失うことのないもの
ナルトの記憶がなくなった。
九尾が自分の中に封印されているということも、自分が暗部に所属しているということも、下忍として第七班のメンバーと仲良くなっていたことも、三代目火影が亡くなったことも、サスケが里抜けをしたことも、全て忘れてしまっていた。
「えっと、オレはサクラ……さん? と同じ班なんだよね?」
下忍の時はいつもつけていた語尾も消えて、サクラの名前も恐る恐るといった感じに言う程度だった。
「うん。あ、私のことはさん付けじゃなくていいから」
サクラの言葉にナルトは小さく頷いた。
今までのような明るさはないが、怯えるような様子もなく、サクラは少し安心した。
体のほうには特に異常がないとわかると、サクラはナルトを外へ連れ出した。ナルトの体の心配をしているみんなにナルトのことを伝えるために。
昔はナルトのことを嫌っていた里人にも、ナルトのことを心配している人は大勢いた。
「ナルト、大丈夫かい?」
「記憶がなくたって平気だからな」
「何かあったら言ってね」
真っ白なナルトの記憶には、優しい仲間と優しい里人が描かれていった。
暗く、悲しい過去はもうない。自分の身を守るためにその手を赤く染めることもなく、ここから新しい人生を歩むこともできる。
「ナルトにとっての、幸せ……か」
遠くからナルトを見ていた紅焔は呟いた。
戸惑いつつも、笑っているナルトは幸せそうだった。少なくとも、赤い血と悲鳴に包まれていた頃よりも。
作り物の笑顔でも、冷たい笑顔でもない自然な暖かい笑顔。記憶がなくなったままならば、きっとナルトは普通の子供として生きていける。今から忍になるのも難しいだろうから、血なまぐさい世界に入ってくることはもうないだろう。
「そしてオレはお前の中で眠り続ける」
紅焔が分身とはいえ、こうして外に出てこれているのはナルトとの契約のおかげ。記憶がなくなったナルトと、紅焔が契約をかわしたナルトは別物なのだ。だから近いうちに紅焔は再び封印される。
普通の人間として生きて、ナルトはどのような生涯を終えるのだろうか。
幸せな家庭を築き、子供と妻に看取られて逝くのだろうか。その手を血で穢すことなく。
「本当にそれでいいのかい?」
悲しげにナルトを見ていた紅焔の後ろに現れたのは、現火影である綱手であった。
「……どういうことだ」
「わかってんだろ? このままだとあんたは封印され、ナルトは一生九尾のことなんて知らずに生きる。
あたしはそれでもいいよ。ナルトが幸せならそれが一番なんだから」
紅焔は眉間にしわを寄せて綱手を見た。
ナルトの幸せが一番なのは当たり前だ。ナルトの幸せ以上のものなんてありはしない。
「……でもね、本当にそれがナルトにとって幸せなのかねぇ」
「な、に……?」
綱手の言葉に紅焔は驚く。
「ナルトにとっての幸せってのは『普通』に生きることなのかい? もっと、別の幸せがあるんじゃないのかい?」
綱手の言葉は的を射ているような気もしたが、それは推測でしかない。
「これでいい。これで――」
自然に笑うナルト。今ならば、暖かい世界で生きることを選択できる。
「思い出すことなんてない」
静かに目を閉じて、紅焔は姿を消した。
「…………大切な人を忘れて、幸せになれるもんなのかねぇ」
綱手の呟きは、誰に聞かれるでもなく風とともに消え去った。
数年の月日が経った。
火影になるという夢はすっかり忘れ、周りの人に言われるがままナルトは平和な生活を送った。
昔の仲間達との記憶は失ったままだったが、新しい思い出は確かに積み重ねられていた。
「あ、ヒナタ。どうしたんだ?」
「えっと、任務が終わったから……。ちょっと、あの……」
「……? あっ! 顔を見せにきてくれたんだ。ありがとう」
忍の任務がいかに危険なものか、ナルトは周りの人から聞かされていた。そのためか、ナルトは仲間が長期任務につくたび不安気な表情を見せていた。
「うん……」
ナルトの笑顔にヒナタは嬉しそうに微笑んだ。
大好きだったナルトとは少し違ってしまったけれど、誰かを強くしてくれるという面はなにも変わっていない。
「あんなに臆病だったヒナタがこんなに強くなるなんて――――え?」
今のナルトが始めてヒナタを見たとき、ヒナタはもうずいぶん強く、自己主張もできるようになっていた。臆病だったヒナタはすでにいなかった。
「あれ……? オレ、今何を……?」
唐突に頭痛を感じたナルトは頭を抱えた。
「……あ、う…………あぁぁぁぁっ!!」
膝をついて叫びだしたナルトを目の当たりにしたヒナタは、近くの人に綱手様を呼ぶように指示した。
「な、んだ……これ……! どこ、だ……ここっ!?」
記憶が入り混じり、今がいつで、ここがどこなのかわからなくなっているナルトに、ヒナタは必死に声をかけた。
「ナルト君?! ここは木の葉の里よ! 大丈夫。すぐに綱手様がいらっしゃるわ」
「つ、な……で? 里……人間っ……」
ヒナタの言葉により、徐々に記憶の整理ができてきたのか、ナルトは少し落ち着いてきた。
「…………。こう、えん……。紅焔、紅焔、紅焔っ!!」
突然ナルトが一つの言葉を繰り返し始めた。
紅焔のことを知らないヒナタは、ナルトが一体誰の名前を呼んでいるのかわからなかった。しかし、ナルトにとって大切な人の名前なのだろうということはわかった。
「紅焔さん……紅焔さん! ナルト君のところへきてください!」
ヒナタは涙を流した。
大好きな人が目の前で別の人の名前を叫んでいる。それは悔しい。でも、その人に会いたがっているのならば会わせてあげたい。
「ナルト」
ヒナタの耳に男の声が聞こえた。見知らぬ男の声。しかしヒナタには声の主が紅焔だとわかった。
「お願い! お願いします! ナルト君に、会ってあげて……!」
「…………ナルトは、何も思い出さないほうがいい」
悲しそうな声。
「馬鹿なこと言わないで!!」
あまり怒ることのないヒナタが、怒鳴り声をあげた。
悲しみと屈辱が混ざった怒鳴り声に、目に見えぬ紅焔がたじろいたのがわかった。
「私はあなたのことを知らないけど、ナルト君にとってあなたは大切な人なのよ!
あなたに会わないほうがいいなんてことないんだからっ!」
苦しむナルトの体をギュッと抱きしめ、ヒナタは主張する。
大切な人と会えないということがどういうことかを何度も何度も言った。
「そう、なのか? ナルト」
どこかぼやけていた男の声がハッキリと聞こえた。
驚いたヒナタが顔を上げると、そこには緋色の髪をした男が立っていた。
「こう、え……ん。こ、う焔。紅焔!」
紅焔の着物の袖をナルトはしっかりと掴んだ。
紅焔はその手をそっと握った。
「ああ。オレだ」
「――紅焔。
紅焔の、馬鹿ぁぁぁぁ!!」
甘い雰囲気をかもし出していた二人だったが、ナルトが紅焔の顔面を力一杯殴った。
「このっ、馬鹿! マヌケ!」
顔面を殴られ、地面に伏した紅焔をナルトは何度も蹴りつけ、踏みつけた。
「勝手に自己完結すんなよ。
オレどんなに血なまぐさい一生でも、寂しい死にざまでもいいんだ。お前が、いたら、それで……」
涙をボロボロこぼしながらナルトは紅焔を蹴った。
「わ、悪い。悪かった!」
紅焔は何度も謝った。ナルトは泣かない子供だった。感情はあるが、それを表に出す手段を知らないとでも言うような、全てが作り物のような、そんな子供だったのだ。
そんなナルトが、今は目に一杯涙を溜め、それを零している。
「もう離れない。な? だから許してくれよ」
「…………契約。だからな」
「ああ」
再び甘い雰囲気をかもし出し始める二人の邪魔にならないように、ヒナタはそっと身を引いた。
負けるつもりはない。でも、今この瞬間は邪魔したくなかった。
END