一日の授業が無事に終わり、鈴木のクラスも解散した。
 元気のいいさようならという声が響くと同時に、楽しげな子供達の笑い声と話し声が廊下に響く。相変わらず元気のいい子供達の姿に、鈴木は思わず微笑む。伊達に小学生の先生をやっているわけではないのだ。
 自分も早く今日の仕事を終わらせて帰ろうと、教室の外へ足を踏み出す。
「先生」
「おや。チエコ君」
 扉の横で待っていたのはチエコだった。
 大きな目が鈴木を見上げている。ゴローと一緒に帰らないのは珍しいと思った。勉強が好きでないチエコがこうして先生である鈴木を待っているというのも奇妙な感じがした。
 よほどのことがあるのだろうと、鈴木は膝をついてチエコと視線を合わせる。
「どうしたんだい」
 真剣な目をして、何度か口を動かす。だがそれは言葉を紡がない。言いにくいことなのだろうかと思い、鈴木は辺りを見回した。放課後になったとはいえ、まだ生徒は多い。廊下でお喋りをしている女子も、ボールを持っている男子も大勢いる。
「ちょっと散歩でもしようか」
 立ち上がり、チエコの手を取りながら言う。
 チエコは静かに頷いた。
 学校の裏側に行くと、流石に生徒はいなかった。日陰になっており、少しじめじめしているそこには大きな石がある。二人はそこに腰をかけた。
 何も話さないチエコの隣で、鈴木はぼんやりとまた校長に怒られるかもしれないと考えた。すぐにまあいいかと思ってしまうのは、クロ達と関わってきたがためにつちかうこととなってしまった諦めのよさだ。
「先生は」
 チエコが口を開いた。
「先生はあいつのこと、どう思ってるの」
「あいつ?」
 彼女が指している人物がわからず、尋ね返す。もしかしたらゴローのことかと思い、問いかけてみるが違うと怒られてしまった。
「クロのことよ」
「ああ、師匠のことか」
 あの黒い猫のことを思い浮かべる。
「またどうして師匠についてどう思ってるかなんて聞いてきたんだい?」
 誰について問われているのかはわかったが、何故それを聞かれるのかはわからなかった。
「だって、師匠って呼んでるわりには尊敬してる風には見えないし」
 出てきたことばに思わず苦笑いをしてしまう。それはクロ自身からも言われたことがある。鈴木にとって師匠というのは、もはや敬称ではなくただのニックネームになってしまっているのだと。
 それはとても心外なことだ。鈴木は首を横に振った。
「ボクは師匠のことをちゃーんと尊敬しているよ」
 無茶苦茶な面子も多いので、本当に尊敬しているようには見えないのかもしれないが、鈴木は確かにクロのことを尊敬していた。出会ったあの日から、その気持ちは少しも動いていない。
「どうして」
 刺すような声に驚き、そして思い出した。
 元々、チエコはクロのことを恨んでいたのだ。愛する人に恥ずかしいところを見られてしまったと言い、ことあるごとにクロに喧嘩を売っていた。時間が経つにつれ、チエコもクロに惹かれているように見えたし、ゴローとの一件で距離はさらに近付いたように見えていた。
 何があったのかは知らないが、チエコも自分がクロを恨んでいたことを思い出したのだろう。そして、今更ながらに許してもいいのかと自分に問いかけたのだろう。
「どうしてクロなの。ミー君だってサイボーグだし、強いし優しいわ」
 どうしたものかと鈴木は頭を働かせた。
 答えを出すのは簡単だ。チエコがクロに惹かれた理由は鈴木が今もまだクロに惹かれている理由と同じだろう。だが、あっさり答えを出してしまっては子供のためにならない。先生として、ここは答えを示すのでなく、答えを導かせてあげるのがいい。
「ミー君は優しいね」
 料理が好きな彼を思い浮かべながら言う。確かに彼はとても優しい。特に、恩人である剛には溶けてしまいそうな甘さを見せる。
「ええ。ゴローとだってずっといてくれたわ」
「じゃあ、師匠は優しくない?」
「……そりゃ、優しくないこともないけど」
 クロはきまぐれだ。元々が猫であるのだから当然なのかもしれない。そんな性格もあってか、クロは自分のしたいことだけをしているように見える。
「師匠だって優しいよ。わかりにくいけどね」
 自分のしたいことをしているようで、情にあつい彼は自分の身を削る。押しつけがましいわけでなく、むしろこちらが気づかないことも多い。全てが終わったあとに彼の優しさに気づくのだ。
 ミーとはまったく違う優しさをクロは与えてくれる。公平で、ときに不公平な優しさは暖かい。
「すぐに物を壊しちゃうし」
「おいおい。キミがそれを言うかい?」
「……それに、意地悪だし」
「キミにだけかい?」
 チエコは黙ってしまった。
 クロが意地悪なのは何もチエコに限ったことではない。時と場合に応じて、クロは好きなように人をおちょくる。それが彼のいいところでもある。
「でも」
「ボクは師匠を尊敬しているよ」
 どんなに頑張っても鈴木はクロになれない。人である限り、彼のように自由に生きることは許されない。また、彼のように強くなることもできない。
 圧倒的な差に嫉妬することもできない。彼のようになれたらと思ったことは何度もあった。けれど、一緒に行動しているうちにそれも馬鹿なことだと思うのだ。
 クロはクロでしかない。彼にできないことがあり、鈴木はそれを助けることができる。いつしか、それが誇らしくなるのだ。同時に、クロと時間を共にして学んだことも多い。そして楽しいのだ。退屈な人生なんて存在しないと教えてくれる。
「……あいつ、いっつも滅茶苦茶」
 ゴローの憎しみが暴走したときだって、いつも通りだった。
 あまりにもいつも通りで、楽しかった。今いる場所が非日常的な場所だと思えなくて、思わず笑ってしまうほど安心したのだ。クロがいるなら、クロがいつも通りならば安心だ。無意識のうちにそう思っていた。
「チエコ君」
 答えを出すことに不安を抱く目が鈴木を映す。
「ミー君は好き?」
 小さく頷く。
「マタタビ君は?」
「頼りになると思う」
「ナナちゃんは?」
「元気づけられる」
「剛博士は?」
「無茶苦茶だけどすごい」
「コタロー君は?」
「ゴローを助けてくれた」
「師匠は?」
「……」
 一度口を開いて、また閉じる。
 日陰の中から遠くに見える日向を見る。
「どこが嫌い?」
 この質問にもチエコは答えない。
「ゆっくりでいいよ」
 尊敬する人の全てを好きになる必要はない。好きな人だから嫌いな場所など一つもあってはならないわけではない。
「好き半分と嫌い半分。好きが少し多かったら好きでいいと思うよ」
「……うん」
 頷き、しばらく静かだったと思うと、チエコは顔をあげて目を輝かせる。
「先生ありがとう!」
 チエコは走って行く。クロのところに行くのだろう。
「足元に気をつけるんだぞー」
 手を振り返すチエコを見て、鈴木は話を聞いてよかったと思った。


END