唐突にそれは起こった。
「母ちゃん……。俺、学校に行きたい」
「…………………………え?」
潮虎にそう言われたうしおがたっぷり間を開けて聞き返す。
それもそのはず。潮虎は今まで学校へ行きたいなどと言ったことはなかった。むしろ、誰かに縛られたり、騒がれたりするのを嫌い、人の前に姿を現すのも嫌っていた。
そんな潮虎が一体何故、学校へ行きたいなどと言い出したのかうしおには理解出来なかった。
「行かしてやりゃあいいじゃねえか」
放心状態のうしおにとらが言う。
癖なのか、気配を消して近づくとらの行動に慣れているうしおは全く驚かなかったが、子供の潮虎は多少なりとも驚いたようだ。
「馬鹿。学校へ行くのにも金がいるんだぞ? そりゃあ今は妖怪の子供を預かってくれる学校もあるけど、そんなに多くないし……」
「金ぐれえあの爺どもに言やあどうにでもなるだろ」
とらの返答にうしおは言葉を詰まらせた。
東西の長は潮虎の存在を知っている数少ない妖怪の二人だ。しかも潮虎のことを孫のように可愛がっているので、学校へ通わせたいといえばどうにでもしてくれるだろう。
だが、うしおが潮虎を学校へ行かせたくない理由はもう一つあった。
「とら……。潮虎が人の前に行けば、当然母ちゃんや真由子達の耳にも入るぞ……?」
うしおが億劫そうに言ったその言葉に、とらは毛を逆立てた。
うしおの母。須磨子。
かの有名な白面を封じていた女で、息子であるうしおを溺愛していた。もしも、万が一、行方不明のうしおがとらと一緒にいたと知ったら? しかも子供までいると知ったら……。
まさに鬼と化すであろう……。うしおは字の通り、顔を真っ青にした。
話についていけない潮虎は大好きな母と、大っ嫌いなとらが話しているのを不満気に見ていた。
「あのな……」
大好きな母の服の裾を掴んで潮虎は言った。
「俺、友達が欲しいんだ」
あまりにも胸に刺さる言葉であった。
潮虎は生まれてこのかたこの山を出たことはない。理由としてあげるならば、うしおの存在を知られてはいけないからだ。
獣の槍を手放した今でも、うしおの復讐しようとする妖怪は五万といる。そんな奴らに居場所を悟られないため、潮虎にも外部との接触は最小限にしてもらっていた。
「俺……。母ちゃんと、とらと、東と西の長と、雲外鏡のおんじしか知らねえもん……」
下唇を噛み、今にも泣き出しそうな潮虎の姿を見て、うしおが心打たれないわけがなかった。
今までは自分のせいで息子に寂しい思いをさせたのだから、次はこの子にいい思いをさせてやろう。そううしおは思った。
「わかった……。学校、行くか?」
大好きな母が少し微笑みながら是と言ってくれた。それが潮虎には何よりも嬉しかった。
「おい、あんまり騒いで目立つんじゃねえぞ?」
とらがいつものように潮虎の襟元を掴み、猫のように持ち上げて注意しておく。
持ち上げられた潮虎は、手の中に炎を出しとらにぶつける。だが、年の功と言うべきか、とらは潮虎の攻撃を片手で払いのけてしまった。
「潮虎。とらの言う通りだぞ」
あっさりと攻撃を払いのけられてしまい、怒りをあらわにした潮虎だが、うしおに注意には渋々頷いた。
潮虎はうしおに抱きかかえられ、床に降ろされた。
「じゃあ、明日空屋敷に行くから、早く寝るんだぞ?」
「はーい!」
とらには決して見せない素直な笑顔で返事をした潮虎はさっさと自分の寝室に戻っていった。
潮虎も寝静まり、うしおは自宅の鏡から雲外鏡のおんじに連絡をとった。
「明日、潮虎を空屋敷に連れて行くからよろしく」
何だかんだ言ってもうしおのことを心配しており、表に出てこないように言ったのは雲外鏡なので、きっと危険だ何だと説教をされると思ったうしおは一方的に連絡を絶った。
「……いいのか?」
ここまで言ったら後戻りはできない。
「いいんだ。いつまでも逃げてるわけにはいかねえし」
ここで踏ん切りをつける。暗にうしおはそう言った。
後には退かないうしおの性格を知っているとらは黙ってうしおの頭を撫でた。
潮虎が生まれてからも、生まれる前も変わらない手の暖かさにうしおは微笑んだ。この暖かさがあるかぎり立ちあがれる。
「大丈夫だって。皆……わかってくれる」
うしおも理解している。
自分が妖怪になったこと。妖怪との間に子供を授かったこと。それがどれほどまでに危険で、禁忌なことか。
だけど、信じている。わかってくれる。
そんな言葉を一つの笑顔にしてとらに向けた。
「…………」
伊達に長く生きているわけではない。とらは人間全てがこの禁忌を理解するとは思っていない。それでも、うしおの周りの者ならばわかってくれる。そう信じるしかなかった。
黙っているとらを不安げに見上げているうしお。
「……そうだな」
同意を込めて微笑むと、うしおも微笑み返した。
次の日、潮虎はいつもより早く起きた。
今まで会ったことのない妖怪達に会えるのがよほど楽しみなのだろう。
「じゃあいくか」
まだ人間だったころのように、うしおはとらの背に跨る。最近ではそう遠くに行くことがなくなったので、その感覚は久しぶりであった。
だが、潮虎はとらの背に乗ろうとしない。
飛ぼうと思えば潮虎も飛べるので、無理に乗る必要はないのだが、さすがに長時間とらと同じスピードを保つのは難しい。
「……とらの背中なんて嫌だ!」
どうしても嫌だと潮虎が駄々をこねる。
うしおはため息を一つつき、とらの背から降りて潮虎を抱っこしてそのまま再びとらの背に乗った。
「いーやーだ!!」
腕の中で暴れる潮虎をうしおは信じられないほどの強さで押さえつけた。
さすが元獣の槍の使い手。そう簡単には力負けしない。
「潮虎!! いい加減にしないと怒るぞ!!」
うしおは普段怒らない。
だからこそ怒ったときの恐ろしさは想像を絶するものであり、その姿を見たことのある潮虎は途端におとなしくなった。
ちなみに、うしおの怒鳴り声を聞いていたとらも軽く怯えていた。うしおに弱いのは親子そろってよく似ているようだ。
「じゃあ行くか!」
うしおの一言でとらは空屋敷に向かって飛び立った。
とらは多少妖怪達の反応が不安だったが、いざとなったら全て焼き払えばいいと思っていたが、うしおは正反対に多少の不安も持っていなかった。
そして潮虎はこれからのことに胸を高鳴らせていた。
しばらく空を飛び、妖怪屋敷が見えてきた。昔と寸分変わらない姿を保っている妖怪屋敷の扉をうしおは静かに押した。
空屋敷の扉が開く。
妖怪達は今回訪れる者のことを何一つ知らされておらず、突然の訪問に扉を見た。
ここ十数年この扉をくぐった者はいなかったのだ。
扉を開けたのは金の妖怪と人間。傍らには小さな妖怪がいた。
「うしお……」
誰かが人間の名を呼んだ。
それは多分、うしおと仲の良かった小さなイタチのような妖怪が発した言葉。
「えっと……久しぶり?」
何と言えばいいのかわからなかったうしおはとりあえず笑いながら言った。
「うしお! 長飛丸! 久しぶり!! 絶対どっかで生きてるって思ってたぜ!」
うしおの言葉を聞き、これが夢でないと知ると小さな妖怪、イズナはうしおの前まで素早く移動した。
本物か確かめるかのようにうしおの顔を触り、とらに引き剥がされ、炎を吐かれて、それでもイズナは笑っていた。
「おい、ちっこいの」
笑っているイズナの尾を誰かが掴んだ。
掴んだのはうしおの隣にいた小さな妖怪。
「………………ん?」
イズナは潮虎を見て思考を止めた。
何処かで見たことのある雰囲気を持った子供だった。何処かで会ったことのあるような容姿だった。
そう、何処かの大妖怪のようなふてぶてしい雰囲気と金の髪に、何処かの人間みたいな大きくて黒い目と体つき。
「ああ、今日はこいつの紹介にきたんだ」
イズナが潮虎を凝視しているのに気づいたうしおが潮虎を抱き上げた。
「こいつ、潮虎っていうんだ」
照れくさそうに笑ううしおの笑顔にイズナだけではなく、他の妖怪までも固まった。
悟ってしまったのだ。目の前にいる小さな妖怪の親は……。
「うわっ!! 考えたくもない!!」
頭を振って今目の前にある現実から抜け出そうとするイズナ、周りの妖怪も似たようなことをやっていた。
「……あのさ、こいつを学校に行かせることになったから……その、何かあったときはよろしくな?」
信じきった笑みをうしおが見せるものだから、誰も潮虎のことを批判できなくなった。
ただ、しかたないという笑顔で首を縦に振ることしかできないのだ。
妖怪達が了承してくれたことに安堵していたうしおの前に、東西の長が現れた。
「紹介したのか?」
西の長、神野が穏やかな笑みを浮かべて近寄ってくる。
うしおは無言で頷いた。
「そうか……潮虎も学校へ行くのか……」
完璧に爺馬鹿な表情をした神野は、懐から札束を出した。
札束は神野の手からうしおの手に移動する。
「え……?」
いざというときは東西の長に学費などを借りようと思っていたが、うしおはまだ何も言っていない。
なのに何故神野が札束を渡してきたのか理解しかねた。
「めでたいのだから、このくらいさせてくれ。お前達には借りもあるしな」
裏などない純粋な笑みを浮かべ、潮虎の頭を撫でる。
「しかし、現金とはいささか無粋ではあるまいか?」
神野の後ろから現れたのは、東の長であった。
手にはぴかぴかのランドセル。
「…………」
あまりに不似合いなその風貌に、とらは呆然としていた。
「入学祝にはやはり、物品と決まっておるわ」
ランドセルを受け取った潮虎は、嬉しそうに中を覗いた。中には一通りの筆記用具が入っており、いつでも入学できるスタイルになっていた。
「あ、ありがとな」
さすがにここまでしてもらえるとは思っていなかったので、多少驚いたが、素直なうしおは素直にお礼を言っておくことにした。
横では、嬉しそうに黒いランドセルを背負っている潮虎の姿があった。
小学校入学時に、自分もこうしていたのだろうかと、物思いに耽るうしおをとらが引っ張る。
「え?」
「用はすんだんだろ? とっとと帰っぞ」
突然の出来事にうしおが慌てふためいている間にとらは空屋敷を出て行った。
「またこいよ〜」
三人を見送る妖怪達はうしおを長い間他人に見せていたくないという嫉妬心を燃やしていることなどお見通しだったので、とりあえずうしおに別れの挨拶を送った。
数日もすれば妖怪を受け入れてくれる学校も見つかり、入学手続きが終わった。
潮虎は生まれてきて十年になるが、世間のことは全くといっていいほど知らないので、一年生から始めることになった。
「じゃあ……行ってくるな!」
長から貰ったランドセルを背負い、手を振る潮虎にうしおは手を振り返す。
「クラスの子に炎とか雷とか落としたらダメだからなー!!」
「わかってる! とら、母ちゃんに手を出すなよー!」
姿が見えなくなる前に、潮虎はとらに釘を刺していく。
出さないといい切れないとらは無言で見送ってやる。わざわざとらも潮虎を見送っているのは、初登校なので両親そろって見送らなければいけないのだとうしおが怒鳴ったからである。
山道を下って、下って、潮虎は気づいた。
「空を飛べばいいじゃん……」
今まで気づかなかった潮虎も潮虎だが、おそらくうしおも気づいていなかっただろう。唯一気づいていたであろうとらは潮虎のために助言してやれるほど心の広い妖怪ではなかった。
潮虎もとらが気づいていたことに思い当たったのだろう、とらを罵る言葉を吐きながら空を飛んだ。
しばらく飛べば先日うしおと一緒に行った学校が見えてきた。
学校見学に行ったとき、何処からどう見ても妖怪のとらも一緒だと騒ぎになる可能性が高いので、とらは留守番をさせられていた。
「っと……。そろそろ降りるか」
学校の近くで降りて、始めて一人で校門をくぐった。
広い校庭に何人もの人間が走り回っていた。
先日は授業中だったので人間の姿を見ることはなかったので、潮虎は純粋に興奮していた。
「…………美味そう………って違う、違う!」
思わず出てきた言葉に自分でも驚く。
今まで潮虎は人間の子供を見たことがなかった。始めて見た人間の子供の感想が『美味そう』ではさすがに不味いだろう。
そして何よりうしおは人間を食べるのを嫌っている。
「でも、とらが人間を喰いたいって言うのもわかるなー」
そんな物騒なことを呟きながら、潮虎は職員室に足を運んだ。
職員室の中にはたくさんの人間とほんの少しの妖怪がいた。
妖怪とは言っても、見た目は普通の人間そのものだった。
「変化……かな?」
潮虎は元々人間っぽい姿なので変化をしたことがない。だが、東の長が変化した姿やとらが変化した姿を何度か見ていた。
「あら? あなたが転入生の潮虎くん?」
ぼんやりと観察していた潮虎に数少ない妖怪の先生が近づいてきた。
「ああ、そうだ」
返事をすると一瞬風が吹き、潮虎の髪先を切り落とした。
潮虎は己の血の気がひく音が聞こえた。
「先生には、敬意を払いなさい?」
美しい腕から生えているのは鎌。どうやら先生はカマイタチらしい。
素直に頷く潮虎を先生はじっと見る。
「私があなたの担任よ。名前はかがり。さっきのでわかると思うけど、カマイタチっていう妖怪よ」
ニッコリと微笑むかがりはとても美しかった。怒ると恐ろしいが、悪い妖怪ではないようだ。
自己紹介をした後、再びかがりは潮虎を見つめた。
「何?」
言葉遣いは変わらないが、先ほどに比べると幾分か態度はマシになっていたので、かがりの鎌が出ることはなかった。
「いえ……ちょっと先生の知り合いに似てたから」
そうなんだと、潮虎は片付けたがかがりはうしおととらに面識があった。
うしおが行方を眩ます前は仲良くしていた妖怪なのだ。空屋敷に来ておらず、イズナや長も報告するのをすっかり忘れていたので潮虎のことを知らなかったのだ。
それからほんの少しクラスや人間について話し、二人は教室に向かった。
「みんなー。席に座って!」
かがりの姿を見ると生徒達は次々に席に座っていく。おそらく怒ったときのかがりの恐ろしさを嫌というほど知っているのだろう。
ざっと周りを見渡すと、三分の二が人間、残りが妖怪であった。変化している者もいるが、ほとんどの妖怪はまだ変化ができずにいた。
「こちらは新しいお友達、潮虎君です。ほら、自己紹介して?」
黒板に『潮虎 ちょうこ』と書いて、かがりは潮虎に自己紹介を促した。
「えっと……。始めまして。俺は潮虎。妖怪だ」
うしおに自己紹介をするときは『始めまして』を忘れないようにと叩きこまれていたので、しっかりと『始めまして』は言えた。
「……それだけ?」
かがりが尋ねると、潮虎は他に何を言えばいいのかわからないという表情を見せる。
「そう……じゃあ、みんなが聞きたいことは?」
かがりが生徒に尋ねると、一斉に手が上がる。上げると同時に質問を言うので、教室中が音の嵐となった。
「好きな物は?」
「何処に住んでるの?」
「得意な技は?」
次々に浴びせられる質問の雨に潮虎が困った顔をしていると、かがりがその場を落ち着ける。
「はいはい。みんな静かに」
鎌を出して言うかがりの言葉に生徒達は静かにならざるえなかった。
「俺の好きな物は母さんの作ったもの。どっかの山に住んでて、炎と雷を出すのが得意だ」
何だかんだいいながらも、質問をしっかりと聞いており、質問に答える。
『母さん』の言葉に、何人かが『マザコン』と悪口を言ったが、潮虎は言葉の意味がわからなかった。
それでも悪口ということだけはわかったらしく、一発雷を落としておく。
「ギャッ!!」
相手が妖怪だったので、威力は強めにしておいたため、生徒の一人は黒焦げになった。
「こら! 友達を黒焦げにしちゃだめよ?」
潮虎の首に鎌を沿え、脅すような形で叱るかがり。
とりあえず素直に謝っておくことにした潮虎はおとなしく指定された席についた。
「あんたねー。非常識にもほどがあるわよ?」
隣の席にいた人間の女の子が潮虎に言う。
「非常識?」
今まで育ってきた中では、誰かに雷や炎をぶつけるなんて日常茶飯事だったので、非常識と思っていなかった潮虎は首を傾げる。
「……っぷ」
きょとんとしていた潮虎の表情が面白かったのか女の子は噴出した。
これが、潮虎の始めての友達。
END?