たった一匹の猫がいなくなったところで、何かが変わるわけでもない。
「マタタビ君、まだ帰ってないの?」
「まーた修行の旅とやらに出ただけの話だろ」
 ある日、クロが目を覚ますとマタタビの姿は消えていた。いつもならば置かれている書き置きもない。
 いつかのように、どこかで引っかかっているのではないかと、何人かは町を探した。それでもマタタビは見つからない。心配する皆をよそに、クロは平然としている。むしろ清々したというような表情をしている。
 マタタビがいなくとも、彼らの生活は何一つ変わらない。変わったことがあるとするならば、家を壊さぬように注意するようになったという点だろうか。そもそも、マタタビがくる前は家が壊れたことはなかったのだ。
 ジーさんバーさんが心配そうにマタタビを探す姿をクロは横目で見る。
 たかが猫一匹だ。その存在が人生に影響する割合などほんのわずかなものだろう。しかし、存在はたしかに少し世界を変えていた。
「クロは心配じゃないの?」
「何でオイラがあいつの心配をしなきゃなんねーんだよ」
 ミーは内心呆れた。
 いつも素直ではないクロのことだ、この言葉は鵜呑みにはできない。本当は心配しているのだろう。出会って間もない自分達の中に、マタタビという存在は大きく影響してきている。クロに影響がないはずがないのだ。
「帰ってこなかったらどうするのさ」
 一瞬、彼の瞳が揺れた。
 それは本当に一瞬のことで、ミーの目だからこそ認識できた。
「別に」
 何の感情もない言葉に、何が込められているのだろうか。
「マタタビ君がいないと、ボクら暴れられないし、おじいさん達も寂しそうじゃないか」
 さらに言葉を続けてみると、返す言葉がないのかクロは沈黙を守る。
「ね、クロも一緒に探そうよ」
「いやだ」
 どうしてそこまで意固地になるのかと、ミーは小さくため息をつく。
「もういいよ」
 これ以上言ったところで、何かが変わるわけでもないだろうと背を向ける。
 ミーは今の生活が気に入っていた。ずっと、こんな生活を望んでいたような気もする。誰かが欠けるというのは、望まないことだ。
「クロのバーカ」
 その日は一日、胸のもやが取れなかった。ミーにとって剛が大切な人であるように、クロにとってマタタビは大切な人だと思っていた。二匹の間には第三者が立ち入ることのできない、不思議な空気がある。それが憎しみや憎悪の類でないことくらいはすぐにわかる。
 そっと後ろを振り返ってみると、いつも通りのクロがいる。
 マタタビなど元々いなかったかのようにだ。いつかの時のように、すぐに戻ってくると考えているのだろうか。彼の考えていることはいつだって不可解だ。
 しばらくはみんな心配していたが、クロの態度に感化されたのか、しだいにいつか戻ってくるだろうという結論に至った。ただし、ミーだけは常に心配そうにしていた。
 それほどマタタビと仲が良かったわけではない。顔をあわせたことも、会話をしたこともあったが、それらはクロに対しての方が圧倒的に多い。
「ねークロォ」
「うるせぇな。まだ帰ってきてねーよ」
 このような会話を交わすことも珍しくなくなった。
「何でクロは心配しないんだよ!」
「だから、何でオイラが――」
 不機嫌そうにしわを寄せたクロがミーを睨む。表情が読みにくくはあったが、ミーは怒りをあらわにしていた。眉間に寄せていたしわを失くすほどクロは驚く。彼がマタタビのためにここまでするとは思ってもみなかった。
「ボクは……。ボクは、クロ達の過去とか知らないけど、ずっと昔に離れ離れになっちゃったんでしょ。ようやく再会できたんでしょ。そりゃ、マタタビ君はクロのことを恨んでるみたいに言ってたけど、仲良く暮らしてたじゃない。仲が良かったころに戻れていたんじゃないの?」
 怒涛の言葉が流れ、口を挟む隙など微塵もなかった。
 ミーは寂しいのだろうと感じた。クロもミーの過去についてはよく知らない。ただ、仲間だったニャンニャンアーミが去ったとこを、心のどこかで寂しく思っていたのだろう。
「マタタビが決めたんなら、オイラが口出ししてもしょうがねぇだろ」
 今まで世話をかけてきた。
 生身の猫にとっては長い時間を使い、クロを探したマタタビの中には憎しみ以外の感情も確かにあったのだろう。実際、マタタビの姿を見るまで、マタタビは死んでいると思っていた。姿を見せるというただそれだけの行為で、彼はクロを少しだけ救ったのだ。
「でも――」
「お主ら喧嘩するのはいいが、家を壊すなよ」
 二匹の間に割り込んできた声。二匹はそちらの方向へ目を向ける。
「拙者が留守の間に壊れてやしないかと心配だったが……。やればできるではないか」
「マ、マタタビ君……」
 家の柱を撫でながらほっと一息ついている猫は、間違いなくマタタビだ。
「なんだ、帰ってきたのか」
「当たり前だ。まだ貴様との決着がついておらん」
 クロは腰を上げ、マタタビの方へと近づく。
「どっか行くなら言っていけよ。他の奴らが騒いで、昼寝どころじゃなかったんだぞ」
「お主の邪魔ができたのならば、これからも黙って行くことにしよう」
 あっけないほどいつも通りが帰ってきた。
 心配していたのが馬鹿みたいに思える。
「なぁ、ミー君?」
 口角を上げたクロが言う。
「……そうだね」
 彼らの関係は不可解だ。しかし、パズルのピースのように、しっかりとはまっている。


END