うしおは家族旅行なんて行った記憶がない。物心ついたときから母はおらず、父は仕事ばかりで一緒にいる時間が少なかった。
 だが今は母も父も家にいる。そして新しい家族のような存在もいる。今までは幼馴染としか行ったことのない旅行に今年、始めて家族と行くのだ。
「海なんぞ久方ぶりだな……」
 などと呟く紫暮だが、須磨子は長い間海の中におり、うしおはとらと出会ったばかりのころに海で酷い目にあっている。素直に旅行を喜べないような気もする。
 うしおの方は山でも酷い目にあっているので、正直なところどこへ行くにしても素直に喜べない気がする。
「あのさ……飛行機、乗らねーよな?」
 恐る恐る尋ねたのはうしお。始めて飛行機に乗ったさいに九死に一生を遂げたうしおにとって、飛行機はトラウマものである。
「いや、飛行機だ」
「げっ……」
 あっさりと言ってのけた紫暮に対してうしおはあからさまに嫌そうな顔をした。
「安心しろ。お前はとら殿と行ってもらう」
 どこをどう安心すればいいのかわからない言葉を紫暮は吐いた。
「旅館はここだ。先にそこへ行ってろ」
 渡されたのは旅館までの地図と住所が載った紙。
 飛行機で行った方が速いので、飛行機に乗れないうしおはとらの背中に乗って行けと言うのだ。
「おめぇらよぉ……。わしのこと、たくしーかなんかと勘違いしてねーか?」
 うしおの横で事態を見ていたとらが口を挟む。
 うしおを乗せて飛ぶなんてわけないことではあるが、すでにうしおを乗せるということが決定事項になっているのが気に喰わない。
「いえ滅相もない。うしおを連れて行くか否かはとら殿にお任せいたします」
 人のよさそうな笑みを浮かべる紫暮だが、言っていることは果てしなく人でなしである。
 とらがうしおを乗せて行かなければうしおは旅館まで辿りつけない。つまり、うしおは必然的に留守番になってしまうのだ。
「…………とら……」
 せっかくの家族旅行なのに置いて行かれてはたまらない。うしおは己の肩の上に乗っているとらを見上げた。
 いつもならば槍をつかって脅してきそうなものなのだが、今回のうしおは弱々しくとらの名を呼び見上げるだけ。槍を出してきたらすぐさま『連れて行かない』と言おうと思っていたとらは完璧に出鼻をくじかれた。
「……………………しゃーねぇな」
 じっと見つめてくるうしおに根気負けしたとらはため息と共に呟いた。
「サンキュ!」
 渋々ながらも了承してくれたとらの首に抱き付くうしおをとらはやんわりと引っぺがした。
「暑苦しい。くっつくんじゃねーよ」
 季節は夏。日本の夏は湿度が高く、生き物同士がくっつくような季節ではない。
 くっつかれたとらの方も暑いが、くっついたうしおの方も暑い。何せとらは体全体が毛皮で覆われているのだ。冬はともかく夏は近くにいるだけで暑い。
「じゃあ私達は先に行くわね」
 用意を済ませた須磨子が玄関先からうしおに言う。
 同時に出ては圧倒的にうしおととらの方が早くつく。うしおは須磨子達が出て行ってから最低でも一時間は家で待とうと決めていた。
「また後で」
「ええ。また、後で」
 すぐに会えるのはわかっているが、やはり寂しい。再会してまだ間もない。一分一秒でも長く傍にいたいのだ。
 うしおは須磨子を見送り、とらと共に家の中へ入って行った。
「一時間か……」
 長いようで短い時間。母と再会するまでは当たり前のように流れていた一人っきりの時間だが、今は違う。当たり前のように誰かがいる。当たり前のように相棒が横にいてくれる。
「面倒くせぇな。おめぇもひこーきとやらに乗りゃあいいじゃねーか」
 うしおが飛行機を嫌う理由をとらはよく知っているが、うしおをからかうためにあえて意地悪を言う。
「うるせー」
 とらの嫌味にうしおはそっぽを向いて二階へ上がって行った。旅行の準備はすでにできている。
 二階に置いてある荷物を持ち、広がる青空を見上げる。特に何をするわけでもなく、魅入られたかのように空を見上げているうしおにとらが声をかけた。
「ぼけーっとしてんじゃねーよ」
 うしおの短い髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
 まるで父親が息子にするような仕草に思わずうしおは笑った。年齢で言えばとらは紫暮よりも確実に年上で、うしおから見れば祖父ちゃんのそのまた祖父ちゃん以上の存在になるはずなのだ。
「なに笑ってんだよ」
 いきなり笑い始めたうしおに訝しげな目をとらは向けた。
「べっつにー?」
 はぐらかそうとするうしおをとらが問い詰めるが、うしおは口を開かない。
 そんな風にしばらく遊んでいると一時間はあっという間に過ぎた。
「あ、もう行く時間だな」
 荷物を背負い、玄関の鍵を閉めてうしおはとらの背に乗った。
 慣れた毛皮と筋肉の感触に自然と頬が緩む。
「落ちても拾わねーからな」
 などと言いつつも、うしおが落ちればとらは必ず拾ってくれる。うしおもそれがわかっているから軽く落ちるかよと言えるのだ。
 目的地につくまでは基本的に二人は無言である。とらはどれだけの風圧を受けても大丈夫だが、獣の槍を発動していない時のうしおはそうはいかない。
 高速に乗った車以上のスピードを出すとらの風圧をまともに受けるのだ。下手をすれば息もできない。
 どの辺りで降りるのかは事前に決めているため、うしおがとやかく言わずともとらが勝手に降りてくれる。
「そろそろ降りるぞ」
 人目につく場所では不味いので、近くにある雑木林にとらは降りていった。
 木々がとらの体にぶつかるが、うしおの体には決して当たらない。自由自在に変化させることができるとらの髪の毛がうしおを守っているのだ。
「とら大丈夫か?」
 木々がとらの体にぶつかる音を聞いていたうしおは心配そうにとらの体を撫でる。目に付く傷跡はない。
「バーカ。わしの体はおめぇみてぇに柔じゃねーんだよ」
 確かにとらの体とうしおの体では天と地ほどの差がある。とらの体は逞しく、見るからに強そうである。対してうしおの体は筋肉がついているとはいえ、全体的に細く、肉付きが良いとは言えない。
 自分の体に多少のコンプレックスをもっているうしおは不満そうに自分の体を見た。
「…………ほれ、さっさと行くぞ」
 放って置くといつまでも不満気に自分の体を見ていそうなうしおを引っ張ってとらは雑木林を出た。
 全く知らない土地だが、旅館の名前は知っているし、住所も知っている。人に尋ねればいくらでも辿りつける。東京から北海道へ行こうと言うわけではないのだから。
 歩くことは苦にならないうしおは平気で歩いて旅館を探した。時折人に聞きつつ歩けば旅館は簡単に見つかった。
 時間を確認してみるが、両親はまだ来ていない時間。先にチェックインを済ませてもいいのだが、旅のときにホテルに泊まれなかった経験のあるうしおはいまいちチェックインをする気にならない。
 あと一時間も待たないうちに両親が来るはずなので、うしおはおとなしくそこで待っていることにした。
 近所の民家に住んでいる子供達の声が聞こえる中、じっと待っていたうしおにとらは何も話しかけなかった。何となく、話しかける気分ではではなかった。
「うしお……? 先に入っていればよいものを」
 旅館の前でじっと待っていたうしおを見つけた紫暮は驚いた。当然うしお達の方が先にくることは予想がついていたが、まさか待っているなどとは考えていなかったのだ。
「……いや、なんとなく」
 気まずそうにうしおが言うと、須磨子が持っていた水筒でうしおの額を冷やした。
「外は暑かったでしょう」
 心配そうな須磨子にうしおは一言謝って旅館へ入って行く。
 チェックインを住ませ、部屋に入ると中は適度に広い和室で、『旅行』という雰囲気をかもしだしていた。
 旅や合宿はしたことがあるが、家族旅行は始めてのうしお。心は未知への好奇心で満ち溢れていた。
「外の海に行ってみる?」
 須磨子が水着を取り出して尋ねる。旅館の窓の外には海が広がっている。天気もよく、泳ぐのには絶好の日和だろう。
「うん」
 海に近い旅館なので、海水浴が目的で来ている人達は旅館で着替えて海へ行く。
「じゃあ着替えてくる!」
 部屋についている風呂場まで水着を持ってうしおは駆けて行った。
「とら! お前も来い!」
「何でわしまで!」
 その場に残ろうとするとらの耳をうしおが引っ張って再び風呂場まで行く。
 とらがいなくなったその場には紫暮と須磨子しかいない。
「……あなた」
「ん?」
「…………その……。できれば、席を外していただけると……」
 そこまで言われて紫暮は始めて自分の失態に気がついた。
「す、すまん……!」
 慌てて紫暮もうしおの後を追った。
 いくら夫婦とはいえ、ずいぶん会ってなかったわけで、少々どころか非常に気恥ずかしい思いがある。
 うしおは早々に着替えを済ませ、須磨子もすぐに着替えを済ませた。とらは着替える必要などないし、紫暮の方は泳ぐ気などなかったので着替えを持ってきていなかった。
「親父は泳がねーの?」
「馬鹿者。私ももう歳だぞ」
 うしおの質問に紫暮はあきれて答えた。
「早く行きましょう」
 紫暮とうしおよりも少し先を歩いていた須磨子が後ろの二人に声をかけた。
 うしおはすぐに須磨子のもとへ駆け寄り、紫暮は先ほどと変わらないゆっくりとした歩調で須磨子へ近づいて行った。
「長い間海にいたけれど、泳ぐのは始めてだわ」
 楽しそうに話す須磨子にうしおも自然と笑顔になる。
 やってきた砂浜には多くの人で溢れかえっていた。
 以上に布の少ない水着を着た若者達や色黒のガラの悪い青年。もちろん家族連れもいた。
「オレちょっと泳いで来る!」
 そう言って駆けだしたうしおの後を須磨子が追った。
「待って。私も行くわ」
 まだ若い肉体を持つ須磨子は元気に走り去って行く。残された紫暮は手に持たされたビーチパラソルを適当な場所に設置して二人の様子を見守った。
 気づけば二人の中にとらもいて、二人と一匹が楽しそうに笑っていた。
 羨ましくないと言えば嘘になるが、見守っているだけでも十分であった。
 紫暮は須磨子と夫婦だと言うには自分があまりにも年老いてしまったことをよく知っていた。須磨子の性格からして、新しい男を見つけることなどしないだろうが、やはり自分達がならぶと夫婦というよりは親子に見えることがわかっているだけに、どこか距離を置こうとしてしまうのだ。
「あなたもどうですか?」
 紫暮の視線に気づいた須磨子が手を大きく振って紫暮に言う。
「いや、私はここで見ているよ」
 手を振り返して紫暮は答えた。
 先ほどまで見ていた光景に自分が入るところを紫暮は想像できなかった。その上、紫暮は結構な歳でもあり、須磨子達にあわせて体を動かせる自信がなかった。
 紫暮と同じ年の一般人に比べれば、日々の鍛錬を怠らない紫暮の体は若いが、どうしても体力は落ちてしまう。それは自然の摂理であり、変えることはできないのだ。
 一通り遊びつくした須磨子とうしおは紫暮のもとへ戻ってきた。そこにとらの姿はなく、紫暮がとらのことを聞くとうしおは知らないとだけ答えた。
「あいつ気まぐれだからなぁ」
 二度と帰ってこないのではないかなどとは微塵も思っていないうしおは笑う。
「先に旅館に戻ってようぜ」
 待っていなくても、勝手にとらは帰ってくるとうしおは言い、先頭をきって歩いた。
 太陽は沈み始めており、空も暗くなってきていた。
 旅館に戻ったうしお達は大浴場へと向かった。塩水でベタベタする体を洗いたいのだ。
「じゃあ後で」
「ええ」
 須磨子は女風呂。うしおと紫暮は男風呂へ入って行った。
 うしお達が風呂から上がり、晩御飯を済ませてもとらは帰ってこなかった。
 気まぐれなとらのことなので、明日になれば帰ってくるかもしれないが、うしおは少し不安になっていた。もしもこのまま帰ってこなかったらと考えるのは非常に恐ろしいことで、考えたくもないことだった。
「……そのうち帰ってくるさ」
 自分に言い聞かせるかのようにうしおが呟いた。
「なにしょげた顔してんだよ」
 悲しげなうしおの頭に撫でられなれた手が乗せられた。
「とら!」
 嬉しそうな表情をうしおが見せると、とらはあきれたような顔をする。
 とらが途中で姿を消したのはうしおに家族団欒の一時を味あわせてやりたかったからに他ならない。とらは家族というものがどんなものなのかよくわからないが、それが人間にとって大切なものだということはわかっていた。
 今までは女親がいなかったうしおにほんの一時でも、家族だけの空間を作ってやりたかった。
 うしおが笑うと思った。幸せそうに、嬉しそうに笑うと思った。だがうしおは悲しそうな表情をしていた。
 とらは知らなかった。
 うしおにとって、家族とはとらを含めた存在になっていることを。
 紫暮と須磨子だけではダメなのだ。そこにとらがいて、始めて家族全員がそろうのだ。


END