一匹の黒猫が道端で倒れていた。それを見つけてしまったのは、ある種の運命だったのかもしれない。
「剛くん……」
 黒猫を抱き上げたミーは剛にその黒猫を見せた。
 まだ小さな体。おそらくまだ大人になっていないのだろう。しかも、体は雨に濡れ冷たくなっており、ろくな物を食べていないのか体は異常に細かった。
 ミーはこの黒猫をどうしても助けてやりたかった。
 小さくて、弱くて、今にも死にそうな黒猫が、昔の自分と重なってしまったから。自分が剛と出会い、新たな道を歩み始めたように、この黒猫にも新たな道を示してやりたいと思ってしまった。
「…………ミー君は、助けたいの?」
 剛がミーに尋ねた。ミーは静かに頷いた。
 昔の剛ならば自分にそんなことを聞かなかったとミーは心の中で思った。
 昔、そう始めて自分と出会った時の剛ならば、何も言わず自分の意思でこのか弱い命を助けただろう。いつからか、剛は変わってしまっていた。
「なら、サイボーグ兵の一匹にしよう」
 誰に言うでもなく、剛はそう呟いて研究所に向かった。その腕の中には今にも死にそうな命がある。
 ミーは剛の後に続いて研究所へ向かう。あそこには昔剛が救った猫達がいる。そして、剛が無理矢理救った猫達もいる。
 変わっていく剛にミーは何も言えなかった。心の中では剛が間違っていると知りながらも、ミーにはそれを正す勇気がなかった。剛の言うことは正しい。剛のやることは全て正しい。そう心の中で何度も呟いて剛の所業を見続けるしかない。
 研究所にはたくさんのサイボーグ兵がいる。その中の四匹は昔の剛が救った猫。他のサイボーグ兵はその辺りで死にかけていた猫や、平凡な日々を満喫していた猫。
 剛はもう手段を選ばなくなっていた。まだ重罪と呼ばれるようなことはしていなかったが、剛の夢である『世界征服』を達成するためならば人間の命さえも簡単に奪うだろう。
 せめて、剛自身の手を血で染めさせないためにミーはここにいる。いざという時は自分が血で染まればいい。ミーはそんなことばかり考えていた。
 拾った黒猫の手術をミーは手伝った。
 手術をしてわかったことはやはりこの猫はまだ子猫だということと、人間たちに酷い扱いを受けてきたということだけだった。
 おそらく道を歩いているときにでも人間に暴力を振るわれたのだろう。痛々しい傷が体中に残っていた。ただ、最も痛々しい傷は頭の噛み傷であり、これは猫同士の争いだったと見られる。
 こんな子猫を相手にここまでの傷をつける奴がいるのかと思うとミーは腸が煮えくり返った。母猫を殺されたときを思い出しそうで、ミーは思わず拳を握った。
 剛の方は体中に残る傷痕を見て、やはり人間と猫の間には壁があると核心した。
 数時間に及ぶ手術が終わり、後は子猫の生命力に賭けるしかなくなった。
 正直なところ、ミーはダメかもしれないと思っていた。小さな子猫の体。しかも体力は落ちており、今にも死にそうだったのだ。そんな子猫が数時間の手術に堪えきれたことが既に驚きだというのに、目覚めるような力がこの小さなこの体に残されているわけがないと思っていたのだ。
 だが、子猫は予想以上に強い生命力をミーに見せつける。
 子猫は起き上がったのだ。ゆっくり辺りを見回し、自分の体を見て大きく目を見開いた。ミーには子猫の気持ちがよくわかった。自分も始めはそうだった。ただ、驚きよりも剛を助けなければという気持ちの方が大きかった。
「………に……った」
 子猫は小さく何かを呟いてミーの目の前まで二足歩行で歩いてきた。
「だ、大丈夫か……?」
 ミーが子猫に尋ねる。
 始めての二足歩行のはずなのに、楽々と歩いている子猫に疑問を抱きつつもミーは子猫が意識を取り戻したことが嬉しくてしかたがない。
「あんたが、助けてくれたのか?」
 子猫は感情のない声で尋ね返す。
「え……。ま、まあそうとも言えるかな……?」
 実際に助けたのは剛だが、剛に子猫を助けるよう促したのは確かにミーだったので、ミーは肯定する。
「…………そう。助けなきゃよかったのに」
 やはり感情のない声で子猫が言う。
 ミーには子猫の言っている意味がよくわからなかった。ただ、助けられたのに、お礼の一つも言えないのかとだけ思った。
「一応言っておくよ。ありがとう」
 子猫は一言お礼を言って研究所から出て行こうとした。
「待てよっ!」
 まだ体は全快じゃないはずだというのに、一体何を言い出すのかとミーが子猫を止めようと肩を掴んだ。
「――離せっ!!」
 瞬間、ミーの手は強い力で払われた。小さな子猫の体のどこにこんな力があるというのだろうか。
 子猫は怯えるような、怒っているような、奇妙な感情を瞳に映してミーを見据える。
「オイラに……触る、な……!」
 幼い体だが気の強さだけは大人の猫と変わらないらしい。子猫は強い口調でミーを拒否する。
「ミー君……?」
 二人の声に気づいたのか剛が隣の部屋からやってきた。
 子猫は剛の姿を確認すると強く睨みつけた。どうやら人間を警戒しているようだ。
「目覚めたのか」
 剛は信じられないというような目を子猫に向ける。剛もまさかあの子猫が目覚めるとは思っていなかったのだ。
「あんた……誰……?」
 子猫は警戒を緩めず剛に問いかける。
 剛は子猫の好戦的な目が気に入った。体はまだ小さいが、この猫はすぐに他のサイボーグ猫を追い抜くだろうと直感したのだ。
「わしは剛だ。世界征服を企む者。そしてお前にはその手伝いをしてもらう」
 ニヤリとした笑みを浮かべた剛は子猫の腕を掴もうと手を伸ばした。
「待って剛くん!」
 しかし、剛の手をミーが止めた。
 何故止めるのだろうかと剛がミーを見る。
「この子はまだ子供なんだよ……? もう少し、時間をあげてもいいじゃない」
 剛は驚いた。今までミーが剛を止めたことはなかった。いつもミーは黙って自分についてきてくれていた。いつの間にか、それが当然だとさえ思っていた。
「わがままだとは思うよ……。でも、でも……!」
 苦悩するミーを見て剛は昔のように微笑んだ。
「いいよ。ミー君がわがままを言うなんて滅多にないことだもん」
 ミーは剛に昔の剛の影を見た。人間、本質はそうそう変わるものではないのだ。剛は変わってしまったと思っていたが、根本的な部分は変わっていなかったのだ。ミーはそれが少し嬉しかった。
「ありがとう」
 ミーは剛にお礼を言って、子猫の方へ向きなおった。
「君、名前は?」
 とりあえず、名前がわからないというのは色々不便なので、ミーは子猫に名前を聞いた。
「…………」
 だが子猫は答えない。ただ黙ってミーを見るだけ。その瞳に浮かんでいる感情はあまりにも複雑すぎて、ミーは子猫の感情に名をつけることができなかった。
 子猫はすぐにでもここから出ていきたかった。どこにいても同じだが、誰かがいるところにはいたくなかった。助けてもらっても、その相手を不幸にすることしかできないのなら、助けて欲しくなんてなかった。
「……困ったなぁ」
 名前を教えてくれないと呼ぶこともできない。子猫に心を開いてもらう第一歩は名前を教えてもらうことだというのに、これでは次へいつまで経っても進めない。
「ミー君。クロってのはどうかな?」
 後ろでミーと子猫の様子を見ていた剛が口を開いた。
「名前……。教えてくれないなら、つけちゃえばいいんじゃないかな?」
 生身のときは黒猫だったんだし。と付け加える剛をミーは褒めたたえた。
「そうだね! じゃあ君は今日からクロだよ。決まり!」
 勝手に名前をつけられた子猫だが、子猫は拒否しなかった。昔の名前は捨てたかった。新しい名前を貰えるのはある意味ちょうどよかったのだ。
「ボクはミー。あっちは剛くんだよ」
 ついでに自己紹介したミーだが、クロが自分達の名前を呼ぶのはまだまだ先だと予想していた。その証拠にクロはどこか遠いところを見ていた。




 クロが剛とミーのもとへ来て一週間が経った。
 剛は徐々に昔の剛へと戻っていき、ミーはそれが嬉しくてしかたがなかった。黒猫は不吉だというが、ミーにとって黒猫は吉兆の証となった。クロが来てから全てが上手くいっているように感じられるのだ。
 ただ、クロ自身はまったく変化していなかった。
 ミーの用意したご飯は口にしないし、一緒に散歩に行くこともない。他のサイボーグ猫と関わりを持とうともしない。いつもぼんやりと部屋の隅でうずくまっているだけ。
 時折目が合うが、その目には何も映さない。ある一定以上距離を詰めれば警戒したような瞳を向けるが、他の感情は見せない。
「ねぇクロ。ご飯食べようよ」
 一定以上の距離をとってミーが誘ってみてもクロは返事しない。
「どうしてクロはいつもボク達と喋らないの?」
 ミーが尋ねてみるが、やはりクロは返事をしない。
 普通の子猫は好奇心旺盛で、何にでも興味を示すのだが、クロはまったく興味を示さない。それどころか、全てを疎ましく思っているようにさえ見える。
「………………」
 何を喋るわけではなかったが、ミーはただそこにいた。クロが警戒しない距離を保ちながら、ただそこにいた。
 毎日がその繰り返しとなった。ミーは始めに少しだけクロに話しかけてそれからはずっと一定の距離を保ってクロの傍にいた。ただ、ほんの少しずつミーはクロに近づいて行った。
「別に、何も食べなくても、死なねーじゃねぇか」
 ある日、クロがミーに言った。
 始めて、クロが自分から話しかけてきた。ミーが話しかけるよりも先に、クロが話しかけてきたのだ。ミーは嬉しさのあまり小躍りしたくなったが、クロが真面目に言っていることはわかっていたので茶化すのはやめた。
「うん……。そうだよね」
 確かにサイボーグになった今、燃料であるガソリンがあれば何の問題もない。
「でもさ、生きてるって感じがしないじゃない」
 ミーは少し寂しそうに答えた。
「…………?」
 クロはミーの方を向いて少し首を傾げた。
 こういうところはまだ子供なんだと思いつつ、ミーは先を続けた。
「ボク達は生身じゃなくなったけど生きてるんだもん。生きてるって、実感してたいじゃない」
 ミーの言葉にクロはそう。と軽く返した。
「…………ボクはね、剛くんに命を救われたんだ」
 今ならばいろんなことを話せる気がした。今のうちに少しでも距離を詰めて置きたい。明日になったらまた昨日と同じようにただ黙っているしかなくなるかもしれない。
「お母さんが殺されちゃってさ……。剛くんは優しいからお母さんのお墓を作ってくれた」
 少しクロの反応を横目で見るが、クロは特に何も反応してなかった。ただ、聞いているということは確かだった。
「ボクがお母さんの仇を打とうとして、逆に殺られやったとき、剛くんはボクをこの体にしてくれた。始め、ボクが目を覚まさなかったから剛くんはボクの仇をとろうとしてくれたんだ」
 話していると、今まで忘れていたようなことも思い出す。あの時から自分は剛の右手になったんだとミーは思い出していた。
「それからボクはずっと剛くんと一緒。ボクと、剛くんと、鉄人……」
 ミーの体には未だ鉄人の部品が組み込まれている。ミーの最も深い部分は鉄人でできているのだ。
「オイラは…………」
 クロが口を開いた。ミーはまさかクロが自身の過去について話してくれるなどとは微塵も思っていなかったため驚いたが、それ以上にクロの次の言葉に驚かされることとなった。
「死にたかった」
 見ているこちらまで胸が締め付けられるような思いつめた表情でクロは言ったのだ。まだ幼い子猫が。
「オイラの過去なんて、ろくなもんじゃない」
 死にたかった。死んで全てが清算されるなんて思ってはいなかったが、解放されたかった。クロは小さく呟いた。
 そういえば、クロが目覚めたとき何か呟いていたのをミーは思い出した。もしかすると、あの時クロは『死にそこなった』と言ったのではないだろうか。
「過去なんて、なければ、よかった……!」
 強く握り締められた拳からは血は流れない。だが、電流がスパークする音が聞こえる。
「オイラなんて、いなければ――!」
 クロがそれ以上何かを言う前にミーがクロの頬を叩いた。
 体格的にもミーの方が圧倒的に有利で、小さなクロの体は少し横に張り飛ばされてしまった。
「そんなこと、言っちゃダメだよ……」
 ミーの悲しげな声にクロは驚いた。
「クロが生まれなかったら、クロは誰とも出会えなかったんだよ?
 クロに過去がなかったら、クロは誰とも出会えなかったことになるんだよ?
 クロは……大切な人がいなかったの? 大切にしてくれる人がいなかったの?」
 ミーの問いかけにクロは首を振った。
 あの仲間達に出会えなかった時のことなんて考えたくない。一時とはいえ、楽しくて、幸せだったあの時間がなかったことになるなんて嫌だ。
 大切な人はいた。大切にしてくれる人もいた。その全てを自分は不幸にしてしまったけど。
「オイラは――」
 関わった奴を不幸にする。と言いかけてクロはやめた。
 目の前にいる猫にそれを言ってどうする? 不幸にしてしまうから関わるなとで言うのか? いや、それは逆効果だろう。目の前にいる猫はきっと不幸にならないよなどとほざいて近寄ってくる。
「オイラは、過去なんていらない」
 全てを否定してやろう。近寄りたくなくなるようにしてやろう。
 幸い、自分の過去を知っている猫はすべて死んでいるのだから、過去を捨てても問題はないとクロは考えた。
「クロっ!」
 全てを捨てると言ったその目に嘘はなかったが、ほんの少し、ためらいの色も見せていた。
「わかっただろ? オイラはこーいう奴さ」
 一度決意してしまうと後は楽だった。
 そう。嫌われ者になってしまえばいい。誰も不幸になんてしない。大切な人なんて作らない。もう、あんな風に傷つくのは嫌だから。
 クロの心の奥底で、何かが『臆病者』と叫んでいたが、クロはその声を無視した。
「そうさ。オイラは臆病者さ……」
 小さく、誰にも聞かれないようにクロは呟いた。いや、クロは囁いていた。自分の心の奥底にいる誰かに。


END