春も終わりを告げ、美しく咲き誇っていた桜が散り、葉桜になり始めていた。
 当初は桃色の絨毯のごとく道を染め上げていたが、今ではすっかり消えてしまっている。
 とはいえ、未だにいくつか花は残っているため、花びらが散っていく。一枚。また一枚と散っていく花びらは『儚い』と形容されるにふさわしい姿だ。
「よっと」
 少し先の方に落ちて行く花びらに手を伸ばす。
 あと少しのところで掴めそうだったものの、一歩及ばず、花びらはひらりと手をすり抜けていく。
「あーあ。また掴めなかった」
 残念そうに呟いた。
「何がでぇ?」
「桜の花びら」
 姿を隠していたとらが声をかけてくる。
「んなことは、見てりゃわかる」
 あきれたような口調。これがうしおは好きだったりする。
「お前、知らねーの?」
 こういう言い方をすれば、とらが不服そうな表情をすると知っている。
 自分よりも長く生きていて、知識もあるとらのその表情もうしおは好きだった。相手の知らないことを知っているというだけで、ある種の優越感に浸ることができる。長飛丸と呼ばれ、恐れられていたとらのこんな一面を知っているのは自分だけだという優越感まで得られる。
 うしおはそういう自分を発見するたびに、とらの言う『人間』を思い出す。
「散ってく桜の花びらをつかめたら、願いごとが叶うんだよ」
 いつからか、知っていたおまじないだ。
「ほー。桜には妖力があるってのは知ってたが、そんなことまでしてくれんのか」
「え、桜って妖力あるのか?」
「なんでぇ、おめぇそんなことも知らねぇのかよ」
 いつもこうだ。
 とらの知らないことを教え、少しばかりの優越感を感じた直後、とらはうしおの知らないことを口にする。それが嫌がとは思わない。
 新しいことを知るのは好きだし、何よりもとらが教えてくれた。ということが大切なのだ。それでも、少し悔しい。
「……願いが叶うなんて、女が言ってるだけさ」
 悔しまぎれに呟くと、とらのにやけた面が目の前に現れた。
「な、なんだよ」
「いや?
 やけにムキになってやがるなぁっとな」
 現代社会についてはうしおの方がよく知っていたとしても、それ以外のすべての面で、とらには劣る。
 人の感情を読むのもとらの方がうまい。たとえそれが人を食うために得た技術だったとしても関係ない。
「女が言ってるだけのわりに、おめぇ結構必死になってたじゃねぇか」
 何を願うんだ? と、とらは口を動かして問う。
「…………」
 うしおは答えない。
「言ってみろよ。
 気が向いたら、このわしが叶えてやらんでもないぞ」
 弾むような声だ。うしおを追い詰めているという事実が楽しくてしかたないとわかる。
 実際、とらならば人が願う事柄のいくつかは叶えることができるだろう。人を殺すことも、金銀を与えることも。だからうしおはできないくせにとは言えない。第一、うしおはそんなものを望まない。
「ほれ。言うだけ言ってみな」
 肉を切り裂くための鋭い爪でうしおの顎を持ち上げる。
 瞳のないとらの目から視線を逸らすことができない。
「ん?」
 不思議そうに首をかしげた。
 その理由は痛いほどわかっていた。
「どけよっ!」
 理由がわかってしまっていたので、うしおはとらを突き飛ばして走っていく。
「……なんでぇ」
 楽しそうな笑みを浮かべていた。
 あの瞬間、確かにとらは見たのだ。顔を真っ赤にしていくうしおを。
「言ってみろっつってんのによぉ」
 言葉が欲しいのならば、いくらでも送ろう。
 行為を欲しいのならば、いくらでも犯そう。
 愛が欲しいのならば、心をくれてやろう。
「おい、うしお待て」
 とらは走るうしおの背を追いかける。
 途中、鼻先に桜の花びらが落ちてきた。
「……っふ」
 それをとらはたやすく手にとる。
 手を開けばそこには桃色の花びらが一枚収まっている。
「こんなもんなくたって、叶えてやらぁ」
 欲しいものがあるのならば、与えてやる。
 腐ってしまうほど生暖かい愛をささげよう。


END