絶望の嫉妬  例えばの話。昔、とても凶暴だった奴がいた。だが、そいつはある人物と出会い、穏やかになっていった。そんな奴が記憶喪失になったら、どうなるのだろうか。さらには、穏やかになるきっかけとなった人物のことだけ、都合よく忘れてしまっていたら、どうなるのだろうか。
 その答えは今、ナルトの前で展開されている。
「……貴様は誰だ?」
 低く、威圧するような声に、里一番の暗部とまで言われるナルトも体を固くする。
 立っていることが辛くなるほどの殺気に、口すら動かせない。思考回路も上手く働かず、唯一思考していることといえば、どうしてこんなことになってしまったのだろうかという、答えもなければ、意味もないことだけだった。
 ナルトの知っている紅焔は、その気になれば忍の里の一つや二つ、簡単に滅ぼすことができる力を持っていながらも、それを実際に使うことはなく、ナルトのためだけに力を使うような妖狐だった。さらに言うならば、ナルトを溺愛しており、ナルトに向かって殺気など、絶対に出さない妖狐でもあった。
「答えよ」
 それが、どうしてこうなってしまったのかといえば、わからないの一言につきる。
 ナルトがいつものように起きて、外へ出るとそこには眉間にしわを寄せた紅焔がいた。何かあったのだろうかと思い、話しかけたら今のような状況になてしまっていた。
「……オレは、うずまきナルト」
 名乗れば元に戻るのではないかという、安易な発想に一抹の希望を乗せたのだが、紅焔は軽く相槌を打っただけで、何も返してこない。何者か名乗れと言ったくせに、無視とは酷いのではないだろうかということを考えるだけの余裕はナルトにはなく、ナルトはその場に座りこんで必死に頭を整理していた。
 不思議と紅焔はナルトを追い出すことなく、庭を探索していた。そのおかげで、何とか多少の思考回路を取り戻すことに成功したナルトは、こういうことに詳しそうな二人に聞いてみることにした。
「なあ、地衣鬼、恐女。どう思う?」
 ナルトが尋ねる相手に選んだのは、紅焔がナルトの中に封印されるよりもずっと昔から紅焔のことを知っている妖怪の二人。不可解な現象は妖怪の仕業であることが多い。妖怪である紅焔が何らかの妖術にかかったとは考えにくいが、餅は餅屋に聞くのが一番だ。
 紅焔の隠れ家に四人で住んでいるため、二人は説明されずとも今の状況をわかっている。だが、状況をわかっているだけにすぎず、原因などはさっぱりわからない。
 二人も首を傾げるばかりで、何の解決策も見出せない。
 昔は木の葉の里を襲った紅焔だが、今では立派な木の葉の稼ぎ頭だ。このままずっと任務をこなせないような状態だと困る。
「つか、オレが嫌だ」
 親であり、師であり、一般的に恋仲と言われるような関係にある相手が、ずっと自分のことを思い出さないなど、あっていいはずがない。
「わしの話しか?」
 いつの間にか庭から帰ってきた紅焔が声をかける。古くからの友人である恐女と地衣鬼のことは覚えているようだが、やはりナルトのことは覚えていない。
 いや、ナルトのことを覚えていないのではない。木の葉を襲ってからの記憶が抜けているのだ。だから紅焔の記憶の中にはナルトが存在しない。
 悔しいとナルトは思った。今まで思ったこともないような感情だった。喜怒哀楽くらいは人並みにあった。だが、その才能のおかげか、淡白な性格のおかげか、妬みや嫉妬といった感情とは無縁の人生だった。
 それが今、紅焔が自分のことを覚えていないというだけで、ナルトの中は灼熱地獄のように嫉妬の炎を燃え上がらせていた。できることならば、自分と出会う前に紅焔と会った者を全て消し去りたいとさえ思った。
 地衣鬼も、恐女もナルトは好きだった。二人のことは姉や兄のように思っている。だが、それとこれとは話が別だ。
 ナルトの殺気に気づいたのか、紅焔は先ほどと同じく鋭い殺気と眼光をナルトに向ける。
 今の紅焔はナルトの知る紅焔ではない。紅焔は優しく、暖かい目でナルトを見る。間違ってもナルトに冷たい目を向けることもなければ、殺気を向けるなどということはなかった。
 昨日までは嫌になるほど愛してると言ってくれていたのに、今の紅焔の口からは警戒と敵意を持った言葉しか出てこない。
「……何故泣く」
 そっとナルトの頬に紅焔の手が触れた。
 手はいつものように暖かく、柔らかかった。しなやかな指がナルトの頬を流れていた涙を拭う。
「お前が悪い」
 泣いてしまったことが恥ずかしくて、涙を拭ってくれたことが嬉しくて、ナルトは照れ隠しに言った。
「この程度の殺気で泣くか。人間の子よ」
「別に殺気で泣いたわけじゃねーよ」
 涙が止まらないナルトと目線をあわせるために、紅焔は膝をついた。下から覗きこむようにナルトの顔を紅焔は見て、そしてまた涙を拭う。
 その行動に、ナルトは幼いころを思い出した。
 まだ紅焔と出会ったばかりのころ、同じ人間に嫌われてると思うと泣けてきたことが何度もあった。その度に紅焔は膝をついて涙を拭ってくれた。抱き締めることもなく、ただ涙を拭うだけだった。
「ならば何故だ」
 紅焔は抱き締めない。紅焔は脆いものを抱き締めない。壊してしまうかもしれないから。それを知ったときからナルトは強くなることにした。紅焔に抱き締められたとしても、壊れないほどの強さを見せつけるために。
「お前はオレを抱き締めない」
 ようやく認めてもらえた。ようやく抱き締めてもらえた。あの時の喜びをナルトは今も忘れていない。
「わしは――」
「知ってる。脆いものは抱き締めないんだろ?」
 二人はじっと見つめあう。地衣鬼と恐女はその様子を黙って見ていることしかできない。口を挟んでしまうことはためらわれる。だが、この場を去ることもためらわれる。四人のいるところはそんな空間と化していた。
「……違うな」
 紅焔が否定の言葉を吐いた。
「今のわしではお主を抱き締めることができない」
 ナルトを抱き締めることができるのは、ナルトを愛した紅焔だけだ。今の紅焔ではない。
「安心せよ。妖力が不安定で、記憶が飛んでいるが、そのうち元に戻る。そしたら、いくらでも抱き締めよう」
 記憶を失っているにも関わらず、紅焔はナルトが大切な者だという認識はあった。だからこそ、顔も覚えていないナルトを家から追い出さなかったのだ。
「絶対、だからな」
「約束しよう」
 二人は指切りをした。


END