蒼月家の朝はいつも慌しい。
「とらぁ!! それはオレの飯だ!」
「うしお! てめぇ、飯ごときで獣の槍を引っ張り出してくんじゃねぇ!」
「貴様ら! 静かに喰わんか!!」
 ほぼ毎日この会話を繰り広げている。
「……………」
 そして、もうすぐこの喧嘩が終わる。
「喧嘩は……やめなさい!!!」
 須磨子の衰えなき結界が三人を閉じ込めた。下手に動けば逆にダメージをくらうのでうかつには動けない中、うしおだけが結界から出て行った。
「母ちゃん……」
「うしお、元気がいいのはよいことですが、家の中で喧嘩をしてはいけません」
 須磨子は笑顔で言っているのに、うしおが怯えているのはきっと須磨子の後ろに見える般若のせいだろう。
 とらとうしおの喧嘩を止めるために怒鳴る紫暮を須磨子がまとめて結界で閉じ込める。というのが最近の蒼月家の日常である。しかし、長年会っていなかった我が子は可愛いのか、うしおはすぐに結界から出してもらえた。
「あの……とらを出してくんねぇ?」
 うしおが上目づかいで須磨子に頼むうしお。いつもならこの一言でとらは結界から出され、ついでに紫暮も解放される。そして朝食の続きをとるのだ。
「ダ メ よ」
 今回は今までどおりにいかなかった。
「毎日毎日、喧嘩ばっかりして……そのうちに家が壊れてしまうわ。少し反省してもらわないとね? ……あなた? とら殿?」
 先ほどよりも恐ろしい声色で聞く須磨子。紫暮ととらを見るその目はあまりにも冷たかった。
 とらと紫暮は必死に須磨子を説得するようにと、うしおに目で訴えているが、うしおにはそんな勇気はなかった。今の須磨子の機嫌を損ねるのは正直なところ、白面と戦うことよりも恐ろしい。
 静かに朝食を食べたうしおはこの凍りついた雰囲気のなかでいることを吉と思わなかった。
「母ちゃん……オレ、スケッチに行ってくる!」
 うしおはそう言うと、二階からスケッチブックと鉛筆を持って外へ駆けて行った。
「あっ! うしおてめぇ! 逃げんな!!」
 結界の中でじっとしていたとらが叫んだが、うしおは聞かなかったことにした。須磨子はとらの声など脳にまで届かず、うしおの後姿を見送っていた。
「さて、うしおがいない間に仕事を片付けてきましょ」
 うしおの後姿が見えなくなると、須磨子は仕事の準備をした。ほとんどの妖怪が日本の柱になった今でも残って悪さをする妖怪は山ほどおり、今でも光覇明宗は活躍しているのだ。
「あなた。今日は私だけで行ってくるわ」
 笑顔で出て行く須磨子だが、紫暮ととらは一抹の不安を感じた。それすなわち、この結界を張ったままではないのかということだった。
 須磨子が出て行って一分、また一分と時間が経つ。
「消えねぇ……」
「…………」
 紫暮ととらは重いため息をついた。そして須磨子が出て行ってから一時間たったころ、ようやく結界が消えた。
「本当におっかねぇ女だな」
「……私も時々思う」
 自由の身となったとらはうしおの様子でも見に行こうとしたが、足元に落ちているものに気を引かれた。
「何だこりゃ?」
 とらがとったものは、一冊のアルバムであった。
 『思ひ出』と書かれた薄いピンクの表紙の可愛らしいアルバム。とらはそれを適当にめくってみた。
 どのページにもうしおの写真が張られていた。写真の中のうしおはどれも笑っていたが、一人で撮られていることが多い。おそらく写真を撮っているのが当時唯一の肉親である紫暮だからだろう。
 数多くの写真の中で、とらは一つの写真に何故か目を奪われた。
 その写真の中のうしおはまだ髪の黒い紫暮に向かって満面の笑みで話しかけていた。紫暮も一緒に映っているということは、おそらく照道が撮ったのだろう。
「ああ、その写真か……」
 いつの間にかアルバムを覗きこんでいた紫暮がかすかに笑う。
「そんなおもしれぇ写真か?」
「いや、その写真を撮られたとき、うしおが変なことを言っていたのを思い出してな」
「なんて言ってたんだよ?」
「それが思い出せなくてな……。変なことを言っていたという事実しか……」
 首を傾げる紫暮を見て、とらは小さくため息をついた。とうとうボケてしまったのか。
 そんな紫暮ととらを見てる妖怪がいた。
 手繰糸たぐりいとという妖怪。彼は過去に戻ることが出きる。ただし、時逆・時順のように未来へいけないのが一つの特徴でもある。
「過去の匂いがする」
 そして時逆・時順との最大の違いは、手繰糸には自我がないことである。ふらっと移動して、過去を思う者を過去へ飛ばしてしまうのだ。現在に戻れるかどうかも手繰糸の気まぐれで決まる。
 この妖怪の厄介なところは、自我がないためか、気配が極端に薄いことである。修行を積んだ僧侶でさえも、彼に気づかず過去へ飛ばされてしまうのだ。
「戻そう、過去へ。思う、過去へ。記憶、先、行く。簡単、糸を手繰る」
 たどたどしい言葉をつむぐと、とらと紫暮を過去へ飛ばそうとした。
「――っ?!」
 ここにきてようやくとらと紫暮が手繰糸の存在に気がついた。
「てっめ!」
 とらが手繰糸を止めようとした時には紫暮共々過去へ飛ばされていた。何の不快感もなく、ただ体が流されていく感覚だけがそこにはあり、気づいたときにはそう遠くない過去にいた。
 どうしてそう遠くないのかとわかったのかといえば、まだ二つぐらいのうしおと、髪の黒い紫暮がいたからである。
「うしお、知らぬ者について行ってはいかんぞ」
「うん」
 過去の紫暮が小さいうしおの頭を撫でて、石段を降りていく。どうやら法力僧としての仕事に出かけたようだ。
「おめぇもあんな小さなガキをほってよく妖怪退治になんて行けたなぁ」
 茂みから過去の紫暮とうしおを見ていたとらが、横で同じように見ていた紫暮に言った。
 紫暮は黙っていたが、若かりし頃の自分が去った後のうしおを見ると良心が痛むらしい。
「……と……ちゃ…」
 先ほど紫暮に手を振って見送ったというのに、うしおは今にも泣きそうな顔で紫暮を呼んでいる。
 小さく、たどたどしい足で石段まで走っていくうしおが石段の上から見下ろすが、そこには紫暮の姿はなかった。
「あ……うぅ……」
 紫暮を追いかけようとしているのか、うしおは石段を降りようとした。
「……危ね!」
 石段を踏みはずし、転げ落ちそうになったうしおを助けようと、とらが飛び出そうとした。しかし、とらの腕を未来からきた紫暮が掴み、とらがうしおを助けることはなかった。
「何しやがる!」
「よく見ろ、うしおは無事だ」
 紫暮に言われうしおの方を見ると、人のよさそうな青年がうしおを抱き上げていた。
「……ここは過去だ。下手なことをすれば未来が変わりかねない……。ここは手繰糸が私達を戻すのを待とう」
 未来が変わる。
 その一言を聞いて、とらは蔵を見た。
 あそこの地下にはまだ獣の槍に繋がれたままの自分がいる。そうと思うと変な気持ちになった。
 今、あそこにいる自分を解放したとすれば、うしおは死ぬ。白面を倒すことなく。
「そしてわしは、この気持ちを知らずにいる……か」
 とらが一人呟いていたが、その言葉は誰にも届くことはなかった。
 一方、人のよさそうな青年はうしおを抱き抱えたまま尋ねた。
「危ないよ〜? お父さんかお母さんはどうしたのかな〜?」
「あのね……とっちゃは、おちごとで、おかあしゃんは……いないの」
 青年の目をじっと見ながら話すうしお。青年は母親のことを聞いたのは不味かったかと思いつつも、表情には出さない。
「ねえねえ、キミはお父さんに会いたいかい?」
 目をパチクリさせるうしおであったが、すぐに頷いた。
「そうだよね〜。まだ子供だもんね〜」
 笑顔のままの青年はどこか胡散臭いものがあったが、幼いうしおがそれに気づくことはなかった。
「さあお父さんのとこへ行こうか」
 そう言う青年の口には、鋭い牙があった。
「うん!」
 何も知らないうしおは青年の手をぎゅっと握り、青年に抱きかかえられたまま何処かへ行ってしまった。
 出るに出れなかったとらと紫暮は先ほどの青年が妖怪であることに気がついた。
「おい……ありゃあ……」
「…………鎌男か……」
 鎌男とはその名のとおり、両手が鎌になっているオスの妖怪である。普段は人間の男に化けており、子供を好んで喰らう。
「わしは行くぞ」
「なっ?! とら殿!そのようなことをすれば未来が……!」
 慌てて止めようとする紫暮であったが、本気になったとらを止めることは到底できない。
「今、あいつに死なれちゃ迷惑なんでな」
 蔵の地下にいるであろう己の姿を思いながらとらは言う。
 紫暮は未来にうしおが生きているのだから、うしおはあの妖怪に殺されることはないと、とらを説得しようとする。だが、とらにとって未来なんてどうでもよかった。
 白面が倒せなくとも。
 自分が蔵の地下に封印されたままでも。
 ただ、自分の前で危機にさらされたうしおをほっておくことなど、できはしなかった。

 うしおの方はといえば、鎌男に抱かれたまま廃ビルへと入っていた。
「にぃ……?」
 さすがに不安を感じたのか、鎌男に話しかけるうしおだが、鎌男が返事をすることはなかった。
 やがて、一つの部屋につくと鎌男はうしおを放り投げた。
「っ……!」
 固いコンクリートに叩きつけられたうしおは一瞬涙を流しそうになったが、泣くことはしなかった。
 うしおは涙を溜めていない目で鎌男を睨みつけた。悔しい。その感情が目に現れていた。幼いながらに、騙されたことを悔しく思っているのだ。
 鎌男はうしおに睨まれながら、妖怪としての姿に戻っていった。
「久々のご馳走だ……」
 鎌男はうしおに向かって、その鋭い鎌を振り下ろした。直撃すれば、柔らかい子供の肉など真っ二つに裂けてしまうだろう。
 うしおは自分の命がここでつきるのかもしれないと思っていた。だが、鎌は空振りとなった。
「この馬鹿を喰うのはわしなんだよ」
 とらの髪がうしおを鎌の軌道から避けさせたのだ。さらにとらは己の髪でうしおの目を隠し、妖怪との戦いを見せないようにした。
「オレの食事の邪魔をしやがって……!」
 鎌男はうしおを殺せなかったことに腹を立て、とらに鎌を向ける。
「ガキだなぁ……わしを知らねぇか」
 とらは雷を鎌男へ向けて撃った。
 うしおの耳には硝子の割れる音と、何かが感電したような音が聞こえた。だがその音はすぐに消え、鎌男の声が聞こえた。
「てめぇ……まさか……長飛丸………!」
 話には聞いたことがあったのだろう。鎌男はとらを恐怖の目で見た。
「……………さあな」
 とらは鎌男の頭を掴むと電流を流し、そのまま頭を握りつぶした。
 幸いにも肉の潰れる音をうしおは聞くことはなかった。とっさにとらが耳を髪で塞いだのだ。
 グロテスクなシーンを見せないようにはできたが、今目の前にあるのもまたグロテスクなもの。まさかそんなものを幼いうしおに見せるわけにもいかないので、とらはうしおの目を隠したまま芙玄院へと連れて帰ることにした。
「たっく……あんなのにホイホイついていくんじゃねぇぞ」
 蔵の前に降りたとらはうしおを離して説教をした。幼いうしおに行っても無駄だろうことはよく理解していたが、言わずにはいられなかった。
 うしおはとらをじっと見た。うしおから見たとらは夕暮れの赤い太陽を背にしており、とても美しく見えたのだ。
「と………ら……」
 うしおはとらへ手を伸ばした。
 とらはこの時代のうしおに『とら』と呼ばれたことに驚きを隠せないようであった。とらと呼んだのは偶然か、必然か。
「とら殿!」
 今までずっと茂みの中に隠れていた紫暮が手招きをしていた。
「うしお、てめぇはとっとと家に帰れ」
 うしおの背中をとらが軽く押すと、うしおはとらに手を振って家の中へ入っていった。
「とら殿。手繰糸が」
 紫暮の指差す先には、元の時代の手繰糸が開いたであろう次元の隙間があった。
「んじゃ、帰るとすっか」
 とらと紫暮は次元の隙間に飛び込んだ。
「うしお。帰ったぞ」
「あっ! とちゃ!」
 帰ってきた紫暮を見て、うしおは家の中から駆け出してきた。
「あにょね! 金色なの!」
 己の足にしがみついてきたうしおを引き剥がすと、紫暮はうしおと目線をあわせた。
「金色?」
「うん! おっきくて、金色!」
 何のことだかさっぱりだが、うしおがここまで笑って話すのも珍しいと、紫暮はうしおの話を聞いてやった。うしおも真剣に聞いてもらえるのが嬉しいのだろう。満面の笑みで話していた。
「おやおや」
 少し遠くのほうで二人の様子を見ていた僧は、先ほどまで趣味で風景を撮っていたカメラをうしお達の方に向けてシャッターをきった。


END