青峰大輝はバスケの神に愛された人間だ。
 そのことを口に出した人間もいれば、ただ黙ってそれを秘めているだけの人間もいた。しかし、多くの人間はそのことを思ったのだ。観客も味方も、彼に叩き潰されてしまった人間でさえ、青峰という男が神に愛された者であることだけは認めていた。そのことに対して、羨望を覚える者、妬みを感じる者、その差異はあれども、根本は変わらない。
 誰もが彼は将来、プロの選手となり、日本のバスケを引っ張っていくことになるだろうと考えていた。事実、そのために彼の引き抜きを狙う大学やチームも存在していたのだ。
 だから、それが起こってしまったのは、あまりにも衝撃的であった。
「あお、み、ね君……」
 呆然とした黒子の声が病室に空しく響いた。
 目の前のベッドの横たわっているのは名を呼ばれた彼、青峰大輝だ。目を閉じ、緩やかに胸が上下しているところだけに着目すれば、穏やかな眠りについているのだといえたかもしれない。
 けれども、彼の体はいたるところが包帯で巻かれ、左腕は肘から先がないという有様だった。
「どうして……!」
 黒子の隣で桃井が泣き崩れる。幼馴染の凄惨な姿に彼女の心が耐え切れるはずがない。いや、その姿よりも、それが生み出す結果を思う方が辛い。
 医者は言っていた。もう、今までのように動くことはできないだろう、と。
 左腕はもちろんのこと、形を残している右腕も固くギプスをはめられ、正常な状態ではないことが一目でわかる。潰されかかったその右腕は、リハビリをすれば日常生活に支障がない程度には回復するらしい。両足も似たような状態で、下手をすれば一生、松葉杖と共に過ごすことになりかねないと言う。
 すなわち、青峰はもう二度とバスケができない体になってしまったのだ。
 敏捷性を賞賛された足が、ボールを美しく、力強く捌く腕が、この世から消え去った。
「どうして、こんなことが! できたのよぉ!」
 青峰にかけられたシーツを強く強く握り締め、桃井が叫ぶ。
 眠る彼の現状は、事故によるものではなく人為的なものだった。誰にやられたのか、何故やられたのか、そもそも青峰が狙われていたのか、ただの通り魔だったのか。それすらわかっていない。
 わかっているのは、公園で青峰がボロボロにされ意識を失っていた、というところだけ。
 発見者の手によって病院に搬送され、治療を受けたのがつい先ほどの出来事だった。
 青峰の両親が呼び出され、その時に家が隣である桃井が共についてきた。道中、桃井が青峰の元相棒である黒子に連絡をし、共に病室に入ることとなった。桃井は己が一人では耐えられないであろうことを理解していたのだ。だから、黒子に辛い思いをさせるとわかっていながらも、隣にいてくれと頼んでしまった。
 桃井の弱さを黒子は責めない。むしろ、感謝さえしている。
 彼女からの連絡がなければ、今頃は何も知らないで楽しくバスケをしているところだったのだ。もう二度とバスケができなくなってしまった相棒のことも知らないで。
 きっと、近いうちに中学時代の仲間達もやってくるのだろう。
 仲違いしてしまっていた時間もあったけれど、彼らを繋ぐ絆が切れてしまったわけではない。遠方に住んでいる赤司も紫原も、きっと駆けつけてくれる。そうして、桃井や黒子と同じように悲しみ、涙を流し、犯人へのどうしようもない怒りを腹に抱えるのだ。
「青峰君。青峰君。
 どうか、どうか……」
 後に続く言葉がわからなかった。
 早く目が覚めて欲しい。犯人を知りたい。現実に絶望しないで欲しい。いっそ、このまま眠ったままでいて欲しい。
 心配する心と憤る心、そして逃げる心。どれも本心で、どれも切実な願いだった。
 結局、青峰は黒子の前で目を覚ますことはなかった。始終、穏やかな眠りにつつまれ、無機質で冷たい部屋に安置された死体のようですらあった。
 彼が目覚めたのは黒子と桃井がやってきてから二日が経った日のことだった。
「……あ?
 こ、こ……どこ、だ?」
 薄く開けた視界の中には誰もいなかった。
 見知らぬ白い部屋に、青峰は上手く回らぬ頭を必死に動かして周囲を探る。緩徐に眼球を動かし、ここは病室なのだろうかという仮定を浮かべる。健康優良児である青峰は入院するようなことは今までなかったが、肘を痛めたときに通っていた病院はまさに今いる場所のような雰囲気であったはずだ。
 だが、仮にここが病室だとして、どうして己がここにいるのかがわからない。
 ひとまず体を起こして周囲を散策しよう。
 そう思った。
 何の疑問も持たずに。
「――――あ?」
 体が動かない。痛い。そして、何かが足りない。
「……は?
 な、んで……?
 おれの、て……?」
 右手はギプスで固定され、左は肘から先がない。
 これではボールが触れない。投げれない。ドリブルもできない。ブロックだって、スティールだって、パスだって、何もかも、できない。
 ぐるぐると巡る思考と、それに連動するかのように動き始めた胃は、強烈な吐き気を青峰に与えた。
 吐く、そう感じたときに、青峰はここにいたる経緯をぼんやりと思い出した。そうだ、あれは、と静かに落ちる意識の狭間で、青峰は自身の叫び声を聞いた。気が違ってしまったような音だった。
 次に目が覚めたときには両親がいた。
 グレていたときも静かに見守っていてくれていた彼らは、青峰の生を心から喜んでくれた。一生、眠ったままだったらどうしようかと思った、と優しく抱きしめ、涙を流してくれた。とても良い両親だ。青峰は目を閉じ、暖かさを受け取る。それだけだ。青峰は泣かなかった。もう喚くことも、取り乱すこともしなかった。ただ淡々と受け入れ、医者の言葉を聞き、また一つ受け入れた。
 傷害事件ということで事情聴取のため、警察が青峰の病室にきたときでさえ、彼は何一つ取り乱しはしなかった。
「犯人の顔とか、覚えてる?」
「……覚えてねぇッス」
「心当たりは?」
「ない」
「何人だったとか」
「すんません。わかんねーッス」
「そうかい。
 まあ、まだ混乱しているだろうしね。
 もしも何か思い出したら、いつでも連絡してくれよ?」
「はい」
 何も覚えていない、わからないという青峰に警察官は優しくしてくれた。事件の直後は記憶を上手く掘り出すことができない被害者も多いのだという。青峰のようなスポーツマンであるならば、ショックはなおさらに大きいだろうと判断してくれたようだ。
 その後も面会には様々な人間がやってきた。
 京都から足を伸ばしてやってきた赤司は青峰の様子に唇を噛んでいた。中学時代から青峰を見てきた彼からしてみれば、己よりもバスケの才に愛された青峰の現状が悔しくてしかたないのだろう。同時に、どうにもしてやれぬ己の無力感を憎んだに違いない。伊達に主将を張っていた男ではないのだ。意外と情に厚く、予想を上回る責任感を持つ男なのだ。赤司という男は。
 同じく遠方、場所は真逆ではあるが、秋田からやってきた紫原も似たような様子だった。違っていたのは、己の無力感を噛み締めるよりも犯人に対する激昂を見せたところだ。精神が幼い紫原は現状に駄々をこね、犯人がわからぬという青峰に憤りを吐いた。付き添いとして共にきていた氷室に落ち着けと物理的な説得を与えられなければ、看護婦によって強制退場を食らったことだろう。
 仕事の都合も何もかも全て放って駆けつけた黄瀬の顔は、モデル生命を危ぶまれるようなものであった。悔し泣きのような絵になる泣き方ではなく、情けなく眉を下げ、絶望と悲壮感をまぜこぜにした顔で青峰が横たわるベッドの隣に崩れ落ちた。弱々しくすがるようにそっと掴まれたシーツはほんのわずかにしわが寄っただけだった。
 同中仲間の中ではもっとも遅くに来たのが緑間だ。お前が最後だった、と青峰が告げると、そうか、とだけ返してきた。同じ東京に住んでいるのに冷たいことだ、とは言わなかった。緑間もそのことに対して何かを言うことはなかった。むしろ、緑間は何も言わずに青峰の隣に座っていた。長い時間が経った後、彼は「早く退院しろ」とだけ告げて病室を出た。彼なりの激励であったことは伝わってきた。何があっても、自分達は仲間である、とでも言いたかったのかもしれない。
 そんな風に、人が入れ替わり立ち代りやってくる日々の中で、ただ一人、身内でもないのに毎日やってくる者がいた。
「おはようさん」
「……あんた、またきたのかよ」
 桐皇学園バスケットボール部元主将、今吉翔一。青峰を桐皇に引き入れた立役者の一人だ。
 大学に入学して間もないはずの彼だが、青峰が入院して以来、欠かすことなくここを訪れている。噂で聞いた程度ではあるが、今吉が入学した大学は自主休校をしていて単位が取れるような場所ではないはずだ。
「またきたで。
 明日も、明後日もくる予定や」
「暇なのか?」
「いいや?」
 暇かと聞けば否定が返ってくる。しかし、足を運ば日はない。
 面会に毎日きているとはいえ、そもそもがバスケ部という繋がりしかない二人だ。思考の仕方も、年齢も、何もかも違う。繋がりであるバスケでさえ、プレースタイルという面を見れば全く違っている。そう会話が続くはずもなく、大抵は今吉が無言で雑誌を読んでいたり、時々ふっと高校時代について二、三の言葉を交わす程度の時間だ。
「なあ、青峰」
 だが、今日という日はいつもとは違うらしい。
 声をかけられた青峰は軽く首を傾げる。
「面会の客もだいぶ落ち着いたやろ?」
 青峰は頷く。
 今吉がいる間に面会の者がきたときもあった。そんな時、人の心を読む妖怪である彼はそっと席をはずしていた。それはきっと、青峰のことを思ってではなく、彼の様子を見てしまった客人のためだった。
 最早、栄光とは程遠い姿になってしまった青峰を見て、客人は誰もが絶望と悲しみを抱く。それは、その状況に堕ちた青峰よりも悲壮に見えるときすらあったほどだ。
「ワシな、おかしいと思うねん」
 腹の読めぬいつもの笑み。
 きっと本心では笑っていない。
 だからといって、怒っている、悲しんでいる、とも言い切ることはできない。漠然と、本心と腹の中は違うのだ、と青峰の直感が囁くだけ。
「みんな、お前のこと生きとるみたいに言いよる」
 青峰は黙って今吉を見つめた。
 そこに驚愕や怒り、悲しみ、そういった、およそ感情めいたものは何一つ浮かんでいない。
 何せ、そこにいたのは死体だったのだから、それも当然。
「傷害事件や、退院待っとるや、生きてて良かった?
 言うちゃ悪いけど、どいつもこいつも目ぇ、節穴やわ」
 今吉の手が青峰の頬に伸びる。
 触れ合った部分は体温が混じりあい、柔らかな暖かさを生み出す。本来、それは生の証であるはずだった。
「お前がバスケ奪われて、生きてられるはずないのになぁ。
 とうに死んでしもうてるのになぁ」
 桃井からの連絡を受けて、初めて青峰の病室にきたときのことを思い出す。
 正直、予想はしていたのだ。バスケが強すぎて周囲に敵がいないことに苦しむような繊細な心を持った人間が、それでもバスケを嫌いになりたくないと声にならぬ声で叫んでいた男が、物理的にバスケを奪われて生きていられるはずがないのだと。
 病室で目を開け、人間のように言葉を紡ぐ青峰の目を見て、今吉は予想を確信に変えた。
 こいつは死んでしまったのだと。
 心が、魂が、死んでしまっている。
 もはや何かをする気力もなく、生を喜んでくれている人間に、本当は死んでいるんだよ、ということも告げずに、ただ黙って青峰は死んでいた。
「ほんまは覚えとんのやろ?
 お前をそないな目に合わせた奴」
 わずかに人間らしい反応を青峰が見せた。動揺。それを見逃すサトリではない。
「死人に口なし。
 今更そいつらが裁かれたところで、お前はなーんにも嬉しないもんな。
 腕も足も、もう戻らんねんから」
 頬に触れていた手が徐々に下がり、青峰の肩におかれる。
 そうかと思えば、今吉の顔が近づいた。
「――――」
 耳元で囁かれた名前に、青峰の体が目に見えて揺れた。
 感情の灯っていなかった瞳に驚愕が浮かぶ。
「どうや?」
「な、んで……?」
 今吉の口から出た名は、青峰を現状に追い込んだ輩のものだった。無論、青峰はそのことを誰にも告げていない。加害者である彼らもそのことを吹聴するような馬鹿ではないだろう。
 この病室で目が覚めたとき、青峰は全てを思い出していた。けれども、それを口にすることはなかった。何故ならば――。
「自分、ワシを見たとき、ちょっと目ぇそらしたから。
 せやから、犯人は桐皇の人間なんやろう、思ったんや」
 犯人は、仲間であるはずの、桐皇学園バスケットボール部の者だったのだ。
「ワシが気づいてるとは思わんかったやろ?
 さりげなく、バスケ部のモンらの名前出しとることも、気づとらんかったやろ?」
 桐皇生が犯人である、と勘付いた今吉はすぐに犯人の特定に乗り出したのだ。しかし、桐皇のバスケ部には多くの部員がいる。OBである今吉が全員に違和感なく犯行時間のアリバイについて聞くことなどできない。結果、今吉は犯人にアプローチをかける方法を切り捨てた。
 犯行に及んだ人間を知っているのは、加害者だけではない。被害者も知っているのだ。それも、単純で感情も思考もわかりやすい被害者。死体となって口を閉ざしてはいるものの、体はまだ生きている人間。相手の心を読むに長けた今吉ならば、造作もなく情報を引き出せた。
「自分な、そいつらの名前出したときだけ、明らかに反応が違ってたんや。
 ちなみに、昨日でバスケ部全員の名前は出した。
 反応があったのは全部で五人。袋にされたんか」
 薄く開いた今吉の眼光が死んだ青峰を射抜く。
「……おれは」
 青峰が唇を噛む。
 可哀想なほどに震え始めた彼の体を今吉は強引に引き寄せ、抱きしめる。
「おれは、べつに、てんさいになりたかったわけじゃねーんだ」
 声が震えていた。死んでいた人間が、この瞬間だけは息を吹き返している証。生きた人間であるからこそ、感情を持ち、言葉と涙を零す。きっと、目が覚めてから初めての涙だ。それを見ないように、今吉はさらに強く青峰を抱き寄せる。
「あいつら、おれのこと、てんさいだって、てんさいはいいよなぁ、って」
 知っとる。今吉は心の中で呟く。
 凡人が天才を妬む気持ちも、青峰がそれに傷ついていたことも、今吉は知っている。けれど、こんなことになるなんてことは知らなかった。
「れんしゅう、ちゅう、とかも、ねちねちねちねち言ってきや、がるから……。
 あの日、かえり、にあって、で、また……おまえなんて、てんさいのくせに、まけたくせに、って……」
 青峰からしてみれば理不尽な感情だっただろう。
 ぶつけられたところで、どうにもできないことなのだから。そして、それは加害者である彼らも同じだったのだ。理不尽すぎる強さを前に、何もできない弱者。その気持ちも青峰はおぼろげに理解していたのだろう。だから、己が傷つけ、道を誤らせてしまった仲間のことを誰にも言えなかった。
 殺された青峰の方がずっと辛かったはずなのに。己はもう死んだのだから、と押し込めたのだろう。
 そんな青峰の辛さが混ざり合う体温と共に伝わってくるような気がして今吉も涙を流す。
「だから、おれ……。おれ、おれだって、すきで、さいのうなんてもった、わけじゃねーって。
 こんなもん、ほしくなかったって……。
 そしたら、したら……あぁ……」
 脳があの日のことを呼び起こす。
 まるで時間が戻ったかのようだ。
「なら、いらないよなって!
 ばすけできなくて、いいんだろって!」
 そんなつもりではなかった。
 バスケの才能はいらなかった。しかし、バスケはしていたかった。
 青峰がしたかったのは、圧倒的なバスケではなく、誰かとするバスケだった。
 仲間も敵も誰も彼もが対等で、切磋琢磨し合い、喜んだり悔やんだり、そうしながらもどこかの誰かと肩を並べてボールを持っていられる。そんな、ありふれたバスケをしたかっただけだ。
「こんな……こんなこと……」
 望んでいなかった。
 かすれた呟きが今吉の耳に届く。
「バスケしてな、生きてられへんのにな」
「……あぁ」
 思い出す。
 青峰が才能などいらないと叫んだときの加害者達の顔を。怒りと苦しみと絶望がでたらめに心に放り込まれた者の顔。いらないのだろうと叫んだ悲痛な声。折られる腕、潰される腕、蹴られた腹、踏みつけられた足、殴られた顔、曲げられた足。痛かった。体も心も。やめろと叫んだ。聞き入れてはもらえなかった。悲鳴も、慟哭も、何もかも、誰にも届きはしなかった。
 死ぬのだと思った。事実、死んだ。
 体だけ生きていると知ったとき、眠ったままの方が良かったと思った。
 改めて死になおす気力も勇気も青峰にはない。このまま怠惰に体だけが生きていくのだと思うと気持ちが悪かった。死体を相手に喜び、励ましてくれる者達に罪悪感を覚えた。
「覚えとるか?
 ワシはお前に最強を許した」
 バスケ好きを叩き潰し、ただただ勝つだけの青峰を今吉は受け入れた。それでいいのだと肯定した。それを望んでやると言ってくれた。荒んだ中学時代でバスケを辞めずにいられたのは、彼のおかげだった。
「せやから、ワシはまた許したる。
 死んだままでええよ。生き返ってくれるんやったら、それはそれでええねんけど」
 青峰は今吉にだけは罪悪感を抱かない。何故なら、今吉は一度だって生きていて良かったとは言わないから。戻ってこいとは言わないから。ただ隣にあってくれたから。
 いつだって、何をしたって、結果がどうなったって、今吉だけは青峰をそのまま受け止めた。勝っても、負けても、バスケを恐れても楽しんでも。
「今度もまた、ワシはお前を助けてやられへん。
 でも、やっぱり傍におるくらいはできるし。
 なんやったら、その体が死ぬまで一緒におったる。いや、おらせて欲しい」
 抱きしめたままで、今吉は今後の人生プランについて述べていく。
 大学を卒業したら弁護士になるのだと。それで青峰を養うくらいの金は得てやると。家事など青峰がする必要はない。今吉が何もかも全てする。青峰はただ今吉が隣にあれるように存在してくれていればいい。その許可も手段も今吉が得てやる、と。
「なんで……?」
 到底理解の及ばぬ考えだった。
 死体を隣において、今吉に何のメリットがあるというのか。結婚どころか恋愛すらまともにできぬような有様になってしまうのは目に見えている。極普通の幸せも家庭も放り投げるほど、自分という死体に価値があるとは思えない。
「知らん」
 今吉はハッキリと答えた。
 自分でも理由がわからないのだと。
「でも、まあ、たぶんやけどな」
 青峰の体を引き剥がし、互いの目を見る。
 どちらの目も赤くなっていた。
「好き、っちゅーことちゃうか」
「は?」
「ワシも、こうなるまで自覚なかったんやけどな」
 いつも通りの腹の読めない笑み、ではない。
 今吉は照れくさそうに笑っていた。
「安心せぇ。もし、お前に飽きるようやったら、そん時は体のほうにもトドメ刺したる。
 どう転んでも、自分は楽になれる」
 簡単に吐き出される殺害予告も、今の青峰からしてみれば甘美な蜜だ。
 思えば今吉が主将であったときから、甘やかされ続けていた。再び、どろどろとした甘さの中に身を投じるのも悪くはない。どうせ死んだ身だ。生きた者に処理を頼むことしかできない。
「物好き」
「それは自分をスカウトしに行ったときから自覚あったわ」
 今吉は再び青峰を抱きしめ、優しく背中を叩いてやる。
 心地よい温もりとリズムが青峰を包み、ゆるりゆるりと眠りの世界へと誘う。
「眠っとき」
 甘さを含んだ低い声を最後に、青峰は意識を眠りの沼に沈めた。
 しばらくはそのままの体勢を保っていた今吉だが、青峰が完全に眠ったことを確認すると、彼の体をそっとベッドに横たわらせる。まだまだ痛々しい体。失われた左手を見て眉をひそめた。
「ワシはな、復讐を肯定しとる人間なんや」
 短く柔らかい青峰の髪に触れる。
 コートを駆け抜けるときに揺れるこの髪が好きだった。走る足が、投げる手が、何もかもが愛おしかった。
「死んだ人間のためとちゃう。
 残された、憤りを解消でけへん者のための、エゴにまみれた復讐」
 今吉は鬱蒼と笑った。
「自分が守ろう思た、自分が悪いんやからしゃーない、生きとるモンに害加えたない思た連中、悪いけど、ワシは許されへん。
 たぶん、自分は怒るやろうけど、すまんのぉ」
 今はまだ直接何かができるというわけではない。
 妖怪と噂されていたところで、今吉はただの人間だ。赤司のように権力を持った家庭にでも生まれていればやりようはあったかもしれないが、今吉は極平凡な家庭の生まれ。人を物理的に殺すことも、社会的に殺すこともできない。
 だが、いつか訪れる未来のための布石ならば打てる。
 そのいつかを恐れ、怯えて一生を送らなければならないように口を使うことならばできる。
「目には目を。
 殺されたなら、そいつらも死ななあかんよなぁ?」
 死には死を。
 あるいはそれに通ずる苦痛を。

EN...









 今吉はずっと疑問に思っていたことがあった。
 誰もが青峰を指し、バスケの神に愛された人間だという。だが、それは事実なのだろうか。
 確かに、青峰は常人にはたどり着けない域の能力を持っている。その直感的によって相手を翻弄するセンス、しなやかでいて力強い肉体、容易くゾーンを開く才能。どれか一つを手に入れることすら、そこいらの人間では一生を費やすことになりかねない。
 バスケに必要な何もかもを与えられている。そう見えるだろう。けれども、それを思うのは、青峰の表面しか見ていない人間だ。
 青峰はバスケを愛している。彼にはバスケの他にも好むものがあったが、何を一番愛するのかと問われれば、何の疑問も抱かず、バスケ、と答えただろう。今となっては、その素直な言葉を聞くことはできないのだろうけれど。
 そう、ただ素直に、真っ直ぐバスケを好きだと言えていた青峰はもういない。そんな彼を見て、優れすぎた才に胡坐をかいているのだと口汚く罵る者も少なくはない。
 そんな愚かな人間は頭を捨ててしまえばいいのに、と今吉はいつも思う。表面しか見れぬ目も、使わぬ頭も、鋭い刃と化す言葉を吐き出す口も、何もかも奪ってしまいたくなる。
 一見、何もかも持っているように見える青峰だが、その実、彼は多くを持っていなかった。
 切磋琢磨し合い、共に高みを目指すライバルがいなかった。
 彼の苦悩を払拭してくれる大人がいなかった。
 孤高に耐えられる心を持っていなかった。
 安寧の地を持たなかった。
 後世にまで名を残すような人物というのは、突出した才能を持っていただけではない。それにふさわしい場を与えられ、相手を与えられ、心を与えられる。
 だというのに、青峰にはどれも与えられなかったのだ。
 真に神が青峰を愛しているのだというのならば、一つくらいは与えてやるべきではないのか。
 例えば、キセキと呼ばれた五人がバラバラの中学にいたのならば。いいや、青峰一人だけでも別の学校に在籍していたのならば、きっと青峰は容易すぎる勝利など手に入れずにすんだ。
 例えば、周囲の大人がもっと積極的に青峰に触れ、特別扱いをせずに諭してくれたならば、青峰の心は孤独に凍ることはなかった。
 例えば、青峰自身の心が、ただ傲慢で、弱者を潰すことに快感を得るようにできていたのならば、痛む胸を押さえてうずくまる必要はなかった。
 どれも、何も与えぬ神は、まるで青峰を苦しめるためにそうしたかのように見える。
 バスケを愛す青峰に才覚を与え、同じように才能ある者を周囲に集め、一時の楽しさを彼に教え込む。そうして、突き落とすのだ。
 せめて、せめて才能を一番初めに開花させたのが青峰でなければ、心に与えられる重圧は少しはマシになっていただろう。前例を目にしているのと、何の予備知識もないままに孤独へと追いやられるのとでは、天と地ほどの差がある。
 何も考えず、ただバスケをしていただけの青峰からしてみれば、己の才能と、それによって引き起こされた周囲との距離感は、青天の霹靂といえるものだったはず。
 わけもわからぬまま放り出され、放置され、罵られる。
 たかだか中学生の子供が、それに耐えられるはずもない。
 神に愛されていると声高に叫ばれ、その反面、本当のところは神に嫌われているであろう子供を今吉は拾うことにした。
 いるのかも知れぬ神が青峰を嫌っていようとも、その力は本物であったし、弱さを隠して懸命に己を引き摺り下ろしてくれる人を待つ青峰の健気な姿は悪くなかった。
 そうして、一年と少しが経ち、今吉は確信した。
 やはり、青峰は神に愛されてなどいなかったのだ、と。
 一人に凍えながらも、バスケを捨てることができなかった青峰。それを救いだしてくれた元相棒。これから、青峰はまた暖かなところでバスケをしていくはずだった。幸福が待っているはずだった。
 そんな人間が、どうして自由な手足を失わなければならなかったのか。神に愛されているというならば、加護の一つや二つあるべきだろう。
 病院のベッドで横たわる青峰を目にし、今吉は歯軋りをした。
 バスケの神とやらは、どれだけ青峰を憎んでいるというのか。一度上げて、落として。それだけでは足りないとばかりに再び持ち上げて、次はどこまで行っても暗闇しか残らぬような地の底にまで叩き落した。
「酷い話やと思わん?」
 今吉はにっこりと笑う。
 薄く開かれた瞳には憤怒の色を乗せて。
「ワシはな、青峰を憎んどる神も嫌いやけどな、そないな抽象的なモンに文句言ったってしゃーない。
 せやからな、この現実世界で、確かに形のある加害者がおるんやったら、そいつらに復讐したい思うんも、納得できるやろ?」
 そう述べた今吉の前には、五人の男がいる。どいつもこいつも見知った顔だ。
「でもな、ワシはただの大学生やし。自分ら殺しても完全犯罪とか無理やし、社会的に抹殺とかも……まあ、難しいわな」
 言外に不可能ではないことを告げられ、年甲斐もなく目に涙を浮かべる。彼らもまだ十代の子供だ。命を落とすことは勿論のこと、社会的に抹殺されるのだってご遠慮願いたい。
 青峰に謝れというのならばそうしよう。土下座でも、反省文百枚でも、何でもしよう。そう思えるほどの迫力が今吉にはある。
「だからって自分らのことを見逃したるわけにもいかん。
 ……なあ、ずっと、ずぅっと覚えといたってな。青峰に何したんかを」
 どんな風に殴ったか。蹴ったか。傷つけたか。呻き声も、懇願の声も、怯える瞳も、絶望の色も。何もかも忘れてはいけない。忘れさせなどしない。
 男達は必死に頷く。
 元より忘れられるはずもないことなのだ。
 一時の激情に任せて行ったにしては、その行為が人の道を外れている自覚があった。あの日、青峰を踏みつけた感覚が、骨が折れた感触が、苦痛を訴える声が、言葉が、耳に手に足に頭にこびりついて離れない。
 きっと、自分達はこの罪を背負って一生を過ごすのだと、あの日からずっと怯えたままだ。
「ワシが社会的に力をつけたとき……。
 そん時の様子やワシの気持ち一つで、下す罰を決めたる。
 精々、それまで無駄に生きとるんやな」
 脅しは充分、と今吉は腰を抜かしてしまっている男達に背を向けた。
 この先、今吉がどの程度までの地位を築けるかはわからない。そもそも、数十年先でもまだ、今と同じ憎悪を抱き続けていられるかもわからない。けれど、今日の脅しがあれば、加害者達は未来永劫苦しみ続けることになるはずだ。
 今吉が男達のことを忘れてしまったとしても、死んでしまった青峰が彼らの顔を忘れてしまったとしても、奴らは己で己を傷つけ続けてくれる。
 そのことを考えるだけで、今吉は笑いがこみ上げてくるのを感じた。
 けれどまだ足りない。今、彼の腹の中に宿っている憎悪は、あの程度では足りないと叫んでいる。
「わかっとる……。
 でも、それは機が熟してからや。
 今のままじゃ何もかも足りん」
 鬱蒼とした笑みを浮かべたまま、今吉は空を見上げる。
 忌々しいまでに澄んだ青空。そこに浮かぶ真っ白な雲の上には、青峰を毛嫌いしている神とやらが住んでいるのだろうか。
 今吉は存在しているのかもわからないようなモノに縋ったことはない。形式的な参拝くらいならばしたこともあるが、それ以上の思いを向けたことはなかったし、進んで否定するつもりも毛頭なかった。
 だが、今は違う。
 神というモノの存在を認め、その上で否定してやるのだ。
 天に向かって唾を吐けば己に返ってくるだろう。それでも吐いてやる。
 神が青峰を捨てたというのならば、やはり今吉はそれを拾うのだ。バスケができるかは関係ない。もはや今吉にとって「青峰」という存在は大きくなりすぎている。今更欠くことなどできない。
 何より、今吉もバスケが好きだった。己以上にバスケを愛している青峰に好感を抱かぬはずがなかった。
 ここまで神にこき下ろされたとしても、青峰はバスケを愛することをやめはしない。それどころか、バスケができなくなった己に絶望する始末だ。
 青峰がバスケを愛している限り、今吉は青峰を愛してやるのだ。
 愛を返してもらえなかった哀れな少年に、愛を与えてやる。同時に、純粋なまでの愛情しか知らぬ彼に代わって、愛を返してくれぬ神を憎み、恨み、非難してやる。



 ――今吉の耳に、甲高い音が聞こえてきた――







 白い病室の中、青峰は人を待っていた。
「今吉さん、おっせーなぁ」
 毎日毎日、飽きもせずにここへ訪れていた人の名を呟く。
 普通ならば一日くらい顔を合わせない日があっても気にすることはないのだけれど、昨日の今日だ。あの男がこないはずがない。
「ずっと一緒にいさせてくれ、って言ってたくせに」
 青峰は視線を横に滑らせ、窓の外を見る。
 雲がちらほら見えているものの、見事な晴天だ。この空の下でバスケをすれば、さぞ気持ちの良いことだろう。
 そんな風に思って、青峰は目を伏せる。
 自分にはもう縁のない話なのだ。もう二度と、飛べやしないし、伸ばせやしない。心が欠けてしまった。生きながらにして死んでしまった。何もかもが虚無に覆われた。
 それでも、今吉は傍にいると言ってくれた。
 中学時代と同じように、手を出してくれた。
「……早くこいよ」
 神と呼ばれる存在が、全知全能の力を持っていたのだとすれば。
 きっと知っていたのだろう。
 青峰の瞳に、わずかではあるが生気が宿っていたことに。そうして、今吉と時間を過ごすことで、少しずつではあるが確実に、青峰は息を吹き返すのであろうことを。
 バスケを奪うだけでは足りず、心を殺すだけでは足りず、未来永劫の死と苦しみを青峰に与えるためならば、神というのは手間も誰かの命も惜しまぬらしい。

END