とらが何処かへ出かけており、うしおは久々に一人でぼんやりしていた。
日が暮れ始めると、とらの帰りを持ちわびるかのようにうしおは鳥居の前で座った。
「とらぁ……」
何となく呟いた名前。妙に気恥ずかしい気持ちになって空を見上げた。空は薄暗い。
とらの帰りを今か今かと待っていると、キィィンっと甲高い音で獣の槍が警戒心をむき出しにし始めた。
慌てて獣の槍を手に取り戦闘態勢に入るうしお。静かに周りの気配を探る。
風の音。木々のざわめき。鳥の鳴き声。遠くから聞こえる人の声。
獣の槍を使い、研ぎ澄まされたうしおの五感が様々な音を聞きく。その中で、一つだけ不自然な音を聞
いた。
風もないのに揺れる茂みの音。斜め後方の茂みに妖怪の気配を感じたうしおはそこへ向かって獣の槍を突き出した。
それでしとめられるはずであった。敵が『赤い布』を持ってさえいなければ。
「なっ!」
獣の槍に絡みつくそれは以前キリオが使ったものと同じ布で、見事に獣の槍を封じた。
重くなった獣の槍にうしおが気をとられていると、敵の妖怪はうしおの首に手刀を振り下ろした。
「………!」
うしおはぼやけた妖怪を視界に捕らえ、そのまま気を失った。
「これが獣の槍の少年か……」
思った以上に簡単に倒せたことに少なからずその妖怪は驚いていた。
妖怪はうしおを肩に担ぐとゆっくりとした歩幅でその場を去っていく。
「あなた一人を倒しても面白くないですからね」
不気味な笑みを浮かべた妖怪はとらに居場所がわかるように妖気を振りまきながらねぐらへ帰って行く。目的はうしお一人ではない。うしおととらの二人なのだ。
とらが帰ってくるとそこには知らぬ妖怪の気が充満していた。
激しく戦った形跡はないが、うしおがいないところを見るとこの妖気の主に連れ去られたのだろう。
「ちっ! わしがいねぇときに限って!」
とらはうしおを置いて出かけたことを後悔した。
辺りを見回すと、赤い布が巻かれた獣の槍が落ちていた。うしおと妖怪が戦ったという決定打である。
充満している妖気はとらを誘うかのように何処かへ続いている。
「わしに来いって言ってんのか……?」
挑発されているようで気にくわなかったが、行かないわけにはいけない。うしおはいわば人質。大切な餌を食べられるほどとらはマヌケではない。
とらは獣の槍を持って妖気を辿り、一歩一歩進んで行った。
そのころ、うしおは妖怪のねぐらで目を覚ました。
「ここは……?」
ゆっくりと周りを見るが、そこには木があるばかり。おそらく山の中なのだろう。
「お目覚めか?」
そこには気絶する寸前に見た妖怪の姿があった。
恐ろしいほどの赤い瞳。真っ黒な肢体がその瞳を際立たせる。手にはとらと同じく鋭い爪がついており、獣の槍がない今、あの爪にやられたらひとたまりもないことは容易に想像できた。
「……殺さねぇのか」
うしおが妖怪を睨みつけながら言う。
妖怪はそんな気丈な態度をとるうしおを見て含み笑いをした。
「何だよ?」
「いえ、あなた達は二人そろってないと意味がないのですよ」
「二人……とらが来るのか?」
うしおの瞳がほんの少し安堵の色を見せた。
「きますよ」
妖怪が来ると言えば安堵の色はさらに濃くなる。その安堵の色を見て妖怪は嫉妬のような思いを感じた。会って間もない少年に抱く感情では決してない。
妖怪は己の中に生まれた感情に苛立ちを感じ、眉間に皺を寄せた。
うしおは妖怪の眉間にしわが寄るのを見て何故か身体中が警報をならした。
逃げなければいけない。
頭で考えるより先に身体が動いていた。
妖怪に背を向けて何処にあるのかもわからない家に逃げようとした。手を握り締めて、始めて獣の槍がないことに気がついたが、探している暇はない。
だが、うしおは逃げることができなかった。わずか三歩で妖怪に襟を掴まれてしまったのだ。
逃げようとする力と逃がすまいとする力が反発し合い、服のボタンが二つ闇へ消える。
ボタンのことを気にする前にうしおは妖怪の懐に収まってしまった。抱きしめられるようなその態勢は、とら以外にされると吐き気がするほど嫌なものであった。
「や……やめろ!」
どうにかして抜け出そうとするが、妖怪の力には勝てない。
「暴れないでくださいよ」
無駄だとわかっていても暴れるうしおに嫌気がさしたのか、妖怪はうしおを地面に叩きつけた。
地面に叩きつけられたうしおは目の前にいる妖怪が恐ろしかった。今までにも恐ろしい妖怪には数多く出会ったが、それらの妖怪とは違う怖さがあった。
今、妖怪はうしおの身体にまたがる態勢になっている。ある意味、さっきの態勢よりも嫌なもので、うしおは妖怪をどかそうと手で必死に押す。
「うし……!」
そんな状況下とらが現れた。それが幸運だったのか不運だったのかはわからない。
ボタンが外れ、服がはだけ露出された肌。倒れているうしおにまたがる妖怪。それを必死に押し返しているうしお。
「てめっ……!」
この状態を見れば、とらでなくともそういうことを連想するだろう。
「とら……!」
とらの姿をその目に捕らえたうしおはとらの名前を呼ぶがとらは答えなかった。答える余裕などもう残っていないのだ。
「おや、ようやく来ましたか。良かったですね。この子が食べられる前で」
とらの考えを読み取り逆上させるようなことを言う妖怪だが、その言葉が命取りになる。
とらは何も言わず妖怪を木に叩きつけた。
上に跨っていた妖怪が消え、ようやく自由の身になったうしおはとらから獣の槍を渡されたが、その場から動けなかった。
あまりにも静かで、重く、恐ろしい殺気がとらから放たれていたから。
「……っく!」
何とか立ち上がった妖怪の身体にとらが爪を刺す。雷を放ち、風を呼び、爪を振るう。
妖怪の黒い毛皮が心なしか血で赤く染まっていった。
そんな様子を、うしおは少し離れた所で見ているしかできなかった。はじめて見るとらの姿に、立っていることさえできなくて、その場に座り込んでいた。
黙ったまま攻撃を続けるとら。いつしか妖怪は姿を消していた。グチャグチャに磨り潰したら妖怪は死ぬと言っていたとらの言葉に間違いはなかったのだろう。
「……………」
爪と頬を血で赤く染めたとらがうしおに近づく。
先ほどまで、とらからは周りが暗くて見えなかったうしおの顔がハッキリと見えるようになった。
「おめぇ……泣いてんのか?」
とらの言うとおり、うしおは獣の槍を抱くようにして震えながら涙をこぼしていた。
口が震えて上手く喋れないうしお。その涙をとらが指で拭おうとすると、うしおはビクッと身体を震わせた。恐怖で身体を震わせたということが誰の目にも明らかであった。
「…あっ……とら……」
うしおに拒絶され、動きを止めてしまったとらに、うしおは何かを言おうとするが赤い血のついた爪や顔を見るとどうしても震えてしまう。
「うしお……わしが怖ぇか?」
とらがうしおの頬をゆっくりと撫でる。とらの手についていた血がうしおの頬についた。
うしおはとらの問いに何とか答えようとするが、身体が上手く動かず、首を横に振ることもできなかった。
「なぁうしお。答えろ」
命令するような口調。とらはうしおの頬についた血を、己の舌で舐めとる。
「………っ!」
とらの舌に舐められ、先ほどとは違う意味で身体が震えた。
「うしお」
耳もとでうしおの名前をとらが呼び、うしおのうなじを軽く噛む。
「…っ…。痛ぇよ」
「わしが怖いか?」
わずかに流れた血を舐めとる。露出された肌に手を触れ、胸から顎へと指でなぞる。その指で顎を上げさせ、うしおに自分の顔を見させる。
まだ多少の恐怖が残るうしおの口に、とらは己の口を重ねる。
口内の全てを舐めるかのように、深く、深く。
「と……らぁ…」
とらが口を離すと、うしおは頬を赤らめ、震える手を伸ばし、とらの首に手を回す。
ギュッととらを抱きしめれば、とらもそれに答える。
END