目の前にいる麻子はうしおの名前を呼んだにも関わらず、固まって動くことができずにいた。だが、それはうしおも同じで、あっという間にかがりに追いつかれてしまった。
「……何故、逃げるのですか」
 かがりが唸るように尋ねる。
「べ、別に理由はないけど……」
 うしおが目を逸らしながら答えるが、かがりは無理矢理目をあわせようとする。何がなんでも答えを聞くという強い意思が現れている。
 一方、うしおの方も意地になっており、かがりとは意地でも目をあわせないつもりだ。
 目の前で繰り広げられているその攻防戦に呆然としていた麻子が乗り込んだ。
「うしお! あんたって奴は人に心配ばっかりかけて……!」
 幼いころか受けてきた麻子の拳がうしおの顔面にはいる。懐かしい感覚だが、決して喜ばしい感覚ではない。自分を殴ってきた相手が目に涙を浮かべてるとなればなおさらのこと。
 うしおも考えたことがないわけではなかった。きっと心配しているだろうと思った。手紙の一つでも書くべきなのだと思っていた。だが、うしおにはその勇気がなかった。
 人であったときの知り合いと少しでも接触してしまえば戻りたくなるのが怖かったのだ。人でなくなった自分が人と暮らすのは不可能だと言い聞かせてきたから。
「ごめん」
 昔から麻子には弱かった。自分の弱いところを簡単に暴いてしまい、さらに自分を押し出してくれる麻子のことがうしおは好きだった。もちろん友として。
 そんな麻子が相手だったから、うしおは素直に謝ることができたのだろう。
「ごめんで、すんだら警察はいらないのよ!」
 涙を流して言う。うしおに抱えられていた潮虎も、うしおとかがりを追ってきた麻実もこの状況をどうすればいいのか全くわからなかった。
 このなんともいえない時間が延々と続くのだろうかと思われたとき、校庭の方から凄まじい騒音が聞こえてきた。
「うしお殿!!」
 騒音の原因は空から今にも着陸しようとしているヘリコプターの音だった。ヘリから身を乗り出してうしおの名前を呼んでいるのはまだ若そうな男であった。
 ヘリには光覇明宗のマークがあり、このままでは須磨子の元へ直行する運命にあるとうしおは理解した。
「な……なんで?!」
 うしおのことを知っているのはここにいるかがりと、その兄雷信以外の妖怪達だけのはず。どこで情報がもれたというのだろうか。
「ふふ。しっかり教えていただきますからね」
 うしおの耳に届いた不穏な声。間違えることの方が難しい声。
 声の主、かがりは真っ黒な笑みを浮かべてうしおを見ていた。片手には文明の機器である携帯電話を持って。
「かがり……携帯、使えるようになったんだ……」
 人間と共に生きると決めたかがりならば元々使えたのかもしれないが、昔の様子を思い出すかぎりそんなことはないように思える。長い月日は人だけでなく、妖怪も変えるようだ。
「向こうに行けば雷信兄さんも待ってますから」
 笑みを一層深くするかがりにもう逆らうことはできない。もうヘリも着陸してしまっている。逃げることを考えるのは時間の無駄と言うのもだろう。
「潮虎。今から母さんの母さんに会いに行くから、麻実ちゃんにさようならしなさい」
 潮虎と目線をあわせるようにかがむと、うしおは潮虎に言った。母さんの母さんというのが潮虎にはいまいち理解できなかったが、今日はもうさよならの時間なのだということはわかった。
「麻実。ばいばい」
 かがりに教えてもらったさよならの言葉と共に潮虎は麻実に手を振った。
「違うよ」
 手を振る潮虎に麻実が言った。
「また明日。だよ」
 そう言うと麻実は笑顔で手を振った。
「そうか。じゃあ、また明日」
 同じように笑顔で返し、潮虎はうしおと共に下で待っているヘリのもとへと向かった。明日も会えるということを二人は全く疑わなかった。



 潮虎は基本的に文明の機器というものを知らない。電気が通ってないのでテレビも冷蔵庫もない。そんな潮虎がヘリを見たらどうなるか。それは昔のとらを想像すれば簡単に予測できる。
「うっわー! すげぇ! とらの背中じゃないのに飛んでらぁ!」
 目をキラキラ輝かせ、外の風景を眺めている。空を飛ぶということ事態にはなんの興奮も起きないが、それが自力やとらの力ではないというところに潮虎は興奮を覚えた。
 狭いヘリの中なので、暴れないように潮虎に軽く注意すると、うしおはそっと微笑んだ。
「とらも始めてバスに乗った時はこんなんだったな……」
 二人っきりで旅をした時、始めてとらはバスに乗った。勝手に動いていく風景にとらはしばらくの間楽しそうにしていたのだがすぐに飽きた。
「……ねー。オレが飛んだほうが絶対早いって。降りよ?」
 ちょうど今の潮虎のように。
 何だかんだ言ってもやはりよく似ている。うしおは即座に否定する潮虎ととらを想像してまた笑った。
「なんで笑うのさ……」
 潮虎が頬を膨らませて不満を述べる。
「いや、とらによく似てると思ってな」
 その言葉に潮虎は先ほどよりも一等不満そうな表情をした。この世で一番大っ嫌いな奴に似ているといわれて喜ぶ者もいないだろう。


続く