口から胸の内にあるモノについて聞いたわけではなかったものの、何となく察してはいた。故に、誰一人としてツェッドの出生や種族に関するデリケートな部分に触れないようにしていたのだ。
 それは食事のことであったり、睡眠のことであったり、体の構造のことであったり、と多岐にわたる。
 寿命、等というのは、デリケートの中でも最上級にデリケートな質問であるはずだ。
 そこにザップは無遠慮とも言える態度で触れた。
「……さぁ、どうでしょうね」
 不愉快を表情に出しては見るが、怒りで声を荒げるようなことはしない。
 この数年で兄弟子のことはそれなりにわかっているつもりだ。馬鹿で人間のクズ。しかし、身内には甘い。そんな男が、からかうような素振りも見せず、無表情で問いかけてきたのだ。
 何らかの理由があったのだろう。そうでなければ、三叉槍で脳天から尻穴まで貫通させてやらねば気がすまない。
「でも、あなたよりは長いと思いますよ。
 ボクを作ったのは永劫を生きる血界の眷属であり、彼の孤独を埋めるために作られたのですから」
 瞼を下ろし、向こう側に浮かぶ情景は、いつだって水とガラスを介した先にある風景だ。
 年老いた姿の伯爵。様々なことを彼は教えてくれた。日常のこと、学問のこと、御伽噺に童謡まで。彼の瞳はいつでも憂いていた。たった二人だけの世界は静かで、邪魔が無い代わりに変わり映えもなかった。
 悠久を埋めるために作られた命が短くては意味がないだろう。
「ふーん」
 ザップの灰色の瞳は無感情に遠くを見ていた。
 胸の中にある穴をほじくるようなマネをしておいて、その態度はなんだ。何を考え、思い、口にしたのかは知らないが、あまりにも酷い態度だ。
 ツェッドは三叉槍を顕現させる。
 真っ二つとまではいかずとも、腹を軽く突いてやるくらいならば許されるはずだ。
「なら、てめぇは長生きしろよ」
 足が止まる。
 その場に立ち止まったツェッドに倣い、ザップも足を止めた。
「どういう、意味ですか」
 死ぬつもりか。
 暗に尋ねる。
 こんな世界だ。死ぬつもりがなくとも死がやってくるときはある。
 自堕落な生活をしているザップならば、その確率はツェッドやレオナルドよりも何倍も高いだろう。死神は女の姿をしているかもしれないし、薬の姿かもしれない、はたまた、その辺りにいるチンピラか。
確実なのは、そこに殺意がある、という事実だけだ。
 とてもではないが尊敬なんぞできない兄弟子だ。しかし、仲間だ。情もある。簡単に死を享受されてはたまったものではない。惨めでも醜くとも、抗って生きてもらわなければ困る。
「勘違いしてんじゃねーよ」
 そう言ったザップの目はわずかに細められていた。
 優しい目だ。生きることを諦めるようなマネをしない目でもある。
「ただ、オレはどうやったって、あのクソジジイより先に死ぬからよぉ」
 クソジジイ、という言葉で、ツェッドが思い出すのは師匠である汁外衛の姿だ。諸々の恩人でもある彼のことをボロ雑巾だの、クソジジイだの言うザップの口を縫い付けてやりたい気持ちが腹の底に少しだけ溜まる。
 発露されなかったのは、ツェッドもまた、ザップと同じく地獄の満漢全席をとくと味合わされてきたからだ。
「精々、ジジイ孝行でもしてくれや」
 ひらり、と褐色の手が振られた。
 ザップはツェッドの方をちらりとも見ず、基地への道を進んでいく。
 彼は強い。そう簡単には死なないだろう。しかし、生物である以上、寿命というものがどうしたって付きまとう。ツェッドは血界の眷属に生み出された生き物で、汁外衛は細かな種族こそわからないながらも、相当長寿な種族なのだろうことが想像できる。
 三人の中で最も死が近いのはザップなのだ。
 どんどん小さくなっていく背中を眺めつつ、汁外衛がザップを弟子にしたのは何故なのだろう、とささやかな疑問を抱いた。
 後世に技を残すためか。ならば、何故、自身よりも寿命が短い種族に託したのか。
 才能を見出したからか。たかだかそれだけのことで、あの自身の研鑽のみを行動原理としていた者が弟子をとるとは考えにくい。
 ならば、ならば。
「……考えても、仕方がないですよね」
 汁外衛の考えなど、わかるはずもない。
 無駄なことを考えるために時間を消費する必要はないはずだ。どの道、死神がザップを連れていくのはまだまだ先の話。下手をすれば、死神もザップのようなクズを連れていくのを拒否するかもしれない。




 そんな風に考えていたのは、もう二十年も前の話だ。
 月日が経つのは早く、ふと気づけばそれだけの時間が経っていた。
 二十年もあれば人も世界も変わる。
 レオナルドは自身の目を元に戻すことこそ叶わなかったものの、妹の視力の足を取り戻すことに成功していた。ライブラの面々は総出で彼を祝福し、ミシェーラをHLに呼び出して飲めや歌えやの宴会を繰り広げた。改めて顔を会わせ、言葉を交わした彼女は実に素晴らしい女性だった。彼女の夫となったトビーが始終心配そうだったのも道理というものだ。
 宴会が終わると同時に、三人分の切符が渡されたときのレオナルドの顔といったら、ザップはその後数年、何度も同じネタで笑っていたほどだ。
 祝いの品、といって渡されたそれは、レオナルドを普通の生活に帰すためのものだ。
 神々の義眼を有しているため、完全に元通り、というわけにはいかない。ライブラの機密も知ってしまっている。しかし、可能な限りの元通りを用意した、とスティーブンは言った。時として、神々の義眼を頼りに呼び出すこともあるかもしれない。世界の危機に巻き込むこともあるだろう。しかし、その日、その時までは普通の世界で暮らせばいい。誰もがそれを肯定し、笑って彼を見送った。
 K・Kは息子に反抗期が、彼女が、と家族のことで管を巻きつつも精力的に働いていた。しかし、時とは残酷なもので、スナイパーに必須の視力が低下してくると共に彼女は戦場から身を退くこととなった。とはいえ、HLの町で騒ぎがあったと聞きつけ向かってみれば、すでにK・Kの手によって鎮圧されていた、という事態も、多くはないものの存在していた。また、ライブラに顔を出すことはやめず、長男が婚約者を連れてきたときなど、スティーブンを脅すようにしてパーティーを開いたくらいだ。
 そんなスティーブンは今も副官としての役割をこなしている。年数を重ねた分だけ腹の黒さは増し、新人を鍛える力、能力を見抜く技術は精度を増している。戦闘に関しても、年寄りを働かせないで欲しい、と言いつつ、最小限の動きで敵を征圧していく姿は見事の一言につきる。
 無論、我らがリーダー、クラウスの力も健在だ。それどころか、彼もまた技の精度を着実に上げている。筋肉量が減ることもなく、ともすれば歳さえとっていないのでは、と俄かに囁かれるほどの変わらなささだ。
 チェインも相変わらず、人狼局とライブラを行き来し、仕事をこなしている。銃の腕も相変わらずだ。近いうちに、人狼の面々を取りまとめる役割を担うのではないか、というのが近頃、最も信用度の高い噂だったりする。
 不思議なのはギルベルトだ。元気なのは嬉しいことなのだが、今も変わらずにライブラの頭脳を担っている。コンピューターを操作し、優雅に紅茶を淹れ、ライブラの面々が負った傷の応急処置をこなす。流石は再生者、と言ったのは誰だったか。本人は関係ない、と言い張っているが、逆に関係していないのならば、その変わらなさっぷりは何なのだ、と問いたださなければならなくなる。
 ツェッドは姿も変わらず、技の熟練度が上がるばかりだ。憶測でしかなかったが、やはり彼の体は長寿に作られているらしい。
 そんな風に、ライブラは何も変わらなかった。多くが変わりながらも、相変わらずだ、と時たまやってくるレオナルドが口にするくらいには、何も変わらなかった。
 しかし、不変など存在しない。
 ツェッドはHLの片隅で燃えてる炎を眺めながら、胸に空いた穴を無情に感じていた。
「お前から先に逝ってしまうとはなぁ」
 スティーブンの声は平坦に聞こえるが、語尾がかすかに震えていた。彼の手にしている松葉杖もどこか不安定に見える。
 周囲からはすすり泣くような声が聞こえていた。久々にHLにやってきたレオナルドは顔をうつむけ、静かに震えている。彼によりそうミシェーラも眉を下げ、目尻からほろほろと透明の涙を流していた。
「あんたが、いなくなって、清々……しないのは、なんで、よ」
 かろうじて涙を流さずにいるチェインも、まともに立っていることさえできず、人狼仲間に支えられている有様だ。K・Kもその輪の中にいる。隻眼がチェインと炎を交互に見つめては、悲しげな色を浮かべていた。
 炎を無言で見つめているのはクラウスだ。涙を流しそうな色をしながらも、彼は真っ直ぐ前だけを見ている。まるで、そうすることが報いになると信じているかのように。体中に巻かれている包帯の白ささえ、彼の意思の前では純白さを潜めている。
 そんな彼の隣に立つギルベルトは少し困ったような顔をしていた。まるで、順番が違う、とでも言いたげだ。
 他にもたくさんの人間がいた。異界の生物もちらほらと見える。
「あなた、意外と人望があったんですね」
 薄く、苦笑いを浮かべた。
「ザップ、どうしてぇ!」
 女の声が響き、また泣き声が周囲に広がっていく。
 そう、これはザップ・レンフロの葬儀だ。
 特に何かがあったわけではない。未知のウイルスだとか、恨みだとか、人身御供になったとか。そういう劇的な展開があったわけではない。ただ、ザップは戦闘員であり、戦闘狂でもあった。
 それだけのことだ。
 ライブラは世界の均衡を保つために戦い、その最中でザップは死んだ。相手が長老級の血界の眷属であった、という部分だけがいつもとは違っていただけ。
 彼は自身の役目を真っ当した。レオナルドを守り、時間を稼いだ。誰もが満身創痍だった。誰が死んでもおかしくはなかった。たまたま、死神の手が伸びた人間がザップであっただけだ。
「こんなことなら、もっと、優しくしてあげ、れば……よかったよぉ……」
 ツェッドから遠く離れたところで泣いている女性には見覚えがあった。いつだったか、ザップを刺した女性だ。彼が気に入っていた女性、彼と悪さをしていた男性、彼を追い回していた女性、彼に金を巻き上げられていた男性。
 誰もが泣いていた。
 何だかんだとありつつも、彼は愛されていたのだ。この町の住人達に。
『堕落した人間には、堕落した人間が集まるもの。
 だが、それだけの人間が集まっているわけでもない。まったく。あのように意志薄弱の惰性と享楽の塊にも、愛とやらを受け取る素養があったということか』
 ギシャギシャと常人には解すことのできぬ言語で話すのは汁外衛だ。弟子の死をどこから聞きつけたのか、気がつけば彼はザップの死体の前に経っていた。
 獣の頭蓋を被っているために表情こそ見えなかったが、一番弟子が死んだのだ。いくら自身の研鑽だけを考えている、と称される彼とて悲しみを覚えぬはずがない。
『今にもゆくりなく起き上がってきそうですらある。忌々しい。骨まで残さず焼き尽くしてやろうか』
「師匠、やめてあげてください」
 現在、ザップの遺体を焼いている炎は汁外衛の手で生み出されたものだ。
 遺言などという大層なものではないのだが、以前からザップは死んだ後は火葬がいい、と言っていた。彼自身がカグツチの能力を有しているからか、炎で焼かれ、煙となって空へ行くのだ、と言っていた姿をライブラの面々は何度も見ていた。
 自身の死について話す彼に悲壮さはなく、むしろ、ライブラに所属しているのならば誰もが一度は自身の死後について話すものだった。いつ死んでもおかしくない職場なのだから、当然と言われればそれまでだ。
 なので、ザップを火葬するのは相談の一つも必要ない決定事項だった。それを告げたとき、汁外衛が自らの手を使って焼く、と言い出したのには流石のクラウスも目を見張っていたが、誰も止めはしなかった。
 ザップが骨だけになり、ようやく炎はその勢いを収める。
「彼の骨はHLの墓地に埋葬します」
 家族のない彼は、外の世界に帰る場所などない。HLで死んだ彼の骨はHLに。それが摂理だ。一応、スティーブンは汁外衛に分骨を打診してはみたのだが、黙って首を横に振られてしまっている。
 言葉はなくとも、ただの骨に縋るような柔な精神ではない、という意思だけはハッキリと伝わってきた。それが、寂しさの上に重ねられている感情だということも。
 粛々と葬儀は進められ、ザップの骨は土の中に入った。
 その間、ツェッドは始終、言いようのない空漠を感じ続けていた。それは、気がつけばいつもシナトベを用いて金銭を得ている公園に立っていた、という事態からも察せられるほどに重いものだった。
 時刻はおそらく昼間。ザップの葬儀はすでに昨日の出来事となっており、HLは昨日とも一昨日とも、一年前とも変わらぬ様相を見せている。
「――っ」
 ツェッドはベンチに腰掛ける。些か乱暴すぎる動作で。
「な、んですか、もう……」
 頭を抱え、一人うな垂れる。
 まだ、まだまだ先のことだとばかり思っていた。
 いくら寿命が短い種族とはいえ、先進国では平均寿命は七十をオーバーし始めているこの時代。この町における生存率も低くはないし、そろそろ老獪な者達の姿も多く見かけるようになっていた。
 良い奴ほど早く死んでいく、というのが世の理のはずで、ならばあれだけ人から恨まれていた人間は、馬鹿みたいに長生きするのが道理だろう。
「……いや、そうでもないのか」
 葬儀の最中、大勢の者達がやってきた。
 ある者は静かに、ある者は大声で、またある者は歯を食いしばって。誰もが泣いていた。ザップ・レンフロという男の命がこの世界から消えてしまったことを嘆いていた。
 一人きりになって思い出すのは、いつかの会話だ。
 ツェッドよりも汁外衛よりも自分は先に死ぬ、と言った彼の顔。
 孝行してやれ、とは言われたが、任せるのが早すぎやしないか、と悪態をつく。第一、ツェッドが継いだのは片方、シナトベだけだ。ザップが死した今、カグツチは宙ぶらりんに浮いてしまっている。
 斗流は二人で一つ。汁外衛レベルの天才が現れぬ限り、それが大前提となっているのだ。片方が欠けてしまっては意味がない。
 寂しい。
 外の世界に出てから、胸の片隅にずっと潜んでいた感情が大声を上げた。
 そうだ。これは寂しさだ。
 たった一人の種族であるツェッドは、仲間を得ても、兄弟子を得ても寂しかった。けれども、それらが穴を少しだけ塞いでいてくれたのも事実。
 蓋となっていたもの、その一つが失われた。それも、同じ流派、同じ修行を受けた、という共通点を持つ者が。
「そうか、そういう、ことなんですね」
 唐突に、ツェッドは理解できたような気がした。
 汁外衛がザップを弟子としたのは、きっと、これだったのだと。
 自分の研鑽しか考えていないような彼でも、寂しかったのだ。たった一人、作り上げた技を継がせる者もおらず、ひたすらに研鑽と戦闘を繰り返すだけの日々。
 無為でこそなかっただろうが、埋められないものがあった。
 だからこそ、自分よりも寿命が短い種族であろうとも、そこに才能があるという理由だけで弟子とした。一人きりではない時間を知ったからこそ、汁外衛はツェッドを弟子としてくれたのかもしれない。
 そうでなければ、彼の性格上、助けるだけ助けて放置されていたとしてもおかしくはないはずだ。
「あなたは知っていたんですね」
 ザップはそのことを知っていたのだろう。
 本能か、人生経験か。そんなものはどちらだっていい。彼は汁外衛の寂しさを理解していた。だからこそ、ツェッドに寿命を尋ね、自分よりも長く生きてくれることに安堵したのだ。
 あのデス仙人が再び一人きりにならなくてもいいのだ、と。
「本当、馬鹿ですね」
 一人きりじゃない、というのと、一人失う、という事実。
 どちらの方が重いと思っているのか。
 失うことはおそろしく、痛い。
「――なぁ、あんた、ツェッド、さん?」
 ひとしきり泣いてしまおうか、そんな風に考えていたツェッドに声がかかる。
 声変わりもしていない、幼い少年の声。
「はい?」
 震える声で、何とか顔を上げる。
 目の前に立っていたのはやはり少年だ。闇のように黒い髪をざっくばらんに切った短髪、同じく黒い瞳、薄汚れた衣服。
 見覚えはないが、広い公園だ。遠くの方からツェッドを見たことがあったのかもしれない。嬉しくはないけれど、ツェッドの容姿は同一のものが存在していない分、非常によく目立つ。
「当たりか。
 ふーん。これがジャパニーズスイーツ、くず餅の質感なんだ」
 無遠慮な言葉。
 今は亡き兄弟子と初対面の時を思い出す言動が、今は癇に障る。
「何ですか、あなたは」
 幼い手を振り払い、目の前の少年を睨む。
 今はそっとしておいて欲しかった。そうでなければ、どれほど弱い存在にでも当り散らしてしまいそうな自分が怖い。
「あー、やっぱり、オレのこととか聞いてない感じ?」
 黒い目を細め、彼は苦笑いをする。
 頭をガリガリと掻き、少し考えた後に手を叩く。
「そうだ! これでわかってもらえるかな?」
 彼は自身の人差し指を親指の爪で傷つける。柔い肌からあふれた血は、あろうことか、一振りの刀の形を成した。
「そ、れは」
「刃身の壱、焔丸」
 少年は笑う。
 その手に、斗流の技を握りながら。
「あんた、師匠の弟弟子なんだろ?」
 悲鳴を上げなかったことをツェッドは誰かに褒めてもらいたかった。


 少年曰く、ザップは数年前からHLの片隅で斗流血法の片割れ、カグツチの修行を彼につけていたのだという。理由はわからない。もしかすると、少年が孤児であった、というのが理由に含まれているかもしれないが、憶測の域を出ることはない。
「前々から師匠に言われてたんだ。
 もし、オレが連絡もなしにこなくなったら、ここにこい、って」
 昔と変わらず、女遊びもしていたように見えていたが、その実、何割かは少年との修行に時間を割いていたらしい。殆ど毎日のように修行は行われていたというのだから、常日頃のザップを知っている身としては信じがたい。
「きっと、あんたがいるから、って」
 黒い瞳はツェッドの表情を綺麗に映し出している。
 少年は驚愕しているツェッドの隣に座り込み、今までのことを色々と話してくれた。
 路地裏での出会い、修行の数々、ザップが度々話していた仲間のこと。
「ジャパニーズスイーツくず餅みたいなヤツ、って聞いてたけど、オレ、生まれも育ちもHLだぜ?
 くず餅なんて知らねぇっつーの」
 堅物、真面目、魚類、シナトベ、そんな説明と並んでくず餅が出てくる辺り、ザップの知能は初対面の日から進歩していなかったのだろう。
 だが、少年の口を通して聞かされてる仲間達の姿や評価というのは、紛れもないザップの視線から見たもの。褒め言葉が飛び出す度に、微笑ましくなってしまったり、むず痒くなってしまったりと大変な心持だ。
「あの人馬鹿だよな」
 少年は正面を向きながらポツリと零す。
「だってさ、あの人、言ってたんだ。
 オレがこなくなったらあの公園へ行け、きっと、変わらずにシナトベで金を稼いでるあいつがいる、ってさ」
 ツェッドは何も言えなかった。
 真っ直ぐ前を見ている少年の瞳に、涙が溜まり始めていたから。
「そんなわけねーじゃん、ってオレ思ったけど、言わなかった。
 あの人は本気で思ってるみたいだったから」
 全くもって同意するしかない。ツェッドも少年に習い、正面を向いた。
 相変わらずの公園には、子供連れやチンピラが跋扈している。HLである、ということを除けば、なんとも平和な風景だろう。
「あれだけ師匠が良い奴だ、お人よしだ、って言ってる人達がさ、師匠死んで、悲しまないわけないじゃん。
 弟弟子が、何も思わないわけないじゃん」
 おそらく、少年はもう笑みを浮かべていない。
 声は震え、湿っぽい音が喉から出ている。
「なぁ……。
 師匠、死んだ、んだよな」
 可哀想だ。ツェッドは思う。
 少年はこれだけザップのことを慕っているというのに、葬儀に参列することができなかった。彼の死んだ顔すら見ていない。誰もが涙したあの葬儀の最中、彼は一人、いつもの場所でザップが来るのを待っていたのだろう。
 待ち人の心臓がすでに止まっているとも知らずに。
 ツェッドがどれほどの言葉を並べても、墓石を見せても、少年の心は端のほうでザップの死を受け入れられないままになるのだ。何とも可哀想なことだ。そんな子供を生み出したザップは罪深い。
「……はい」
 だが、ツェッドにできることは何も無い。事実を口にしてやることだけが、彼にできることだ。
「そっか」
 少年はベンチから降りると、ツェッドの目の前に立つ。涙は見えなかったが、目尻が少し赤い。
「なぁ、オレをあんたらの仲間にしてくれよ」
 ザップはライブラについては話さなかった。
 仲間、という言葉で全てを片付けていたのだ。それは、何も知らぬ少年がライブラのことを知ってしまったがために狙われることを避けるためだったのだろう。
 自分の死後、選択を彼に任せるための処置。そして、彼は選んだ。
「楽な道ではないですよ?」
「地獄の満漢全席?
 いいよ。だって、そうじゃないと、オレはまだカグツチを完璧にものにできてやしないんだもん。
 師匠の弟子が弱っちかったら情けねぇじゃん」
 衝動だった。
 ツェッドは衝動に任せ、目の前の小さな体を抱きしめる。
「お、おい、どうしたんだ?」
 少年は戸惑った声を上げるが、ツェッドはそれに応えてやることができない。
 腕の中にある生き物が、愛おしくて仕方がなかった。兄弟子の忘れ形見。彼を継いだ者。彼を知る者。寂しがり屋の師匠と弟弟子に残してくれた者。
 誰もが少年を歓迎するだろう。未来の戦力としてではなく、新たな後継者としてでもない。ザップ・レンフロを受け継いだ者として。
 人間の命は短い。だから、彼らは魂を受け継がせる。そうして、残される者の拠り所を作る。
 何と愛しく、素晴らしい生命体なのだろうか。ツェッドは残酷な神にこの時ばかりは感謝を捧げずにはいられなかった。世界は上手くできている。
 寂しさが埋まるように。分かち合えるように。人の思いが延々と受け継がれていくように。

END