うしおは数年間付き合ってきた麻子と別れた。
 理由は特にない。喧嘩をしたわけでも、どちらかが浮気をしたわけでもない。ただ、以前の、友人だったころの距離感が懐かしくなった。
 別れを切り出したのは麻子からで、うしおは拍子抜けするほどあっさりとそれを了承した。
 これからはただの友達だと、二人は笑いあった。
「…………」
 家に帰ってきたうしおはいつも通りの会話を両親とし、夕飯を食べて部屋へ行く。
 窓を開け、空を見上げると綺麗な満月が顔を出していた。
 ただぼんやりと月を見つめる。
「何やってだ」
 部屋の中にいたとらが声をかけた。
「別に……。ただ、あっけねぇって思ってさ」
 うしおは麻子と別れたことをとらに話した。まだ両親には言っていない。
「ほぉ。で、おめぇは傷心中ってわけか」
「そんなんじゃねーよ」
 言葉に嘘はない。
 悲しみも憤りも感じない。ただ、数年間の月日は何だったのだろうと思う。
「虚しいんだ」
 呟くような台詞は儚さを含んでおり、うしおの心情を如実に表していた。
「お前にはわかんないかもな」
 横目でとらを見る。
 未だに妖怪達から畏怖の念で見られるとら。力だけが全ての妖怪の世界で、とらは女に好かれる。その夜かぎりの行為も簡単にできてしまうだろう。
 罪悪感を感じず、それを当然として受け止めることのできるのも妖怪だから。
 人間であるうしおとは、根本的に違うのだ。
「……そうかもな」
 目を細め、月を見上げるうしおを視界に映す。
「だが、おめぇにもわからねぇだろうよ」
 棘を含んだ言葉にうしおは首を傾げる。
「ありえねぇ相手に想いを抱く気持ちはな」
 言葉を言い終える前に、とらはうしおの前へ移動し、その手を掴んでいた。
「と、ら?」
 大きな手でうしおの両手はあっさりと上へまとめられてしまう。
 獣の槍が存在しない今、このままでは簡単に食われてしまうだろう。抵抗することもできず、とらの鋭い牙がうしおの腹を喰らう情景が簡単に浮かぶ。
 とらが甦ってから、これほどの窮地に立たされたことはない。
 長年連れ添った相手との別れが、自分にこれほどの隙を生むとはうしおも予想していなかった。
「妖怪にはよ、人間みてぇな倫理感はねぇ」
 鋭い爪がうしおの頬をなぞる。
「相手が嫌がろうが、性別がなんであろうが、幼かろうが老いていようが関係ねぇ」
 皮膚が裂け、一筋の血が流れた。
「だから、おめぇみたいな男のクソガキでも、妖怪を殺すような奴でも問題ねぇんだ」
「お前、何言って――っ」
 肩を噛まれた。服の上からではあるが、布の一枚や二枚でとらの牙を食い止められるはずがない。
 服は血を染み込ませ、赤く染まっていく。
「なのに何だこのざまは……」
 牙を離し、うしおを見上げる。
 とらを見る瞳には恐怖の色が混じっていた。
「うしお、隙間にわしが入ってやるよ」
 口元を歪ませ、うしおに言葉を紡がせることなく口づける。
 己の血の味がうしおの口内に広がった。
 顔を歪め、とらを押しのけようとするが、手はとらによって拘束されている。
「人間ならよ、この気持ちを『愛』とでも名づけるのか?」
 ようやく口づけを終わらせたとらは満足気に目を細めた。
「――さあな」
 おそらく、とらの想いにつける名などないだろう。
 そして、うしおの想いにつける名もこの世にはない。


END