別れはいつかやってくる。死は必ず訪れる。
それくらいわかっていた。わからない者は生きてはいけない。
だが、それが目の前に現れたとき、動じない心を持つ者は少ない。特に、死に掴まれたのが自分か、大切な人だったのならばなおさらだ。
「クロや……」
弱々しい手が差し伸べられる。
昔、この手に救ってもらったことは今でも忘れていない。彼らにとっては、なんてことのない行為だったのだろう。しかし、それは確かにクロを救ったのだ。オス猫としてそのことを忘れるわけにはいかない。なのにその手を掴むことはできない。
クロはただの猫だ。恩人の前だけでは。
「ばあさんや」
伸ばされた手とは逆の手を、じーさんが握っている。
こんなときでも二人の愛は確かだ。何も同じように布団に入り、同じように死を待つこともなかっただろう。
「クロ、トラ……」
もうろくに光も入っていない瞳が二匹を映す。
マタタビはただ静かに、クロは悲しげにその瞳を見返す。
何年、この人達と暮らしただろうか。ごく普通の猫としては長すぎる時間を共にした。普通じゃない猫としてはそうでもなかったかもしれない。
「すまんのぉ」
優しげな笑みは相変わらずだ。
きっと抱き上げる手つきも変わらず優しいのだろう。そんな想像ができるのに、二人は上半身を起き上がらせることもできない。
「ちゃんとごはん、食べるんじゃぞー」
苦しいはずなのに、それでも老夫婦は猫の心配をした。
親がこのような状況に陥っているのに、子供達は帰ってくる気配も見せない。クロとて二人の子供を見たことがないのだ。
クロは小さく口を開く。これが最後になるのならば、何か言ってやりたかった。薄情な子供に変わる言葉を懸命に探す。時間が経っても言葉は思い浮かばず、声も出ない。隠すことには苦労したが、本当のことを見せるのにも苦労する。
どうしようもない自分に、クロは頭の奥が真っ白になった。
マタタビはクロをじっと見る。自分が見つけるまでの間に、どれほどの信頼と思い出を得たのだろうか。もう少しすれば、もう二度と手に入らないものになってしまう。
生身として生きている限り、必ず寿命は訪れる。機械の体をしているクロにも、いずれ訪れるのかもしれない。だが、それは途方もなく先の話になるのではないだろうか。
「……クロや」
ばーさんの手がクロを撫でた。ナイロンでできた毛はマタタビの毛よりも固い。すぐ下にある金属の体はさらに固いだろう。
「最後に、一つだけ」
クロはじっと次の言葉を待つ。
もしもばーさんが何かを食べたいというのならば持ってくるだろう。何かが見たいというのならば、どのような手を使ってでも見せるだろう。だから、それが何なのか知るために言葉を待つ。
「クロとトラの声を聞かせてくれんかのぉ」
大きな目を見開く。
しばらくの間をおいて、ニャーと猫らしい声を出す。ばーさんは小さく笑って首を横に振った。
「わしらは知っておるよ」
じーさんが言った。
「クロもトラも、ちゃーんと人間の言葉を話せることは」
この言葉にはマタタビも驚いた。
「……嘘だ」
「おお、それじゃ。初めてわしらに向かって使ってくれたのぉ」
「そうですねぇ」
二人はとても嬉しそうに顔を綻ばせる。
「だって、オイラはちゃんと」
「ちゃんと、知っておったよ」
クロが隠そうとしていることも、クロが守ってくれていることも。
「だから、わしらは安心できた」
本当に優しい人達だ。
普通の猫でないと知りながらも、以前と変わらずに接してくれていた。クロが隠したいと知れば、知らぬフリをしてくれていた。
「いつから……」
「いつだったかのぉ?」
「さあ、どうでしょうねぇ」
クロはばーさんの手を優しく握った。細く、骨と皮だけの手は不思議と暖かい。
「でも、ずっとこうして話したいと思っていましたねぇ」
「そうじゃな」
最後の最期ではなく、毎日話してみたかった。
天気の話や、食事の話でもいい。話し相手がいるというのはとても楽しいことだ。クロのような、いつも胸が躍るような体験をしている猫の話ならばなおさらだ。
「話すさ。これから、いくらでも」
「嬉しいのぉ」
今にも消えそうな火の前で、クロは言葉を紡いだ。ときにはマタタビの言葉も混じり、話は蝋燭の火を消すまいとする。
けれど時間は残酷だ。
蝋燭はもうない。火は消えるしかない。
「クロ、や……」
「ばーさんっ!」
もう力が入っていない。
後はゼロになるのを待つだけだ。
ゆっくりと閉じる目を見つめ、力が抜けるのを見守る。涙はでない。人前で涙を流せるわけがなかった。
「ありがとう」
最後に一言だけ伝える。
この一言にはたくさんの気持ちと、たくさんの思い出が詰まっている。
意識を失う前に、それだけは受け取ってくれたのか、二人の最期はいつもと同じ笑顔だった。
「キッド」
「……んだよ」
「……いや、なんでもない」
かける言葉が見つからない。今日だけは独りっきりにさせてやりたくて、マタタビは家を抜けた。
明日になればまたいつもと同じ表情を見ることができるだろう。だから今だけは、さようならを思う存分言わせてやりたかった。
END