朝、目が覚めると世界はとても静かだった。
風の音も、人の声も、鳥の声も聞こえない。何があったのだろうかと窓から外を見るが、いつもと変らない風景がそこにはある。見下ろすと、日課となっている掃除をしている照道の頭が見えた。
朝の挨拶でもすればこの奇妙な感覚から抜け出せるだろうと思った。口を開け、言葉を出す。
うしおの声は確かに空気を響かせ、照道の耳へと届いた。その証拠に照道は上を見上げ、笑顔で手を振っている。
なのに、自身の耳には届かなかった。現状を理解するのが嫌で、敷いたままだった布団に座り込む。耳を塞いでも、澄ましても変らない。そこに音はない。
唐突に目の前に現れた顔。人のそれではなく、獣のそれだ。不安で頭を塗りつぶされていたうしおはとっさに逃げようとして倒れる。
そんな様子を見て、とらは何かを言った。
口の動きや、仕草から馬鹿にしていることはわかる。なのに、言っている言葉だけがわからない。
何が起こっているのかはわからないが、目の前にいる彼ならば助けてくれると思い言葉を紡ぐ。やはり自分には聞こえない。とらが耳を塞いでいるところから、確かに声は出ていたのだろう。
思わず喉を抑えた。それほど大きな声を出したつもりはなかったのだ。
しかし、実際のところがどうだったのかはわからない。何も聞こえないのだから当然だ。うしおの顔を見ながらとらが口を動かすが、それすらも聞こえない。
混乱していたうしおをとらが担ぎ上げた。驚き、逃げ出そうとする体を押さえつけ、耳元で小さく囁くがうしおは言葉に反応を示さない。ただ、耳に息が当たったことに対して身を竦めただけだった。
その様子に合点がいったのか、うしおを担ぎ上げた状態のままとらは一階へと降りる。何が起こっているのか、これからどうなるのかわからないうしおとしては、とらに聞きたいことや言いたいことが山のようにある。
しかし、それを聞くために声を出すのが怖かったし、答えが返ってきても聞くことができないということはわかっていた。
現状でできることといえば、不安に押しつぶされないようとらの背にしがみつくことだけだ。
一階には朝食を食べている両親の姿があった。
とらが何かを言い、二人は驚いた表情を浮かべている。何が起こったのかはもう理解しはじめていた。
自分を置いて三人が何かを話している。これからのことでも話しているのだろう。ここに本人がいるのに、話には入れない。何とも奇妙な気分だ。
思った以上にうしおが落ち着くのは早かった。
常日頃から非日常と隣あわせな生活を送っていたからだろう。
とりあえずのところ、今日一日は様子を見ることになったとうしおが知ったのは、父の字を通してだった。
病院へ行かないのは、法力僧としての直感らしい。とらも納得しているので、妖怪が関係しているのは間違いないようだ。
白面を倒してからは妖怪に狙われる理由もない。時たま、腕試しにやってくる妖怪や、獣の槍を嫌っている妖怪がくる程度のものだった。そもそも、耳を聞こえなくしたくらいが何だというのだろうか。
戦いになればうしおは気配を感じることができる。視覚を封じられたわけではない分、うしおは幸運だったと考えた。
楽観的なのはうしおだけだった。
普段のうしおは鈍い。獣の槍があるとはいえ、不安は付きまとう。
幸いにも今日は休日なので、家で大人しくしておくことに決まった。家の中ならば、紫暮も須磨子もとらもいる。
部屋に戻ったうしおは寂しさを感じた。
視線を動かし、とらを探す。案外近くにいた獣に手を伸ばし、髪を掴む。驚いた顔をしてこちらを睨んでいる。口を開けたようだが、音が聞こえないことを思い出したのか、すぐに閉じた。
一連の流れを見て、うしおは目を閉じる。
何も聞こえない。何も見えない。それはある種の恐怖だった。誰かが移動するかすかな足音も、風の音も聞こえない。開けっぱなしの窓から涼しい風が入ってくる。
風が強いのか、優しいのか。音が聞こえないとわからない。
無意識のうちに髪を握る力が強くなっていたのだろう。頭に暖かさを感じた。
ゆっくりと目を開けると、とらの大きな手がそこにあった。戦うための手が優しく頭を撫でる感覚は優しいものだった。まるでうしおの不安を取り除こうかとしているようだ。
言葉が欲しい。
たった一つを願う。
不安なとき、言葉もなく、ただ隣にいてくれる存在は大きい。けれど、今この時だけは、言葉が欲しい。
低く、心地のよい声が聞きたかった。
とらがうしおを抱きかかえたまま立ち上がる。反射的にしがみつくと、風を感じた。空を飛んでいる。どこへ行くのか、進行方向を見ようとすると、頭を押さえつけられた。視界は一面黄色一色になる。
文句を言っても、相手にそれが聞こえているのかもわからない。
「終わったぞ」
耳に届いた声。
風の音や木の葉の音、人々の声。音という名の情報が一気にうしおに入る。
「え?」
「てめぇに呪いとやらをかけてた奴をぶっ殺した」
胸に顔を押し付けられていた間に戦闘が行われていたのだろう。何故獣の槍がこなかったかなど、疑問は残るが、納得はできた。
「とら」
「あ?」
自分の声が名を紡ぐ音が聞こえた。相手がそれに反応する音も聞こえた。
「サンキュ」
どんな音よりも、その音が嬉しかった。
END