ジャンはいつまでも昔の恋心を引きずり続けてきていた。
彼女にとって、自分はただの同期であり、同じ兵団に所属している仲間というだけの認識でしかないことは知っている。それでも、すんなりと諦められるような軽い気持ちではなかったのだ。
どうにか巨人に食われないまま生きてきて、美しいと形容される女性と出会い、言葉を交わしたり共に出かけたりすることはあった。しかし、彼女達に対して想いを抱くことは一度たりともなかった。
幾度目かの出会いを果たし、揺れぬ心を感じて彼は悟る。
きっと、自身は一生この気持ちを抱えていくのだ。中途半端な意思で女性と付き合うことができるほど器用な男ではないし、彼女を振り向かせることができるとも思えない。白旗を揚げるつもりはなくて、それでもいずれ訪れるときを待っていた。
「よぉ、死にたがり新郎」
「その呼び方、やめろって」
調査兵団に所属してからもう何年になるだろうか。思い起こせば、時の流れなどあっという間だ。来るなと願っていたその時があっさりときてしまうほどに。
ジャンの目の前には正装に着られているエレンがいる。見慣れぬ服は、彼に似合っているとは言い難い。
「それにしても、ずいぶんと早く着たんだな。
まだ時間はあるのに」
そう言うエレンの表情は穏やかだ。
日頃、巨人の駆逐を声高に叫んでいる人間と同一人物だとはとうてい思えない。
慣れぬ服に、慣れぬ表情。ジャンはこれが結婚というものなのかと、漠然と考える。
親戚が多いわけでもなく、職場も死亡率が高い場所となると、結婚式というものに出席することはほとんどない。仮に、結婚をする人物がいたとしても、最近では式を挙げることをしない夫婦が多い。金銭的な問題であったり、それどころではない時代が問題であったり。理由は様々だ。
そんな中で、エレンは結婚を決め、式を挙げることを宣言した。
調査兵団で何年も生き延びてきたエレンには貯蓄があり、彼は巨人との戦いをしているからといって自身の行動を曲げることをしない性質だ。式を挙げると聞いたときこそ驚いたが、すぐに納得できてしまう程度のことだった。
「お前に言っておきたいことがあったんでな」
ジャンは適当な椅子に座り、エレンを見据える。
結婚式とはいっても、盛大なものではない。エレンが住んでいる家で行われるちょっとしたパーティだ。新婦はドレスを身にまとい、新郎は正装をする。そうして、仲間達の前で永遠の愛と絆を宣言する。新婦は式が始まってからこちらの家に来ると聞いていたので、ジャンは気兼ねなくエレンへの言葉を携えてやってくることができた。
「ミカサを泣かせるなよ」
ずっと好きだった。
黒い髪も瞳も、動作の一つ一つも好きだった。
けれど、彼女がエレンを愛していることを知っていた。知らぬ者などいなかっただろう。
「オレが?」
エレンは少し笑う。
「冗談。どちかってと、泣かされるのはオレなんじゃねぇの」
長い間、認めることができなかったようだが、ミカサはエレンよりもずっと強い。
彼女は人類最強と呼ばれるリヴァイ兵長と並び称されるほどの実力者であり、エレンも間一髪のところを助けられたことがある。訓練兵時代、調査兵団時代、と共に歩んできているジャンがそのことを知らぬはずがない。
自信のある体術でもエレンはミカサに敵わない。夫婦喧嘩をすれば、ボコボコにされるのはエレンだろう。
「そういうこと言ってんじゃねぇよ」
軽口を叩くエレンとは対象的に、ジャンの瞳は真剣そのものだ。
彼の射抜くような目は何度も見てきたし、射られる対象にもなってきたが、今までのそれとは別ものに感じた。いつも真剣であるのだが、今回の瞳はそれを上回る。夫婦の永遠を誓う前に、もっと別の誓いを求められている。
「確かにミカサは強い。
だがな、彼女も心ある人間なんだ」
忘れられぬ光景がある。
まだ所属兵団も決めていないようなときだった。巨人に壁を破られ、出撃した。初陣というのは忘れられないものだというが、ジャンにとってあの戦いは初陣だという理由以上に、印象に残ってしまう理由があった。
同期の中でも強い意思を持っていた男が死んだと聞かされた。彼を慕っていた女はそれでも気丈に振舞っていた。それを見て、ジャンは自分が情けなくなった。それがきっかけ。
決定打になったのは、巨人のうなじから生きていた男現れたに女が駆け寄り、涙を流したときだ。彼女はまるで、恐ろしいものなど何一つ知らずに生きてきた娘のように、声をあげて涙を流していた。
その時は、それどころではなかったのだが、時間が経って気づいた。
彼女、ミカサはただの女の子なのだ。簡単に泣いてしまうし、闇の中に取り残されてしまう。きっと、ジャンでは彼女の光になれない。
「誓えよ。死にたがり野郎」
泣かさぬと。生き続けると。
穏やかな小鳥の鳴き声が聞こえてくるような空間で、二人の間にある空気だけがいやに冷たい。
「……それは、誓えない」
エレンの言葉と同時に、ジャンが椅子を立ち上がる。勢いをつけすぎたため、椅子が倒れて音をたてた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味でしかねぇよ」
彼は調査兵団に所属している兵士だ。
巨人が世界からいなくなるまで戦い続けなければならない。穏やかに死ぬことができるなど、万に一つも考えられない。死なないと確約することなど、到底できるはずがない。
無論、ジャンにもそれはわかっている。同じ場所に所属し、戦ってきたのだから。それでも、口約束でしかないとしても、誓いが欲しかったのだ。昔から死にたいのだとしか思えないような発言ばかりしてきた男の、生きていたい、という言葉が欲しかった。
「てめぇ、そんな中途半端な覚悟で――!」
正装が崩れてしまうことも忘れ、ジャンはエレンの胸倉を掴みあげる。こんなときでなければ、懐かしさを感じることさえできる光景だっただろうに。
「だから!」
エレンが叫ぶ。
ジャンの腕に手を置き、真っ直ぐに彼を見る。
「その時は、お前に任せたい、なんて思ってもいいか?」
気まずげに、しかし本心を見せる表情だ。
思わずジャンが手を離してしまうほどの衝撃だった。
共に任務をこなすようになり、互いに信頼関係も築いてこれたとは思っている。だが、それでも同年代の男子ということもあってか、衝突することは少なくなかった。そんな仲だというのに、エレンがこれから妻にする女のことを任せる、などという言葉が出てきたことが信じられない。
思考を止めてしまったジャンからエレンは目をそらす。
「……そのうち、言っておこうとは思ってたんだよ」
多少崩れてしまった服を直す。
「お前くらいしかあてがなかったし、まあ、頼りになる奴、だし」
同期の男組みは死んでしまったり、消えてしまったりと、数が少ない。そんな中で、ある程度ミカサと交流があり、言葉を交わすこともしているジャンは案外貴重な存在だ。何より、部隊長としての素質を伸ばしてきている彼の傍にいれば、ミカサはその力を発揮し生き延びられることだろう。
エレンとて、いつでも巨人の駆逐ばかりを考えているわけではない。
これから結婚するほど愛した人物の未来に、幸せと生を願うための思考ならば惜しむことはない。
「……そんなもん、アルミンにでも頼みやがれ」
どうにか思考を取り戻したジャンは精一杯の気持ちで吐き捨てる。
何が悲しくて、未亡人になってしまった愛する人の傍にいなければならないのだ。いや、それ自体は歓迎すべきことなのかもしれないが、エレンが死んだところでミカサは彼を思い続けるだろう。死人相手では勝つことも、怒りをぶつけることもできない。
そんなのは御免だ。
大体からして、適役は他に存在している。たった今、ジャンが口にした者。エレンとミカサ、二人と共に生きてきた幼馴染、アルミンだ。
彼も調査兵団に所属しているが、優秀な頭脳を持っていることもあって現場へ出ることが少なく、生存率も高い。言葉の使い方も上手く、悲しみに暮れるミカサを励ますのにも向いているだろう。
「アルミンは駄目だ」
口ごもりながらも、エレンは否定の言葉を零す。
ジャンは意外に感じた。傍から見ていて、エレンはアルミンのことを深く信頼しているように見えた。まさか、残して逝く最愛を任せられないという程度の信頼関係だったのだろうか。
訝しげな気配に気づいたのか、エレンは慌てて両の手を振る。
「違う! アルミンを信用してないわけじゃない!」
「……なら、何でだよ」
改めて問いかけると、エレンはまた視線をそらす。
しかし、それで許してくれる相手でもない。
わずかな沈黙の後、エレンは観念したように口を開いた。
「きっと、すげぇ悲しんでくれるから。
死んだだけでも申し訳ないって気持ちがあるのに、ミカサのことまで頼めねぇよ」
おそらく、それは杞憂ではない。
ジャンはその光景に見覚えがある。あれは、エレンがアルミンの身代わりに死んだ、と思っていたから、ということもあっただろうけれど。あの初陣の日、アルミンは絶望に満ちていた。泣き叫ぶことをしなかったのは、まだ現実味がなかったというだけにすぎない。あのままエレンが死んでいれば、数日は泣きはらしたに違いない。容易に想像がついてしまう。
「……ほー」
冷たい声がしん、と部屋に響く。
「ジャン……?」
エレンは目を丸くして彼を見る。
声と同じくらいに冷たい瞳がエレンを滑らかに映していた。
喧嘩をしたことは数え切れないほどあったが、そのどれも瞳は骨まで灰にしてしまうのではないかと思えるほどの熱さで、こんな冷たい目をされたことはない。
「お前は知らねぇみたいだがら教えてやるけどな」
ジャンはエレンに背を向け、倒してしまった椅子を元に戻す。
氷のような瞳に映されるのも怖いが、何も見えないのも怖い。エレンは物言わぬ背を見ながら次の言葉を待つ。
「オレはな、104期訓令兵団の出なんだよ」
椅子の背もたれに手を置いて振り返る。やはり瞳の温度は変わらない。
「……そりゃ、そうだろ」
当たり前のことだ。ジャンとエレンは同期なのだから。
絞り出した声に、大げさに驚いた風な声色でジャンが返す。
「おぉ。知ってたのか。
そりゃすまんなぁ。
オレはてっきり、同期でもなんでもない、それこそ仲間でもないとてめぇの脳は認識してるんだろう、と思ってな」
「どういうことだよ」
あからさまに人を馬鹿にした口調に、エレンも声を荒くする。もとより短気な性質だ。冷たい瞳の恐ろしさなんぞすぐに吹き飛ぶ。今すぐにとっ掴み合いの喧嘩をしたって構わない。
「――オレだって、仲間が死ねば悲しみくらいするさ」
昨日きた新人が死んでも悲しい。長年共にいた人が死ねば悲しい。
同期の人間が死ねば、もう一つ上乗せで悲しむくらいする。
ジャンの氷の瞳が溶けて、水になるような感覚をエレンは得た。すると、言葉は自然と出てくるものだ。
「ごめん……」
生き続けることを誓えなかったことに対しても、無責任に残す者を託したことに対しても。
「謝るくれぇなら、素直に誓っとけ」
視線を下げてしまったエレンに、いつもの調子に戻ったジャンが言う。
何かを叩くような音が聞こえ、エレンは視線をゆっくりとあげた。
「どうせ、大人しく食われてやるつもりなんてねぇんだろ?」
そこには、敬礼をしたジャンがいた。
心臓を捧げる姿は、誓いにぴったりだ。
「……勿論」
エレンは口角を挙げ、敬礼をする。
「オレは巨人には負けねぇ」
死なないとは、生きるとは言わない。
だが、負けるつもりがないのならば同じことだ。
END