始まりは、一つの誘拐事件だった。
あの事件さえなければ、あの悲劇は起こらなかっただろう。
誘拐されたのは高校2年生のA君。
犯人達はドラッグ中毒者だった。おそらくドラッグを買う金欲しさに誘拐したのだろう。
ドラッグ中毒者がする犯罪は『殺し』『強盗』などの攻撃的なものと相場が決まっていたというのに、『誘拐』などという手の込んだ事件を起こしたので、この事件は新聞でも大きく報じられていた。
結果的には犯人は捕まり、誘拐されたA君も救出された。めでたし、めでたし。
これが世間一般での認識。
それで終わっていたらどんなに良かっただろう。
マスコミには一切漏らしていない真実がある。
まず、犯人達が使っていたドラッグは新種のドラッグで、この事件が起こらなければ未だに発見できずにいるであろう物だった。
命名『red joy(赤き喜び)』 通称『RJ』
依存性が強いわりに犯罪を行わせる程度の知能は残されているという、なんとも悪質な性質をもつドラッグを誘拐された少年が飲まされていたとしたら?
救出された少年の身体には赤い痣があり、激しく抵抗した跡が見てとれたらしい。
そして、体内には『RJ』があった。
これが、悲劇の始まり。
赤ク悲シイ悲劇ノ始マリ。
この悲劇の全貌を話すには、ボクだけでは足りない。
そこで、ボクの友人である刑事から借りたマル秘ノートに前半部分を語ってもらいたいと思う。
○月×日
事件発生。
誘拐されたのは東京都在住の高校二年生。
本名:蒼月 潮
オレが独自に調べた結果、この誘拐されたうしおは明るく、元気で、まさにムードメーカーだったらしい。
運動神経がよく、体術も多少身につけていたようだ。
そんな彼がたかがドラッグ中毒者に捕まったのは、一人の時を狙われたからだろうと皆口をそろえて言っている。
なんでも、彼は一人になると決まって何かを思い出すかのように虚ろな目をし、周りのことを全く気にしなかったらしい。その理由は不明。
幼馴染の女の子達が何かを知っていそうな顔をしていたようだが、彼女たちの心に裸足で乗り込むような無粋な真似はしないでおく。
(事件を解決するための会議やら方法やらは飛ばしておこう。そこまで入れると日が暮れてしまうからね)
彼は生きて親元へ帰ることができた。
できた。できたのだが。彼は決して無事といえるような状態ではなかった。
身体中につけられた赤い痣。首には絞められた跡が残っていた。
ぼんやりとした虚ろな目。彼はその体内に『RJ』を含んでいたのだ。
おそらく犯人達に無理矢理飲まされたのだろう。オレが聞いた彼ならきっと抵抗するはずだ。
犯人達がわずかに持っていた赤い『RJ』を回収し、調査する。その結果このドラッグが新種だと判明する。
後に『red joy』と名づけられる。
彼はドラッグを飲まされていたので警察病院へと運ばれた。
あの少年は何もしていない。いつも通りに日常を送っていたはずなのに、こんなことになってしまって非常に残念だ。この事件を未然に食い止められなかったことを心苦しく思う。
(未然に防ぐなんて無理なのに……こういうとことが彼らしい)
捕まえた犯人達はあまりにも暴れるので、特別性の部屋にぶち込まれることになった。
部屋の中には武器になるような物を一切入れず、ドラッグを抜いてやろうと考えていた。
<ぶち込んでからの様子>
奴らは毎日ドラッグをよこせと叫び、鋼鉄性の扉を叩き続けた。
手から血が出て、骨が砕け、肉が潰れ、原型を留めなくなっても叩き続けた。
痛みを感じないのだろう。表情はただ恐怖をうつすだけで他の何もうつさない。
人間が普段使わないといわれる100%の力を出しつくして扉を叩いていたのだろうと医療班は言う。
犯人達は日に日に衰弱し、いずれ動かなくなった。
○月◎日・△日
犯人死亡
死因:衰弱死
<うしお側>
犯人達とは違った症状。
犯人達と違い、暴れるようなことはなかった。いつもぼんやりとしている。
しかし油断は禁物。こちらが油断していると知るや否や、彼は暴れだす。
一度油断した医者が指を噛み千切られそうになったらしい。
彼が犯人達の症状と一番違った症状はただ一つ。意味のある単語を呟くのだ。
ここに医療班が効いたという意味のある単語を載せておく。
「ごめん」
「いくな」
「くえよ」
「とら」
漢字変換はしないでおく。
(誰に謝っていたのか……ボクは後々知ることになる)
彼の呟く意味のある単語について親御さんに聞いてみたところ、知らないとのこと。
おそらく嘘。
だがやはり問い詰めないでおく。
○月*日
彼が暴れ始めた。
今までとは一変し、意味のない言葉を吐きながら扉を叩き始めた。
ただ一言、意味のある単語を吐いたらしい。
「きえるな」
漢字変換はしないでおく。
○月◇日
彼が脱走した。
手には何処から手に入れたのか、銀の槍を持っていた。
不思議なのは彼の髪が長くなっていたことだ。
彼は警察を振りきり町で暴れた。
被害件数 約80件
死亡者は確認されていない。
この日以降彼の消息が途絶えた。
おそらく死亡したものと見られている。
さあ、ここからはボクが話そう。
その前に、ボクの能力について説明したい。
ボクは『サトリ』の能力を持っている。遠いご先祖様が妖怪だったって話しだけど、真偽はわからない。
おかげでボクの頭の中に人の心の声が入ってくる。普段は特別性の指輪で能力を封じてるんだ。
ボクが彼、うしお君を見たのは○月◇日。彼が脱走したところだった。
長い黒髪と鈍く光る銀の槍のインパクトが強すぎて、今でも忘れられない。
普段は能力を封じてるはずのボクなのに、彼の心の声がボクの頭の中に響いてきた。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!
消えるな。消えるな!
怖い、怖い……!
あまりにも切なく、悲しい声にボクは思わず彼を追いかけた。
彼のスピードは速く、とてもじゃないけど普通のボクなら追いつけなかっただろう。だけど、彼は建物を破壊しながら進んで行ったし、ボクは普段封じてる力を全てとき放ったから、何とか彼についていけた。
何かを破壊している時も、彼の声は聞こえた。
ダメだ。壊しちゃダメだ。
傷つけない。殺さない。あいつが守った世界だから。
彼は壊しこそしたが、誰も傷つけようとしなかった。
人間は避け、人のいない方へ、いない方へと走って行った。
悲痛な叫びがボクの心を揺らした。
あそこまで悲しい叫びをボクは聞いたことがなかった。あんな声は最初で最後の声であって欲しい。
二度と聞きたくない。こちらまで傷つきそうな声なんて。
ドラッグのせいで自由のきかない体を必死になってコントロールしようとする声がボクの頭に響いてくる。
止まれ! オレの体だろ?!
もう嫌だ。もう、もう……。
誰か止めてくれ!
……とらぁ!
彼の目からは涙が零れてたんじゃないかとボクは思う。だって、あんなに声が震えてた。
あれで泣いてないなんて嘘でしょ?
ボクには止められない。誰か、誰か彼を止めてやってくれと強く望んだ。彼が呼ぶ者に強く願った。
黒と銀の線となり、走り続けていた彼の前に金が現れたとき、ボクは思わず足を止めた。
まるで、近寄ってはならない聖域のように見えた。
彼もゆっくりとスピードを落とし、金から数メートル離れた場所で立ち止まった。
ボクの頭に響く彼の声が、はじめて穏やかなものになった。
とら……。
やっと会えた。
金の獣の名がとらだと知るのに、そう時間はかからなかった。
ボクの位置からは彼の表情を知ることはできなかったけど、さっきまでと全く違う彼の雰囲気で彼が正気になっているとわかった。
きっと、彼は笑ってた。
「と……ら!」
始めて彼の本物の声を聞いた。
明るくて、元気がありそうな声。
そして、何よりも嬉しそうな声だった。
なのに、ボクの頭の中に響いてきた声は……また悲しい声だった。
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
せっかく、お前に会えたのに……!
オレはお前に会わす顔がない。
お前に触れるほど綺麗じゃない!
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
彼は何度も謝っていた。
ボクには謝る理由なんて、この時も今もわからない。
彼は十分に綺麗だった。自由のきかない体であるにも関わらず、彼は人を傷つけようとはしなかった。
そんな彼がどうして綺麗じゃないと言えるんだ……。
わからない。でも、ボクには何も言えなかった。言うべきだった。言えればよかった。
とらと呼ばれていた獣がうしお君へ向かい歩み寄ろうとしたとき、彼が、赤く染まった。
彼は、その手に持っていた槍で、己を貫いていた。
赤い血が地面へと流れ落ちていった。
最期に彼が思ったこと。
ごめん。
謝って終わってしまった。
本来なら、こんな風に終わるはずじゃなかったであろう人生。
崩れ落ちる彼の肉体をあの獣が受け止めた。
まるですぐに壊れてしまう宝物を扱うように彼の肉体を抱きしめた獣は酷く、悲しげだった。
あの獣も、ボクと同じように後悔していたのだろうか? 何か言えばよかった。もっと何かを伝えればよかった。
後悔だけがその時ボクの胸の中にあった。
「おめえ……妖怪くせぇな……」
不意に、獣がボクに話しかけた。
「…………遠い、先祖が妖怪だったって聞いたよ」
不思議と恐れはなかった。
「そうか……まぁ、そんなことはどうでもいいけどな」
獣は本当に興味がないようで、彼の肉体を静かに抱きしめているだけだった。
ほんの少しだけボクの頭に響く獣の声。
何でだ。
そんな疑問。
ボクだって知りたい。彼がどうして謝っていたのか。彼が、どうして死んでしまったのか。
「おめえよぉ……このガキの親に言っとけ」
獣は静かに呟くようにボクに言った。
「ガキは約束通りもらったってな……」
そう言って、獣は消えてしまった。
空を飛んだとか、地面に沈んだとかじゃなく、本当に消えてしまった。
あの悲しい二人のことを知っているのはボクと、彼の両親だけ。
彼の両親はボクがこの話をすると何故か少し嬉しそうに微笑んでいた。
きっと、ボクには一生わからないんだと思う。
彼と獣の間に何があったのかとか、彼があれからどうなったのかとか、知る必要はない。
知ったところでどうにもならないし、ボクなんかが理解できるものでもないんだと思う。
『RJ』のこともどうにか警察が動いてるらしいから、あんな悲しい事件はもうおこらないだろう。
ボクは今でも時々思う。
もしも、もしもだけど、彼が誘拐されていなかったら……どんな人生を歩んだのだろうか?
彼の死を見た瞬間、ボクは彼ならもっと幸せな人生を歩んだんじゃないかと思ったけど、実はそうじゃないのかもしれない。
だって、彼はあの獣のことが好きだったみたいだから。
普通に人生を送っていても、きっとあの獣のことばかり考えてるんじゃないかな?
縛られたまま生きるより、解放される死の方が良かったんじゃないかなんて、ボクは考えてる。
あの獣に会ったときの彼の喜び。悲しみ。ボクは知っている。
彼の笑顔は見れなかったけど、きっといい笑顔に違いない。
あの獣だって、彼の笑顔には勝てないだろうし、彼の笑顔につられて笑うはずだ。
……一度、見たかったなぁ。
彼らの幸せな笑顔を。
そういえば、彼はあの獣の最後の言葉を聞けたかな? あの獣が彼を抱きしめながら呟いた一言。
馬鹿が……。やっとおめえに会えたってのによぉ……。
END